再会
カオス・コントン
「ようやく、帰ってきましたね……」
馬車の外を眺めながら一人の女性が呟く。流れるような金髪と深い知性をたたえた青く澄んだ瞳の印象的なその女性――エヴェリーナ・ミュンスターの声は、しかしその内容とは裏腹に感慨深い響きとは無縁であった。
しかしそれも無理からぬ事だろう。フェルグリアの戦いで帝国に囚われてから一年半ほども公職から遠ざかっていたのである。今戻ったところで自分の席があるかどうか…そしてこの街、新首都レイガスも彼女に取っては初めての土地なのだ。懐かしさを呼び起こすものなど何もなく、むしろこれから予想される庁舎での尋問などの苦労や、その後どうするのかといった漠然とした不安が彼女の頭をよぎる。
(ともかく……まずは、果たすべき責務を果たさないとね…)
庁舎の庭で止まった馬車を降りながら改めて気を引き締めるエヴェリーナ。しかし庁舎に入った彼女は予想外に丁寧な対応で迎えられた。そして奥の方の部屋へ通された彼女は、そこで待っていた顔ぶれにさらに驚かされる事となる。
部屋にいたのは二人――そのうち一人は見忘れようはずもない、自分の元で副官として働いてくれていたオズワルド・ベステロス。そして問題の人物はもう一人……かつてラヴェリアの元でその手腕を発揮し、今は新しく共和国評議会議長になったと聞いているレディス・フローランスその人であった。
「レディスさん……アナタが私をここへ?」
「ええ…エヴェリーナさん、まずはお疲れ様です。そしてよく戻って来てくれました…」
そっと手を取りながら言うレディス。静かに微笑みかけてくるオズワルド……そのまましばし3人で無事の帰還を喜び合う。そしてそれが落ちついてから、レディスからエヴェリーナへ一つの要請があった。
情報活動委員会の委員長に就任し、再び国内外の諜報活動を統括して欲しい――それはエヴェリーナに取って願ってもいない事だった。実際に復職するのはもう少し先、体を休めてからになるが、それまではオズワルドが代行して指揮を執る事になっている。彼になら任せておいて問題はない……エヴェリーナにこの申し出を断る理由は無かった。
続いてオズワルドから一つの資料が手渡される。それはエヴェリーナの大きな関心事の一つ、彼女が帝国に囚われていた間のカオス・コントンの動向について記されたものだった。書類の束を受け取ると素早く目を通して行くエヴェリーナ……そして読み進めてゆくうちに彼女の顔には穏やかな微笑みが浮かんできた。
「カオスさん、頑張っているみたいですね…」
「えぇ…。私もあまり軍事には明るくないので、色々と助けられるところがあります。
生憎と今はご本人は軍事演習のため首都を離れていますけれど…」
気遣わしげな視線を向けてくるレディスに、エヴェリーナは軽くかぶりを振って応える。元々そこまでは期待していなかったし、すでに十分すぎるほどの好待遇を受けている。これ以上を求めるのは欲が深いというものだろう。読み終えた書類を返し用件が済んだのを確認すると、当面の住まいを探すため退出しようとするエヴェリーナ。しかしそこをオズワルドが呼び止めた。
「それはお任せ下さい。実はすでに用意してあるのですよ」
「あら、ありがとうございます。それにしても随分と準備がいいんですね…」
怪訝そうに見やるエヴェリーナだが、オズワルドは少し意味ありげな微笑みを返すだけでそれ以上は話そうとしない。ふと見るとレディスも似たような表情で見守っている。その様子に軽く肩をすくめ、苦笑をもらすエヴェリーナだった。
「どうやら、行ってみるしかなさそうですね。案内をお願いできますか?」
やがて庁舎の前に用意された馬車に乗り、その家へと案内される。そこは庁舎にも程近い住宅街の一角、その中に建っている一軒家だった。
(特に豪華だとか、そういう事はないわね。屋根の色とか窓のつくりとか全体的に好みではあるけど、建物自体はごく普通……なのにどうしてあんな顔をしていたのかしら)
軽い違和感を覚えるエヴェリーナだったが、しかし中に入ってみた瞬間にその疑問は解けた。そこはまさに自分のために用意されたもの――自分の家だったのだ。
自分の趣味に合ったもの、自分の使いやすいものが、自分の好みに沿って自然に配置されている。家具などのインテリアも全て彼女の視点を意識して揃えられており、季節にあわせて模様変えでもしたものか何度か動かした跡も見られる。
そしてさらに、てっきり処分されてしまっただろうと思っていた以前の官舎にあった私物までも、そっくり取ってあった。その主なもの――膨大な書物も、ただ置かれているのではなくキチンと分類して保管されている。そのうちの一冊を手に取ってみると少しだけくたびれており、これを運び込んできた誰かが何度も読み直しては考え抜いて整理していったのであろう事を窺わせた。
ただ住む家が用意されていただけなら感謝するべき候補は複数思い浮かび、エヴェリーナも誰に礼を言うべきか迷ったかもしれない。しかしこんなバカな事をここまで大まじめにやるような人間は、彼女の類まれな記憶力と分析力を持ってしてもただ一人しか該当者を見出す事は出来なかった。
「バカ、ですね……こんなもの、捨ててしまっても構わなかったのに…」
言いながら、その手にした本が震える――いや、かすかに震えているのは自分の手だろうか。
「いつから本なんて読むようになったんです? 人がせっかく薦めても『頭が沸騰する』なんて逃げてたくせに……一体、いつから…」
その手に持つ本を抱き締めながらそっと呟く。どこまでも心地よく優しさに満たされた空間の中、ただ一つ足りない温もりを求めその唇が開かれた。
「カオス…さん……」
それから先どうしたのかはハッキリ覚えていない。気付いた時には朝になっており、2階の寝室で目覚めを迎えていた。清々しい日の光に包まれ、広いベッドの中ゆっくりと身を起こす。
ちなみに何故かダブルベッドだったりするので比喩ではなく本当に一人で寝るには広すぎるのだが……
(まったくもう…やたら気を回しているかと思えばこれですか? 本当に困った人なんだから)
そんな事を思いながら知らぬ間に笑みが浮かんでくる。そのまま朝食を取ろうと寝室を出たところで階下から香ばしい匂いがしてくるのに気付いた。
(いい匂い……今朝はトーストにハムエッグというところかしら。 そういえばこれ、あの人もよく…)
そこまで考えたところで、慌てて階段に駆け寄る。もしかしたら……もしかして…期待と不安に震える足を抑えつつ、もつれそうになりながらもリビングへ駆け込み――そしてそこには、彼女の望む光景があった。
ずっと想い続けていた、会いたかった人の姿……その人影がこちらに気付き、変わらぬ笑顔を向けてくる。
「おはよ、エヴェリーナさん。 昨日はよく眠れました…?」
何気ないアイサツ、まるで日常の続きのような口調……今までの事は、全て夢だったのかしら? そんな考えまでも頭をよぎり軽く混乱しているところへ、重ねてカオスの声がかけられる。
「すみません。ホントはすぐにでも話したかったんすけど、やっぱりお疲れだろうと思って…まずはゆっくり休んでもらうのが先かなって思ったんです」
その言葉にハッと顔を上げるエヴェリーナ。その目の前にカオスの顔が来ていた。変わらぬ優しい笑顔の中、少しだけ深みを増した瞳で見つめながら。
「でもこれで、ようやく言える。今までずっと待ち続けてきた事が……」
その腕がエヴェリーナの体にまわされ、慈しむようにそっと抱き寄せた。
「おかえり、エヴェリーナさん……おかえりなさい…」
何よりも待ち望んでいたもの…最後まで欠けていた温もり、今その中に包まれているのを感じながらエヴェリーナも言葉を返す。
「ただいま、カオスさん……」
それ以上は言葉にならず、ただ静かにカオスの胸を濡らすエヴェリーナ――それは帝国に囚われてより一年半ぶりの帰宅、そして2年近くを待った恋人同士の再会の瞬間であった。
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