最終報告関連資料

エヴェリーナ・ミュンスター

「…………あれ? ここは?」
「おや、お気付きになりましたか」
 エヴェリーナ・ミュンスターが目を覚ましたのは、振動の激しい屋根付き馬車の中だった。その両足と腕には包帯が幾重にも巻かれており、その目にはいつもの視界──眼鏡越しでしか認識することのできないごくありふれた世界──が戻っていた。拷問中に手足を縛めていた鎖の感触も無く、彼女は「どりあえずの」自由を取り戻していた。
「ええと……ここは?」エヴェリーナは同じ質問を繰り返した。
「ラグライナ帝国軍第26部隊所有の馬車でございます」声の主は40代の男性だった。「ひょっとして、御記憶がございませんか?」
「第26部隊──ああ、エルさんの……」
「はい、左様にございます」男性は頷いた。「カルスケートの地下牢から救出されました後、あなた様にはキリグアイの街まで御一緒して頂きたいとのことでございます」
「キリグアイ……」エヴェリーナの頭の中に記憶が甦る。
 現在のラグライナ帝国では国土の北東部に位置する大都市・キリグアイは、1241年までは独立国「コーリア王国」の首都として繁栄を極めていた。だが、1239年にラグライナ帝国から派遣された外交使節団がコーリア王国内で殺害された事件が原因で、この国はラグライナ帝国との戦争という災厄に襲われる。そして、2年後の1241年には滅亡し、旧コーリア王国領はラグライナ帝国の一部となった。ガルデス共和国の政治家──特にラグライナ帝国との戦争を強硬に主張する者達にとって、コーリア王国滅亡を巡る一連の騒動は、不必要な宥和政策が自国の益にはならない事を証明する為の格好の材料となっていた。エヴェリーナ自身も、評議会委員長ラヴェリア・カルディアスより強硬な反帝国論者の手によって、コーリア王国滅亡から得られる「教訓」を何度も聞かされていた。
 しかし、エヴェリーナは彼らの話を常に聞き流していた。彼女にとってコーリア王国滅亡の話は耳にタコができるほど何度も聞かされた昔話である上に、ある疑問が心の中に生じて消えることが無かったからである。
(地元に住む人達にとってはどうだったのかしら?)
 いかなる伝統や統治理念があろうとも、最終的に国民が国家を信用するかどうかは、為政者達が実際に行った政策と、為政者達の人格そのもの……つまり統治機構を動かす人間の資質に依拠する部分が極めて大きいのではないか──彼女はこのように考えていた。システムとしてどれほど優れていた統治機構があったとしても、それを動かす人間が堕落しているのでは意味が無いのである。エヴェリーナが知る限りではアレシア大陸最強であったアウドムラ帝国も、皇帝を頂点に高度に組織化された官僚機構を持ちながら、結局は滅亡してしまったのである。
(組織に仕える人間がダメだと崩壊するのは、共和国も帝国も一緒なのよね……)
「キリグアイの街に行かれたことは?」男性の言葉がエヴェリーナを現実に引き戻した。
「え、ええと……そうですね、あの街がコーリア王国の首都だった時代には1回だけ行ったことがあります。帝国領になってからは行ったことが無いですね。今回が初めてになります」
「おやおや、そうでしたか。実は、私はあの街の出身なのです」
 男性の言葉にエヴェリーナの目が少しだけ見開かれた。「そうだったんですか?」
「はい」男性は頷いた。「帝国に併合されましたが、あれから我々下々の生活が大きく変わったということはございませんでした。むしろ、帝国の支配が始まったことによって、ウロボロス街道(注:帝国領土中央部の各都市を無限大のマークのように繋いだ街道網)がここまで繋がり、帝国の物品が大量に流れるようになりました。ですから、一般市民の間には、帝国による統治を歓迎する者も決して少なくないのです。旧王国の貴族の方々は色々と大変な目に遭われたようですが」
「そういうあなたはどうして帝国軍に?」
「私ですか? 若い頃は流浪の旅人として大陸中を巡っておりまして、たまたま辿り着いた帝国で仕官したのでございます。もっとも、軍人としてではなく、あなたと同じ文官としてでございますが……」
「そうだったのですか……。でも、どうして祖国ではなく帝国に仕えようと思われたのですか?」
 男性は暫し口を閉ざしていた。「……強いて申し上げれば、『包容力』の差、と申し上げればよろしいのでしょうか」
「『包容力』……ですか」
「はい。アレシア大陸に並ぶ各国の中で、ラグライナ帝国が最も『余所者にやさしかった』……そんな印象がありました。だから、私はあの国に仕官することにしたのです。エヴェリーナ様の仕えていらっしゃるガルデス共和国も同じように『懐の広い』国でございましたから、仕官の際にはどちらに入るべきかかなり悩みましたが……」
「他の国はどうだったんです? 例えばクレアとか……」
「私が仕官しようとしていたのは今から20年前でした。ですから、当時のクレアムーンは外から見て『閉ざされた国』というイメージがございました。しかし、ここ数年の間──神威巫女に月風麻耶という方が就任されてからは、大分変わったと思います──良い方向に、ですが。もしも、数年前に仕官しようとしていたら、私は3つの国の中から自分の仕えるべき主を見つけることになっていたはずですから、さぞかし大変なことになっていたでしょうね」
「運命の三択……ですね。それはとても難しそうですね」エヴェリーナはくすくす笑いながら言った。
 女スパイマスターにつられて、男性文官も笑い出した。「ははは、全くその通りでございますな。……さて、折角ですしゆっくりと楽しまれては如何ですかな? 美しかった王城は戦災で焼けてしまいましたが、旧王国時代の史跡でしたら街の内外に多数残されておりますよ」
 エヴェリーナは少しだけ表情を強張らせた。「今は戦争中です。それに、私は早く共和国に戻らねばならない身。御招待はありがたいのですが、帝国領の都市でゆっくりと観光旅行をしている時間は──」
「いえ、申し訳ございません。そのようなつもりで申し上げた訳ではないのです。しかし、その傷で共和国に戻られるのは無理なのではございませんかな? 我が部隊は立案された軍事作戦通りに動きますゆえ、エヴェリーナ殿をガイ・アヴェリへお返しする際のお手伝いはできませぬ。もし、お戻りになりたいのでしたら、御一人で戻って頂かねばなりませんが……」
「…………」エヴェリーナは口を噤むしかなかった。軍を率いることもある政府高官として個人戦闘能力の欠落が最大の弱点であることは、彼女自身が最も良く承知していた。
「とにかく、今は無理をなさらないことがエヴェリーナ殿御自身の為になると思われます。エル様も、あなた様との会見を楽しみにしておられますし」
「ええ、まあ……そうですね」エヴェリーナは頷いたものの、その心中にはある疑念が生じていた。
(どうして敵からこんなアドバイスを受けなきゃならないのかしら? 間違ったアドバイスではないし……) 

 エヴェリーナ・ミュンスターとエル・ローレライナの秘密会談は、キリグアイの中心部にあった旧コーリア王城の城址で行われた。かつてこの地にはは壮麗な宮殿が聳え立っていたが、今ではラグライナ帝国政府の政府庁舎が立ち並ぶ官庁街となっている。また、城址の一部は緑地として再整備され、帝国政府が地元の有力者を歓待する時などに活用されていた。
「綺麗な所ですね……」
 エヴェリーナは車椅子に座った格好で感嘆の声をあげた。その隣では、エルがエヴェリーナの速さに合わせてゆっくりと散歩を楽しみ、エヴェリーナの後ろでは、馬車で彼女と相席していた中年男性が車椅子を手で押している。そこには、戦争中とはとても思えない光景が広がっていた。ただ唯一、敵同士の会見という理由で、男性が珍しくロングソードを帯剣していた点が、彼女達に戦争が終わっていないという事実を無言で提示していた。
「昔はもっと綺麗な庭園だったそうですが、コーリア王国滅亡時の戦火で無くなってしまいました。昔の状態をそのまま取り戻せたわけではありませんが、当時の面影なら楽しんで頂けると思いますよ」エルはエヴェリーナの顔を見つめた。「それよりも、大丈夫ですか?」
「ええ。少しは外の空気を浴びないといけませんからね」エヴェリーナは答えた。「ところで、足の傷はあとどれ位掛かりそうですか?」
「完治するまでにですか? 実は、かなりの大怪我でしたからね……」
 エルはその後、「軍医が語ったところによると」と前置きした上で、エヴェリーナの病状を簡潔に説明した。それによると、彼女が負った傷の中で最も大きい物は左足のすねの骨折で、当時のラグライナ帝国の最高水準の医療技術による治療を施した上で、完治までに約3周期──後世の太陰暦では約3ヵ月半掛かるということだった。この他にも、右足のすねにはひびが入り、全身には鞭によって作られた無数の痣が残っており、その治療にも少なからざる時間が掛かると教えられた。
「ということは、当分は帝国に残らないとダメなんですかね……」エヴェリーナは溜息交じりに答えた。
「もしも、エヴェリーナさんが傷の治療を望まれるのでしたら、そういうことになりますね。戦況が逼迫している共和国の戦線よりも、帝国の安全地帯で養生された方が、身体にはよろしいかと思います。今、共和国に戻ったとしても、国境地帯では戦闘が続いていますから、安全に戻れるかどうか保証ができません。それに……」
「それに、何です?」
「私が知る限りでは、あなたは帝国政府の捕虜となった共和国政府の高官では『最も高位』の人間でしたはず。ですから、しばらくは共和国側にお返しするおつもりはありません」
「他の捕虜の方々みたいに、交換協定に基いて戻すということは無いのですか?」
「そればかりは、セルレディカ様にお伺いしないといけませんね」エルは静かな声で答えた。「法的には、私はあなたの処遇を決する権限を与えられているとも言えます。ですが、それをここで行使するつもりはありません。それに、折角の機会ですし、セルレディカ様もあなたとお会いしたいとお思いになるかもしれませんよ」
「こんなしがない文官と……ですか?」
「はい」エルは頷いた。「こう見えても、セルレディカ様はどの国の方であろうと、素晴らしい才能を持った方々とお会いになるのを楽しみにしていらっしゃるんです」
「人材収集癖……ですか? レヴァイア王国の時のように?」エヴェリーナが訊ねた。
「それもあると思いますね。ですが、純粋に『優れた人間と会いたい』という欲求をお持ちなのかもしれません。その原動力が何なのかは、私にもすぐには答えることはできませんが……」
「『真の賢人は、他者を認めることができる人間である』、ですか……」エヴェリーナは、ガルデス共和国建国者が残したと言われる警句──真相は闇の中である──を持ち出した。
「それとは微妙に違っているかもしれません。でも、エヴェリーナさんがそのように解釈されるのなら、それが正しいと思います。それに、エヴェリーナさんは自分が謙遜される程度の人間というわけではありませんよ」
 エヴェリーナは無言でエルの顔を見つめていた。
「軍閥の一員として軍を率いているというわけでもなく、血筋の良さにも恵まれているわけでもないあなたが、共和国政府における“スパイマスター”として、情報分析の方面で重用されているということ……それこそが、あなた自身の才能を示しているのではありませんか?」
「それは買い被り過ぎですよ」エヴェリーナは首を横に振った。「いくら才能があったとしても、実績を残せなかったのなら意味がありません。戦争で求められているのは才能だけではなく『意味のある成果』も含まれている──いや、そちらの方こそが重要であると言えますからね。今の戦況を招いたのは、私の力不足が一因にあるとも言えますし。私がもっとしっかりしていたら──クレアムーンとレヴァイアの動向をもっと正確に把握することができていたら、ここまでの苦境を招くことは無かったでしょうね」
「『力不足』……考えようによっては、そうでしょうね。少なくとも、後世の評価だけを考えますと、そうなるかもしれませんね。後世の歴史好きは結果論でのみ物事を考えることが多いですから……。ところで、そのことと関係しているかもしれませんが、帝国であなたの活動報告などを聞いてますと、1つだけどうしても不思議に思えることがありました。お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何でしょうか?」エヴェリーナは体を乗り出した。
「私の記憶が正しければ、共和国の情報活動委員会が帝国内で破壊活動を行っていたという情報は1件も届いていません。どうしてなんですか? あなたほどの人間なら、それこそ自在に破壊工作を展開できていたでしょうに……」
「私の趣味……と答えても、納得してもらえないでしょうね」
「多分」
「まあ、色々と事情があるんですよ、私のほうも。ソフィアさんがお持ちの情報と突き合せてもらえれば、エルさんにも分かってもらえるんじゃないでしょうか」
「なかなか素直には答えてくれませんね」エルは微笑んだ。
「そうでなければスパイマスターは務まりませんから」エヴェリーナはニヤリと笑い返した。「それに、情報分析が私の本領だと思っていますから、この現状に特別な不満があるわけではありません。スパイマスターとしての『日常業務』で手を抜いた記憶はありませんからね」
 エヴェリーナの言葉にエルは頷いた。エルは帝国の様々な情報機関から集められた情報をまとめて知ることができる立場にあり、その中で、帝国と共和国が諜報と防諜を中心に水面下で激しい攻防を展開していることを知っていた。そして、エル自身が諜報機関を操ることは珍しかったものの、彼女は軍師として情報の重要性は誰よりも熟知しており、それ故に彼女はエヴェリーナ・ミュンスターという人物を他の諸将よりも高く評価していたのである。
「情報を集め、分析するのが私の本領ですし、それが私に与えられた仕事です。こんなところで油を売っているわけにも、長く病院のベッドで横になっているわけにもいきません。私は早く戻らないといけないんですよ」
「そうでしょうね。でも、そう言われて『はい、そうですか』とあっさり認めるほど、私は甘い人間ではありませんよ」
「では、私をどうするんです? まさか、処刑するんですか?」
「処刑の予定はありません」エルは首を横に振った。「ただ、あなたにはしばらく帝国内──おそらくは首都に滞在して頂くことになりそうです」
「え? 処刑の予定は無い?」エルの言葉に、エヴェリーナは思わず首を傾げていた。
「はい。当分の間、帝都に留まって頂くことになりそうですが、あなたの命を奪うような真似はどなたもなさらないと思います。陛下もあなたのお命を御所望というわけではございませんし、私もそこまで血生臭いことが好きな人間ではありません」
 エルの言葉に疑念を抱いたエヴェリーナは冷静な口調で訊ねた。「しかし、私を殺さない理由としては、それでは不十分ではありませんか? 私の帰国を許してしまったら、帝国の為にはならないのは明らかでしょう? 帝国の諜報機関から情報を得ているのなら、私がどういう人間かエルさんも十分に御存知でしょう?」
「それは承知しています。だからこそ、あなたを殺さず帝都に留め置くことにしたのです」エルは微笑んだ。「それとも、エヴェリーナさんには『悲劇のヒロインになりたい』との願望がおありなのですか? あなたが御希望ならば、予定を変更して差し上げても構いませんよ?」
「いや、結構です」エヴェリーナは即答した。「マジックショーではそんなシチュエーションの舞台を数回やったことがありますけど、それは舞台の中だけの話。現実世界でそんな目に遭うのはできる限り避けたいですからね」
「マジックショー……ああ、エヴェリーナさんはそんなこともされていましたね」
「ええ、まあ……こんな体では、ちょっとお見せできないですけどね」
「そして、お一人で共和国に戻られるのも無理ということですね」
「ええ……」
 エヴェリーナとエルの視線は幾重にも包帯が巻かれたエヴェリーナの足に注がれていた。包帯で拘束された足が、如何なる命令や拘束具よりも雄弁に、エヴェリーナが帝国領から移動できないという事実を物語っていた。
(それにしても、エルさんは私を処刑せずに帝国に留め置くことによって、何を為そうとしているのかしら? 客観的に考えれば、私を拷問した上で情報を搾り出せるだけ搾り取ったあと、「帝国に逆らった犯罪人」として首を刎ねてしまった方がよっぽど得になるはず。「一時的に」帝国領に留め置くだけとしたら、将来的には私は共和国へ帰国できるということになる。つまり、私が将来「帝国の敵」になる可能性があることは承知の上での処置ということになるわね)
 会話が途切れエヴェリーナが一人黙考に耽る中、エルは城址に広がる庭園を無言で眺めていた。まるで、エヴェリーナと同じように、彼女もまた物思いに耽っているかのようであった。
(……いや、帝国では屈指の切れ者である彼女が、そんな危険な真似をしでかすとは考え難い。だとすると、私が帰国する時には、共和国が無くなっているか親帝国派の政権になっているということを「見越している」ことになるのかしら? そう考えれば、私を処刑せず帝国内に留め置くだけという処置にも一定の合理性が見えてくるわね。でも、どうしてそのような処置を「私だけ」に対して行うのか、そこが分からない……。帝国の敵という意味では、私よりも最前線で戦っている他の将軍の方々のほうがよっぽど相応しいとも言えるのに、その人達が私のように囚われたという話は聞かないわね。女性将軍を捕らえたとしても共和国側に戻されることが多いのが現状……。となると、エルさんは私「だけ」にこんな処置を施したことになるのよね……)
「…………さん?」
(つまり、エルさんは私だけを共和国から排除することを目的として、私を帝国に幽閉するなんてことを言い出したわけになるのよね。それは、エルさんにとって私が邪魔で仕方無いのか、私が共和国にいると実行に移せないような計画をエルさんが持っていることのどちらかを意味していることに……。でも、私に刺客が向けられたことが無いことを考えると、「今回に限って」彼女が私の存在を極端に邪魔と感じたと考えるほうが自然だわ)
「……リーナさん?」
(じゃあ、私が邪魔になるような計画って一体何なのかしら? 私を排除することによって得られるメリットを正確に把握することができれば、その中身もおぼろげながら理解できるはず。では一体──)
「あの……エヴェリーナさん、いかがなされました?」
「……あ、はい?」エルの言葉によって現実に引き戻されたエヴェリーナは、慌てて視線をエルのほうに戻した。
「どうされました? 何か考えていらっしゃるようでしたが……」
「ええ、まあ……」エヴェリーナはエルの言葉を認めた。
「時間が差し迫っているようですし、そろそろお開きにしたいのですが、その前に……」
「何か?」エヴェリーナが訊ねた。
「私との話に付き合って頂けたお礼もしなければなりませんし、もしよろしければいくつか私に質問して下さっても構いませんよ」エルは微笑みながら答えた。
 エヴェリーナは暫し考えた後、顔を上げた。「では、3つほど訊ねたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「はい、何なりと」
「まず1つ目ですが、最近のセルレディカ帝の御様子はどうですか?」
 エルは予想外の質問に思わず面食らっていた。「……え?」
「え、いや、文字通りの質問ですけど……」
「御様子、ですか……。私から特別何か申し上げるほどのことではないと存じます。私が帝都を離れた時も、いつもと変わらぬお姿で政務に励まれていらっしゃいましたし……」エルはそう答えながら、エヴェリーナの様子を注意深く観察していた。
 エヴェリーナは僅かに落胆した表情を浮かべた。「そうですか……分かりました。続いて2つ目なのですが、セルレディカ帝が今回の戦いを始められた理由をエルさんは御存知なのでしょうか?」
「はっきりと申し上げることはできません」エルは首を横に振った。「ですが、私の知る限りでは、皇帝陛下は覇王と称されるほど多数の戦争を戦われた武人であらせられますが、それと同時に国民1人1人のことを思い遣る心を持った政治家──賢帝であらせられるとも申し上げることができるでしょう。皇帝陛下の施策の数々も、エヴェリーナさんは御存知でしょう?」
「ええ」エヴェリーナは頷いた。「今は亡きグラディエスト帝ほどではありませんが、セルレディカ帝が内政に腐心しているという話は私も聞き及んでいます。セルレディカ帝がグラディエスト帝の崩御によって工事が中断されたウロボロス街道を完成させ、大陸中部の経済を大いに活性化させたという功績は、決して軽んじられるべきものではありません。もしかしたら、そんな『政治家』としてのセルレディカ帝の意思も、今回の戦いには現れているのかもしれませんね。如何なる手を用いようとも自分の代で大陸の騒乱に終止符を打ち、そしてその後継者や子供達に統一された帝国を相続させようという……」
「親心……ですか?」エルが反対に聞き返した。
「それに加えて統治者としての責務……そんなところかもしれませんね。でも、私が帝都でセルレディカ帝に直接訊ねても、本心までは答えてはくれないでしょう。それに、どのような目的を抱いていたとしても、セルレディカ帝が10万人以上の戦死者を出した戦乱の仕掛け人だったという事実は消せません。将来に禍根を残すという点では、セルレディカ帝の行為は必ずしも誉められたものではないのです。今回の戦争が終結した後こそ、本当の意味で困難な時代が来るのかもしれませんね。互いの憎しみを如何に克服するかという難題が待ち構えていますから」
 エヴェリーナの言葉にエルは沈黙を返すのみだった。
「では、最後に1つだけ聞かせて下さい」エヴェリーナはエルの顔を見据えた。「繰り返しになりますけど……、私を『幽閉』してまで何をしようとしているのです?」
「私の口からはお答えできません。でも、あなたなら分かるかもしれません……。だからこそ、あなたにはしばらく帝都に居てもらうことにしたんです」
「私が共和国に居たら不味いことなんですか?」
 この質問に、エルは僅かな笑みを返すのみであった。

 会見の翌日、エル・ローレライナ率いる帝国軍第26部隊は、戦闘が続く共和国戦線の収拾と、首都ガイ・アヴェリ攻略作戦に関して前線指揮官と協議を行うべく、キリグアイを出発し共和国方面へと向かった。一方、帝都への護送が決まっていたエヴェリーナは、帝都への帰還兵の隊列に混じり、南西への旅路についていた。護送車──実際には内装が整った屋根付き馬車であった──の中には、カルスケートからの旅路と同じく、カルスケートから同行していた中年男性も乗り込んでいた。一見すると前回の移送時と全く変わらぬ光景であったが、ただ1点だけ異なる個所があった。
「ねえ……」
「どうしました?」エヴェリーナの対面に座る男性が訊ねた。
「これ、解いてもらえませんか?」彼女はそう言って、縄で堅く縛られた両手を掲げて見せた。
「あなた様を『確実に』帝都へ送り届けるようにとの御指示でした故、残念ながら……」男性は首を横に振った。「それよりも、この程度の結び目でしたら、自力で解けるものではございませぬか?」
「確かにそうですけど……でも、見張りの兵士が大勢いる中で、エスケープマジックを披露するつもりはありません。足はまだ治っていませんし」エヴェリーナは包帯が巻かれたままの足に目を落とした。「そもそも、私は縄抜けができるだけで、他に肉体的な取り柄があまり無い人間なんです。手首の縄を解けたとしても、帝国軍兵士の間を無傷で脱出できるとはとても思えません」
「武術の心得は全く無かったのでございましたな」男性は頷いた。「……ところで、エル様との会見でしたが、いかがでしたか?」
「予想以上に実りの多かった会見でしたね。帝国政府の政府高官──それも事実上のナンバー2と直に言葉を交わすという経験、そう滅多にできるものではありませんよ。それに、エルさんからは幾つか興味深い話をうかがうこともできました」
 エヴェリーナの言葉に男性は身を乗り出した。「ほほう……どういう話ですか?」
「それは秘密です、うふふ」エヴェリーナは口元に怪しい笑みを浮かべた。男性の目には、その姿が妙に色っぽく感じられた。
(エルさんがセルレディカの健康状態の変化に全然気付いていないというのは意外だったわね。でも、これで比較的薔薇色のシナリオが成立する可能性が消えてしまったわ。残るはハッピーエンドと災厄到来という両極端な未来予想図だけ……。相変わらず、未来が見えにくい現状は一緒なのよね……)
「そうですか……」男性は落胆した表情を見せた。
「でも、分からないことが多い人でもありましたね。特に、あの人が何を為そうとしているのか……」
「お二人の会話を傍で拝聴しておりましたが、私には難しくて分からぬ話でございました」男性が率直な感想を述べた。
「私にも分かりませんよ」エヴェリーナは苦笑いを浮かべた。
(でも、手掛かりだけは意外と豊富だったのよね。少なくとも、私の存在がエルさんの計画完遂に邪魔だという一事だけははっきりしている。だとすると、どういう計画が考えられるのかしら? 私が情報活動委員会の人間としてやったことを再度思い出さないと……)
 エヴェリーナは真顔に戻った。
(まずは帝国及びクレア、レヴァイアでの情報収集と分析。それから、共和国内で活動する各国の諜報機関の動向監視と摘発。あとは……共和国内で見られる派閥間抗争の監視。そんなところだったかしら。でも、たかが諜報活動程度で、私が幽閉されることの大事に発展するとは考え難いわね。そんなのはこっちの世界では日常の一部と化してしまっているし、エルさんもそのくらいのことは承知しているはず。だとすると、何らかの政治的な工作を共和国側に仕掛けていて、その際に私が邪魔になったとエルさんが考えたと見るのが自然なのかしら)
 エヴェリーナは小さな窓から、キリグアイ近郊に広がる穀倉地帯の風景を見つめた。徴兵によって働き手が足りなくなったのか、耕作が行われないまま放置された畑が目立っている。
(確か、共和国内の情報に関しては、反ラヴェリア派の挙動が不審であるとの情報が伝わっていたのよね。でも、今のところはチェックができないままだった……。しかも、これはレヴァイア王国滅亡時と同じく、帝国側の仕掛けた罠だという可能性がある……。果たして、今の帝国はそんなことをするのかしら?)
 エヴェリーナは微かに頷いた。
(可能性が無いとは言い切れないわね。首都決戦に持ち込まれるなど共和国側は守勢に立たされているけど、強固な城塞と化しているガイ・アヴェリや、動向が不確かな反ラヴェリア系軍閥の動向など、不確定要素は少なからず残っているし、帝国側も長く延び切った兵站を維持するのに相当な労力が必要になる。そんなことを考えると、共和国が内部崩壊するか自発的に降伏を申し出るような状況になれば、帝国側にとっては非常にありがたい話になるわね。でも、現在の評議会首脳部は議長をはじめ反帝国一色に染まっているから、彼らの翻意を促すのは難しい。となると、評議会を帝国に従属させる為には、トップの「大掃除」が必要になるわ。そして、「大掃除」に最も手っ取り早い手段は──)
「……クーデターか……暗殺?」エヴェリーナの考えが不意に口から漏れ出した。
「ん? どうされました?」
「いえ、別に……」エヴェリーナは首を横に振った。「私の独り言ですから、心配なさらないで下さい……」
「そうですか……」
 だが、口から出てくる言葉とは裏腹に、共和国のスパイマスターの心中には暗雲が立ち込め始めていた。
(議長、レディスさん、セグトラさん……それにカオスさん……どうか無事でいて……)

(2002.12.04)


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