あるスパイマスターの日常

エヴェリーナ・ミュンスター

 ガルデス共和国の情報活動──諜報及び防諜を統括するべく設置された評議会情報活動委員会。国内の軍・官僚機構から特殊な技能と高度な知性の持ち主が集められて構成されているこの機関を指揮する人物は、多彩な顔触れが揃う部下に負けず劣らぬ個性の持ち主であった。
「じゃあ、この書類をラヴェリア委員長のところに持って行って。それから、これとこれは軍のほうに。こっちの件は部下に再調査させて。ちょっと情報不足ですよ」
 机の周囲に集まった官僚と制服軍人達に対して矢継ぎ早に命令を発するのは、エヴェリーナ・ミュンスター副委員長。事実上の名誉職と化していた委員長に代わり、共和国の諜報活動の多くをこの手で指揮する若き評議会委員である。水着を思わせるような薄手の革鎧とジャケットに身を包んだその姿は、アレシア大陸の中で最も開放的な文化を持つ共和国の中ですら異彩を放っていた。年配の評議会委員から「公序良俗を乱す」と険しい視線を投げ掛けられることも珍しくなかったが、彼女はそんな批判を軽く受け流し、今日もまた、自慢の脚線美で情報活動委員会の男性職員を喜ばせていた。そんな彼女に付けられた渾名は「水着のスパイマスター」。
「午後2時に再度ブリーフィングを行います。でも、重要な情報が見つかったら、ブリーフィングを待たずにここまで持って来て下さい。いいですね?」
「はっ」
 彼女の命令を受けた職員達は足早にその元を辞し、30平方メートルの広さを持つ彼女のオフィスから姿を消した。
 彼女がオフィスとして使っていたのは、情報活動委員会の入った総合庁舎の4階。南に面している窓から初春の柔らかい太陽の光が室内に差し込み、実用性を優先した質素な部屋の中を満たしていた。壁に並ぶのは無数の書類と書籍で埋められた本棚と、多数の線と文字が書き込まれたアレシア大陸の世界地図のみ。執務机の上に置かれたティーポットとクッキーの入った椀、そして窓際の観葉植物だけが、無機的な空間の中に彩りと安らぎを与えていた。
(ふう……帝国との戦争も楽じゃないわ……)
 エヴェリーナはティーカップにミルクティーを注ぎ、その中に多めに砂糖を入れて口に運んだ。年頃の女性なので糖分の摂り過ぎには注意しなければならないはずだが、彼女の仕事は大量のエネルギーを消費するものであり、ダイエットのことを考えている余裕は無かった。
 ミルクティーで脳に糖分を補給してから、彼女は壁に掛けられていたアレシア大陸の地図に目を向けた。地図の上に描かれている無数の線と文字・記号は、ラグライナ帝国がクレアムーン及びガルデス共和国と別々に戦争状態に突入していることを示していた。現在のところ、物量など基礎戦力では両国を大きく上回るラグライナ帝国が先制攻撃を加えたことによって、クレアムーンとガルデス共和国は反撃の切り札を探しつつ防戦に徹することを強いられていた。
(まあ、どの国も国内が一枚岩ではないことが救いなのかもしれないわね)
 手元に届けられた膨大な資料によって、エヴェリーナは主要3ヶ国の内部事情を細かく知ることができた。現在のところ戦争で優位に立っているラグライナ帝国ですら、内紛とは無縁ではなかった。1250年に将来を嘱望されていたカデンツァ・マドリガーレが暗殺された──公的には暗殺の事実は伏せられている──事件や、第1皇女の暗殺を阻止した際にベルンハルト・フォン・ルーデル将軍が片腕を失った事件など、帝国で発生する内紛の多くには流血の惨事が付き纏っていた。
 月風麻耶というカリスマ性に富んだ指導者に恵まれているクレアムーンの国内でも、彼女の進める開放的な国内政治と対外的な強硬策が、守戦を是とする国内の宗教右派の反感を買っていた。今のところ、対立が内乱に発展する兆候は何1つ見られないものの、月風麻耶の身辺が穏やかならざるものであることだけは確かであった。なお、270年後のアレシア大陸では、クレア国内の宗教右派が逆に好戦的となり、国内の和平推進派と鋭く対立した末に、大規模なクーデター未遂事件を引き起こすことになるのだが、これはまた別の話である。
 エヴェリーナの属するガルデス共和国もまた、「内部抗争」の火種を抱えていた。他の2ヶ国と違い議会制度が導入されているため、内部抗争は主に議席の取り合いと各勢力の合掌連衡という姿を取っており、流血の惨事に至らないことが普通である。しかし、抗争そのものの熾烈さはラグライナ帝国と何ら変わるところが無かった。評議会委員であるエヴェリーナも、選挙に当選した直後、自分の属するはずだった会派が、会派のボスだったバルクス前評議会委員長の失脚に伴い消滅するアクシデントに見舞われている。
 現在、彼女はどの会派にも属していないという珍しい立場にあり、ラヴェリアを筆頭とする現政権だけではなく、ゴゥドをはじめとする「野党」の人々からも一定の信頼を勝ち得ていた。そして、彼女の中立性と高い実務能力が評価され、1252年から情報活動委員会副委員長という要職を任されることになったのである。ただし、逆に言うと、現在の彼女の地位は、実績を示すことができなければ即座に失われるという危ういものであった。エヴェリーナ自身もこの危うさは自覚しており、それ故に前任者や名誉職と化している委員長よりも真剣に、この仕事に取り組むようになっていた。
(それにしても、皇帝セルレディカの身辺が気になる……)
 現在、エヴェリーナ・ミュンスターが重点的に調査するように指示していた事物は2つあった。1つはラグライナ帝国軍の動向、もう1つはラグライナ帝国を率いるセルレディカ・フォン・ラグライナ自身のことであった。
(2つの大国を相手に戦争を始めるとは、皇帝セルレディカも思い切ったことをするわね……)
 彼女がセルレディカに対して、敵愾心以外の感情を抱く契機となったのは、1253年に彼がクレアムーンとガルデス共和国の両方に対して同時に宣戦布告したことであった。何故、セルレディカが二正面作戦というリスクの高い戦略をわざわざ選んだのか、軍人ではない彼女には不思議に感じられたのである。  彼女が共和国軍から派遣されているスタッフに訊ねると、「もう一方の国に留守を襲われるのが怖かったから、先手を打ったのではないか」という返事が戻って来た。
(その言葉はある程度正しいと思う……。でも、それ以外の意図が存在するような気がしてならない……。特に皇后ルフィアが病没してから、彼の行動が急激に活発──「病没」?)
 エヴェリーナはティーカップをソーサーに戻した。
(病気……健康問題……これはうっかりしてたわね。確かに、死期が迫っているのなら、戦争を急ぐ立派な理由になるわね)
 彼女は羽根ペンを手に取ると、机の上に置かれていたメモ用紙を手元に引き寄せた。そして、頭の中で一瞬だけ閃いたアイデアを忘れないように慌てて書き留めた。

●皇帝セルレディカと皇室一家の食卓について
●宮殿に出入する食品と医薬品(及びその原材料)について
●セルレディカの「持病」?

 エヴェリーナはメモ用紙を水着状の革鎧の内側に押し込み、誰からも見られないように隠した。そして、机の上に置かれている鈴を鳴らし、隣室に待機していた秘書官を呼び出した。
「帝都ラグライナでの活動を指揮している担当者を呼び出して。今すぐ」
 秘書官が消えてから、彼女は飲みかけだったミルクティーを全て喉に流し込んだ。担当者が現れたら、彼女が考えた疑問点──セルレディカ・フォン・ラグライナの健康危機説──を解消できるだけの人員を帝都ラグライナで確保できるのかどうか、そしてこの健康危機説が調査に値するほどの疑問点なのか、すぐに検討しなければならない。
(さて……調べてみたら、何が出てくるかしら?)
 「水着のスパイマスター」の戦いは、まだ始まったばかりである。

(2002.09.13)


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