第1次中間報告(第15ターン頃まで)
エヴェリーナ・ミュンスター
エヴェリーナ・ミュンスターが、ガルデス共和国政府の総合庁舎4階にある執務室へと戻って来た。
「懐かしいですね……」
「ん? そんなに懐かしいすか?」
彼女の隣に立っていたカオス・コントンが訊ねた。彼はエヴェリーナと一夜を共にしており、総合庁舎へは2人で一緒に足を運んでいた。この後、彼は彼女の仕事振りをこの目で確かめ、最新の国際情勢の情報を手に入れてから、首都近郊にある共和国軍駐屯地に戻る予定となっていた。明日か明後日になれば、彼は再び兵を率い、帝国軍との長期持久戦が続く西部国境地帯へ出陣していることだろう。
カオスの質問にエヴェリーナは微笑んで答えた。「ええ、半年近く空けていましたからね」
「半年かぁ……。確かに、長いっすねぇ」
エヴェリーナは応接用のソファを手で示し、カオスに座るよう促した。客人が腰を下ろしたことを確認してから、主人である彼女は向かい側のソファに腰を下ろす。
「革張りのソファですかあ……」
「ええ。私の前任者だった人が残していったものです」
「ふーん……そうなんすか……」カオスはそう言いながら、居住まいを正そうとして上半身を細かく動かしていた。
「ごめんなさい……ひょっとして、座り心地が悪いですか?」
カオスは微笑んで応えた。「へ? いや、そんなことは無いっすよ。ただ座り慣れなくて。ソファに腰を下ろすよりも騎馬の鞍に跨ってることのほうが多いですし、そっちのほうが落ち着くんすよ」
「根っからの武人なんですね。だとしたら──」エヴェリーナは部屋の奥にある自分の執務机と、その手前にある革張りの豪華な椅子を手で示した。「あの椅子に毎日座るのは、カオスさんには拷問みたいに思えるかもしれませんね」
カオスは少しだけ顔を引きつらせた。「うっ……毎日座るのはカンベンっすね〜」
「でしょうね」エヴェリーナは微笑んだ。
「エヴェリーナさんはダイジョブなんすか? あんな椅子を毎日使ってて」
「もう、慣れてしまいましたね。あんな感じの椅子にゆったりと腰を下ろして、部下の方々が情報を持ってきてくれるのを待つことが私の仕事ですから。西部戦線に半年間派遣されていたというのは、文官──それもいわゆる『スパイマスター』としては異例のことなんです」
ガルデス共和国及びクレアムーンとラグライナ帝国の本格的な戦争が開始されてから、1年が経過しようとしていた。共和国の諜報機関を実質的に指揮する立場にあるエヴェリーナは、この1年間のうち半分を首都ガイ・アヴェリで、残り半分をモンレッド集落近郊に建設されていた共和国軍の陣地で過ごしていた。文官の筆頭である評議会議員──しかも本人は武術の心得が全く無い──が戦場に赴くことに対しては、評議会の中から異論が飛び出していたものの、最終的には評議会委員長の判断でモンレッド方面への派遣が決定され、彼女はアレシア大陸北部での諜報及び防諜活動を直接指揮することになった。
彼女が西部戦線に派遣された理由としては、様々な憶測が流れていた。とある評議会議員は「評議会のトップが、評議会議員の中では共和国軍からは概ね好かれているエヴェリーナに、前線兵士の慰労役を任せたのではないか」と語り、共和国軍幹部の1人は「軍の指揮官としての彼女の才能を試す舞台だったのではないか」との推測を披露していた。軍の内情に通じた商人の1人は「モンレッド方面に増派された軍隊の後方支援を統括人間がいなかったので、彼女にその仕事が回って来たのではないか」と語り、そして一般市民達は「モンレッド方面に派遣されていた『プラチナの悪魔』に対処するべく、エヴェリーナが直々に出向いたのではないか」と噂し合った。そして、彼らの言葉の全てが事実の一面を言い当てていた。
「そういや、セグトラさんも南部戦線に派遣されていましたね。あの人、元気にしているでしょうか……」
「大丈夫でしょ」エヴェリーナの質問にカオスが明るい口調で応える。「でも、軍隊から逃げ出す為に評議会議員になったはずなのに、今では将軍の仕事を任されているとは、皮肉なものですよね」
カオスの言葉にエヴェリーナが頷いた時、執務室のドアがノックされる音が2人の耳に届いて来た。
「はい?」
ドアの向こう側から返って来たのは男性の声だった。「オズワルドです」
「あ、丁度良かった。待ってましたよ」
「『オズワルド』?」カオスが訊ねた。
「ええ、私がモンレッドに出ていた時、首都で私の代わりをしてもらってたんです」
執務室のドアを開け中に入って来たのは、頭が完全に禿げ上がったスーツ姿の中年男性だった。その脇にはブリーフィング用の書類の束が抱えられていた。
「貴方がオズワルドさん?」カオスが立ち上がりながら訊ねる。
「はい、コントン将軍とは初対面でございましたな。当委員会の事務局長を拝命しておりますオズワルド・ベステロスです。副委員長が将軍に色々とお世話になっているようでして、そのことに付きましてお礼申し上げます」オズワルド・ベステロスは深々と頭を上げた。
「や、そんな大したことはしてないすよ。むしろ共和国屈指の美人と一緒にいられて幸せいっぱいっす」
カオスの言葉にエヴェリーナの顔が赤く染まった。
「何はともあれ、今後もよろしくお願いします」
「あ、こちらこそよろしくお願いします〜」カオスはオズワルドと握手を交わしてから質問した。「んで、どうしたんすか、その書類の束は?」
「ブリーフィング用の参考資料です。1部はカオスさんにお持ち帰りして頂く為のものです」
「じゃあ、ありがたくもらっときますね〜」
オズワルドは慣れた手付きで2人に厚いファイルを手渡すと、残された1部を手に持ったまま余っているソファに腰を下ろした。「さて、仕事の話を始めさせて頂きたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ええ」エヴェリーナは頷いた。
オズワルドは穏和な表情から一変して、能面のような顔付きになった。「アレシア大陸各地で続けられております戦争ですが、開始から1年経ちまして各国で興味深い動きが見られるようになりました。その要約は最初のページにまとめられております。まずは、どの地域の情報から確認されますか?」
エヴェリーナは即答した。「帝国の内部情報からお願いします」
「分かりました」オズワルドは頷いた。「開戦直後は戦力を均一に分散させていた帝国軍ですが、今では主力部隊をシチル河畔の北側とリュッカ周辺、それにカルスケート方面に部隊を集中させています。副委員長閣下が今まで前線に立たれていたモンレッド集落──西部国境方面は、今では両軍合わせて5000に満たない兵力が距離を置いて睨み合う情勢が続いています」
「その話ならオレも聞いてます。カルスケートのほうは大変なことになってるみたいっすね」カオスが応じた。
「はい。両軍合わせて20000の大軍が集結しており、既に戦闘が始まったとの情報が届いております。モンレッド方面は小康状態が続いていますが、戦闘がいつ再開されるかも分からない状況が続いております」
「俺も前線に戻ったら、頑張らなくちゃいけませんね」
「期待してますよ」
エヴェリーナの言葉と微笑に、カオスは頬を綻ばせていた。はいっ、任せて下さい。キロール将軍と一緒に敵を蹴散らしてきますよ」
「その御言葉、実に頼もしい限りですな」オズワルドは表情を崩さずに応えた。「では、報告に戻らせて頂きます。この時期に発生した帝国関連の興味深い動きとしては2つございますな。まず第1に、モンレッド近郊で大規模な脱走兵が発生した事件。これは将軍閣下が解決に当たられたそうですな?」
「うい、脱走兵だろうが正規兵だろうが、自分の庭を土足で荒らし回られたんじゃ気分が悪いすからね。住民に略奪を働こうとした不埒モンは残らずブチのめしたんで御安心を」
「その武勇伝は首都にも伝わっております。ユーディス・ロンド将軍の部隊と熾烈な激闘を繰り広げたキロール・シャルンホスト将軍閣下と共に、『共和国軍に2人の勇将あり』『これぞ軍人の誉れ』と評判になっておりますよ」
カオスは照れくさそうな笑みを浮かべた。「うーん、あんましガラじゃないすけど……悪い気はしないすね。また新しいやる気が沸いてくるっすよ」
「確か、将軍閣下御自身の御判断で行動を決断されたのでしたよね。副委員長閣下はどうするおつもりだったのです?」
「私ですか? 脱走兵が出現したとの報告を受けた時には、もうカオスさんの部隊が動き出していましたから、カオスさんにお任せすることにしたんです。私も脱走兵の件には怒りを覚えてましたから、誰も動いていなかったらキロールさんかカオスさんに出撃を要請するところでした」
「なるほど、そうでしたか……」
「オズワルドさん、どうしてそのようなことを?」エヴェリーナが聞き返した。
「帝国に送り込んでいるスパイが掴んだ話では、帝国軍の諜報機関の一部が逆の見方をしていたようです。閣下が民間人を囮にして帝国軍を罠にはめようと──」
エヴェリーナは思わず笑い出していた。「まさか、そんな風に私が思われていたんですか?」
「そのようですね」
「本当は……どうなんですか?」カオスが恐る恐る訊ねた。
「私はそこまで神経が図太い人間じゃありませんよ」エヴェリーナは肩を竦めた。「国民を守ると議会で宣誓した、普通の評議会議員に過ぎないんです。宣誓した以上は、それを守る義務がありますからね」
「ふう……それを聞いて安心しましたよ」
「でも、敵が私のことを過大評価しているのにはちょっと驚きました。せっかくですし、その誤解は解かないまましばらく放置しましょう。こちらから作戦を仕掛ける時に、役立つかもしれませんからね」
「分かりました」オズワルドは頷くと、ファイルのページを捲った。「帝国軍に関してはもう1つ興味深い話がありました。帝国中北部の港湾都市ルーンで中規模の暴動と反乱が発生した件ですが……」
「ああ、あの反乱かぁ。あの後、どうなったんです?」カオスが訊ねた。エヴェリーナも体を乗り出し、オズワルドの言葉を待っていた。
「はい。反乱は数日間続きましたが、現地に駐留していたアレクシス・フォン・カイテル将軍率いる騎馬部隊によって鎮圧させられています。ここまでは以前御報告した通りですが、つい先日になって事件の続報が届きました」オズワルドは僅かばかり声を落とした。「反乱を起こしたルーン駐留部隊の兵士は全員処刑されましたが、反乱軍兵士の家族の処遇を巡り、軍内で小さな混乱が発生したとの話が伝わっています」
「『混乱』?」エヴェリーナが訊ねた。
「最初、反乱軍鎮圧を指揮したアレクシス・フォン・カイテル将軍は家族をも含めた大規模な『処断』を行うことを検討していたようです。ですが、ソフィア・マドリガーレ侯爵令嬢の指示で、反乱と無関係だった家族に対しては処罰を行わないことになったそうです」
「これってマジすか?」カオスがオズワルドに訊ねた。
「情報源の質は問題ありませんから、事実と見て間違いありません」
エヴェリーナはソファーに体を沈めた。「まあ……『プラチナの悪魔』らしい行動ですね」
「『ぷらちなのあくま』? なんすかそれは?」
「ソフィア・マドリガーレ侯爵令嬢の異名です」オズワルドが答えた。「同女史は病弱で、人前に顔を出す時にもプラチナ製の仮面を外さないことから、いつの間にか帝国政府の中でこのような呼称が一般化しております。それで、我々もその呼称をありがたく使わせて頂いているというわけでございます」
「ねえ、エヴェリーナさん。本当に悪魔みたいな人なんすか?」
「とても難しい問題ですね」エヴェリーナは首を横に振った。
共和国のスパイマスターが示した回答に、カオス・コントン将軍は驚きを隠せなかった。「むっ……エヴェリーナさんが悩まれるとは、相当なもんですねえ……」
「推測になりますけど、いいですか?」
「うい、いいっすよー」カオスが答える横で、オズワルド・ベステロスが無言で首を縦に振っていた。
「私が考える範囲では、『悪魔』というよりも『机上の理論家』というイメージが強いですね。私達がこれまで集めて来た資料が正しいならば、ソフィア女史は恐ろしく頭が切れる優秀な政治家ということになります。事実、彼女が暗殺されたカデンツァ・マドリガーレの後を継いで帝国の政界に現れてから、彼女が下して来た数々の政治的判断は、その大半が極めて論理的であり且つ合理的なものでした。一応『スパイマスターということになっている』私から見れば、これほど強大な敵は他にはいませんね。でも、彼女には弱点が3つあるんです」
「『弱点』が3つもあるのですか?」オズワルドが疑問の声を上げた。
オズワルドの疑問に答えたのはカオスだった。「1個目の弱点は、その貧弱な体っすよね。以前エヴェリーナさんから聞いた話だと、太陽光を浴びると皮膚が赤く腫れ上がるんでしたっけ?」
「ええ」エヴェリーナは頷いた。「前線から届いた報告だと、モンレッド近郊にソフィア女史の率いる部隊が派遣されていた時も、シュヴァルツ・リリエ女史やアリス将軍が軍の指揮を代行することが多かったようです。モンレッド集落へ出向いたことで、慣れない気候に体調を崩したのかもしれませんね」
「そのような人物が帝国のスパイマスターだと知った時には、本当に驚きました」オズワルドが言った。「……して、弱点の2個目は?」
「これはソフィア女史だけではなくマドリガーレ家の弱点とも言い換えることができるのですが、彼女は国内にあまりに多くの敵を作り過ぎています。ラグライナ皇室家との関係が密接であることの代償とも言えますね。故人となったカデンツァは『将来の宰相候補』としてセルレディカ・フォン・ラグライナから厚い期待と信頼が寄せられていましたし、ソフィア女史はルディ、セリーナの両皇女の教育係として姉妹からの信頼も勝ち得ています。これが帝国の一部貴族にとって面白くないことは言うまでも無いでしょう。それに──」
「それに、なんすか?」
「──いや、これはまだ伏せておきましょう」エヴェリーナは首を横に振った。
カオスはこの言葉に納得していなかった。「むー、気になりますよー。教えて下さいってば〜」
「全部憶測ですから、迂闊に言い出すことができないんです……」
(皇位継承問題に対するソフィア女史のスタンスが見えませんからね……)
エヴェリーナは心の中で付け加えた。
「ぬー、分かりました……。じゃあ、3つ目の弱点は包み隠さず教えて下さいよ?」カオスは上目使いでエヴェリーナに言った。
「はいはい」エヴェリーナはテーブルに置かれている飴を口に放り込んでから説明を再開した。「3番目の弱点は1番目の弱点から派生したものであり、彼女の長所と表裏一体の関係にあるものなんです」
「長所……理論家、という部分でございますか?」オズワルドが言った。
「『机上の』理論家です」エヴェリーナはオズワルドの言葉尻を訂正した。「ソフィア女史は恐ろしく頭の切れる人物なんですが、病弱故に外界との接触が乏しく、軍略に関しては友人のシュヴァルツ・リリエ女史に全面的に依存しているのが現状なのです。それに、人付き合いが決して多くない人ですから、感情の機微が要求される場面で、理論と理屈に走るあまり対人関係を無用に悪化させる可能性もあります。ただ、政治問題の多くは理論と理屈で解決できますので、基本的には優秀な政治家という風に見えるんです。今回の反乱軍兵士の家族に対する処遇も感情ではなく理論の産物ですが、その理論によって導き出されたのは『ほぼ』ベストの回答でしたし」
「難しいんですね……」
「後はこの弱点を有効に生かせるかどうかだけど、それは工作担当責任者からアイデアを聞かないと始まりませんね」エヴェリーナはオズワルドの方に向き直った。「すみません、報告の続きをお願いします」
「あ、はい」オズワルドは書類に目を落とした。「帝国に関して目立った情報はこれだけですね。残るは、閣下から直接の要請がありました、皇帝セルレディカの健康状態等に関する調査ですが……」
「どうなりました?」エヴェリーナは体を前に乗り出した。
「現時点で得られる情報総合して判断するに、特にこれといった持病は無いようです。平均的なラグライナ人の食生活──パンと肉食中心の食事を人並みの量で普通に楽しんでいるとのこと。閣下が指摘されていたような健康上の問題は特にありません。帝国方面の工作を担当する責任者からは、当面調査活動を維持するだけで、その他の追加的な行動は起こさないとの連絡を受けています」
「分かりました。では、そのように」エヴェリーナは命じた。「では、反帝国諸国に関する動向に移りましょうか?」
「帝国の衛星国であるレヴァイア王国で、内紛が起きているようです」
オズワルドの言葉に、カオスは一瞬だけ顔を顰めた。「『内紛』……ああ、あの元気なお姫様のことすか」
「はい。我が国の外交使節団がレナスティーナ王女との面談に成功し、非公式ではありますが両勢力の共闘を確認しあったとのことです」
「でも、国王は親帝国派なんすよね? だったら、厄介なことになりませんか?」
「おそらくは将軍閣下の仰る通りでしょう」オズワルドは頷いた。「レナスティーナ王女の私兵軍が帝国軍に敗退した場合、帝国は今回の造反劇を奇貨として、レヴァイア王家の断絶を図りに出るものと考えられます」
「また地図から国が消えますね……」エヴェリーナが溜息混じりに呟いた。「……そういや、交渉を行ったのは評議会の外交委員会から派遣された密使だと伺っていますが……どうしてそんな面倒なことになってしまったのですか? 確か、ラヴェリア議長はゴゥド委員に交渉を依頼していたはずですが」
「それについては、評議会に出入なさっている副委員長閣下の方が御存知ではありませんか?」オズワルドは質問に対して質問で切り返した。
エヴェリーナは首を横に振る。「私は評議会の『派閥力学』とは無縁の人間なんです。だから、評議会内部で行われている各派閥間のパワーゲームも、何が行われているか正確なところを知らないんです」
「うーん、そうですかあ……。エヴェリーナさんにも知らないことがあるなんて……」
「私も万能じゃないんですよ」共和国のスパイマスターは肩を竦めた。「それに、挙国一致して外敵に当たるべき時に、無用な派閥争いをしている評議会議員の神経が理解できないんです。あれは下手したら、最前線に並ぶ帝国軍の兵士よりも手強い敵に──」
「副委員長閣下、その辺にした方がよろしいかと……」
「ええ……ちょっと、私も言い過ぎたかしら」
「でも、エヴェリーナさんのそういうところ、俺は好きっすよ」カオスは微笑んだ。「飾らない物言いができる議員さんって、今の議長とかセグ。あとエヴェリーナさん……とまぁ、数が少ないっすからね」
「うふふ……ありがとう。その言葉だけでも嬉しいです」
「……さて、レヴァイア王国に関してはもう1つ興味深い話があります。クレアムーン国の将軍だった御剣叢雲将軍と非常に良く似た人物が、王都ラ・コリスディーで目撃されたとの情報が届いています」
オズワルドの言葉に2人は目を丸くしていた。
「え?」
「マジすか?」
「はい」オズワルドは真顔で頷いた。
「彼女にレヴァイアの親類縁者っていましたか?」エヴェリーナが訊ねる。
「私が部下からの報告を受けた限りでは、そのような話は全くありません。帝国軍の陣中から解放された後、大陸をさ迷い歩いた末に辿り付いた先がたまたまレヴァイアだった──それだけのことではないでしょうか。クレアムーン在籍当時、帝国やクレアの首脳部と特別なコネがあったという話は聞いておりませんし、特別な裏が無いと見るのが最も適当でしょう」
カオスは腕を組んで唸っていた。「うーん……でもこれでクレアムーンは有力な武将を1人失ったわけで、これから先が大変になるでしょうねえ」
「港湾都市ルーンで反乱が発生した際、クレアムーンは反乱軍に呼応して帝国本土への上陸作戦を企図していたようですが、現地の帝国軍によって阻止されています。クレアムーンが反転攻勢に転じようとしたのはこの1回だけでして、他は全て国境線での持久戦というのが現状のようです。港町リュッカの方では、帝国軍の正軍師が補給部隊を率いて最前線に現れた事件や、『巫女を食らうもの』と呼ばれる男性──おそらく遊牧民族か山賊だと思いますが──の一団が現れ、クレアムーンの巫女に対して攻撃を加えたことなど、目を惹く事件もいくつか発生しております。しかし、長期持久戦が戦いの中心であることは間違いありません。戦線の維持に苦慮しているのは帝国もクレアも変わらないようです」
「戦いに苦しんでいるのは我が国と一緒ね……」
「そういうことです」オズワルドは頷いた。「ただ、大陸西部の戦線は若干帝国側有利に傾いております。将軍閣下でしたら、部隊配置図を御覧になれば──」
「ええ、それは俺の領分っすから」カオスは両軍の部隊配置図に目を通した。「うーん……帝国もクレアも、持てる力を最大限有効に使おうと頑張ってますね。戦術的には無駄がとても少ないし。でも、やっぱり集結してる兵力の差があまりに大き過ぎますね……」
「我が国の周辺でも、レヴァイア王国の動向に合わせて、新たな部隊移動の報告が届いております」
エヴェリーナの表情が曇る。「私達ももっと頑張らないといけませんね……」
「本日の報告は以上です」オズワルドはファイルを畳んだ。
「ありがとうございます」
「秘密作戦の方はいかがなさいますか?」
エヴェリーナはしばらくの間逡巡していたが、眼鏡を掛け直してから答えた。「最重要の案件は午後協議します。それ以外は、現場指揮官の判断に任せて下さい」
「畏まりました」
オズワルド・ベステロスは一礼すると、静かに執務室から退出した。その後姿を見送ったカオスは、ドアが閉められてからエヴェリーナに質問を発した。「あの人……初めて見ましたよ」
「私がモンレッドに派遣されている間、ずっとガイ・アヴェリでスタッフ達を統括してもらっていたんです。議会の派閥と関係の無い優秀な人材を探すのには苦労しましたけど、何とか見つかりました。部下をまとめるのが私以上に上手いですから、本当に助かります」
「へえ……それは良かったっすね」
「カオスさんに説教されましたからね、もっと部下を大事にしようと思ったんです」
「あ、風邪の時のこと、まだ覚えてくれてたんすか」カオスは僅かに顔を赤らめた。
「ええ。あれで目が覚めましたよ。本当にありがとう」エヴェリーナは深々と頭を下げた。
「そ、そんな大したことしてないっすよ。でも、これから一緒に頑張りましょうね」カオスは立ち上がると、同じように立ち上がったエヴェリーナの手を取った。「じゃ、俺は駐屯地の方に行ってきますから」
「頑張って下さいね〜」エヴェリーナは手を振りながら微笑んで応えた。
「今度はもっと大きな武勲を持って帰りますし、『縄』の技術ももっとグレードアップしてきますからね〜。期待して下さいよ〜」
カオスの言葉で昨夜の情事──考えようによってはただの「前戯」に過ぎない──を思い出したエヴェリーナは、思わず顔を真っ赤にした。「カ、カオスさん……」
「その顔、とっても可愛いですよ。それじゃ、エヴェリーナさんも頑張って下さいね〜」
「あ、はい。カオスさんも元気でね」
軽やかな足取りで執務室から退出して行くカオス。エヴェリーナはその後姿を見送ると扉を閉め、自分の執務机に戻って行った。机の上には、彼女の決裁が必要な諸案件が記された書類が積まれている。部下に判断と指揮権の多くを委ねたとはいえ、彼女が忙しいという事実に変わるところは全く無かった。せいぜい、「過労で倒れるほど多忙」が「過労で倒れない程度に多忙」に変わっただけである。それでも、仕事量が減ったことは彼女にとって劇的な変化をもたらしている。カオスと一夜を共にできるほどの余暇の時間を作り出すことが可能になったのだ。モンレッド集落に出向く前よりも、心なしか化粧の乗りも良くなっている。
(戦争が終わったら、長期休暇が欲しいわね……)
エヴェリーナ・ミュンスターは一息入れると、雑念を振り払うかのように首を振った。そして、いつもの冷静で厳しい表情に戻り、机の上に積まれている書類に手を伸ばした。
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