第2次中間報告(第26ターン帝国軍フェイズまで)

エヴェリーナ・ミュンスター

 エヴェリーナ・ミュンスターが首都ガイ・アヴェリに帰還し、アレシア大陸全土の諜報活動に目を光らせるようになってから、既に半年以上が経過した。アレシア大陸全土を覆う戦乱は、レヴァイア王国第1王女の私兵集団がラグライナ帝国に対して反乱を起こしたことにより激しさを一層増していた。しかし、そんな中でも、エヴェリーナが執務室でミルクティーのカップを片手に持ちながら、安楽椅子に背中をあずけつつ、眼鏡のレンズ越しに報告書を読み耽る姿は全く変わらなかった。
(今日も色々と新しい情報が入ってるわね……)
 エヴェリーナが次のページを捲ろうとした時、ノックの音とドアの開く音が彼女の耳に聞こえて来た。部屋の主に無許可でこのような振る舞いを行うことができるのは、ガルデス共和国の国家元首たる評議会委員長を除けば、ただ1人だけであった。
「オズワルドさん、どうしたのですか?」エヴェリーナ・ミュンスターは書類から目を上げ、部屋に現れたオズワルド・ベステロスに訊ねた。
「クレアムーン国からの使節が閣下に面会を求めていらっしゃいます。いかがなさいますか?」
「使節?」エヴェリーナは眉間に皺を寄せた。「そのような予定は聞いていませんが……」
「それは当然のことかもしれませぬ。クレアムーン大使館から一切の連絡は受けておりません」
「密使ですね。相手は身分を明かしていますか?」
 オズワルドは手元のメモ用紙に目を落とし、ぎこちなく口を動かし名前を読み上げた。「こちらの記録では、『サイゾウ・キリュウ』……となっています」
 エヴェリーナが膨大な情報の山から問題の人物を見つけ出すのに要した時間はごく僅かであった。「桐野氏……ああ、スパイマスターの腹心ですね」
「『スパイマスター』?」オズワルドが聞き返した。
「ええ」エヴェリーナは頷いた。「桐野氏は『クレアムーンのスパイマスター』の懐刀なんです」
 クレアムーン国内に複数存在する諜報機関のうち、共和国情報活動委員会──つまりはエヴェリーナが「クレアムーン随一の情報機関」として認め、交流相手として頻繁に接触を重ねていたのが、桐野才蔵の所属する情報機関だった。この組織は、クレアムーンにおいて代々軍事面で重きを為していた名門武家・永倉氏一族を情報面から支えるべく作られており、現当主にして「千騎長」こと永倉光成の指示に基き、永倉家とクレアムーンが必要とする情報を大陸全土から集める任務を負っていた。そして、永倉光成は集められた膨大な情報を吟味・分析し、クレアムーンの戦略を練る日々を送っていた。
 情報収集活動の総元締めであるという意味では、エヴェリーナ・ミュンスターと永倉光成の立場には共通点が非常に多く、いつしかエヴェリーナは永倉光成のことを「クレアムーンのスパイマスター」と見なし、ある種の親近感を覚えるようにすらなっていた。それは、彼女がソフィア・マドリガーレをが互いに相手のことをライバル視した関係にも通じるところがあった。「他人の才能を最も高くできるのは同じ世界に住む人間である」という法則は、諜報の世界でもそれなりに当てはまっていたのである。(全くの余談になるのだが、後世の歴史家の中には、同時代を生きた3大国のスパイマスターのうち2人が眼鏡着用者だった──永倉光成は武将でありながら眼鏡を着けていたという珍しい人物だった──事実に気付き、その偶然に驚いた人間が少なからずいたという……)
 さて、話を元に戻そう。
 オズワルド・ベステロスの言葉に出て来た「桐野才蔵」という人物は、永倉光成を長とするクレアムーン最大の情報組織の中では、3番目ないし4番目に位置する重要人物であった。その任務は諜報機関の実務的な最高責任者・雲野伯玄の副官としてその仕事を補佐することにある。無論、彼のメッセンジャーとして世界各国を飛び回ることもその仕事に含まれている。
(独断で彼がやって来たとは考え難いわね。だとすると、伯玄氏か光成氏のメッセージを携えていると考えた方が自然と言うもの……)
「どうされます?」
 オズワルドの質問にエヴェリーナはすぐに答えた。「通して下さい」

 4分後。
 部屋に現れたのは、鋭い眼光を持つ中肉中背の男性であった。クレアムーン国の「民族衣装」──和服に身を包んでいたこの男こそが、クレアムーン国からやって来たという桐野才蔵であった。 「ようこそ、共和国へ」
「はっ、丁寧なお出迎えを頂き、恐悦至極に存じ上げます」
 エヴェリーナの手招きで応接用のソファに腰を下ろした桐野才蔵は、テーブルに出された紅茶を一口だけ飲んでから、要件を切り出した。雑談や時候の挨拶すら間に挟まなかった。「早速ですが、よろしいでしょうか?」
「はい」エヴェリーナは頷いた。
「閣下も御推察のことと存じ上げますが、今回私がガルデス共和国に名立たる閣下の元を訪れましたのは、我が主・永倉光成公の書状を閣下に対して直々に差し上げる為でございます」桐野才蔵は懐から書状を取り出し、応接用テーブルの上に静かに置いた。「どうぞ、御覧下さい」
「ありがとうございます」
 エヴェリーナは軽く頷くと、インクの汚れが僅かに残る指先で丁寧に書状を開き、中に収められていた手紙を取り出した。そして、眼鏡を僅かにずらして焦点を調整し直し、毛筆によって書かれた流麗な文章に目を落とした。

拝啓

 恥ずかしながら、そう遠くない内に聖都に帝国軍が侵入するでしょう。
 純粋に物量面で、戦線を支えきることが困難となっております。
 ・・・・聖都における戦闘で一人でも多くの帝国兵を屠る覚悟ではありますが、
 事後において私は神官らを恭順させ、将来へ向けて国力を温存しようと考えております。
 無論、積極的に共和国軍と戦うつもりはありませんが、あるいは戦場に立つことも
 あり得ること、どうかご了承願いたい。
 また将軍・兵士の中には共和国へ亡命を希望する者も恐らく多くいるはずですが、
 出来うる限り彼らを受け入れていただければ幸いであります。

 貴国の繁栄と将軍方の武運長久を祈ると共に、いつか貴君にお会いしたいもの・・・。
 出来うるなら平和な時代に。貴国の友誼に感謝致す。

敬具

出 千騎長位拝命 クレアムーン武将 永倉光成          .
宛 共和国評議会情報活動委員会 エヴェリーナ・ミュンスター殿

「どのようなことが?」エヴェリーナの隣に腰を下ろしていたオズワルドが訊ねた。
「永倉光成殿の決意と私的な要請を綴った文章……と言えばいいのでしょうか」エヴェリーナは手紙をオズワルドに手渡してから言葉を続けた。「永倉光成殿の御手紙、拝読致しました。御手紙の件につきましては、共和国内での協議が必要な事案故に、ここで即答することはできません。しかし、共和国の情報機関を預かる者として、できうる限りの努力は行うつもりでございます」
「はっ、ありがとうございます」桐野才蔵は表情を変えないまま、深々と頭を下げた。
「回答を出し光成殿に対する返礼の書状を書き終えるまでには、少なくとも2日ないし3日ほどの時間が必要です。それまで、我が共和国にてしばらく骨を休めて頂ければ幸いです。宿の手配などはもうお済みなのですか?」
「いえ、ガイ・アヴェリ到着後、最初にこちらへ参上致しました故、宿の手配はこれからとなります。主君から重要な任務を賜っておりました故──」
「真っ先に仕事を片付けたかった?」エヴェリーナは桐野才蔵の言葉に続けて言った。
「大体、そのようなところでございます」
 エヴェリーナは微笑んだ。「とても仕事熱心な方なのですね」
「いえいえ、我が身は我が主・永倉光成様と雲野伯玄様の為に存在するようなもの。我が君命に従い、それを達することこそが私の使命であるのです」
 桐野才蔵は表情を何1つ変えずに言った。だが、今までの事務的な口調とは異なり、その言葉には僅かばかりの感情が伴っていた。そしてそれ故に、エヴェリーナとオズワルドは、彼の言葉が彼の本心から出ていることを正確に知ることができた。だが、この時、エヴェリーナがその言葉に対して微妙な違和感を覚えていた。
(どこか引っ掛かる……まあ、それを考えるのは後回しにするわ)
 共和国のスパイマスターは表情を和らげた。それは内心の違和感を隠す為の演技でもあった。「才蔵様も、ガイ・アヴェリに滞在されている間は、骨休めでもなさったらどうですか? 働き過ぎは体に毒ですし、たまには気分転換をなさるのも良いのではないでしょうか。あいにく、ここガイ・アヴェリには、観光名所はあまりありませんが……」
「お気遣い、大変ありがたく存じ上げます」桐野才蔵は深々と頭を下げた。
「3日後、再びこちらへお越し下さい。正式な返礼はその時にお渡しできるでしょう」
「畏まりました」
 このエヴェリーナの言葉が合図となり、クレアムーン国のスパイマスターから派遣された使節と、ガルデス共和国のスパイマスターとの間の会談を終わりを迎えた。桐野才蔵とエヴェリーナ・ミュンスターは共に立ち上がり、握手を交わした。
「では、また3日後にお会いしましょう」
「ありがとうございます。閣下と共和国の御活躍をお祈り申し上げます」
 桐野才蔵が退出して執務室のドアが閉められてから、エヴェリーナは応接用のソファに深々と腰を下ろした。クレアムーンのスパイマスターがこの時期に共和国宛に私的な書状を出したこと──その意味を考えなければならなかった。
 エヴェリーナはオズワルドから永倉光成の書状を受け取ると、机の上に広げた。そして、指示を待つオズワルドに声を掛けた。「オズワルドさん──」
「桐野才蔵氏の監視ですか? それは桐野氏が面会を求めて来た際、既に手配してあります。桐野氏がここ離れたら、早速監視を開始する手筈になっております」
 エヴェリーナは頷いた。無論、桐野才蔵は自分自身に対して監視の目が向けられていることを知っているはずであり、永倉光成や雲野伯玄もそのことを承知の上で桐野才蔵を共和国へ派遣したはずである。そして、エヴェリーナはクレアムーンのスパイマスター達がこのように考えているであろうことは十分に承知しており、永倉光成がエヴェリーナ・ミュンスターの心中を察しているであろうとも考えていた。互いが互いの手の内を知った上で「ゲーム」を演じる──この複雑な構造は諜報の世界にも当てはまることであったのだ。
「他に御指示は?」
「桐野才蔵氏の個人情報とクレアムーンの最新情報が入ったファイルをここへ。あと、余裕があれば、アレシア大陸各国の情勢に関する報告書も持って来て下さい」

 8分後。
 応接用テーブルの上には、エヴェリーナの指示によって集められた繊維紙の書類が山のように積まれていた。常人や最前線で戦う将軍の多くが物怖じする量であるが、エヴェリーナとオズワルドはその山を眼前にしても平然とした態度を崩さなかった。
「さて、どこから始めますか?」オズワルドが訊ねた。
「まずはクレアムーンの国内情勢からですね。永倉光成氏からの手紙によると、クレアムーンでは近く首都決戦が行われる公算が高いとのことですが、それは間違い無いのですか?」
 書類を取り出し目を通していたオズワルドは首を横に振った。「いえ、必ずしもそうとは言い切れません」
「その根拠は?」
 オズワルドは手に持っていた聖都クレア周辺の部隊配置図を眺めながら答えた。「この地図で確認する限り、シチル川の北岸で戦っているクレアムーン軍はなかなか良い場所に布陣しています。投入可能な武将の数が限られているため守勢に立たされているのは事実ですが、戦い方を間違えなければ負けることは無いのではないでしょうか」
「専守防衛に徹する……?」エヴェリーナは呟くように言った。
「そんなところですね。シチル川は流れが比較的早く、大軍が通行可能な場所は限られていると聞いています。その要衝を押さえた上で、クレア側から手を出すこと無く持久戦を続ければ、そこそこ長期に渡って戦線を維持できるはずです。基礎戦力の差がございますから、いずれは首都での戦いを余儀無くされるでしょう。その意味では、光成氏の書状を事実を述べているわけですが、この時にはラグライナ帝国側も国力の疲弊という問題に襲われております。持久戦になって疲弊するのは、クレアムーンだけではなくラグライナ帝国も全く同じなのですから」
「ということは?」
「もしも、クレアムーンが聖都クレアでの決戦を決断したとなれば、軍事的理由ではなく政治的理由も関わっていると考えるほうが良いと思います」
「政治……派閥抗争、内紛……そんなところですね」
「はい。ですから、月風麻耶の権力基盤がどの程度のものであるのかを、我々は正確に知らなければなりません。閣下は御存知ですか?」
「ある程度は」エヴェリーナは書類の山から別の資料を取り出した。「私が目を通した資料によると、彼女の権力基盤は想像以上に脆弱なものではないかと思いました。おそらく、今のレヴァイア国王と同じくらい弱いと思います」
「そんなに弱いのですか?」オズワルドは目を丸くしていた。
「クレアムーンという国家の国家元首は、形式上は神威巫女である月風麻耶となっており、彼女が政治・軍事に関する権限を掌握していることになります。しかし、実際には、クレアムーン国内には神官達の『官僚』機構が存在するわけでして、彼らの発言力は決して無視できないのです。しかも、ラグライナ帝国との戦争方針を巡り、両者は真っ向から対立する関係にありますし、彼女は神官達の『既得権益』を無視するラディカルな政策を実施することもあります。それに、帝国との全面戦争を叫んでいる割には、クレアムーンは必ずしも戦果に恵まれていません。帝国から領土を奪い取るどころか逆にリュッカを奪われてしまいましたし、有力武将の相次ぐ戦線離脱・国籍変更というアクシデントに見舞われています。要するに、月風麻耶は公約をことごとく破ってしまったわけなんです。これは結果論なんですけどね」エヴェリーナは紅茶を口に運んだ。「だから、神官達と彼女の関係はかなり険悪なものになっているはずです。先日も、月風麻耶が神官達による査問会に召喚されていたようですし」
「その査問会はどうなったのですか?」オズワルドは書類を片付けながら訊ねた。
「無事に終わったようです。ということは、月風麻耶が神官達の追及を振り切ったということになります。しかし、査問会はこれで終わったというわけではないようです。何か言い掛かりをつけて、再度の査問会が行われる可能性は否定できません。最悪の場合には──」
 オズワルドはエヴェリーナの言葉を継いだ。「クーデター……ですか」
「多分」エヴェリーナは頷いた。
 執務室にしばし訪れる静寂。それを破ったのはオズワルドだった。
「しかし、どうしてクレアムーンに有力武将に関するトラブルが続発しているのでしょうかね?」
「有力武将に関するトラブル……国籍変更とか戦線離脱とか?」エヴェリーナが聞き返した。
「ええ。戦争に携わっている各国の中で、クレアムーンだけがこの種のトラブルに多数見舞われています。ラグライナ帝国からは、将軍・大臣クラスの人間が戦死・引退したという話は一切伝わっておりませんし、レヴァイア王国でこの種の不幸に見舞われたのは戦場で行方不明となったクロス・クロックス将軍のみ。我が共和国の場合は、評議会の一部委員が起こした陰謀で失脚を余儀無くされたゴゥド氏のみです。クレアムーンだけ、幹部クラスの人的損失が大き過ぎると思いませんか? 既にこれだけの人材がクレアムーンから『失われている』のですよ」
 オズワルドはそう言って、資料の1枚をエヴェリーナの眼前に広げた。

武将名離脱に至った経緯及び現状
ヴェルナ・氷雨・エイザー聖都クレアに帰還後姿を消す。現在の居場所は不明。
エアード・ブルーマスターシチル地方での戦闘で朝霧水菜率いる帝国軍に捕縛される。
帝国軍に客人として迎えられていたが、その後軍を離れ一時失踪。
失踪中に何が発生したのかは不明だが、その間に死亡した模様。
同氏の墓が結城光明八幡宮付近で発見されている。
白峰渚リュッカでの戦闘中に一時失踪、敵将ベルンハルト・フォン・ルーデルに保護される。
現在はルーデル卿の助力もあり帝国軍に参加、白鎧騎士団を指揮。
帝国へ移籍することになった事情は不明。
白峰蛍御剣叢雲部隊の壊滅時に聖都クレアへ帰還、その後姉の後を追う形でクレア軍から離脱。
現在はアーネスト・アームズ将軍の補佐官の1人として帝国軍に参加。
御剣叢雲シチル方面で戦闘中、空翔三郎率いる帝国軍部隊と交戦、捕虜となる。
保釈後数周期の放浪を経てレヴァイア王国へ渡航。
結城紗耶結城光明八幡宮の関係者と見られる人物と接触した直後、引退を表明。
引退を決意した詳しい事情は不明。
彩音御剣叢雲将軍の副官だった。同将軍の副官としてシチル地方に出撃中、
帝国軍ファルタス騎兵師団(現リルル親衛隊)に捕縛され、音信不通に。
パンドラ将軍率いる部隊「聖蓮」の副官として従軍。
帝国本土への上陸時、Crimson Knights副将と一騎討ちを演じた記録が残されている。
「聖蓮」壊滅時に捕虜となり以降行方不明。
当委員会は、彼女が拷問の末に獄死したとの未確認情報を掴んでいる。
村雲聖女治安隊副将として、神那美雪将軍と共に聖都クレアの治安維持に尽力。
後に鴉将軍の副官となりシチル河畔に出撃するも敗北。
現在は軍を一時的に退き、クレアムーン国内で静養している模様。

 エヴェリーナは腕を組んだ。「戦線離脱者が9人……確かに多いですね。でも、個人的な理由や戦死など、理由は様々ではないですか。この情報から一貫性のある事実を読み取るのは難しいのではないですか?」
「それは仰る通りです」オズワルドは頷いた。「しかし、他陣営と比較して、戦線離脱者が突出して多いという事実には驚かされますね。何か事情があると考えるのが自然ではないでしょうか?」
「うーん……それだけ帝国とクレアムーンの戦争が激しかったということなのでしょう。でも、それでは帝国への移籍者や引退を表明した方々の事情を説明できていませんね。となると……」
「となると……何ですか?」
「将軍の地位を捨てさせるほどの『何か』が彼らの周囲で発生したのでしょうね。例えば、エアード・ブルーマスター氏と結城紗耶女史の場合には、結城光明八幡宮の存在が退役のキーワードになっている──というような感じにね」
「将軍の仕事に専念できない事情があるとは……彼らも大変ですな」オズワルドが率直な感想を述べた。
 エヴェリーナは頷いた。「まあ、理由は大して重要ではありません。彼らの相次ぐ戦線離脱によって、クレアムーン軍の陣容に大打撃が加えられているのは疑いようの無い事実。共和国にとって重要なのはその『表面的事実』のほうなのです。戦略上のパートナーとなり得る大国の軍が衰弱していくわけですから、当然好ましい話であるはずがありません」
 オズワルドは無言で頷いた。
「これから戦い難くなりますね……」
「はい。レヴァイア王国の戦線も決して好ましい状況にはありません」
「レヴァイア……大陸南東部の戦況はどうなっているのですか?」
「御剣叢雲将軍をはじめとする一部部隊が帝都ラグライナ周辺に出現しました。しかし、レナスティーナ私兵軍の進撃が続いたのはここまででしたね。現在では、Crimson Knights、ブラッディ・クルス、『Pussy Foot』など帝国軍の最精鋭部隊10000強が大陸南東部に集結しています。現在の帝国軍では、考え得る限り最強の布陣です。他にも、レヴァイア国王カルドスが帝都ラグライナに召喚されたとの知らせが届いています。これはおそらく帝国側の人質になるということでしょう。私達の耳に届く情報の全てが、レヴァイア王国の滅亡が時間の問題と化していることを物語っています」
「レヴァイアが滅亡したら、レヴァイア戦線に投入されていた帝国軍のうち半分くらいはこちらに来るでしょうね。そうしたら……」
 オズワルドは暗い表情で応えた。「はい、おそらく我が国は戦線を維持できなくなります。それを防ぐ為には、レヴァイア王国──特に私兵集団からの亡命者受け入れなど、かなりの戦力補強が必要となるでしょう。予備役の大量動員も不可避でしょうね。ただ、今回のレヴァイア討伐戦に際して、帝国軍も若干の無理を重ねています。そこが救いと言えば救いかもしれません」
「今回のレヴァイア討伐って、セルレディカ自身が向かうのでしょうか?」
 オズワルドは首を横に振った。「いえ。レヴァイア方面軍の最高指揮官は正軍師エルとの発表を聞いています」
 このオズワルドの言葉に、エヴェリーナの脳裏に閃光が走った。
「それは初耳だわ。皇帝セルレディカ自身が向かわないは確実ですね?」
「そのようです」オズワルドは頷いた。
「セルレディカの健康問題を調査していたチームはまだ残っていますよね?」
 上司の強い口調にオズワルドは一瞬だけ呆気に取られた。「はい、現在は帝都における貴族達の動向を探っていますが……それが何か?」
「彼らに皇帝セルレディカの身辺を再調査させて。皇帝に健康問題が発生している疑いがあります」
「今すぐ指示を出しますか?」オズワルドは中腰になって訊ねた。
「ええ、今すぐやって下さい」エヴェリーナは即座に命令を出した。
 オズワルド・ベステロスが執務室を出た後、エヴェリーナ・ミュンスターは書類の山を無造作に眺めていた。
(皇帝の身辺を調べたところで戦況が逆転するわけじゃない。でも、皇帝の崩御が引金となってまた戦争が起こりそうな気がする……。だからこそ、帝国の内情をもっと詳しく知りたいのよ。果たして、「プラチナの悪魔」はどう考えているのかしら? あの人とは1回戦場でニアミスしたことがあったから、その時に会っとけば良かったわね。……まあ、今更考えても始まらないことだけど)
 エヴェリーナは首を横に振ると、書類の山から1枚の紙を無造作に取り出した。それは各国の兵士達の間に流れる噂を記したものだった。各部隊にいる美人女性士官の話題や政治家達のゴシップ、天候の長期予報などその種類は多岐に渡っていたが、どの国の軍隊でも共通して取り上げられている話題が1つだけあった。
「『女難の相を持つ将軍』?」エヴェリーナは思わず声を上げた。

現在、各国の兵士達の間で「女難の相を持つ将軍は誰か」ということがちょっとした話題になっている。
話題の震源地となったと言われるのはシチル戦線に展開していた帝国軍。
シチル戦線の帝国軍に保護されていたエアード・ブルーマスター氏に関して、
同氏のクレア時代などにおける様々なエピソードが兵士達の間に少しずつ漏れ広がり、
「エアード氏は女難の男ではないか」と言われ出したのが最初と考えられる。

他には、多数の萌え疑惑・フェチ疑惑が囁かれているコマ・スペルンギルド将軍
(氏の最も好みとする女性が帝国軍所属であることが噂の拡大に一役買っている)、
共和国軍高官相手にナンパ連敗記録を積み上げていたカオス・コントン将軍
(エヴェリーナ・ミュンスター評議会委員との関係がうまく進んでいることが唯一の救いか)、
部下からの「要請」(一部では恐喝とも噂されている)によって
部隊名を「リルル親衛隊」に改称させられたグレイアス将軍など、
女性達に振り回され、彼女達の尻に敷かれているとして噂される男性将軍の名は意外と多い。
やはり、天下は女性の手で回っているということなのだろうか。

なお、現在は「5人目の女難さんは誰か」という疑問が各国兵士の間で提起されており、
一説には──

(カオスさんだけじゃなかったのね、女性達に振り回されてるのって)
 エヴェリーナが顔を綻ばせながら報告を読み進めていた時、執務室のドアがノック無しで唐突に開かれた。ドアを開けたオズワルド・ベステロスの表情には、先程まで見られていた冷静さが完全に失われていた。
「閣下!」
「身辺調査再開の命令は出し終えたの──」エヴェリーナはオズワルドの表情に気付き、顔を強張らせた。「何があったのですか?」
「セルレディカの身辺調査については指示を出しました。ですが、その直後に聖都クレア発のとんでもない情報を入手致しました」オズワルドはエヴェリーナに報告書を手渡した。その縁は赤い染料によって鮮やかに彩られており、もたらされた情報の緊急性が極めて高いことを暗に物語っていた。
「何があったのです?」エヴェリーナが眼鏡の位置を修正しながら再度訊ねた。
「クーデターです」

【聖都クレア発:1524年第4周期10日:特別緊急報】

クレアムーン国軍部が鬼哭の谷周辺及びシチル河畔の放棄を決定、軍の撤退が開始された模様。
同日、月風麻耶に対して免責特権及び神威巫女としての地位剥奪が命じられた。
クレアムーン国政府の宗教筋からは、月風麻耶に対して第2種処刑が執行されたとの未確認情報が伝わっている。
現在、月風麻耶の後継者には同女史の側近だった弥生が有力視されている。

(本当に起こってしまったわね……)
 エヴェリーナは額に流れた冷汗を拭ってから訊ねた。「……帝国政府の反応は?」
「帝都ラグライナからは何の連絡も入っていません。それから、シチル河畔と鬼哭の谷に待機している帝国軍は全部隊の進軍を停止させたようです。聖都クレアで発生したクーデターに関する情報を収集しようとして、進軍を遅らせているのでしょうか」
「いや、それは無いですね」エヴェリーナは首を横に振った。「帝国軍にとっては、軍事上の要衝を無血で占領できた今こそが進軍のチャンスのはず。私だったら、兵士の体に鞭を打ってでも聖都クレアへ進軍するよう指示を出す状況ですよ。情報収集なら、進軍中の部隊でもできないことは無いはずですしね」
「だとすると、どういうことなのですか?」
 エヴェリーナは最新の特別緊急報を机の上に放り投げた。「クレア戦線に従軍していた帝国軍が、聖都クレアの混乱を利用しないと休息を取れないほど疲弊していたのか、クレア戦線に投入されている帝国軍の将軍達が騎士道精神に富んでいるという、高潔で立派だけど少しだけお人良しな人々なのか、それとも──」
「クーデター発生時に進軍を停止することが既定事項──あっ!」オズワルドは思わず大声を上げていた。「まさか……」
「そう、その『まさか』を考慮しないとまずい状況なんです」エヴェリーナは溜息を吐いた。「帝国軍の将軍達が人格者であるという説に票を入れたいところなんですけど、そうではない可能性があるんです。つまり、クーデターが発生するという情報が帝国側に筒抜けになっていたか、クーデターの実施と進軍停止に関し帝国軍が『承認を与えていた』か、クーデターが帝国とクレアの宗教右派による共同謀議だったか……」
「どの仮説が正解でも危険な状況ですね」
「ええ。情報が筒抜けになっていた場合には、帝国側がクレア側の機密情報に対して自由にアクセスできるということになります。情報は軍事物資と同じくらいに戦争の勝敗を決定付ける要素ですから、クレア側の防諜能力が破綻していることは、同国が戦争に勝つ見込みは全く無いということと同義になります。そして、2個目と3個目の仮説が正しかった場合、それは『帝国とクレアムーンが水面下で密約を交わした』ということになります。もし密約が事実だったとするならば、評議会議員達の間から、『クレアムーンは対帝国戦線の戦略的パートナーとしての適格性に疑問がある』との声が上がるのは避けられなくなります」
「でも……」
「どうしました?」エヴェリーナが訊ねた。
「本当は密約が無かったとしたら、どうします?」
「実際には密約が無かったとしても、クレアムーンの政府高官達が『密約があるように受け取られるような行動を見せた』ことは、決して好ましいことではありません。密約に関する疑惑を評議会委員達が知ったとしたら、一体どういうことになると思います?」
 オズワルドは10秒間考えてから答えた。「クレアムーンとの共同戦線を張るよう主張していた評議会委員達は、面子を完全に失ってしまうでしょうね。そして、帝国だけではなくクレアムーンに対する敵対意識が膨らむことに繋がりかねませんな。こうなってしまったら、我々が『密約が無かった』という『真実』を伝えたところで……」
「ええ、おそらく評議会委員達を抑えることは難しいでしょうね」エヴェリーナは険しい表情を浮かべていた。「たとえ、評議会を冷静にさせたところで、今回のクレアムーン軍の行動が反帝国諸国にとってダメージになるのは避けられないんです。戦線を聖都周辺まで後退させることによって不利益を蒙るのは、後方支援基地を使用不能にしてしまうクレアムーン自身なのですよ。それに、対クレア戦線の縮小によって生じた余剰兵力が大陸東部に回されるのは必至。そうなったら、レナスティーナ私兵軍や我が共和国軍の戦いも一層厳しくなります。現在は辛うじて維持できている我が国の戦線が、クレアから回ってきた増援によって突き崩されないと誰が言い切れるのです?」
 オズワルドは首を横に振った。「やれやれ……。大変なことになりましたね……」
「とりあえず、今やれることをやっておきましょう。月風麻耶のフォルダに大きな黒いマーカーを貼っておいて下さい。いいですね?」
 情報活動委員会において、個人情報の入っているフォルダに黒いマーカーを貼るという行為は、その人物が既に鬼籍に入り、歴史の表舞台には二度と姿を現さないと認定されたことを意味する。オズワルドは上司の言葉に少しだけ身じろぎしたが、すぐに平静さを取り戻した。「分かりました……仰せのままに」
 エヴェリーナはオズワルドが退出してから、応接用のソファに寝転がった。
(クレアムーンが今回の策に踏み切った理由……一体何かしら?)
 エヴェリーナは永倉光成からの手紙を再び取り出し、目を走らせた。
(『事後において私は神官らを恭順させ、将来へ向けて国力を温存しようと考えております』、か……。戦争を早期に終結させ、再起を図るつもりなのかしら? 一番あり得るのはこの可能性だけど……うーん、もうちょっとクレアムーン国内の実情を調べてみないと、これといった結論が出せないわね……)
 エヴェリーナは手紙を懐に戻した。
(それにしても、この手紙に対してどう返事すればいいのかしら? 評議会の反応次第では、『私達の』委員会と永倉氏率いる諜報機関との友好関係を断絶せざるを得なくなるから、優しい言葉を手紙に書き連ねるのは難しい話。かといって、真相が確定していない今の段階で三行半を突き付けるのは性急に過ぎる……。どっちにしろ、情報が欲しいわね……もっと良質で、大量の情報が……)
 眼鏡を外して懐に入れ、瞼を閉じて視界を閉ざす。
(結局、自分の国の面倒は自分で見ないとダメということかしら? 詳しい背景事情は全て抜きにして、クレアムーンが戦線を後退させたという客観的事実が変えられない以上、我が国が帝国軍とこれから戦う為には、全て独力じゃないといけなくなるわね)
 そして、エヴェリーナは誰にも聞こえないほどの声で愚痴を漏らした。
「今回の一件が全部『プラチナの悪魔』の陰謀だったら、話はもうちょっと簡単なんだけどねえ……」
 無論、そんなことがあり得ないことはエヴェリーナ自身が最も良く承知していた。

 余談だが、この会話の後、今度は帝国軍風神騎士団が首都ガイ・アヴェリ近郊に出現したとのニュースがもたらされた。そのため、エヴェリーナ達は以後数日間首都防衛の為の作戦立案に忙殺され、桐野才蔵に対する返書の提出が大きく遅れてしまうことになる。
 いずれにせよ、エヴェリーナ・ミュンスター達にとって、1524年第4周期10日があらゆる意味で大きな転機になったことは疑いようの無い事実であった。

(2002.11.01)


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