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Miracles do not come true. You only realize miracles by yourself.
〜『Kanon』レビュー


(0)注意

 サブタイトルにあるように、本文章は『Kanon』(Windows95以降)のレビューである。
 ただし、インターネットで無数に公開されている『Kanon』のレビュー中では、本文書は酷評として分類される物であり、その厳しさは現在のインターネット上では10本の指に入る(5本の指には入らないが)。
 そのため、Keyのシナリオライターの書かれる文章に心から酔いしれておられる方や、KeyあるいはKey発足前のTactics作品を無条件で賛美する方は、以下の文章に一切目を通さないことを非常に強く推奨する。
 あと、『Kanon』のネタバレ情報が当然のように満載されている。未プレーの方は注意。





 警告はしました。
 覚悟はいいですね?
 


(1)ゲームとしての客観的データ

 今回のレビュー対象となるソフトは、1999年6月にKeyが発表した18禁ADV(Windows95以降)である。後に、18禁シーンを全面削除した全年齢版が2000年1月に、Dreamcastへの移植版が2000年9月に発表されている。

 ストーリーの概略は以下の通りである。
 作品の舞台となるのは日本のとある地方都市(東北地方のどこかなのだろうか?)。時期は雪が降り積もる1999年1月。主人公の相沢祐一は、親の仕事の都合で叔母・水瀬秋子の家に居候し、叔母とその娘である水瀬名雪と同居することになった。主人公は7年前にこの街に住んでいたはずなのだが、どういうわけかこの街で起きたことを思い出せないままでいる。
 そして、行きの振る冬の街で繰り広げられる5人の女性達との交流。だが、彼女達との間で織り成されるのは、日常と非日常、過去と現在が作り上げる幻想的な物語。そして、女性達に降り掛かる悲劇。春を迎えた時、主人公とヒロイン(5人の中から1人が選ばれる)による物語はどのような結末を迎えるのであろうか?

 ゲームシステムとしては、ストーリー描写を優先させる為、受動的で典型的な恋愛ADVの手法が用いられている。時間経過と共に自動的にイベントが発生し、イベント中に提示される選択肢を選ぶことによってフラグ管理が行われストーリーが分岐していくのである。ADVとしての難易度はやや低めに設定されているようで、常識的な回答を行えば、無事にグッドエンディングを迎えられる。
 ゲームシステム面で忘れてはならないのは、18禁CG(全て純愛系)を閲覧する為だけの分岐がゲーム中に存在し、(水瀬名雪シナリオを除けば)18禁シーンを目にすること無くゲームをクリアできるである。このような機能が搭載されていることからも分かるように、作品としては全年齢ADVに18禁シーンを乗せただけである。そのため、シナリオのレビューはWin版・DC版共通で行うことが可能となっており、移植作業も(ソフト面では)さほど難しくなかったのではないだろうかと思われる。私は18禁版とDC版をプレーしているが、ここでは便宜的にWin版のレビューとして話を進めていく。
 登場人物については、レビュー詳述にて触れたいので、ここでは省略させて頂く。


(2)APRIL FOOLが下した『Kanon』に対する評価

 さて、インターネットで本作品の情報を検索されたことのある方なら御存知だと思われるが、本作品や、本作品のスタッフによって作られたADV『ONE』(1998年5月発表/18禁、PS版『輝く季節へ』)や『Air』(2000年9月発表/18禁)などの一連の作品群には、熱烈なファン──その一部は「鍵っ子」と呼ばれることもある──による熱烈な支持が寄せられている。インターネット上にも、『Kanon』をはじめとする一群の作品に多大な愛情を注ぐファン達の手による多数の創作小説・CG・考察が展開されている。『Air』発売とDC版『Kanon』発売がほぼ同時期に重なったため、その人気ぶりは一段と大きくなっているような印象を受ける。今回のレビューの対象となるのは、電脳社会において大きな社会現象を生み出したソフトであり、1999年から2000年にかけてのギャルゲー世界に大きなインパクトを与えたエポックメイキングな作品である。このことにはどなたも異議を挟まないだろうと思われる。
 ただし、「エポックメイキングだった」ことと「非常に優れていた」こと、そして「個人的に気に入った」ことは完全なイコールでは繋がらない。『FINAL FANTASY VII』など、話題性は高いが個人による評価が二分されるようなソフトの例は山ほどある。
 そのことを踏まえた上で、以下に記した本作品に対して私が下した評価を改めて紹介したい。
 なお、括弧内はDC版のみの得点である。

操作性7(10)バックログ参照機能は搭載されていない(DC版では用意された)。
音楽10+最高水準の楽曲が巧みな演出の一環として用いられている。
画像10彩色が繊細で、キャラの表情変化が豊かである。
システム3受動性の強いADV。難易度は低め。
設定8現実と非現実を同居させる世界観が特徴的。
人物67ヒロイン5人は特定のファン層にのみ受け入れられるようなキャラばかり。他のキャラは納得できる顔触れ。
脚本69演出・文章力は最高水準。ただし、中身についてはシナリオ毎に評価が分かれる。
主観評価1020同人受けするキャラや奇跡だらけのシナリオが評価の分れ目。
合計60(63)74(77)一部のシナリオが本作品に対する評価を大きく下げている。


 改めて整理すると、こんな感じになる。

●本作品において高く評価されるべき点……音楽、グラフィック、操作性(DC版のみ)、文章力・演出
●本作品の評価を下げることになった点……ヒロインの設定、一部のヒロインのシナリオ


 なお、本作品に対する私の評価を大きく下げる原因になった「一部のヒロインのシナリオ」を除いた評価は、黄色の背景色(右段)で提示されている。

 さて、本作品に対する一般的で熱烈な評価・賛美の根拠となっているのは、シナリオが「泣ける」という点である。実際にシナリオを読んで泣いたのかどうかは各人の感受性や信条の問題になってしまうが、書かれている文章が情感豊かで技術的に巧みであり、各シーンの演出に細心の注意が払われていることは間違い無い。私は本作品の文章を見て実際に涙は流さなかったものの、「この文章力や演出なら泣く人が出てもおかしくはない」と感心した(一部のシナリオでは感動した)ものである。
 インターネット上では「これは泣ける」「感動できる話だ」という言葉が連呼され、非常に極端な人間になれば「『Kanon』読んで泣かない奴は人間じゃないね!!」(ネット上)「これで泣けないヤツは人間性を疑われても仕方がない」(雑誌)という声まで聞こえてくる(嘘みたいに感じられるかもしれないが、本当にそのような声を上げている人がいた)。
 しかし、本作品のストーリー──しかも特定のシナリオに対し、私はどうしても泣くことができなかった。シナリオの構成や設定など、作品全体の枠組となる部分について、いくつか疑問(不満?)に感じざるを得ない点が見つかり、このことが頭から離れられなかったのである。

 なお、ここから下は専ら私の主観によって書かれている。また、本作品だけではなく、『WILD ARMS 2nd IGNITION』『SeeIn青』に関する重度のネタバレ情報が記載されている。この2点は予め御了承願いたい。


(3-a)設定に関する不満……ヒロインについて

 本作品に登場するヒロインは5人。隠しシナリオの主人公である倉田佐祐理については、ヒロインから除外させて頂く。

名前誕生日設定好物口癖
月宮あゆ1/7主人公の幼馴染み。7年前から植物人間状態。
街に現れているのは霊が実体化したものらしい。
鯛焼き「うぐぅ」「〜〜もん」「〜〜だよ」
(いずれも使用頻度高し)
美坂栞2/1不治の病に冒され死亡宣告まで受けている女性。アイスクリーム「そんなこと言う人、嫌いです」
(使用頻度低し)
水瀬名雪12/23主人公の幼馴染み。7年前に主人公と「失恋」している。イチゴサンデー「〜〜だよ」(使用頻度非常に高し)
「〜〜もん」
沢渡真琴1/6主人公の側に突然現れた奇妙で賑やかな同居人。
実は狐が変身した姿。
肉まん?「あぅー(あぅ)」(使用頻度高し)
川澄舞1/29自らの分身である「魔物」と戦い続ける女性。口数が少ない。牛丼?「嫌いじゃない」(使用頻度低し)


 以上が客観的データである。
 私が彼女達の設定やゲーム中での言動を見ていて、不可解に感じたことが1つある。それは、全般的に「幼く」見えるキャラクターが多過ぎることである。月宮あゆや沢渡真琴のように、設定の関係上、そのようなデザインにせざるを得なかったキャラクターも存在するとはいえ、5人中3人(月宮あゆ・水瀬名雪・沢渡真琴)が「幼く」見えてしまったのである。精神年齢という観点を加味すれば、「幼い」ヒロインの合計は4人(+川澄舞)となる。
 これは主として、「うぐぅ」「あぅ」「うにゅ」「〜〜だよ」「〜〜もん」など、幼さを連想させてしまうような口癖が何度も使われていることに起因しているようである。また、目を大きく描く癖のあるキャラクターデザイナーの画風が、そのような印象を一段と強めている側面もある。
 これは完全な私見であるが、このようなキャラが5人中1人か2人だったらまだ設定として納得できるのだが、ここまで数が多いと逆に「やり過ぎではないか」と頭をひねってしまう。月宮あゆと沢渡真琴の2人は別に問題無いとしても、水瀬名雪を幼く見えてしまうようなタイプの女性に描く必要性は全く無かったはずである。
 また、ヒロイン達が特定の1つの食べ物に異常な執着を示す点も、上述の問題点ほどではないが気になってしまった。私の知り合いに、特定の食物に執着する人間が見当たらないから、逆に「このような人って本当にいるのか?」と考えてしまったのかもしれないが……。

 ヒロイン達の姿を見ていると、常識的でまともな設定を持っているサブキャラクター達と、どちらかといえばまともでありふれた主人公の姿が光って見えてしまう。主人公やサブキャラクターが「魅力的」なのは良いことだが、「非常識でまともじゃない設定の持つヒロインとの比較において魅力的に見えてしまう」となると、「本当にそれでいいのか」と疑問に感じてしまう。


(3-b)設定に関する不満……美坂栞の重病は一体何だったのか?

 ヒロインの1人である美坂栞には「不治の病」という設定が用意されている。ところが、作品中の言動をつぶさに観察すると、常識的に見て明らかに不自然だと思われる設定が用意されていたのである。
 まず、彼女の病状について観察してみたい。

(1)子供の頃にでも発症する可能性がある。
(2)比較的早くに死期が分かる。作品中では「2月1日まで生きられない」とされていた。
(3)難しい病名であり、栞は病名についてあまり注意を払っていない。
(4)不治の病であり、基本的には完治することができない。


 ここまで見たら、普通の(?)不治の病であることが分かる。ところが、栞は見た目は元気であり、1月31日の深夜まで一般市民とさほど変わらない生活を送っている。最高気温が氷点下にもなる街中を薄着で歩き回り、平気な顔をして沢山のアイスクリームを食べているのである。
 このような症例に当てはまる病気が一体何なのか、まるで分からないのである。Keyが設置した掲示板で私がファンの方々に御意見を伺ったのだが、明確な解答を出すことはできなかった。可能性として慢性骨髄性白血病、悪性腫瘍、エイズ、膠原病などの病名が挙げられていたが、どの意見も決め手に欠いており、彼女の病気は分からないまま放置されている。最も可能性が高いとされているエイズ説でも、原作(18禁版)で描かれていた2人の性交渉時に、コンドーム着用などの感染防護措置を講じた様子が全く無いために、説自体を棄却せざるを得なかった。
 そもそも、「不治の病」とされている人間が薄着で街の中を平気で歩き回ることができる点だけでも、「現実」世界に住み、医学にはそれほど詳しくない我々から見れば奇異に写ってしまうのである。

 「『Kanon』はゲームなんだしそこまで気にする必要は無いのではないか」「空想世界の話だしこの程度は容認される」という御意見があることは十分に承知している。完全な架空の世界での話ならば、このような病気を設定したとしてもまだ理解できる。
 しかし、曲がりなりにも、本作品は日本国内の地方都市(架空)を舞台にしたストーリーであり、ファンタジー的な世界観を取り除いた後に残るのは、我々が生活するごく普通の日常世界と全く変わらない「現実の」世界である。したがって、「ゲームだから」「空想世界だから」という免罪符は通用しない。話の書き手としては、病気の設定はブラックボックスのまま放置したほうが書き易かったのだろうが、これはリアリティという要素をあまりに無視し過ぎた行為であり、褒められる態度であるとは感じられなかった。せめて、本物の難病や不治の病を使う(実例は山ほどある)か、「これは●▲■×病(架空の病名)という奇病であり、症状は(以下略)」というようなセリフを用意するかして、リアリティを残す配慮をすべきだったのではないだろうか。

追記:その後の情報収集の結果、「最も可能性として有り得るのは急性リンパ性白血病ではないか」という意見が浮上した。確かに、病状としては上述の条件を全て満たしており、問題は全く無い。しかし、この場合も、病名を明かさなかった合理的理由は全く説明できない。
 ここまで来ると、「製作者は何も考えていなかったのではないか」としか考えられなくなる。


(3-c)脚本に関する不満……交通事故という偶発的悲劇の取り扱い

 本作品には5人の女性達それぞれに対応したストーリーが1本ずつ用意されている。だが、そのいずれもが以下の基本的な様式に従って作られている(無論、各シナリオ毎に細部は異なるし、この様式通りにはストーリーが展開されないキャラもある)。

1月上旬:主人公が本作品の舞台となる街に住み、女性達と会う。

1月中旬:女性達の中の1人と親密な関係を結ぶようになる。

1月下旬:選ばれた女性の持つ設定や主人公との接点が明らかになり始める。

1月末〜2月頭:主人公と女性の間を引き裂くような悲劇的イベントが発生する。

2月以降:主人公と女性のその後が描かれる。


 本作品を褒め称える諸氏が特に「ここは泣ける」「これは感動的である」と紹介していたのが、主人公と女性に降り掛かる悲劇的な事件である。事件の中身は各キャラクター毎に異なっているが、私がテキストを読んだ限りでは以下のようになっていた。

名前悲劇の内容
月宮あゆ7年前から植物人間状態。1月31日に霊体が消滅する。
美坂栞1月31日深夜に容態急変、そのまま死亡?
水瀬名雪水瀬秋子が1月27日に交通事故に遭い、意識不明の重態になる。
沢渡真琴本人の精神退行。2月1日に死亡。
川澄舞1月30日深夜に割腹自殺。


 登場人物を不幸な目を合わせることによって、登場人物が困難な状況の中でもがき苦しみ、それを克服して人間的に成長する姿を描くことができる。そのため、悲劇的なイベント(もしくは登場人物にとって困難な状況)をシナリオ中に登場させることは創作の表現技法として頻繁に用いられている。そして、ごくありふれた技法であるがために、その使用には注意や配慮が求められる。作品のテーマや作品全体の構成を損なうような使い方は避けるべきであるし、リアリティを極端に無視した異常なイベント・設定は慎まねばならない。以上のことは、創作に携わる方なら、一般論として少しは納得して頂けると思う。

 ところが、本作品では、今まで述べた一般論の立場から見て、「不自然極まりない」としか言えない事件が1つ存在したのである。それが水瀬秋子の交通事故である。
 水瀬秋子の交通事故は、水瀬名雪のシナリオのみにおいて、ゲーム終盤である1月27日に発生する。交通事故の犠牲となった水瀬秋子は意識不明の重態となるが、後に健康を回復する。
 相沢祐一と水瀬名雪に不幸をもたらすイベントとしては十分な効果があるものの、何の伏線も張られていないところで唐突に発生する(主人公達の設定との関係は全く無い)上に、発生時機があまりに遅すぎるせいで、「主人公と名雪を不幸な目に遭わせる為にとってつけたように作られた」「安直なイベント」としか感じられなかったのである。交通事故以外のイベントで2人にとっての悲劇を表現するか、事故の発生時期を早めて「とってつけたようなイベント」という印象を薄める必要があったのではないだろうか。


(4-a)奇跡というモチーフ……事実関係の整理

 今まで書いたこと(不治の病、設定、交通事故)については、「枝葉末節にこだわってけちをつけているだけではないか」という御批判が当然出てくると思われる。私も書いていて「何か細かいことだな」と感じることがある。
 しかし、以下で述べることは『Kanon』のストーリーの根幹に関わる問題であり、「枝葉末節」として無視することができない問題点である。

 本作品で発生する「主人公と女性の間を引き裂くような悲劇的イベント」では、その全てにおいて何者かの死(もしくは永遠の離別)が描かれることになる。再録であるが、改めて御説明したい。

名前悲劇の内容
月宮あゆ7年前から植物人間状態。1月31日に霊体が消滅する。
美坂栞1月31日深夜に容態急変、そのまま死亡。
水瀬名雪水瀬秋子が1月27日に交通事故に遭い、意識不明の重態になる。
沢渡真琴本人の精神退行。2月1日に死亡。
川澄舞1月30日深夜に割腹自殺。


 ここまでの流れを見れば、どのシナリオも完全な tragedy である。

 ところが、グッドエンディングを迎えた場合、沢渡真琴を除く4人は奇跡によって復活する。実際に復活しているシーンが描かれているわけではないが、エピローグで主人公達が見せている言動から見るに、何らかの奇跡が発生していることは間違い無さそうである。

 では、誰が奇跡を起こしたのであろうか? この問いに対する私の解答は以下の通りである。

ヒロイン復活する者復活させた(=奇跡を起こした)者復活(=奇跡)の描写
月宮あゆ月宮あゆ月宮あゆ×
美坂栞美坂栞×
水瀬名雪水瀬秋子×
沢渡真琴(沢渡真琴)※1※1※1
川澄舞川澄舞川澄舞の「力」及び相沢祐一 ※2

※1:沢渡真琴については、奇跡の発生可能性が論議されるだけ。有無の判断はプレーヤーの主観による(私は発生していないと解釈)。それ以前に、狐だった彼女が人間になったこと自体が奇跡であるようだが、これは本人の強い願いによって実現されたものと考えられる。
※2:川澄舞を復活させた存在については、「これも月宮あゆの仕業ではないか」とする説が有力であるが、私がテキストを読んだ限りでは、彼女の「力」が主体となって奇跡を起こし、相沢祐一がそれを積極的に手伝ったのだろうと解釈したほうが自然に感じられた。

 川澄舞を除く3人の奇跡には月宮あゆの存在が関わっている。彼女は自らの存在を犠牲にすることによって奇跡を1つだけ実現させることができるらしく、彼女自身の蘇生が描かれない他のキャラのグッドエンディングでは、彼女は全く姿を見せない。月宮あゆというキャラは本作品のキーパーソンであり、その役割・立場は deus ex machina (デウス・エクス・マキーナ/ギリシャ劇で急場を救う為に突然舞台に現れる神)になぞらえることができる。


(4-b)奇跡というモチーフ……問題点1/奇跡を待ち望む姿はどこにあるか?

 ところが、本作品での登場人物達の言動を仔細に観察していると、ある奇妙な──そして厄介な事実が浮かび上がる。それは、主人公達が復活という奇跡を熱望していたのかどうか疑わしいことである。
 月宮あゆが deus ex machina として振舞っていた3人のシナリオでは、主人公が女性達の復活を期待していた言動・行動が全く登場しない。月宮あゆ・美坂栞との別れのシーンで描写されるのは別離を悲しむ主人公の姿だけであり、「復活」に対する期待が最も大きいはずである水瀬秋子の場合も、本編最後で主人公達が交わした言葉は互いの愛情と信頼感を確かめ合う言葉である。
 無論、心の奥底で、主人公が「生き帰ってくれたら……」という願望を抱いていた可能性は十分にある。だが、この3シナリオでは、主人公の奇跡への渇望はテキストで表現されていない。1月31日までの本編で、奇跡を待ち望む主人公の姿を描写する努力が明らかに欠けており、シナリオ本編で提示されるのは、悲劇を受容しようとしつつも涙を流す主人公達の姿だけである。
 そのため、私は「こいつらは本当に奇跡を欲しがっていたのか?」という疑念を抱いてしまい、せっかくの奇跡も効果が減ってしまったのである。作品の構成上も、主人公達の奇跡を望む言動が少ないため、奇跡を起こさずに女性達を死亡させた方がシナリオの完成度が高くなる。
 つまり、この3人のシナリオでは奇跡は明らかに不必要に感じられた。
 もっとも、奇跡による女性達の復活を望む主人公達の姿を明示する(もしくは文章の行間や状況から奇跡を望むメッセージを読み取る)としても、それは以下の2つの批判に対する反論には繋がらない。


(4-c)奇跡というモチーフ……問題点2/自助努力無き奇跡

 本作品で登場した奇跡については、もっと根本的なレベルからの反論も存在する。
 第1に、自助努力によって成し遂げられず、一方的に与えられただけの奇跡を肯定的に評価することは不可能であるという意見。

 SCEIが発表した『WILD ARMS』シリーズで、シナリオライターの金子彰史氏は、登場人物達に次のような言葉を喋らせている。

奇蹟は自分の手で起こしてこそ、その価値があります。
それはぜったいに、ぜったいです。
──セシリア・レイン・アーデルハイド(『WILD ARMS』より)


そう、奇跡は待つものではない。
奇跡は、自分の手で起こしてこそ、その価値があるのだ。
──アーヴィング・フォルド・ヴァレリア(『WILD ARMS 2nd IGNITION』より)


 彼らはこの言葉通り自らの努力で運命を切り開き、「奇跡」とも言えるほどの難事を達成している。
(以下ネタバレにつき伏字)
 『WILD ARMS 2nd IGNITION』の場合、いち早く侵食異世界カイバーベルトの存在を知ったアーヴィングは、「『概念存在による侵略』という途方もない事態に対処する為には、ファルガイアの一致団結した協力体制が不可欠」と考え、より身近な脅威としてテロ組織「オデッサ」を用意し、対立状態にあったファルガイアの諸国を対「オデッサ」戦線設立を通じて大同団結させることに成功する。そして、各国の協力を得て、テロ組織「オデッサ」の遺した核兵器グラウスヴァインの迎撃作戦を成功させ、カイバーベルトを物理的に封印する為にマナの牢獄「トラペゾヘドロン」を作り出す。後に、トラペゾヘドロンへの封印に失敗したアーヴィングは、妹アルティシアと自らの体内にカイバーベルトを降臨させ、自分達をアシュレーら主人公に倒させるという禁断の戦法を実行に移し、その身を犠牲にしてカイバーベルトを滅ぼすことに成功する。
 カイバーベルトを倒した後に出現したロードブレイザーとの戦いでは、(1)アシュレーがアガートラームを抜く時、(2)ロードブレイザーに【アークインパルス】で攻撃を加える時に、人々の持つ「意思」による「奇跡」が発動する。しかし、ロードブレイザーを滅ぼす為に振われたアガートラームの力は、ファルガイアに住む人々の心が1つになってようやく発動したものであり、カイバーベルトを滅ぼす為にファルガイアの諸国家を大同団結させることに成功したアーヴィング、アシュレー達の努力が無ければ実現しなかったのである。

 アーヴィングやアシュレー達が成し遂げた行為は、厳密な意味では「奇跡」とは少し異なるが、絶望的な状況を打開し、「奇跡」を実現させる為に積極的に行動した彼らの姿勢を、誰も咎めることはできないはずである。まあ、アーヴィングも学徒動員(リルカ・エレニアック、ティム・ライムレス)や反政府組織への資金供与をしていたから、その行為には問題が無かったわけではないのだが、その点についてはここでは論議しない。

 もう1つの例として、ALICESOFTの『SeeIn青』というソフトを取り上げてみたい。
(以下ネタバレにつき伏字)
 『SeeIn青』のゲームの中に、如月優美というキャラが登場する。彼女は如月美夕(「双子」の妹)の両親によって作られた生体アンドロイドであり、ゲーム終盤になると、生体アンドロイドとしての機能に衰えが生じ、あたかも不治の病を患っている病人のような状態になる。
 「死の病」に冒された彼女には2つの選択肢が存在した。1つ目は生体アンドロイドの機能低下の直接の原因となったAIの記憶をリセットし、アンドロイドとしての彼女の生命を維持する道。この場合、主人公や妹と暮らした楽しい記憶は全て抹消される。2つ目は主人公達の記憶を保持したまま余生を過ごし、その短い一生に幕を下ろす道。双子の妹である美夕シナリオでは強制的に前者の選択肢が選ばれる。一方、優美シナリオでは強制的に後者の選択肢が選ばれ、優美は主人公の子供を残して他界する。
 いずれの道を進むにせよ、眼前に提示されるのは、安易なハッピーエンドへの道を拒否するという厳しく現実的で悲劇的なストーリー展開である。正直言うと、描写としてはかなり痛い。だが、シナリオの結末に対する不満は特に抱かなかった。むしろ、「先端科学技術を使って優美が生き返る」という安直なハッピーエンドを提示される場合と比べれば、ストーリーとしての完成度は上であると考えている。
 『SeeIn青』において、奇跡らしい出来事は姫咲琴里シナリオにおいてのみ発生している。だが、これも1回目のグッドエンディングでは発生せず(1回目では、琴里は主人公を助けた後に海へと消えていく)、2回目以降のグッドエンディングのみでしか拝むことができない。このことは、1回目のグッドエンディングが本来の作品の終わり方であったかもしれないという可能性を示している。また、2回目のグッドエンディングで描写されている奇跡では、植物人間状態だった琴里のもとを主人公が毎日のように訪れる姿が描写されており、奇跡を実現させる為に主人公が多大な努力を払っていたことを伺わせる。


 さて、話を『Kanon』に戻そう。すると、アーヴィング、アシュレー、如月優美などが見せた行動と本作品の登場人物達の言動に違いがあることが見えてくる。

 本作品の月宮あゆ・水瀬名雪・美坂栞のシナリオでは、主人公達は眼前で発生した悲劇を回避する為に奇跡の顕現を望み(奇跡を望んでいない疑いすらある)、それに応えて奇跡が登場し、主人公達の傷が癒されるだけなのである。悲劇を受容した上でそれを克服し成長する道は提示されず、ただ奇跡の発現を望むだけではなく、自分の力で「奇跡」のような出来事を起こそうとする努力や、他人が起こしてくれる奇跡の「発動率」を高める努力は行われていない。
 主人公達が行ったのは「奇跡を待つ」ことだけである。


 「『Kanon』と『WILD ARMS』とでは世界観・ゲームシステムが異なる」と言われればそれまでである。
 だが、私はどうしても気になる。そして、ついつい訊ねたくなってしまう。

 「発生してしまった悲劇を無くす為に奇跡を待ち望み、それに応えて奇跡が顕現するだけという安易で受動的なストーリー構成が、インターネットで騒がれているほど魅力的なのか?」と……。

 正直申し上げると、私は魅力をあまり感じなかった。特に、『WILD ARMS』などのように、自分の努力で「奇跡」を「掴み取った」シナリオと比較した時には。
 この点から言えば、同じ『Kanon』の中でも、受動的な奇跡しか描かれていない月宮あゆ・水瀬名雪・美坂栞の3シナリオに比べれば、蘇生という奇跡の有無をプレーヤーの判断に委ねていた沢渡真琴シナリオや、奇跡が実際に起こるまでの当事者達による意思(!)・行動(?)・努力(!)がはっきりと書かれている川澄舞シナリオのほうが優れているような印象を受けた。


(4-d)奇跡というモチーフ……問題点3/奇跡のバーゲンセール

 根本的な反論の第2点は奇跡というモチーフを悲劇回避の為に乱用しているという意見。私はこれを仮に「奇跡のバーゲンセール」と呼んでいる。
 この問題点は『Kanon』の全シナリオに当てはまることである。沢渡真琴シナリオを除く4本のシナリオで奇跡による復活が描写され、更にそのうちの3本では奇跡は一方的に与えられるだけの受動的存在として描かれている。しかも、4つの奇跡の中身は「『死者』の『蘇生』」という点で一致している。こうも安易にシナリオ中で似たような奇跡を連発されると、3人目(最初に沢渡真琴シナリオをクリアした時は4人目)以降のプレーで「どうせまた生き返るんでしょ」と先を読まれてしまい、複数キャラのシナリオを用意した意味が少なくなってしまうだけではなく、せっかく用意されている見事な演出や、素晴らしい文章による感動も薄れていってしまうのである。似たような奇跡の乱発は興醒めにしかならないのである。

 せめて、別の内容の奇跡にしてくれたら……。


(5)まとめと後書きに代えて……『Kanon』というソフトの位置付け

 もうお気付きだと思うが、最初に書いた「一部のヒロインのシナリオ」とは月宮あゆ・水瀬名雪・美坂栞の3シナリオのことを指す。
 そして、この3シナリオを中心に目についたテーマ性やストーリー構成、キャラクター描写に対する疑念・不満・問題意識が原因で、本作品全体の評価が下がってしまっている。音楽や文章力など技術的には非常に優れている本作品であり、それ故に1つの巨大なブームを作り出すほどの話題性があることに、疑いを挟む余地は全く無い。しかし、一部のシナリオの中身が原因で、私はインターネットでHPを開設しているギャルゲーマーの一部が主張しているような「世紀の傑作」「マイベストゲーム」という意見には同調できなかった。褒めるべき点と同じくらい多数の問題点を抱えており、私にはこの問題点が致命傷に見えてしまったのである。

 ……もっとも、沢渡真琴・川澄舞の2シナリオに限れば、「作品として結構いい線行っている」とも思っている。相原祐一が川澄舞に対して「弱くたっていいんだぞ、女の子は」と言ってしまった点など、細かい問題点はいくつか転がっているが、他の3シナリオに比べれば、評価を下げることになる個所は明らかに少ないのである。


 さて、最後に『Kanon』というソフトの「位置付け」を考えてみたい。

 個人的な好みの差はどうであれ、技術面で本作品は突出した才能を開花させたことは事実である。この真新しい華に多数の熱狂的ファン(類似例としてはLeafのファンぐらいである)が集まり、サイバースペースを発信源にして1つのブームを作りだしている。
 そして、『Kanon』『ONE』以降に恋愛ADVを作成するゲームメーカーの多くは、多かれ少なかれ、この突出した高い技術力と熱狂的なファンを擁する一連の作品群の「影」を見ながら、作品を作ることを余儀無くされている。彼らが提示した手法を模倣するのも、そこから全く新しいインスピレーションを得るのも、そして彼らの手法や意見へのアンチテーゼを提示するのも、彼らがギャルゲー業界に落とした「影」を見てゲームを作っているという点では全く変わらない。『Kanon』を産み出したKeyのスタッフも、自らが産み出した巨大な「影」を見てソフトを作っている現状は同じのはずである。
 このことはゲームの消費者にも少なからず当てはまる。本作品は設定や脚本の性格上、好みが「極端な賛美」と「否定」に二極分化する性質を持っている(もっとも、インターネット上で否定派の話を聞いたことはあまり無いが)。そして、本作品や『ONE』といった作品をプレーした人は、これらの作品を一種の指標にして他のゲームを判断することが多くなる。肯定派は「このソフトは『ONE』『Kanon』より凄いのか」という目で後発のゲームを見るようになり、否定派は「これも同じ穴のムジナじゃないのか」という眼差しを新作に向けることになるわけだ。言っていることは違うものの、『Kanon』『ONE』を指標にして後発のゲームを論議してしまうという点において、両派の行動は全く同質なのである。
 ソフトの発表後、特定のジャンルのゲーム全体に大きな影を落とすことになった点から言えば、本作品(及び同一スタッフの手によって作られた『ONE』)は、別ジャンルにおいて『FINAL FANTASY』シリーズや『STREET FIGHTER』シリーズのようなソフトが(結果的に)担っている役割──判断基準、模倣・超越すべき対象──を、18禁ゲームや恋愛ADVの世界において「任される」ことになったのかもしれない。


 なお、アニメ『エヴァンゲリオン』との関連性や、本作品の世界感の詳細な議論──「作品世界は夢の世界の話ではないのか」という説については、場所と時間、精神医学と児童文学・文芸論の専門知識、そのついでに『エヴァンゲリオン』に対する予備知識が欠けているのでやらないことにする。アニメについては徹底的に無知である私が分析を行ったところで、有益であるとは到底考えられない。この点については、「presented by tatuya」内の「『Kanon−カノン−』構造分析」 を参照されたし。


 1999年以降の日本の18禁ゲーム業界に大きな波紋を投げ掛けることになった『Kanon』。
 このソフトを「世紀の傑作」と見るか、「御都合主義だらけの駄作」と見るかは読者の皆さんの判断に委ねたい。
 唯一確かなのは、『Kanon』というソフトは万人受けするような作品ではないことだけである。



 ここまでの私の文章を読んだ結果、不快感を感じられた方がいたとするならば、この場を借りて深く陳謝したい。だが、この作品をプレーして、このような印象を抱いた男性プレーヤーが存在することも事実である。その点は理解して頂きたい。
 続いて、本文書作成の為に必要な重要情報とインスピレーションを与えて下さった各HP──特に「presented by tatuya」「ONE〜輝く季節へ〜 私的応援ページ」「新潟県制服目録」の3サイトの運営者各位と、そして、拙い文章と見にくいレイアウトを我慢して、ここまで読み勧めて下さった全ての方に深く感謝したい。40KB近い駄文に付き合って下さっただけでも、筆者としては望外の喜びである。この拙文が皆さんのゲーム人生を振り返る契機になれば幸いである(その点では、この文章に反感を持たれる方がどれだけおられようとも一向に構わなかったりするのだが……)。


 最後に、deus ex machina という単語には、次のような意味もあることを紹介して本レビューの締めとしたい。

deus ex machina
 (劇・小説などで)急場しのぎの不自然な解決をもたらす人[物]。
──『ジーニアス英和辞典』より抜粋





関連リンク

Key(『Kanon』製作元)

AILCESOFT(『SeeIn青』製作元)

Sony Computer Entertainment Inc.(『WILD ARMS』シリーズ発売元)

THE CONSUMER(DC版レビュー掲載先)

presented by tatuya(TRPG・作品批評中心)

ONE〜輝く季節へ〜 私的応援ページ(『ONE』『Kanon』『Air』紹介)

新潟県制服目録(制服紹介中心)

『ゲームからゲーム性を取り除いた先にあるもの』(『AIR』レビュー)




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