雨の記憶
御剣 叢雲
「またか…」
自分の娘に戦争における駆け引きの重要性を説明していた御剣八雲はうんざりしたようにつぶやいた。
彼の娘、叢雲はいつものように自分が政治に関する小難しい話をしていると一瞬の隙をついて逃げ出すのだ。
「全く…」
「そんな…今日の罠は自信があったのに…」
屋敷の屋根裏で叢雲が逃げ出した時のために罠を仕掛けていた御剣村雨は驚いたようにつぶやいた。
彼女の娘、叢雲はご丁寧にも自分が仕掛けた罠に「ちょっと出かけてくる」と落書きまでして逃げ出したのだ。
「あらあら…」
いつものように家を抜け出し、一直線に家の前の神社へと向かう叢雲。目指す神社では姉妹同然に育った桐生梢が叢雲が来るのを待ちながら境内の掃除をしていた。
「梢〜ちょっと今日は遅れたね、ごめんごめん」
よほど疲れたのだろうか、叢雲は肩で息をしながら梢に笑顔を向けた。
「……」
一方の梢は黙ったまま叢雲をじっと見ている。同じ年齢なのに背が低すぎる叢雲が相手なのでその体制は自然と首を傾けて見下ろすかのようになっていた。
「それにしてもあの小難しい話…聞いてたらいっつも頭痛くなるよ…なんで梢はあんなの理解できるわけ?」
「…さあ」
一見無愛想なような梢だが、叢雲としゃべっている彼女の目元は少し緩み、声も微妙に弾んでいた。とは言っても普段の彼女をよく知った人間でなければその変化は分からないのだが。
それからしばらく、叢雲がしゃべって梢が相槌を打つような会話が続いていたのだが、次第にあたりが暗くなり始めたので叢雲は「そろそろ帰る」と言ってそこを後にしようとした。
「叢雲…」
突然梢が立ち上がり、どこか一箇所を凝視して言った。
「ん? ど〜したの…?」
どこか緊張感を持った梢の声に叢雲が座ったまま梢の顔を見上げる。しかし梢はただ、叢雲の家の門の辺りをじっと見ていた。
「誰か…入っていったよ…」
「ん〜? お客さんかな…とりあえず行ってみるかな」
じゃあまた明日ねと言って叢雲は家の中へと走っていった。
叢雲の家に入っていった人物が気になって頭から離れなかった梢は叢雲と分かれてしばらくしてから叢雲の家へと入っていった。しかしそこはいつもにぎやかな雰囲気からは打って変わって静寂に包まれていた。
「……叢雲?」
居間の縁側に叢雲が呆然と立っていた。その瞳はすでにそこにいない何かを見つめているようだった。
「ねえ…お願いだから殺してよ…」
梢に気づいていないのか、叢雲が「何か」に向かってつぶやく。梢はそのとき、居間の中から血の匂いが立ち込めていることに気がつき、同時に何が起こったのかも理解した。
その日から叢雲は人が変わったかのように暗くなった。家から出歩くこともなくなり、梢が毎日叢雲に会いに行くようになっていた。
「叢雲…私は何も分からないけど…このままでいいの…?」
「…だって…カタチのあるものなんて結局幻に過ぎないんだもん…信じてるだけ…想ってるだけ…悲しい思いしなきゃいけないんだもん…」
「……だからって…目をそむけるの…?」
「やだよ…見たくないよ…」
「…」
それでも梢は朝から晩まで叢雲と一緒にいた。寝るときになると叢雲は「大丈夫だから…」と言って梢を家に帰すのだった。
「叢雲…外に出ようよ…」
「……」
「このままじゃ…ずっとこのままだよ…」
「…」
「分かった…私は明日からうちで待ってるから」
そんな日々が続いていたある日、梢はそう言って叢雲の家に来なくなった。
二日が過ぎ、三日が過ぎた。
その間、梢はずっと叢雲の家の門を見続けていた。何度もそこへ歩いていきそうになった。そのたびに梢は涙を流した。
その日は雨だった。
それでも梢は神社の軒下に立って叢雲の家のほうを見ていた。
「すまないけど、この神社に『轟雷刀』が奉納されてるって本当かい?」
突然梢の前に三人組の男が傘もささずに現れ、その神社の御神体について聞いてきた。
「あ…はい…雨降ってるので…中にどうぞ…」
そういうと梢は再び叢雲の家に視線を戻した。
叢雲は雨の中に立っていた。すでに風邪を引きそうなぐらいに全身が濡れている。
その叢雲の耳に、雨音の中からかすかに叫び声が聞こえてきた。
「梢のお父さん…?」
そしてそれに続いて聞こえてくる人が斬られる鈍い音…
叢雲はすぐさま駆け出した。
梢は血を流して倒れていた。次第に視界が霞んでくる。それでも梢は叢雲の家のほうを見ていた。そしてそこから、叢雲がこちらへ向かって走ってくるのを見て梢は微笑んだ。
「梢…?」
倒れ付している梢に叢雲が駆け寄る。
「遅いよ…叢雲…」
そう言って梢は目を閉じた。
――叢雲…外に出ようよ…
梢の言葉たちが叢雲の頭の中を駆け回る。
「だって…だって梢…何で…なんで笑ってんの…」
叢雲は涙を流しながら笑顔を作った。
その直後、駆けつけた兵士によって強盗は捕縛されたが、梢の一家は全員死亡していた。その兵士を率いていた老齢の部隊長は叢雲のことをよく知っており、叢雲に「軍に来るように」と言って轟雷刀を手渡し、去っていった。
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