遺言
ソフィア
「久しいな」
ここは帝都にある月の塔。
窓の外からは明るい日差しの中、そびえ立つ陽の塔が見える。
自ら望み、帝都まで護送されたキロールは、この月の塔に留め置かれていた。寸鉄を帯びる事は許されなかったが、部屋の調度といい、与えられた清潔な服といい、待遇は申し分ない。
・・・身柄をマドリガーレ家に置かれるとは正直予想していなかった。
「・・・・・・・・・・」
音もたてずに樫の扉が開き、二人の女性が部屋に入ってきた。一人はコーヒーカップを銀の盆に捧げるリリエ。そして、もう一人は塔の主であった。
「・・・・・・・・・・失礼します」
やや硬い表情でリリエは挨拶すると、二人の前にカップを並べ、熱く香り高いコーヒーを注いだ。その間に、さやさやと衣ずれの音も軽く、仮面の女性がソファに腰を降ろす。
「お砂糖かミルクは如何でしょう?」
相変わらず無言のソフィアをやや気にしながらリリエは尋ねるが、キロールは軽く手を横に振った。
「ミルクだけ頂こう」
「・・・そうですか・・・。では、私はこれで・・・」
硬い表情のまま部屋の隅に移動するリリエを、やや意外そうな顔で見送ったキロールは、視線を目の前に座る女性に戻した。
「・・・・・・・・・・」
ノースリーブのクリーム色のあっさりとしたドレスに、絹のサテンを肩からふわりとかけた、どちらかというと簡素な装いの彼女の姿は、かつて会った時よりも一層に華奢に見えた。剥き出しの肩にかかるプラチナの髪だけがサラサラと風に吹かれている・・・。
「・・・・・・・・・・」
その白い手が白磁のカップに伸ばされ、ゆっくりと熱いコーヒーに朱の唇が口付けられた。白銀の仮面は、何も語らない。
「いただこう」
キロールも、リラックスした様子でカップを手に取る。・・・あの時と同じカップである事に共和国の勇将は果たして気付いていたのだろうか。
「・・・・・・・・・・」
しばらく、二人とも何も語ろうとはせずに、ゆっくりと時だけが過ぎる。
ふと、キロールは、彼女がこの部屋に入ってきてから一言も口をきいていない事に気付いた。
「・・・レヴァイアでは、敵将4人を味方に引き込んだと聞いたが、俺には何も言わんのか??」
「無駄な労力をかけるほどの時間は残されておりませんので・・・」
我ながら莫迦げた質問だと思って口を開いてみたが、案の定、彼女の応えは実にあっさりとしたものだった。
「・・・やってみなければ分らないかもしれないぞ?」
「そちらの窓から身を投げれば、如何なる者とて死ねるでしょう。世の中には、やってみなくても分る事は幾らでもあります」
左手にソーサー、右手にカップという優雅な姿はそのままに、ソフィアの言葉はあくまでもつれない。もっとも、キロールも説得されるつもりも、彼女がそんな莫迦げた事をするとも思っていなかったのだが・・・。
「そんなに辛いのならやってみたらどうだ? 後を追ってやらんでもないぞ?」
「・・・・・・・・」
「キロールさま」
主が何か口を開くよりも早く、リリエが言葉を挟んだ。
「そのような事を仰らないで下さい。もしもキロールさまがそう仰られたら、今、その方はすぐにでも身を投げかねないのです」
「・・・もしかして、機嫌が悪いのか??」
悪魔と呼ばれる女性に、面と向かってこのような言葉を吐いたのは、恐らく彼が最初で最後である。
「ええ。どおいう顔でキロールさまにお会いしたら良いのか分らないほど」
冷たい言葉にやれやれ、とキロールは肩をすくめた。
「生憎、そんな仮面の奥の表情が伺えるほど私は器用ではないのでな」
その鋭い眼差しは、その奥の表情が翳っていることに気付いていたが、敢えて紛らわせるかのように言葉をかける。
「・・・・・・・・・・」
一瞬、哀しみとも、恨みとも、泣き出すかのような表情が、仮面から唯一伺える淡い眼差しを揺らした。そういえば、あの時の彼女はそんなモノは被っていなかった・・・。
カタン
乾いた音と共に、プラチナの仮面がテーブルに置かれた。
「・・・・・・相変わらず、だな。いや・・・少し、綺麗になったか・・・」
言葉が自然とこぼれ落ちる。
くすり、と目の前の顔がほころんだ。泣き出す寸前のような表情で。
あのとき、帝都で出会った悪魔は記憶の中に常にあったが、目の前の彼女は、はるかに鮮明で、儚く、そして・・・。
「そう仰って頂けるのはキロールさまだけです。帝都や各地での私の評判は散々ですから」
「日頃の行いと、そんなモノを被っているからだな。もっとも誰がそれを被せ、誰が何を望んでいるのかは自分にも分らんが・・・」
じろり、とリリエに鋭すぎる視線が投げられるが、ショートヘアの似合う物腰の柔らかな女性は、軽く一礼したのみで、彼と目を合わせようとはしなかった。
「プラチナの悪魔、か」
「・・・お耳に届いているようですね」
そこで、微笑って魅せるところが、彼女の彼女たるトコロであり、彼女の不幸であったのかもしれない。
「政治に興味はなくとも、色々と耳には入ってくるものだ」
「自分が如何に<自分はこうである>と声高に主張したとしても、それはあくまでも<己はこうありたい><こうある筈だ>というフィルターを通した己の虚像にしか過ぎません。人は群れを成して生きるモノ。己の評価、姿とは、常に他者によって確立するもの。・・・それとも、キロールさまは己の周囲に無数の鏡を立て、そこに映る己の目を通した御自分だけを見て悦に入られる愚者でございますか?」
「・・・出来れば、愚者でありたくはない、とは思うがな」
苦い思いは、決してコーヒーにミルクが足りなかったせいだけではなかったかもしれない。
ならば、何故彼女は、仮面を被り、その役目を忠実に演じ続けるとでも言うのか。
最初は、あの時投与されていたクスリ・・・。あのクスリで人格を安定させ、悪魔を演じ、そして仮面は、彼女の脆すぎるココロを守る為のセーフガードかと思っていた。そう、彼女の行為、噂を聞く限りでは・・・。
「己の行為の罪深さに震え、仮面で鎧っているのであれば、またそれも弱き人の性・・・むしろより人間らしいと言えるだろう。仮面も、クスリも、実の娘へのせめてもの侯の親心かと思っていた。しかし・・・」
激情に、握り締めたカップがかすかに揺れた。
「しかし・・・お前は、クスリも、仮面も、何もいらなかった・・・。いや、クスリも仮面もお前を守れなかったというべきか・・・。ソフィア・マドリガーレは常にソフィア・マドリガーレでしかなく、ただ<プラチナの悪魔>を演じていただけだと聞いたら、人は何というか・・・。否。人はソフィアという影すら知らず、プラチナの悪魔しか知らないというのに・・・。何故、お前のような人間が、正気も失わずに悪魔のような所業をやってのける・・。それとも、プラチナの悪魔が、ソフィア・マドリガーレを演じているのか??」
激情のあまり戦場でも冷静であり続ける心が揺れる。
「・・・キロールさまともあろう方が、何故、そのような質問をされるのですか?」
どこか遠くを見通すような澄んだ眼差しが、勇将の激情を冷ます。
そう。キロールには理解っていたはずの、当然の答え・・・。
「共和国を、どうするつもりだ?」
深い溜息と共に尋ねられた問いに、ソフィアは軽く首をかしげた。
「・・・私如きでどうにかなるとは思えません」
「応えろ」
しかし、キロールの問いは鋭かった。
「・・・ラヴェリアさま次第かと」
「お前はどうするつもりなのかを聞いている」
そして、彼女を「お前」呼ばわり出来た人間も数少ない・・・。
「・・・・・・帝国の二人の皇女殿下は各々聡明で人望もあり、お二人とも玉座にお座りになれるだけの御方です。しかし、それ故に、将来帝国は二分されかねません。ならば、私のような人間がする事は唯一つ。帝国の二つの敵を共食いさせる事だとは思われませんか?」
むしろ、どこか哀しげな眼差しは、キロールに懇願していた。
〜その手で、プラチナの悪魔を葬り去って欲しい。これ以上、罪を重ねる前に〜
だから、彼女は、帝都に護送されたキロールを、この塔に留め置いたのだろうか?
「確かにな、だが分裂を回避するように努力すればいいだろう」
「ええ・・・おかげで、この手は血まみれです。でも、誰しも永遠の生を生きるわけではございません。人には人の価値観があるコト・・・。自分の価値観とは異なるが故に他人を滅ぼし続ければ、いつか自分以外の他者を受け入れる度量を失うコトになるでしょう。キロールさまは、誰もいない無人の野で己が王であると胸を張る愚者をどう思われますか? 所詮、他人は己とは違うのです」
「・・・・・・・・・・」
目の前に差し出された白く華奢な手から、ゆっくりとキロールは目を背けた。キロールも武将である。その手が血に染まっている情景など想像しなかった。ただ、その手がかすかに哀しみに震えていただけだ。
「・・・なるほど。塔から身を投げたくなるわけだ」
既に、帝国軍は共和国の首都に迫っている。セルレディカの無二の懐刀エルを総司令官とした遠征軍・・・。
三代の皇帝に仕えた帝国軍の重鎮モリス、隻腕の猛将ルーデル、料理人を自称するアーネスト、禍々しき目をしたシズマ、白美隊を率いる鋼鉄参謀、レヴァイアの名将ファミリア、そしてその下で智謀を謳われたイリス、・・・何度も自身と激闘を重ねた若き俊英ユーディス・・・。
「カルスケートにはルーデルの許婚の白峰渚と、第三騎士団のネルとアレクシス、死神バーネットが待機していたな。・・・そうか、お前も、行くか・・・その手を血で濡らしに」
「行け、といわれますか??」
「帝国軍の疲労も遠征で濃いだろう。そこに援軍を投入するのは、当然の用兵だ。無論、誰を投入するか、というのも重要だが・・・」
キロールは、空になったカップを静かにテーブルに戻した。
「悪魔としての己を選んだのであれば、悪魔としての責務を果たせ。それが、その手にかけてきた者への、せめてもの償いであろう? 喜劇役者が悲劇を演じても、観客の失笑をかうだけだ、喜劇は喜劇のまま幕を下ろせ」
正面から、ソフィア・マドリガーレの顔を見る。
「・・・望むと望まざると、その手についた朱は落ちないのだ」
「・・・・・・・・・・だから、貴方はここに?」
「敵味方あわせて2万もの命を奪ったのだ。償いはしなくてはなるまい?」
その眼差しから、つい目をそらしてキロールは苦笑した。
「では、私は・・・??」
「死ぬのなら、役目を果たしてから死ぬのだな。私の役目は終わった。お前は、まだやるべきコトがあるはずだ」
もしも。
もしもキロールが少しでも暗愚であれば、彼女に死を勧め、その魂を安らげるコトも出来たかもしれない。しかし、そうするにはキロールの魂は、武人でありすぎたのだ。
「・・・はい・・・」
小さく。
初めてその目元が微笑った。どこまでも哀しそうに。死期を悟った母親が、幼い子供に向けるような透明な微笑み・・・。
「首都に行くのなら、カオス、という男がいる。そいつに一言だけ伝言して欲しい」
「・・・・・・・はい」
そして、キロール将軍から、カオス将軍への伝言・・・。
共和国の勇将は、後事を託す猛将に、彼女を通じて何を伝えようとしたのか・・・。
「できれば、議長閣下にはオレのように死んで償うのではなく、生きて共和国を立て直して欲しいが・・・」
「私の力が及ぶのであれば」
遺言を伝えた後、ふとキロールが漏らした呟きに、ソフィアはかすかに吐息をついた。
「あまり期待しないでくださいね」
「・・・構わん。どうせ、オレはその頃死んでいる。・・・達者でな」
「御自分は先に逝こうとされながら、私には、そのような言葉を・・・・・・」
泣かないと決めていた。
怒らないとも決めていた。
残されたのは、何とか微笑みを浮かべることだけ。
「まぁ、そぉ言うな・・・。感謝する」
「・・・・・・はい」
2人が部屋を出るとキロールは苦笑を浮かべた。
久々に戦場以外で・・・否、戦場以上に心が動いた。
だが、それだけだ。
「死ぬまで、私は私であり続ける・・・それだけだ」
そう呟き再び窓から帝都の町並みを見やる。
「死ね、キロール・シャルンホスト・・・・其れがお前の最後の役目・・・軍人としてのな」
口の端を吊り上げてキロールはそう詠うように呟いた。
その3日後。
彼女は馬車に揺られ、カルスケートから共和国首都に入ろうとする道すがら、キロールの処刑の報を聞いたのであった。
彼女は、誰にも、何も語ろうとはせず、ただ黙ってある書類にサインをしていたと伝えられる・・・。
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