月下に袂を分かつ
朝霧 水菜
そこは、日が落ち、暗い闇に閉ざされた山中の森の中・・・
「ふぅ・・・すっかり日が暮れてしまいましたね・・・・」
言いながら、水菜は額に浮かんだ汗を拭った。
今までジャングルのような草木の中を進んできたせいか、
その衣服は軽く、薄汚れたような感じが見受けられる。
「確か、前の街の人の話では半日足らずで着けるはずニャ・・・」
もう、突っ込むのも疲れた様子で、紫苑が呟く。
早朝に聖都クレアを出発してから既に半日という時間は裕に過ぎていた。
まあ、地図もなしに見知らぬ山の中に入れば、普通はこうなる―つまり、遭難。
―クキュルルルルルルッ・・・
「うぅ・・・お腹も空きましたねぇ・・・・」
可愛い音を鳴らす腹の虫に涙目になりながら、水菜。
基本的に空腹などは我慢できる方ではあるが、
あくまでそれは運動していない場合の事―歩き尽くめでは耐えられないのだ。
思わず、そこら辺を飛び回っている野うさぎを食料にしようかと考えるが、
辛うじて人としての尊厳がその欲求を抑えていた。
「ん・・何か、聞こえるニャ」
言って、紫苑がもっとよく聞こうと、耳をそばだてる。
―ザーーーッ・・・・
「この音は・・水の音だニャ!」
「えっ!ほ、本当ですか、紫苑!?」
自らの式神の言葉に、水菜は瞳を輝かせる。
気がつくと、1人の1匹は音のする方へと全力で駆け出していた・・・
「ん〜・・・なかなか釣れないな」
エアードは溜息混じりに釣り針に新しい餌を付け、川に投げ込んだ。
日頃から暇(隙?)を見つけては釣りに行っているが、
今日みたくここまで遠出するのは、珍しいと言えば珍しい。
というのも、ここはシチルの街の近くの山中なのだ。
彼が今、住んでいる聖都クレアからは半日ばかりは歩かないといけない。
「久々の休暇に遠出してみたはいいが・・・無駄だったか(==;」
まあ、それでも日頃の彼からすれば、かなり平穏であるのは間違いない。
今日はシチルで宿でもとるか―そう考えた、矢先だった。
「ん〜・・・紫苑、気持ちいいですねぇ♪」
「ニ、ニャアッ!み、水は苦手だニャ」
ここよりも川の上流―と言っても、ほんの直ぐの所から女の声が2つ。
「ん? なん・・・ブッ!Σ(==;」
振り返りかけて、エアードは直ぐにその視線を元に戻した。
そこに居たのはタオルで下半身を隠しているだけの若い女が1人と、
その女に体を洗われている黒猫が1匹―無防備といえば余りに無防備だ。
「え・・・・」
彼の反応が露骨過ぎたためか、女の方も彼の存在に気づいたようだ。
恐る恐る、戻した彼の視線と女のそれとが、絶望的なまでに絶妙に絡み合う。
―1秒・・・
お互いに沈黙―その場の空気が凍りつくのがわかった。
―2秒・・・・
先程まで忙しく鳴いていた虫達すら黙る―余計に気まずくなる。
―3秒・・・・・
「きっ・・・」
女の体がワナワナと震え始め―自分の頬を一筋の汗が伝う。
―4秒・・・・・・
「きゃああああああああああっ!!!」
夜空を切り裂かんばかりの絶叫と共に、女が手にしていた猫を投げつける。
おかしなくらい、正確無比に放たれたそれが、エアードの額を直撃した。
(何で・・俺っていつもこうなるんだ・・・?)
薄れ行く意識の中で呟いたその問いに、しかし、答えてくれる者はいなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・
・・・
「・・・ど、どうしよう・・あ、あの、大丈夫ですか?(オロオロ)」
体を揺すられて目を覚ますと・・・
目の前には不安そうな面持ちで覗き込んでいる女が居た。
「あ、気がついたみたいだニャ」
その女の肩に乗りながら、同じように覗き込んでいた猫が言う。
・・・・・・・・・ちょっとマテ。
「うおわぁっ!!Σ(−−;」
「きゃっ!!」
朦朧としていた意識も吹き飛んで、飛び起きる。
そして、まずした事は―女の頬をつねる事だった。
「い、いたひれすよ・・・ひゃにするんれすか」
頬をつねられ、女が抗議の声をあげる―どうやら、これは夢ではないらしい。
「だったら、何で猫が喋ってるんだ!?」
「アタシは式神で、猫とは違うニャ・・・」
言いながら、猫(式神?)が顔についた俺の唾を拭う。
確かに、あの勢いでぶつかっていたら、普通の猫なら死んでいるな。
「ひゃ、ひゃの・・・は、はにゃしてくらはい」
「お、おお。済まん・・・」
言われて、慌ててつねっていた女の頬から手を離す。
「そ、そういえば、大丈夫ですか?
結構な速さで紫苑を投げてしまったと思うんですが・・・」
また、さっきの不安そうな、落ち着かない表情に戻って女が俺の額をさする。
事故とはいえ裸を見られたのだから、もう少し怒ってもいい物だが。
「ん? ああ、あれくらい大丈夫だ・・・毎日、壷やらタライを受けてるからな」
自分でも触ってみて、血が出てない事を確認する。
笑顔で話していて、実は顔面血塗れでした、なんてオチはイヤ過ぎる。
本当に、建前でも何でもなく『毎日』なだけに笑うに笑えないが。
「は、はぁ・・・大変・・なんですね」
戸惑いながら苦笑を浮かべつつ、女が手を離す。
と、不意に女の肩に居た式神―紫苑と女が呼んでいた―が口を開いた。
「そうだ、主。この人に道を―――――」
―グオオオオオオオッ!!
「・・・・・・・っ!!」
「危ないっ!!」
突然、女の背後の茂みから出てきた熊に叫びながらスカイハイを抜く。
女も女で、驚いて腰を抜かすかと思ったら、身を翻しながら腰の刀を抜き放っている。
夜闇に2筋の銀閃が走り、俺の一撃は熊の首を、女のが心臓をほぼ同時に捉えていた。
首を跳ね飛ばされ、心臓を貫かれて熊の巨体が仰向けに崩れ落ちる。
(今のは・・・・)
感情の篭らない瞳で刀についた血を拭い、鞘に仕舞う女を見ながら胸中で呟く。
少なくとも、そこら辺に居るような街娘とは明らかに違う、戦う術を知っている者だ。
「ふぅ・・・助かりました。これで餓えは凌げそうです」
「・・・・・・は?」
一息ついて―何か、女がトンデモナイ事をぬかした。
女も女で、きょとんとした顔で疑問符をあげる俺を見返し、指で熊の躯を指しながら、
「熊って食べられませんでしたっけ? もう、お腹が空いてて・・・」
「いや、食えない事もないとは思うが・・・(−−;」
応えながら、ふと、思い出す―というか、単に早くこの話題から逃れたかった。
「そういえば、お前、さっき何か言おうとしてなかったか?」
さっきの一連の騒動にも女同様、全く動じた様子のない紫苑を指差す。
よく考えれば、式神を持っている、という時点で、
ある程度の戦闘法は知っていると考えてもよかったかもしれない。
「あ、そうだニャ。アタシ達、道に迷ってるんだニャ」
「・・・・・・・・・・・・・は?」
澄ました顔で情けない事を言う猫に、俺は再度、疑問符をあげざるをえなかった・・・
「へぇ・・・それは災難ですね・・・・」
十何時間ぶりのご飯を食べながら、私―水菜は話を聞き、相槌を打っていた。
実は、さっき熊に襲われた所はこのシチルの街の直ぐ近くであり、
男の人に送ってもらって、こうして紫苑を連れて2人と1匹で食堂に入っている。
「ったく、どうして寄ってたかって俺を虐めるんだ・・・?」
グラスに注がれた水をクイッ、と飲み干して、男の人が呟く。
聞く所によると、彼は毎日のように、壷を投げられたり、
落とし穴にはめられたり、人外の料理を食べさせられたりしているらしい。
黙ってキャットフードを食べている紫苑を横目にみやりながら、
「でも、そこまでされても見捨てないなんて・・・義理堅いお方なんですね♪」
本心からそう言う―普通の人なら幾ら助けてもらったからって、
そこまでされたら荷造りして、さっさと離れてしまうと思う。
こういう人は、多分、結婚なんかしたら絶対に浮気とかはしないんだろうなぁ。
男の人も、褒められたのが素直に嬉しいらしく、
「そうか・・そうだな。お前はよく分かってるじゃないか!」
「単に逃げるだけの勇気がないだけじゃないのかニャ・・」
紫苑の冷静なツッコミに、男の人の笑いが止まる―案外、図星なのかもしれない。
彼はつと、私の方に顔を向けると、真顔で紫苑を指差しながら、
「なあ、こいつを今からさばいてもらってきてもいいか?」
「だ、ダメですよ! それに、紫苑は式神だから食べられませんよぉ・・・」
何だか放っておくと本気でしかねないのを、私は、慌てて制止した。
お互い満腹になるまで食べた所で、食堂を出、街の入り口まで来ていた。
「そういや、お前、どこに行くつもりなんだ?
ここから行ける場所としたら・・・聖都クレアか?
それならついでだから、送ってやってもいいが・・・」
真上に綺麗な月を臨みながら、女に問う。
しかし、女は軽く首を横に振ると、申し訳なさそうな表情で、
「いいえ・・私は帝都ラグライナに向かいます」
帝国とクレア―両国が緊張状態にあるのを知っていての事なのだろう。
さっきの動きが本物なら、ひょっとしたら帝国軍に入れられるかもしれない。
それは、戦場で対峙する可能性もあるかもしれないという事。
「そういえば、お互い・・まだ、名前を言ってませんでしたね」
場の気まずい雰囲気を察してか、女が唐突に話題を変えてきた。
「ん?ああ、そういやそうだったな・・・」
本来、あの山中で出会った時に名乗りあうべきだったのに、
それを忘れるほど、この女とは色々と慌しかった。
「私は朝霧水菜、この子が紫苑です・・・」
「俺はエアード・ブルーマスターだ。よろしくな、水菜」
差し出した右手を、穏やかな笑みを浮かべながら水菜が握り返す。
その真摯な瞳に、しっかりと俺の姿を映しながら。
「それでは、もう、行きますね・・・」
「おう、気をつけてな」
スッ、と踵を返し、静かな、しっかりとした足取りで水菜が去っていく。
―日の出前の、まだ夜闇に包まれた月下の街で2人は歩き出す。
――1人はクレアの将、1人は帝国の将、その歩む道は違う。
―――帝国の将は願う。再び、この道が交わらん事を・・・
「あれ? ミズナ様、まだ起きていらしたんですか?」
声をかけられ振り返ると、作戦書を出し終えたメイリィが戻ってきた所だった。
「お疲れ様・・・今晩は満月なんですね」
言いながら、手早くコーヒーを淹れ、メイリィに差し出す。
メイリィは軽く会釈してカップを受け取ると、
改めて窓から見える夜空を見やり、そこに浮かぶ綺麗な満月を認めた。
「わぁ・・今まで気がつきませんでした。綺麗ですね」
「ええ・・・その月を見ながら、半年ばかり昔の事を思い出していたんです」
それだけを言い、メイリィもそれ以上の詮索はしてこない。
お互い、同い年であるからこそ、その心の機微に気づきやすいのだ。
沈黙の時が暫く続き、黙って2人とも空を見上げている。
それを破ったのは、私の方だった―軽く、居住まいを正して、
「明日はいよいよ出陣です・・・今日はゆっくり体を休めてください」
「はい、ミズナ様も。おやすみなさい・・・」
空になったカップを置いて、メイリィが会釈し、部屋から出ていった。
なにやら、廊下の方から悲鳴と罵声が聞こえた気もしたが、気にしないでおく。
「いよいよだニャ・・・戦いが、始まるニャ」
それまで口を開かなかった紫苑が言い、私も頷く。
(今晩はいい夢が見れるといいですね・・・私も、エアードさんも)
最後にもう1度、月を振り仰いで、私は胸中でそっと、静かにそう呟いた。
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