キロール回顧録
キロール・シャルンホスト/ソフィア
今でも時折思い出すことがある。
初めて殺した奴の顔、初陣、祖父の死に顔、そして2年前に帝都で出会った悪魔。
既に忘れてしまったことがある。
戦場で殺した敵兵の顔、初陣以降の戦場、路傍に転がる兵士の死。
忘れなければと考える事がある。
敵を斬った瞬間に覗き見てしまった誰かへの想い、戦場でのみ生を実感する自分。
そして2年前に帝都で出会った・・・
どの記憶も私が墓場にまで持って行く為だけの物。
誰に語ることもない記憶・・・・・・。
だが・・・時折、思い出してしまう。
特に、こんな夜は・・・・・。
(何だって帝国貴族の屋敷というのは、無意味に広い・・・・・)
1251年初夏・・・帝都ラグライナ。
キロール・シャルンホストは内心の不機嫌を押し殺したような無表情を保ったまま、
一事の戦略的撤退の場所に選んだ誰とも知らぬ帝国貴族の敷地内を注意深く歩いていた。
10年前の1241年、バックス共和国議長失脚の遠因となった帝国軍の侵攻、そ
して1年前の帝国・クレアの国境紛争以来、彼が忠誠を誓う共和国と帝国は事実上の
戦争状態に突入して久しい。
帝都にやって来たのはある私的な理由と、ちょっとした視察であった。
視察と言っても敵国の内情を知る為と言うわけではない。
しかも、ついでのことだ・・・・
本来の目的は16年前に、まだ平和だったあの頃に死んだ祖父の墓を参りに来たのだ。
共和国軍に入隊することが決まった矢先の祖父の死は、今でも心に残っている。
キロールにとっては、弟以外では祖父だけが味方であり続けてくれる存在だった。
あの時もそうだった。
シャルンホスト家は商人の家柄。
その長男が事もあろうに軍に、しかも、一兵卒で入ろうとしていると知った親族達の猛反対。
17歳時のキロールには抗うことも難しいほどの勢いだったのだ。
だが、祖父の支援で無事に軍に入隊を果たしたのだった。
喜び勇んで祖父の下に駆けつけたキロールが見た物は急の病で倒れた祖父の姿だった・・・・
あの頃と違い各国の緊張感が高まり容易に帝都にもこれなくなった。
ならばと、本格的な戦争に突入する前に敬愛した祖父の墓を参っておきたかったのだ。
共和国に移り住んだ後でも、矢張り故郷で眠りたかったのか祖父は埋葬は帝国でと遺言を残していた。
今に思えば、祖父は帝国が好きだったのだろう・・・・
キロールはそんな事をつらつらと考えて墓参りを終えた。
祖父の墓にシャンパンを掛けて花を供えて終わり。
その間キロールは一言も・・・そう祈りの言葉も呟かなかった。
死者にかける言葉は無い、言葉は常に生在る者にのみ告げるものだから。
墓参りが終わりキロールは町を散策し、一軒のカフェに入った。
所がそこで思わぬアクシデントに遭ってしまうのは、日ごろの行いの悪さか・・・
カフェで静かにグラスを傾けていたキロールに酔った若い帝国軍兵士が絡んできたのがそもそもの発端であった。
軽くたしなめたところ、逆上した兵士が仲間を呼んできた為、キロールは戦略的撤退を決め込んだ。
無論、彼の実力からすれば然程苦労せずにその性根を叩きなおす事は容易かったが、
「共和国軍のキロール」が帝国で騒ぎを起こせば国際問題となる。
「私が元で1年前の国境紛争の二の舞はご免だ」
あの時の国境紛争が本当に偶発的事故だったのか、それとも開戦のきっかけを探し
ていた帝国によって仕組まれた「事件」だったのかは、共和国内部でも意見は分かれている。
そんなことを思い冷笑を浮かべたキロールは、いつの間には広い庭のようなトコロに出ていた。
大貴族の敷地に入ってしまえば、帝国の下っ端兵士如きは追っては来れない、
という読みは見事に的中していたが「外に出る」のにこれほど難儀するとは・・・・・・。
「・・・・・・・・・だれ?」
「!」
柔らかな誰何の声は、予想もしなかった意外なトコロからあがった。
キロールの背後からである。
「・・・・・・・・・・・」
その言葉に敵意が無いこと、そしてココで騒ぎを起こせば更にややこしい事になる
と瞬時に判断したキロールは、ゆっくりと振り向いた。
「・・・・・・・ここは観光者が来るには何もないトコロですけど、道にでも迷われましたか?」
「・・・・・」
キロールの目に映ったのは、いかにも奇妙な、それでいて様式美のように納得の出来る情景であった。
そこにいたのは三人の男女。軽く腕を組んでこちらを眺めている女性・・・・・・
恐らく誰何の声は彼女であったのだろう。膝上までの柔らかな布地のタイトスカートに、白
のロングブーツ、ベージュ色のタートルネックのセーター・・・・・・・文字どおり白ずくめと
言って良い格好が、着こなしの良さとスタイルを際立たせている。白で統一された格好に
も関わらず、華美な雰囲気がせず、むしろ落ち着いた様子を醸し出すのは、その快
活そうなで柔らかな容姿の成せる業であろう。耳を出した栗色のサラサラとした
ショートヘアと、黒く深い知的な瞳が興味深そうに、しかし充分に注意深くキロールを見つめている。
「失礼。どうも迷ってしまったようで・・・・・・。読書の邪魔をするつもりはなかったんだが、
よろしければ出口まで御案内頂けないか?」
瞬時に相手が事を荒立てるつもりがなさそうなコトを悟ったキロールは落ち着いて応えた。
その言葉に、クスリと、彼女の目が笑う。
「・・・・・・・・・・」
しかし、キロールは警戒を解いたワケではなかった。その傍らに立つ一人の男・・・・・・。
身に寸鉄も帯びず、流浪の民のような黒くゆったりとした服に、
洗いざらしのような長い黒髪が無造作に流れるその男。
彼は間違いなく主の命令さえあればキロールを「殺し」にかかるであろうコトが一目で分かる。
・・・・・・もっともキロールも遅れを取るつもりは毛頭ないが。
やりあえば手加減抜きの「殺し合い」になるコトは間違いない・・・・・・。
(しなやかな筋肉のつき方をしている・・・・・・。獰猛な獣みたいだな・・・・・・。
物騒な番犬、といったところか・・・)
「・・・・・・ナハト」
恐らく二人の主であろう。最もキロールの興味をひいた中央の女性が静かに声をかけると、
不思議なコトにナハトと呼ばれた若者の身体からあっという間に殺気が消えた。
「・・・・・・・・・・」
その様子に、キロールの目が興味深く細まる。
中央に座り本を読んでいた彼女は、充分に興味を惹くに足る女性であった。
やはり黒ずくめのドレスに、つば広の帽子・・・・・・。しかもその帽子には黒い細やかな
レースがかけられ女性の顔を他人の視線から完全に隠しているのだ。この夏の日差しの中、
全く素肌を表に出さないその姿は異様ですらあったが、しかし充分に彼女らしかったのかもしれない。
黒いドレスの胸元に刺繍された紋章は「花菖蒲」・・・・・・。
「リリエ。お茶にしましょう。お客様をお居間にお通しして・・・・・・。ナハト、
門に来ている方たちには丁重にお引取り下さるよう、お伝えください」
遠くから、どうやらキロールがこの屋敷に入ったのを見た帝国軍の若者らしき声が聞こえてくる。
仲間らしき声もするが、いきなり入ってくる事はなさそうだ。
その意味でキロールがこの屋敷を戦略的撤退の場所に選んだのはまさに慧眼であったといえよう。
「・・・・・・」
「では、いきましょう」
無言で一礼したナハトは、音も無く踵を返し、リリエと呼ばれた女性がキロールに笑いかけた。
(・・・あのゆったりとした服、衣擦れの音すらしないな・・・・まさに夜行性の獣だな・・・)
「御興味がおありですか?でも、彼も貴方に興味を持ったみたいですね」
歩き去るナハトの姿を目で追っていたキロールに、リリエがクスクスと微笑いながら声をかけた。
決して声を荒げるコトがないであろう、涼やかな声であったが、その言葉は的確に真実をついている。
「・・・・・・慧眼なことだ」
その柔らかな物腰や態度に目を奪われると、痛い思いをしそうだ・・・・・・。
「ふふ」
その内心を読み取ったのか、リリエがまた柔らかく微笑う。耳に心地よい声であった。
「では、どうぞ・・・・・・」
主を先導するかのようにリリエが屋敷に向かって歩き出す。
「・・・・・・・・・(まあ、いい・・・)・・・・・」
かすかに溜息をつきながら、キロールは二人の後についていった。
「・・・・・・・あいにく肌も目も弱く、陽の下は苦手なので・・・・・・」
キロールが通されたのは、女性らしく華やかではあったが華美には走らず、洗練さ
れた調度に囲まれた居間であった。唯一つの違和感は、窓にはレースのカーテンが幾
重にも張られ、室内が少し暗い事であっただろうか。
キロールの戸惑いを見て取ったように、帽子の女性が声をかけた。
想像していたよりも若く、そして綺麗な声であった。
「・・・・・・・・・・(ふむ)」
彼女は優美な所作で椅子に腰掛け、キロールの目をまっすぐに見つめた。
飾りを取った彼女の姿を見た瞬間、キロールの胸の奥にある種の感嘆が沸き起こる。
「・・・・・・・もう少し、灯りを絞りますか?」
「大丈夫です。お手元が暗くなると御不自由でしょうから・・・・・・」
何かを心配するように声をかけたリリエに、彼女はにこりと笑った。
確かに、一度も陽にあたったコトがないようなその抜けるように白い肌と薄紅色の
瞳は、到底直射日光に耐えられるモノではなかったであろう。しかし、キロールに感
嘆の思いを抱かせたのは、その一歩間違えれば「人形」のように無機的で病的な美し
さを否定する瞳の光と、彼女から発せられるある種の「雰囲気」であった。
「くれぐれも、御内密に」
悪戯っぽく笑うと、思いがけなくその表情が幼く見える。もしかしたら20歳も超
えていないのかもしれない。プラチナに輝く長い髪と白い肌・・・・・・。レースを
取り、露になった瑞々しく端正な容貌にアクセントをつけるのが、薄紅色の瞳と唇だ。恐ら
く身体が弱いというのは事実であろう。その姿は触れただけで解けそうな淡雪のようだ・・・・・・。
「突然押しかけて申し訳ない」
「・・・・・・・運命の中に偶然はない。人はある運命に出会う以前に、自分がそれ
を作っているのだ・・・・・・でしたっけ?」
手馴れた手つきで茶を入れて回るリリエに微笑みかけながら、彼女はキロールを煙るような眼差しで見た。
・・・・・・そうすると、先ほどの幼さが消え、成熟した、
物事を透徹した女性のそれになる事にキロールは気付いていた。
果たして、彼女の真の姿は何れであったのだろうか・・・・・・。
「先ほどの彼の分は?」
セットが三人分しかないのを見て取ったキロールは、くつろいだ様子で声をかけた。
「ナハトは、熱くて苦いモノは嫌いだ、と絶対に付き合ってくれないんです」
「猫舌なのでしょう」
キロールの言葉に、彼女とリリエがくすくすと笑う。
主と、それに仕える立場なのであろうが、三人は同じテーブルにつき、同じ食器で紅茶を飲んでいた。
(・・・ナハト、か。猫、というよりは狼だな・・・・・・。なるほど、狼も猫舌、か・・・。)
彼女たち、そしてこの部屋には異国の客人をも何処か落ち着かせ、満たされた気分にする空気があった。
共和国の自分の私室にいるようなリラックスした気分になっている自分にやや驚きを感じながら、
キロールはティーカップを手に取る。
・・・・・・どこかの、貴族の娘、と言ったトコロか。
リリエは家庭教師か何か・・・・か。
カップを手に持ち香気を楽しむようにしながらキロールは2人をさりげなく観察する。
リリエの方が何処か大人びて、世の中の善悪、理不尽をも包み込む包容力があるように思える。
だが、主の方は、今ひとつどのような人物なのか・・・・。
性格や人柄ではない・・・・・・「どんな立場」の人間なのか、だ・・・。
もっとも彼にそれを詮索するつもりは毛頭なかった。
キロールにとってそんな事は推測するような代物ではなかった。
穏やかな時間、和やかな空気。
どれも久しく体験することのない物だった。
(・・・・嫌ではないな・・・こう言う物も)
キロールは一人思う・・・
だが、これも、一時のことに過ぎないことを誰よりもキロール自身が分かっていた。
(・・・ここは帝国、あまり長居すべきではないか・・・)
そう考え、暇乞いの言葉を考え出したキロールだが、その脳裏に電光の如く閃く物があった。
「花菖蒲」の紋章・・・・
微かに伝え聞く悪魔の話。
(・・・・・まさかな・・・・)
「どうかなされました?」
一瞬のキロールの表情の変化(とは言っても微々たる物ではあるのだが)
を見取り部屋の主がそう声を掛ける。
「いえ・・・此方に迷い込むところを兵に見られたのは失策でした・・・
御当家に迷惑をかけてしまった」
考えを表に出さずキロールはそう告げた。
「お気になさる事柄でもありません」
穏やかに告げられた言葉。
(・・・・大物の家に紛れ込んだようだな・・・)
その言葉は先程からちらつくある考えを補強している。
「ただ、何故に兵から逃れておいでですか?」
柔らかな声で鋭い質問をリリエが問い掛けてきた。
その疑問は当然のことだろう。
自国の兵から逃れようとしている眼前の客人は、今更ながら怪しい者に見えることだろう。
少なくとも、キロールはそう思うのは間違いなかった。
「墓参りの後に、カフェで一杯飲んでいたら酔った兵士に絡まれてな・・・」
一部の情報は隠して、キロールは素直に答える。
その言葉に主が伏目がちに
「それは、大変ご迷惑をおかけしてしまいましたね・・・」
と告げるのを聞いてキロールは幾分慌てた。
予想外の言葉であったから。
「いや・・・貴方が謝る物でもなかろう・・・」
キロールはカップをテーブルに置き、首を左右に振る。
「それに・・・この情勢下に帝都を訪れた自分も悪い」
苦笑いを浮かべてキロールは二人の女性を見やり
「私は、ガルデス共和国第8歩兵部隊部隊長キロール・シャルンホスト・・・
下っ端とは言え、共和国の軍人が訪れて良い物でもなかろう・・・・」
キロールの放った言葉は、今までの穏やかさを打ち砕くだけの意味を秘めていた。
だが・・・・
「正直な方ですね。お噂はかねがね・・・・・・。当家にお招き出来た事、公に出来ぬのは
残念ですけれども光栄です」
ふわりと。
自然な笑みが主の顔にこぼれた。
この反応もキロールの予想に反していた。
(・・・どうも、自分は雅とか粋と言った物とは無縁らしい・・・)
と、思わず苦笑したキロールだが・・・・
トントン。
控えめではあったが、明確な意思を持ったノックが扉を叩いた時、主の顔に浮かぶ。
穏やかな笑みがその笑顔がかすかに冷たくなったように思えたのはキロールの気のせいだろうか。
「どうぞ」
リリエが立ち上がる。やはり、かすかにその表情にも昏い影があった。
気がかりそうに主とキロールを見比べるが、主が何の反応も見せないのを確認すると、扉を開ける。
「お時間でございます」
そこに立っていたのは、白衣の老人・・・・・・。
(・・・・・・医者・・・・か)
「そう、でしたね・・・・・・」
「これは大変失礼した。お忙しいところ申し訳ない。私はそろそろ・・・・・・」
キロールなどこの場にいないように、老医師が数種類のクスリ瓶らしきものを鞄か
ら取り出し、主の袖をまくりあげはじめたのを見て、共和国の勇将は声をかけかけたが・・・・。
「・・・・・・・・・・・」
それは、一体どんな眼差しであっただろうか。
彼を見やる彼女の淡く脆い眼差しに、キロールはその言葉を飲み込んだ。
毅然・・・・・・懇願・・・・・・悲哀・・・・・・憐憫・・・・・・鉄の意志・
・・・・・そして、かすかに濡れたように揺れる瞳・・・・・・。
医師がクスリ瓶を開けた瞬間、奇妙な香りが部屋にたちのぼった。
(これは・・・・・・)
背後に立つリリエの表情を見たい、と思ったが、鋼のような意志で踏みとどまる。
(何故、こんなモノを・・・・・・)
その精悍な眼差しがかすかに細まるが、キロールは何も言わなかった。
「どうぞ・・・・・・」
数種類、10錠ほどのクスリを医師は主に差し出すと、文句の一つも言わずにそれを
服用していく彼女の姿を、何の感慨も抱かぬ眼差しで、じっと見つめていた。
それは・・・・・・「観察」であったのだろうか・・・・・・。
機械的に彼女がそれを全て服用するのを見届けると
「では、失礼いたします」
慇懃に老医師は一礼すると、そのまま部屋を出て行く。
まるで、キロールも、リリエもそこにいないかのように・・・・・・。
パタン
扉が閉められる乾いた音が、妙に響いた。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・大丈夫、ですか?」
無言の主に、リリエは心配そうに、しかし場違いとも思える労わりの言葉をかける。
「・・・・・・・・・・ええ」
せめて「身体が弱いので」とか「お見苦しいトコロを」と、
言い訳してもらった方が百倍も気が楽だったかもしれない。
だが彼女は、何も言わずに黙ってキロールを見つめていた。クスリの効果だろうか
・・・・・・白磁のようであった頬にはかすかに紅味がさし、瞳の色も気のせいか
やや人並みに近い明確な色彩を浮かべているようには見える。
しかし・・・・・・。
「あとの事は、御心配なく。私も帝国の貴族ではありますけれども、無用の事で争う
べきではないと考えています」
どこか苦しげな、誰かに助けを求めるような瞳とは裏腹に、その言葉はしっかりとしていた。
「馬車をお出し致しますので、どうぞ御利用なさって下さい」
まるで、誰かにココロを取られる事に、必死に抵抗しているような・・・・・・。
自分の背後に立つリリエの気配が変わったコトにキロールは気付いていた。
「キロールさま、どうか・・・・・・」
はじめて、リリエがキロールを名前を呼んだ。
まるで、主をキロールの目から隠したいと願っているような・・・・・・
それは痛々しいほどの思い・・・・・・。
「これは、痛み入る。喜んで御厚意に甘えさせて頂こう」
キロールは、普段どおりに感情を表に出さずに、立ち上がった。
それが、せめてもの彼女への礼・・・・・・。
異邦人の自分に出来る・・・そして、敵になるであろう彼女に出来る唯一の礼。
「お会いできて、本当に嬉しかったです」
「・・・・・・達者でな」
最後まで、彼女は彼女のまま、にこやかな笑みを浮かべキロールを見送っていた・・・・。
馬車の手配を済ませ、部屋に戻ってきたリリエを迎えたのは仮面の主であった。
「キロール様を追って、屋敷に来た者たちは把握していますね?」
「・・・・・・ナハトより知らせが来ております。所属、姓名、出身、親類縁者全て・・・・・・。
皆、若い兵士たちです。恐らく酔いに任せてのコトかと・・・・・・」
「・・・・・・どんな関係があろうと・・・・・・全て処理しておきなさい。
理由は・・・・・・許可なくマドリガーレの屋敷に踏み込もうとした事でよいかしら」
ささやかな助命嘆願にも、仮面の主は気にも止めた様子さえなく、涼しげないつも
の声でリリエに尋ね返した。いや、それは、ただの確認でしかなかったのだが
・・・・・・。
「それで、よろしいかと・・・・・・。細かなトコロは、お任せください」
仮面を被ったまま窓の外を見やる主の姿を、リリエは痛ましい思いで見つめていた。
「そうね。お任せします・・・・・・」
「・・・・・・貴女という方は・・・・・・」
思わずリリエは、泣き出したいような思いにとらわれたが、辛うじてその場に踏み
とどまる。そんなコトを、彼女が望んでいなことはよく分かっていたのだ。・・・・
・・おそらく、あのキロールという兵士もそれをよく理解っていたに違いない。
だからこそ。
主は・・・・・・・。
その、とても小さな拳が堅く握りしめられ、かすかに震えているコトにリリエは気付いていた。
・・・・・・しかし。
帝国屈指、帝立院参謀過程発祥以来とも謳われた才媛にも、そんな主にかける言葉は
どうしても分からず、一礼するとその部屋を去るしかなかったのである。
国境付近までと告げてキロールは馬車の中で物思いに耽る。
帝国の馬車に乗る共和国軍人・・・その奇異さも今は然程気にならない。
キロールは流れる景色を見ながらそう思い苦笑した。
御者台に立つのはキロールが獣のようなと内心称えていた、あのナハトである。
キロールの存在を知るものを一人でも少なくしようと言う主の配慮であろう。
彼と戦場で出会えば強敵となることは必須だ。
・・・それは、彼の主にも言えることでは在るが。
主・・そう、プラチナの悪魔とも呼ばれるソフィア・マドリガーレ・・・
(・・・・彼女は・・・何故、あんな薬を・・・・)
キロールはあの薬の香気に覚えがあった。
軍医である友人に、以前教えてもらった薬・・・
あの香りは紛れも無く・・・・・
突如、キロールの取り留めの無い思考を断ち切るように馬車が止まる。
「・・・着いたぞ」
「・・・そうか」
馬車から降りキロールは御者台に居るナハトに声を掛ける。
「貴公とは何れ戦場で会う事になるだろう・・・それまで、壮健で居ることだ」
「・・・・それは此方の台詞・・・・」
剣呑な空気が一瞬辺りを覆う。
「・・・今すぐにもと言いたいが・・・・今日は気分が乗らん・・・
それに礼を欠くことになる、次を待て・・・」
キロールはそう告げると共和国へ続く街道へと踵を返した。
馬車は暫く止まっていたようだが、帝国に向かって走っていった。
共和国に帰ったキロールの耳に、ふと兵士たちの噂話が入った。
・・・・・・酒場での他愛の無い噂話だ。
「・・・・・・帝国ってのはコワいよな。何でも、兵士たちが怪しい人物を追いかけて、
無断である貴族の屋敷に入ろうとしたらしいんだけどよ、それだけで死罪、だってさ」
「何でだよ? 連中にとっては任務に忠実だったんだろ?」
「まぁ、相手が悪かったのかもしれないな。その貴族の屋敷が、あの、プラチナの悪魔が
棲むマドリガーレ侯の屋敷だったんだからな」
「うわぁ。根性あるよな、そいつ」
「たとえ正当な任務であれ、下賎な輩に貴族の屋敷を穢された事に腹を立てたって
ことだろうな。やれやれ・・・・・・」
「かわいそうに。上官も部下を庇って、結構エラい人間も仲裁に入ろうとしたらしいが、
問答無用で・・・・・・全員、チョン、だってよ」
噂の出所である古参の兵士が、指で自分の首をかき切る動作をしてみせる。
「怖ぇなぁ。本当に悪魔みたいだな。この前も首都にそいつらの手先が入り込んだらしいぜ」
「オレたち、共和国軍に入ってよかったよ・・・・・・」
・・・・・・ちがう・・・・・・。
キロールは苦々しい顔をしたまま、さらに苦いエールを喉に流し込んだ。
彼女は、自分の帝都での騒ぎを、敢えてなかった事にしたのだ。
あの場の兵士たちが知らなくても、帝国軍でキロールの名や顔を知る者は大勢いる。
似顔絵でも描かれたら「共和国軍のキロール」が帝都に忍び込み、
あまつさえマドリガーレ家に侵入した事が公になってしまうに違いない。
そうなれば・・・・・・。
それは、格好の帝国と共和国開戦の引き金となりうる。
しかも、全く戦争とは関係のない理由で・・・・・・。
彼女はそれを恐れ、あの兵士たちや、とばっちりを食った上官には気の毒だが事件
を知る者の口を封じ、つかの間の平穏を購ったのだ。
・・・・・・悪魔と蔑まされ、己の手を汚し・・・・・・。
あの儚い容姿や眼差し、柔らかな表情が、キロールの脳裏に鮮やかに蘇る。
・・・・・・彼女は、一体どんな顔をして、どんな眼差しで兵士たちに死を命じたのだろう。
ふと手を伸ばせば簡単に手折れそうな容姿とは裏腹に、犯しがたいココロを秘めた
あの女性は、そうやって何度己の心から血を流し続けてきたのだろう・・・・・・。
「へっ。こうなったら、帝都侵攻の暁には、あの仮面をひっぺがして、誰も拝んだコ
トがないという素顔を白日に晒し出してやるさ。帝国軍下っ端の仇を取ってやろうぜ」
「どうせ、二目と見れない顔してるんだぜ。あんな仮面をずっと被っているなんてさ!」
「あはははは。そりゃあそうだな」
キロールは、エールのジョッキを持ったまま立ち上がり笑う兵士に声をかけた。
「おい・・・」
「あ、なんですか、部隊長殿」
ドスッ!
次の瞬間、キロールの槍のように鋭い蹴りが返事をした兵士の体に突き刺さる。
同時に手に持つジョッキを隣の兵士の顔に叩きつけた。
「キ、キ、キロール部隊長・・・・・・・」
「な、なにを??」
蹴られた兵士は、蹴られた個所を抑えてうずくまり
ジョッキを叩き付けられた兵士は顔面を朱に染めながら椅子ごとひっくり返ったまま動かない。
同じく下衆な話題に興じていた仲間たちは、冷たい怒りを秘め、かえって静かな眼差しで
自分たちを見下ろすキロールの姿に息をのみ、顔面は蒼白に転じていた。
「貴様等、それでも共和国軍の軍人か・・・・・・?」
あっという間に静寂に支配された酒場の空気を、キロールの言葉が鋭く貫く。
「我等は帝国軍との戦いが全て。そのような下衆な願望を抱いて貴様等が戦場に
立つのであれば、戦に出すまでもなく、この場で死んでもらった方が・・・軍のためだ」
「あ・・・・・・いや・・・・・・」
「わ、我々は決してそのような・・・・・・」
もごもごと決まり悪そうに言い訳する兵士たちを、キロールは一睨みで黙らせる。
「今度おなじような話題をしてみろ。この程度ですむと思うな」
そう告げて、兵士達の背後を見やり
「バロス・・・止めておけ・・・これ以上は査問ものだ」
と告げた。
「・・・そうでしたな・・・こいつらも名折れではあっても共和国の軍人でしたな」
兵師達の背後に何時の間にか立ち抜刀しようとする老兵がそう応えた。
「・・・次は止めん、否、バロスのみが抜くと思うな・・・・」
「は、はい」
「わ、わかりました!!」
死人の顔色で敬礼する兵士たちをキロールは不機嫌そうに一瞥すると、くるりと踵を返し、
軍靴の音も高くその酒場に背を向けその場を去る・・その後を老兵も続いた。
「不甲斐無い連中ですな・・・ですが、貴方の怒りはそれだけですかな、部隊長?」
バロスと呼ばれた老兵の言葉にキロールは軽く頭を振り
「・・・・知らんよ」
老兵は軽く笑い
「なるほど・・・」
と頷いた。
夜の街を歩く共和国軍人2人を月は静かに見下ろしていた・・・・
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