雨 -1-

ヴィネ・ロンド(協力:ユーディス・ロンド)

共和国から取り戻しはしたものの、
意識の無いままのミーシャを、最も信頼出来る者、
ヴィネに送り届けるため、
ユーディスは疲労の極にあったら体に鞭を打ち、
モンレッドからただの一度も休まずに帝都のヴィネの元に駈け込んだ。
驚きを隠せないヴィネにミーシャを託し、
そのまま自分も倒れこんだユーディスだったが、
兵を率いる身である以上はすぐに戦場に舞い戻らなくてはならない――
結局ユーディスはヴィネの勧めで一夜だけは体を休め、
翌朝、すぐに帝都を出立することになった。


「窓、閉めますね」
「うん」
ヴィネは立ち上がり窓に近づくと、
小降りながら昼から続いている雨の音を立ち切るように
外と病室を繋いでいた唯一の存在を無くしてしまう。
二人の耳を叩いていた音が一瞬消え去り、
すぐにさきほどより小さくなってまた聞こえてきた。
「そろそろ眠りませんと」
「うん……」
同じ返事ばかりを返す兄の側に戻ると、
ヴィネはユーディスの手に自分の手を乗せる。
「心配なさらずに……ミーシャの方はわたしが見ておりますから、
 ミーシャが目覚めたらすぐににいさまを起こしにきます。
 にいさまがそうやっていてはミーシャが起きたときに
 にいさまの顔をみてびっくりしますよ」
疲労の色の濃いユーディスの顔をじっとみて、ヴィネは労わるようにいう。
「……うん、ごめんな。そうだよな!
 そうする……ヴィネには苦労かけてすまないけど、ミーシャのことよろしく頼むよ」
「はい、もちろんです」
「ありがとう。ヴィネは強いよ……それに比べて俺は……」
「にいさま」
「ん?」
自分の言葉を遮るように呼ぶヴィネに、
ユーディスは顔を上げて微笑んだ。
「わたしは……強くなんてありませんよ……」
「そうかな? いつも毅然としてて……あ、そういえば
 ヴィネに再会したときはそれで驚いたっけ……」
「そうですか?」
「ああ、大人っぽくなってて……
 別れる前には俺によくまとわりついてた甘えん坊だったのに」
「そうでしたね………変わるように努力しましたからね」
「努力……?」
「別れたことでいつまでもにいさまの側にいられるわけじゃないと気が付きましたから……
 一人でも大丈夫になろうと」
「そうだったのか……」
「はい」
「あ、でも、ヴィネがいたいならずっと側にいていいよ」
「……」
ユーディスの言葉にヴィネは顔を伏せて黙りこんだ。
喜んでくれると思っていったことだったので、
思わぬ反応にユーディスは戸惑いの表情を浮かべる。
「ど、どうしたヴィネ?」
「………けっきょく」
顔を上げたヴィネは真剣な表情でユーディスをみつめる。
「ヴィネ?」
「結局……変われませんでした」
「え、でも……」
「上辺だけ変えて見せたところで……
 結局にいさまが側にいてくれないと駄目ですから……わたしは…」
「ヴィネ……」
少し声を震わせるヴィネをみて、
ユーディスはヴィネとの別れの日のことを思い出す。
あのときもこういう目でユーディスをみつめ、
何度も別れの言葉を吐きながら、ずっとユーディスに抱きついていた。
「……」
ユーディスは黙ってヴィネを引き寄せ抱きしめると、
あの時と同じように優しく背中を撫でる。
「大丈夫だよ……ゆっくり変わっていけばいいから……」
「……変わらないといけませんか?」
「え…?」
「いつかはにいさまと別れないといけませんか?」
「…俺はずっと一緒にいて欲しいよ?」
「にいさまは……いつかわたしより大事な人が出来るんじゃないかって……」
「それは……ヴィネとミーシャより大事な人なんて」
「……わたしは………わたしはにいさまとずっと一緒にいたいです」
「俺もだよ」
「なら……にいさま」
ヴィネはユーディスに身を預けるようにして体重をかける、
ユーディスはそのままベッドに倒れこみ、
その上にヴィネが覆い被さる。
「にいさま…」
「ヴィネ? なに……」
ユーディスがいいおわらないうちに、
ヴィネの唇がユーディスのものと重ねられる。
僅かに差し出されているヴィネの舌先が
ユーディスの唇に遠慮がちに触れ、
そのたびにすぐに離れていく。
「……はぁ」
ヴィネが顔を上げると、
離れたばかりの綺麗な唇から吐息が漏れ
ユーディスの鼻腔をくすぐった。
「にいさま……側に……もっと近くにいてください……
 でないと不安で……わたしは」
熱っぽい瞳に微かに涙を浮かべ、ヴィネはユーディスと顔を突き合わせる。
ヴィネが喋るたびに二人の息が混ざり合い、
また二人の中に吸い込まれてゆく。
「あ……」
ユーディスはなにもいえずに、ただヴィネを見返した。
頭の中を、ヴィネと過ごした日々が回り、
その合間合間に幾度も、先ほど感じた柔らかな唇の感触が浮んでくる。
笑顔の、少し悲しそうな、みるだけで幸福にしてくれる信頼にみちた瞳、
いくつもの表情、話す言葉、その中で動いている唇の感触が、
過去のどの日々の中にも入りこむ。
ヴィネは再びユーディスに口付けをした。
密着した唇の感触がさらに思い出の中に強烈に焼きついてくる。
おかしなぐらい熱かった。
ヴィネの唇も、吐息も、伝わってくる鼓動も、
これまで感じたことのないものだ。
ヴィネの体が熱くなっているのか自分の体が熱くなっているのか
ユーディスにはわからなかった。
ただそれは頭の中を焼きつくすように荒れ狂う。
燃えれば燃えるほど、満たされていく。
「ぅん…」
ヴィネは自分の口の中に入りこんできた異物を優しく出迎えた。
絡ませ、離し、再び絡ませ、
やがて離れることなくお互いの口を行き来する。
死にそうだった。
熱すぎて、満たされすぎて、このまま死にたくなる。
「………にいさま……」
気が付けばヴィネは混じりあいを解き、
今度は耳元で囁いていた。
にいさま。
その一言だけで心を満たす言葉にユーディスは体を震わせた。
いままで感じたことのない、魂を掴まれるような恐怖にみがすくむ。
いますぐヴィネに離れて、部屋から出てもらわないと理性が焼ききれる。
大事な妹。ミーシャと共に自分の全てを満たしてくれる。
けれど妹で家族だから、居てくれるだけ、近くに…距離を取らないといけない。
ヴィネの吐息が耳にかかり、ユーディスはまた震えた。
「…愛しています……」
言葉はあまりに優しく、とめ様が無いほど強く心に入りこみ、
ユーディスの理性をあっけなく焼ききった。
「ィネ…」
強くヴィネを抱きしめる。
全身で、ヴィネを感じたかった。
髪の先から足の指先、内蔵の全てまで擦り合わせたい。
「ヴィネ…」
妹の名前を口に出し、ユーディスは三度震える。
そして胸の中にいる大切な妹の首筋に口を当てると
ゆっくり服を脱がせ始めた。


「にいさま」
その声に動かされるように顔の向きを変え、再びヴィネの方を見る。
ベッドの横に立っているヴィネをみて、胸の上にあったぬくもりが消えた。
「……ヴィネ…?」
「はい」
声をかけられた瞬間から、先ほどまでの出来事が次第に現実的な感触を失っていく。
「夢……か……? だよな……」
「なにか嫌な夢でも?」
「いや…………」
問い掛けにユーディスは答えを詰まらせた。
ヴィネの声を聴くたびに、昨夜の、夢の中のヴィネの
言葉が頭を駆け巡り、思考が停止してしまう。
繰り返される言葉と手にまとわりつくやわからい肌の手触りを
振り払うように、ユーディスは勢いよく上半身を起こした。
「大丈夫ですか?」
ヴィネが背中に手を当て、顔を近づけると、
重ね合わせた唇の感触が思い起こされ、
ユーディスは視線を逸らした。
「うん、大丈夫………雨やんだのか」
逸らした先にある窓から、明るい日の光が入りこんでいるのをみて、
ユーディスは小さく呟いた。
「雨? …ここ数日は降ってませんよ」
「そうだっけ……」
そういわれると、ユーディスには雨がいつから降っていたのか思い出せない。
どこまでが現実でどこからが夢だったのか一向にはっきりしなかった。
「ミーシャが気が付きましたけど……どうなされます?」
もう一人の妹の名前を聞いて、ユーディスははっとして顔を上げる。
突然現実感が強まり、回りの空気がそれまでと変わったような気がした。
「ああ……うん、すぐいくよ。ヴィネはミーシャの側にいてやって」
「はい、ミーシャと一緒にお待ちしてますね……場所はわかりますよね?」
「わかるよ、大丈夫」
「では失礼します」
ヴィネは軽く兄の背中をさすったあと、
ベッドから離れ出口に向かい歩きだし、半分ほどいったところで足を止めた。
「にいさま」
「なんだい?」
「わたしの前に、こちらにどなかた来られませんでしたか?」
「どうかな……たぶん眠ってたからわからないな。どうかした?」
「いえ……ここに来る途中で年配の女性とすれ違ったのですが……」
そういうと天上を見上げながら自分の記憶を探るように数度瞬きをし、
ヴィネはまたユーディスに視線を戻した。
「眠ってらしたのではわかるはずがありませんね……忘れてください」
安心させるように微笑みながら頭を軽く下げると、
ヴィネは今度は立ち止まらずに静かに部屋を出ていった。
部屋を出ていく妹を見送ったユーディスは、
ベッドに体を横たえ両手を強く握り締めると大きく息をはいた。
ヴィネを抱きしめたい欲求をずっと押さえていたのに解放されて気が抜ける。
欲求にまかせて抱きしめてしまっていたら、
そのあと自分がどう行動したのか、ユーディス自身にもわからなかった。
「く……なんで今頃あんな夢を…もう忘れたと思ってたのにな…」
そう呟くと、いつもの自分に戻るよう想いを胸の奥深くへ沈めるのだった。


「あ…」
ユーディスが扉を開けて中を覗くと、
それに気がついたミーシャが
慌てて少し開いていたローブの胸元をきつく閉じた。
「ねえ様……」
ローブを直しながら姉の顔を睨むが、
ヴィネは得意そうに笑みを浮かべている。
「ご、ごめん」
「にい様はなにも……」
逆にユーディスの方が頭を下げるのをみて
ミーシャはよくわからないまま自分も頭を下げた。
「その、にい様がいらっしゃられると、聞いていなかったので……」
「そうだったんだ」
ローブを着直したミーシャの側でユーディスが頷いた。
「ごめんなさいね。忘れていたみたいです」
そういうヴィネはまだ少し口元を緩めている。
「……」
二人のやりとりを見て、ユーディスも顔を綻ばせた。
普段大人びた言動の二人だが、
こうしているとやはり年齢相応の少女なのだ。
しかし、すぐに一瞬見えたミーシャの胸元を思い出してユーディスは真顔に戻った。
「ごめんな…守ってやれなくて……」
「大したことはありませんでしたから、気になさらず」
ミーシャが慌てて肌を隠したのは、まだ残っている、
共和国に捕らわれた時に縄に縛られたのであろう痣を
見てユーディスが心配しないようにと気を使ったからだろう。
自分の方が大変なのに兄を気遣う妹をみてユーディスは暖かさと、
妹を傷つけた共和国に対する怒りで胸が一杯になった。
「本当にごめん……」
「ですから、気になさらずとも……」
二人は先ほどと同じような会話を交わし、
そのまま黙って見詰め合った。
「にいさまはすぐに前線に戻らないといけないのですから、
 そういうのはまた今度にしてくださいね」
続いていた沈黙をヴィネが破る。
「お、そうだった、いまのうちにたくさん話しておかないとな」
「はい、にい様もねえ様の隣におすわりください」
ヴィネが用意してくれた椅子に、おずおずと腰を下ろす。
ミーシャと同じ視点になり、改めてその目を見つめる。
今までと同じ、一点の曇りもない信頼のこもったまなざし。
それがユーディスには嬉しくて、やるせなかった。
「そうだ、この前部隊の人が面白い食べ物持ってきてくれたんだ…」
だが今は、二人と共有できるこの貴重な時間を心から楽しもう。
「にい様、久し振りにお茶をお入れしますね」
「ミーシャは安静にしてなさい。私が入れてあげますから」
「…もう平気です」
「良いから寝てなって。よし、俺が入れてやろう!」
「え、にいさまが…」
「………」
「な、なぜに黙るかっ!?」
その日、ユーディスが出立するまで、ミーシャの病室からは明るい声が絶えなかった。

(2002.11.11)


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