月下
水薙 雷夏
―――――一つの話をしよう。
―――――それは、歴史が動き出す前の、夜の中でおきた一つの話。
―――――ぐしゃりと、骨を砕く快音が響いた。
男がそれを聞いた時、それが自分の首の骨が砕けた音だという事に気付いたであろうか。
男が気付いたのは、首筋に急激に走った激痛と先程の快音。
―――そして、傾く視界。
それでようやく男が自分の首を折られたと気がついた時には、
既に自身の首はあらぬ方向へと曲がっていた。
ふと隣を見遣ると2人の同僚は、既に―――男と同じように―――首を折られている。
同僚二人の傍らに佇んでいる一人の男がいた。
男は黒樫でできたトンファーを持っていた。
そんな無骨な武器で自分を含めた3人の首を全員に気付かれる事無く折ったとは、
男は到底信じる事は出来なかった。
―――――再び、骨の砕ける快音が響いた。
その音を聞いた時には、既に何時の間にやら男は視界から消えていた。
―――――ああ、これは悪い夢だ。
屋敷の門壁を守っている警備は20名、それをたった一人の男に悉く全滅させられる。
そんなのは性質の悪い夢以外何物でもない。
しかし男の思っていた事とは異なり、これは確かに現実に起こった事であった。
男の視界が落下し、暗転する・・・その間際、トンファーを持った男を幻視した。
―――――ああ、あいつが、敵側が差し向けた敵。あの―――水薙雷夏。
それが男―――とある一人の警備兵の最期の意識であった。
―――――数多ある隠密の家系には水薙という姓がある。
―――――隠密というものは、諜報・暗殺といった裏の仕事を生業とした者達だ。
―――――時の権力者や富裕層に必要とされながら、過去においても、現在においても
―――――そして願わくば未来においても、容認されるべき者達ではなかった。
―――――その中でも、水薙は闇の中でも、更に暗い闇に息づいている一族であった。
―――――それは生業が因ではない、むしろその血筋と性質に因があるであろう。
―――――古来より、水薙という家は他家の血を混ぜずに存続してきた家だ。
―――――そして、隠密にとっていわば専門外ともいえる直接戦闘に特化した家でもある。
―――――近親婚を繰り返し、血を濃くしていく事によって生来より備わったその才能を
―――――摩耗させる事無く、それに加えてさらに自らの暗殺技術をも研磨していく。
―――――それ故に、水薙は直接戦闘を得手とする隠密を輩出していくのである。
―――――隠密とするには特化した戦闘力の代償として、謀略や工作を不得手とする者も少なくない。
―――――有る意味、隠密としては不適格な血族でもあった。
―――――それでも水薙が闇の中で生き残れたのは、偏に隠密としては特化した戦闘力。
―――――隠密の仕事は謀だけではない、否、謀の中でも最も容赦の無いもの。
―――――即ち、暗殺であった。
―――――暗殺の仕事を完全に完遂する事によって、自らの存在の必要性を誇示する。
―――――それ故に優れた暗殺者を求めている時の権力者や富裕層は、水薙を欲しがった。
水薙雷夏は屋敷の扉の前で佇んでいた。
門壁にいた警備兵と中庭にいた警備兵合わせて40余名、全て殺害し終えてからそれ程時間は経っていない。
腰帯の小太刀の柄を握る、綺麗に切り開かれる扉。
扉が切り開かれると同時に小太刀を鞘に納めて疾走し、そして近辺にいた警備5人を瞬時に殺害する。
―――正面突破、暗殺手段には最も適さないそれを雷夏はやったのだ。
水薙雷夏にとって標的のいる場所に侵入する手段はどうでも良いものであった。
窓から入ろうとも、扉から入ろうとも―――標的を殺す、目的はそれだけなのだから。
だから、水薙雷夏は侵入手段の選択すらしなかった、当然の事である。
―――――ごきりと骨が砕ける。
水薙雷夏の殺人手段は極めて単純であった。
その手に持ったトンファーの一撃で頸椎を砕く、錐揉みに突いて咽喉や心臓を穿つ。
ただそれだけであった。
屋敷に入ってから殺した警備の数は既に10を越えている。
それら全てがトンファーで撲殺したものだ、腰の小太刀を抜いたのは扉を切り開いた時のみだ。
水薙雷夏は物心ついたときからこの無骨な武器を好んで使っていた。
この武器を選んだのに深い意味はない。只、自分にとって使い良いという事だけであった。
「・・・つまらん」
初めて言葉を口にした言葉は愚痴めいたものであった。
屋敷内の警備は既に殲滅し、後は標的だけという時に初めてそれを口にした。
水薙雷夏は暗殺の仕事をしている時に言葉を口にする事はない。
彼に言わせれば、言葉を話す時間があるくらいなら障害を排除する方が能率がいいからだ。
水薙雷夏は殺人狂という訳ではない、殺人という行為になんら喜びを感じる事はないからだ。
只、彼に有るのは如何に善く殺せるか、如何に身に着けた暗殺技術を善く振るえるかという事だけだ。
それ故に、彼にとって障害の数は多ければ多いほど良い。
この点だけは、他の暗殺者と水薙雷夏の決定的な隔たりである。
まめ一つない手、身に纏った豪華な衣服は贅の限りを尽くした生活を物語る。
床にはいつくばって、部屋の隅で震えている醜く太った中年の男。
それが今回の仕事の標的だった。
仕事の依頼人は標的に無理矢理多額の借金をさせられ、その抵当に土地や娘をも奪われた村民達。
標的は下級貴族であり、依頼人は彼の領民であった。
当然、依頼料は権力者や富裕層の依頼と比較するまでもなく微々たるもの。
水薙雷夏にとって報酬の多寡はどうでもよかった・・・だが、それでも依頼を受けたのは如何なる理由か・・・?
それでも、契約がなされればそれを遂行する。
只、それだけの事・・・・・・。
「・・・ひ、ひぃ・・・たっ、たすけ・・・っ!」
標的は最期まで命乞いの声をあげ終える事ができなかった。
雷夏のトンファーが脳天を叩き、頭蓋が割れたからだ。
気がつけば、標的の頚骨も折れている・・・誰がやったかは言うまでもない。
即死だった・・・これ以上ないともいえるくらいの即死だった。
殺害者の口から言葉が零れた。
「・・・・・・依頼完遂」
―――――夜空には真円の月、森には梟の鳴き声が静かに響く。
水薙雷夏は仕事を終えてから悠々とそれでいて迅速に屋敷から離れる。
「雷夏」
その彼に声をかけた一人の老人。
「親父殿」
老人の名は水薙刀迦―――水薙家の今上の当主にして、水薙雷夏の実父である。
水薙刀迦が仕事から帰る途中に雷夏の元へくる事は滅多にない。
あるとすれば・・・それこそ―――
「次の依頼か、親父殿?」
「うむ、今度は大きな依頼じゃ・・・さっきお前がこなしたばかり依頼とは異なっての」
「親父殿、依頼の大小はどうでも良い事だろう・・・それよりも依頼人は?」
「―――ラグライナ帝国皇帝セルレディカ・・・依頼内容は帝都で話すとの事じゃ」
―――――夜空には真円の月、森には梟の鳴き声が静かに響く。
―――――それは、歴史が動き出す前の、夜の中でおきた一つの出来事。
―――――ただ、それだけの話―――
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