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ゲームからゲーム性を取り除いた先にあるもの
〜『AIR』レビュー


(0)注意

 サブタイトルにあるように、本文章は『AIR』(Windows98以降)のレビューである。
 前回、『Miracles do not come true.……』で、同社が出したゲームソフト『Kanon』に対し、かなり辛辣な批判文を書いてしまったため、その続編である『AIR』や、以前に製作された『ONE』『MOON』のレビューを書くべきかどうか、つい悩んでしまっていた。
 しかし、Keyという会社の出すソフトに、賛否両論を含めた活発な論議を行わせるだけのパワーが秘められていることは確かであり、また、一連のソフトのプレーが、私の創作活動の指針・方針を再検討させる契機になっていることも確かである。『Kanon』の場合、文芸における写実主義と幻想主義の対立について考えさせられる契機になった。歴史解説書やテクノスリラーの文法で小説を書いている私の場合、どうしても写実主義のほうに軸足を置いてしまう傾向があるわけなのだが……。

 さて、話を『AIR』に戻そう。
 サイトとしてのスタンスを崩さないため必然的にそうなってしまったのか、単に私が「『ゲーム』好きだから」なのかは不明であるが、今回もまた批判文めいた文章になっている。前作『Kanon』ほどの悪評にはなっていないが、Keyのシナリオライターの書かれる文章に心から酔いしれておられる方や、KeyあるいはKey発足前のTactics作品を無条件で賛美する方──特に『Kanon』を熱狂的に支持する方は、以下の文章に目を通す前に、上述のことを一応考慮して頂くことを希望する。
 あと、『AIR』『Kanon』のネタバレ情報が当然のように満載されている。未プレーの方は注意。




 警告はしました。
 繰り返しになりますが、未プレーの方は御注意下さい。よろしいですね?



(1)ゲームとしての客観的データ

 今回のレビュー対象となるソフトは、2000年9月にKeyが発表した18禁ADV(Windows98以降、95でも動いた……と思う)。

 ストーリーの概略は以下の通りである。
 作品の舞台となるのは日本のとある小さな港町。時期は梅雨が明け太陽が燦燦と照付ける2000年7月。主人公の国崎往人(以下「主人公」)は、行く当ても無くバスで旅行を続ける旅芸人。彼は人形を離れた場所から超能力らしき能力で動かし、その芸によって路銀を稼ぐ生活を送っていた。
 彼は作品の舞台となる街で行き倒れ状態となっていたが、ここで不思議な雰囲気を持つ少女・神尾観鈴と出会う。そして、勧められるまま、主人公は神尾観鈴の自宅へ居候することになる。こうして、奇妙な旅芸人と不思議な少女達による幻想的なドラマが幕を開ける。

 ゲームシステムとしては、ストーリー描写を優先させる為、受動的で典型的な恋愛ADVの手法が用いられている。『Kanon』とほぼ一緒だと考えて頂ければ良い。ただし、今回の『AIR』レビューでは、ゲームシステムについて踏み込んだ論議を行うので、簡単な説明はこの程度で切り上げたい(詳細はシステムレビューを参照のこと)。
 18禁CG(全て純愛系)の存在価値が薄い点も前作通りである。この種のシーンを目当てにこのゲームをプレーする人は絶対にいないと思われるが、念の為に。

 多分、このソフトも、1年くらい経った時点で、DreamCastかその後継機に移植されるのではないだろうか。
(追記:2000年8月26日/……と言ってる側からDC版発売の話が進んでいる。予想通りと言うべきか)

 登場人物については、脚本レビューに合わせて紹介するので、ここでは省略させて頂く。


(2)APRIL FOOLが下した『AIR』に対する評価

 さて、インターネットで本作品の情報を検索されたことのある方なら御存知だと思われるが、本作品は一部のファンから熱狂的な支持を集めることになった『Kanon』(1999年6月発表)の続編であり、どのような作品を作ったとしても批判されかねないという、製作者としては非常に困った状態の中での作品発表となった。実際、インターネット上では、『Kanon』のファンサイトを中心に、『Kanon』と本作品を比較して『Kanon』のほうがより優れていると判断する意見が多く見受けられた。
 では、『Kanon』をこき下ろしてしまった私はどう考えたかというと、以下の通りになる。
 参考までに、『Kanon』のレビューを右端に記載しておく。

項目『AIR』の評価『Kanon』の評価
操作性7バックログ参照機能は存在する。
ただし、ボタンが小さすぎたため、その操作は不便であった。実質的には無いのと同義。
7
音楽10+万全の自信を持って推奨可能な項目。10+
画像10+こちらの実力も芸術の域に入りつつある。10
システム2受動性が非常に強いADV。もはやゲームではなくそれ以外のメディアとして評すべきか。
本作品最大の問題点はここになる。
3
設定9設定の一環として輪廻転生が使われている。8
人物7ヒロインは同人受けするような「幼い」キャラが中心。この点は前作から殆ど変わっていない。
ただし、前作とは異なり女性達を一方的弱者とする姿勢は排除されている。
6
脚本10演出・文章力は最高水準。ただし、演出はやや過剰気味か。
輪廻転生という設定を十全に生かしているが、ストーリーが難解という問題点も内包している。
ストーリー全体の雰囲気は悲劇的であり、『Kanon』のアンチテーゼと見ることも可能。
6
主観評価20全体的に見れば『Kanon』のアンチテーゼ。ゲームシステムを最大の問題点と判断した。10
合計75『Kanon』と必ず比較されてしまう点では、不当な評価を受けている可能性もある。60


 つまり、『AIR』は『Kanon』より上、と判断を下したことになる。

 では、今から、本作品において論議を呼ぶことになった2点──脚本とゲームシステムについて、個別に論議を行い、私なりの考えを提示してみることとする。


(3-1)脚本レビュー1……客観的情報

 まずは客観的な情報の紹介から入りたい。最初に、本作品のヒロインとなる女性を全て紹介しよう。

名前設定
“DREAM”“AIR”編
神尾観鈴本作品のメインヒロイン。攻略対象者の1人。極甘味の粘性ジュースを愛飲する女性。
7月末に精神・肉体に失調を来たし、寝たきり生活に入る。
神野晴子神尾観鈴の育ての親。関西弁の使い手。
“DREAM”編では端役だが、“AIR”編ではメインヒロインと同じほどに存在感のあるキャラとして描かれる。
霧島佳乃学校で動物達の飼育を担当する女性。攻略対象者の1人。ポテトという名前の奇妙な飼い犬がいる。親は共に死亡。
右手首の黄色いバンダナで過去の自殺未遂による「痕」を隠している。
霧島聖診療所を運営する医師。死亡した両親の代わりに霧島佳乃を養育している。
何かとつけてメスを見せびらかす癖の持ち主。
遠野美凪天文部に所属する無口な女性。攻略対象者の1人。なぜか大量のお米券を持ち歩いている。
“DREAM”編の中では、唯一シナリオ攻略に注意を要する。
みちる主人公相手に暴力を振う遠野美凪の「妹」。その設定には神秘性が漂う。
“SUMMER”編
神奈屋敷内に隔離・幽閉されていた翼人の女性。
最後に壮絶な死に様を迎えるが、これがストーリー全体の幕開けとなる。
裏葉神奈に付き従う女性で、類稀なる霊能力の持ち主。
八百比丘尼神奈の母親。高野山金剛峰寺からの脱出中に死亡。


 現代編で登場するメインヒロイン達が例外無く幼くて「イノセントな」(火塚たつや氏・談)キャラクターである点は前作と同様であり、もはや「イノセントなヒロイン」がKeyという会社のブランドイメージとしてが定着してしまうのではないかとすら感じられるようになっている。ここまでは『Kanon』と殆ど一緒である。

 本作品のストーリーの進め方であるが、ADVとしては特殊な方法が採用されている。具体的には以下の通り。

“DREAM”編(現代)で、神尾観鈴、霧島佳乃、遠野美凪の3シナリオをクリアする

タイトル画面に「SELECT GAME」と表示される

“SUMMER”編(神奈・裏葉シナリオ)をクリアする

タイトル画面に「START “AIR”」と表示される

“AIR”編(神野晴子シナリオ)をクリアする
(↓)
(再度“DREAM”編を見てみると、“AIR”編最後と“DREAM”編最初が接続していることが分かる)


 『Kanon』では時間の流れ方は不可逆的であり、途中で各ヒロインの個別シナリオへ突入したら、元へ戻ることは不可能になる。ところが、本作品では、各ヒロインのシナリオを全て説いた後に“SUMMER”『AIR』という2本のシナリオが追加され、この追加シナリオで“DREAM”編の謎を解く構造を取っている。無論、この会社のスタッフの常套手段として、設定情報は全て明かさず解答を明示していないため、難解さが漂う内容になっている。しかも、“DREAM”“AIR”編と“SUMMER”編で使われている用語がことごとく異なっている(これはスタッフが故意に修正した模様)ため、難解さに輪が掛かっている。プレーヤーは現代編と平安時代編の間に隠されている関連性を読み取らねばならず、こうすることによってようやくストーリーの全体像が把握できる構造になっている。このストーリー構成は興味深いものがあり、私は「脚本」の項でこれを評価している。
 作品のメインテーマであるが、私は「親と子(特に母親と子)の絆」「記憶(及びその継承)」の2本立てと考えている。前者だけを描写するのなら、神尾観鈴をただの重病人にしてしまえば(=輪廻転生なんて難しい設定は全て省略される)済む話である。かと言って、後者のみに主眼を置いて作品を作ったとしたら、“AIR”編後半の闘病記録は価値を持たなくなる。どちらか片方が欠落したとしても、今のスタイルでの『AIR』というゲームは成立し得なかったであろう。


(3-2)脚本レビュー2……『Kanon』のアンチテーゼとしての『AIR』

 私が『AIR』というゲームの脚本を通じて強く感じたことが1つある。それは、

 『AIR』は『Kanon』のアンチテーゼとして作られている可能性がある

 ──という考えである。
 どうしてそういう考えに思い至ったのか、その理由は2つある。

(3-2-a)論証1・ヒロインの描き方の転換

 本作品のストーリーは、高野山で壮絶な戦死(?)を遂げた最後の翼人である神奈の魂が空に囚われたことによって引き起こされる。そして、神奈の魂を救うべく、平安時代編の主人公である柳也と裏葉は子供を作り、その子供に自分達の法術を継承していくことになる。
 約1000年後に、法術の最後の継承者である主人公のドラマが開始されるわけである。ただし、神奈の転生先となった神尾観鈴のシナリオ(“DREAM”及び“AIR”)では、主人公の法術が合計2回発動することになるのだが、1回目は神尾観鈴を15日前後延命する効果があるだけであり、2回目は神尾観鈴の精神的支柱になるという効果しかもたらさない。結局、神奈を空から救出し、その輪廻転生に終止符を打つのは神尾観鈴の役割となる。主人公である国崎往人はあまり役に立っていない。しかも、“AIR”編では主人公はカラスだし。

 また、“AIR”編では、神尾観鈴に神尾晴子と橘敬介のどちらを親にするかを選ばせるシーンが登場するが、ここで神尾観鈴は今までの育ての親であった神尾晴子を迷うこと無く選んでいる。そして、このシーンの前後で行われる神尾晴子による神尾観鈴の介護を通じ、親としては失格とも言えた神尾晴子が1人の親として成長し、神尾観鈴と深い絆を持つようになる。彼女の努力が無ければ、神尾観鈴が神奈の輪廻転生を終わらせることはできなかったのではないだろうか(私が“AIR”編を「神尾晴子シナリオ」と書いたのはこれが根拠になっている)

 主人公の影・役割が「薄い」という事情は、“DREAM”編の遠野美凪シナリオも同様である。このシナリオの場合、後半でとある選択肢が登場するのだが、ここで主人公が遠野美凪に対して色目を使うような選択肢を選んだ場合、一応18禁CGを閲覧することは可能になるのだが、遠野美凪の精神的自立は完全に阻害され、そのままバッドエンドに直行してしまう。普通のギャルゲーマーだったら、ついつい色目を使ってしまいそうな場面らしく、多くのゲーマーがバッドエンドを見てちょっとしたショックを受けていたらしいと聞いている(私は色目を使わない選択肢を1回目に選んでいた)。

 更に付け加えるならば、“SUMMER”編で神奈を助けようと積極的に行動しているのは、柳也よりもむしろ裏葉であると言える。

 これらの事象によって明示されているのは、「弱い女性像」をシナリオから徹底的に排除するという『AIR』製作者達の断固とした姿勢ではないだろうか。
 前作『Kanon』では、相沢祐一が川澄舞に対して「弱くたっていいんだぞ、女の子は」と発言したことに代表されるように、女性キャラクターが原則として弱者として描かれている(唯一の例外は水瀬秋子だけか)。これに外見と性格・言動が幼い見えてしまうヒロイン達の設定が結び付いたから、ギャルゲーマーの一部が『Kanon』に対して暴走寸前にまで熱狂的に酔いしれているのだが……。
 『Kanon』で示された「弱い女性」と「それを守護することになる相沢祐一」という設定は、『AIR』における「強い女性」と「女性と比較して弱く見える男性」という設定と明らかに好対照を為している。どちらが好みなのかは各人の好み次第であるが、この点では、私は『AIR』に軍配を上げたい。これはフェミニズム云々以前に、自立した「強い」女性が好きなゲーマーとしての個人的意見である。


(3-2-b)論証2・単純明快なハッピーエンドへの疑問符

 次に重要なポイントは、『AIR』のメインストーリーである神尾観鈴〜神奈〜神尾晴子のシナリオが、大団円・ハッピーエンドを迎えるという構成を取っていないことである。
 一応、神奈は空から助け出されるのだが、彼女を助け出した神尾観鈴は死を迎え、数年前に生まれた少女に転生することになる。無論、可愛い娘に死なれた神尾晴子と橘敬介にとっては完全な悲劇である。
 一方、主人公は転生を2回経験し、自らの精神崩壊を1回経験することになる。しかも、1回目の転生先はカラスであり、主人公は自ら積極的に行動することを禁じられる状況に陥ってしまう(“AIR”編での話)。転生前(人間)の時には「何かをしたいと考えているがその方法が分からない」姿が描かれ、1回目の転生後(カラス)の時には「何かをしたくてもその手段を封じられている」姿が描かれているのだ。しかも、主人公の為したことは事態の解決には直接役立っていない。最後には人間に転生できたものの、この転生をハッピーエンドと捉えることには些かの抵抗を覚えてしまう。
 結局、メインシナリオでは、当事者全員に何らかの悲劇・災難が不可避的に降り掛かり、全員が「傷を負った」状態で再出発を遂げることになる。安直なので使いたくはないが、これはもはや「運命」「宿命」と呼ぶべき性質のものかもしれない。

 ついでに言えば、遠野美凪シナリオでもみちるとの「死別」は不可避である。
 唯一、ハッピーエンドらしきものが描写されているのは霧島佳乃シナリオだけであろうか。

 プレーヤーにとっての救いは、遠野美凪シナリオと“AIR”編の最後に、その悲劇をバネにして前へ進んでいこうとする当事者達の姿がしっかりと描かれていることである。しかし、作品全体を包み込む雰囲気が悲しい涙を誘うものであることには違いない。また、『Kanon』のように、1回発生してしまった悲劇を全否定し、ストーリー全体を強引に大団円に誘導してしまうような「奇跡」は決して起こらない。そんなものがこのシナリオで発生したら明らかに興醒めである。


 以上を御覧になれば、私が『AIR』を『Kanon』のアンチテーゼとして捉えたことに一定の合理的理由が存在することを理解して頂けたのではないだろうか。


 それにしても、霧島佳乃シナリオだけが異質に取り扱われているような気がするのは私だけであろうか? 1回しかプレーしていないので、詳しいことは何とも言えないのだが……。


(4)ゲームシステムレビュー……ゲーム性を徹底して削ったソフトとしての『AIR』

 ここまではシナリオ面から『AIR』のレビューを行ってみた。シナリオ面から見れば、『AIR』は『Kanon』のアンチテーゼとしての側面を有しており、それ故、『Kanon』が気に入らなかった私としては、『AIR』の中に評価できる点を色々と見出すことができた。しかし、それでいてなお、『AIR』の主観評価が20点止まりになっている(主観評価の基準点は20点)のは、ゲームシステムのほうに問題があると考えたことに因る。そこで、今からはゲームシステム面から見た『AIR』のレビューを試みてみたい。

 冒頭にも書いたが、『AIR』のゲームシステムは、ストーリー描写を優先させる為、受動的で典型的な恋愛ADVの手法が用いられている。『Kanon』とほぼ一緒だと考えて頂ければ良い。
 ところが、本作品には選択肢が少な過ぎるのである。
 最も少ないのは“SUMMER”編。ここでは選択肢が1つも登場しない
 また、“DREAM”編遠野美凪シナリオや“AIR”編の後半では、1時間以上選択肢が登場しない場所が何ヶ所も登場するのである。また、“AIR”編そのものが事実上の1本道シナリオであり、選択肢にどれだけの意味があるのかまるで分からないというゲーム進行になっていた。選択肢に意味があるのは“DREAM”編前半のみであり、それ以外には全く選択肢に意味が無い(もしくは選択肢そのものが存在しない)。プレーヤーが為すべきことは、左クリック(もしくはCtrlキー)を使ってストーリーを読み進め、話の結末を見届けるのみである。
 プレーヤーがストーリーに介入する余地をここまで排除したゲームは珍しい。

 このようなゲームシステムを持つ『AIR』という作品に対して、どのような評価が可能であろうか?
 「昇華された演出と情感溢れる文章によって綴られた感動的なADV」とベタ褒めすることも可能であろうし、「演出が多過ぎる」と批判することも可能であろう。「さすがKey様」と礼賛することもできれば、「所詮はオタクの自己逃避の延長線」と非難することも不可能ではない。さすがに、「18禁シーンが駄目」と苦情を言うことだけは却下したい(18禁シーン目当てにKeyのソフトを買うのは金の無駄使いである)。

 そして、私はこういう評価を下した。

「『ゲーム』としては駄作。『ゲームに類似した創作』としては傑作に準ずる秀作」

 ここでいう「ゲームに類似した創作」というのは、「画像付きCDブック」もしくは「音楽付きCG漫画」と表現するのが最も適切であろう。

 何故このような表現になってしまったか──その理由は私なりのコンピュータゲーム観にある。

 そもそも、コンピュータゲームというメディアが持つ最大の特性はプレーヤーとゲームソフトとの双方向性である。そして、多くの場合、「双方向性」は「ゲーム性」という単語に置き換えることが可能である。
 ただし、ここでいう双方向性とは、単にボタンを押したらメッセージが先に進んだ、という程度の物を指しているのではない。プレーヤーがキャラクターやユニットを能動的に動かし、キャラクターやユニットに様々な異なった行動を取らせることによって、ゲームの中に「異なった未来」が出現する可能性が存在して、初めてゲームとして成立し、レベルの高い双方向性──ゲーム性が現出される……私はこう考えている。
 この解釈に立てば、『マインスイーパ』『TETRIS』『ぷよぷよ』のようなパズルゲームはまさに「ゲームの見本」となる。また、『大戦略』シリーズに代表されるSLGや、『DRAGON QUEST』『FINAL FANTASY』のようなRPGでは、敵との交戦時における戦略・戦術の多様性や戦闘バランスがゲーム性の優劣を左右することになる。恋愛ADVというジャンルでは、双方向性──ゲーム性は主としてストーリー分岐の内容・妥当性とストーリー分岐の方法によって形作られる。音楽・映像・文章などによる演出は、双方向性の増幅や感情移入には役立つものの、それ単体で双方向性を形成することはほぼ不可能である。

 念の為に言っておくが、「感情移入」と「双方向性/ゲーム性」は全く別物である。無論、感情移入がADVに重要であることは言うまでも無い。

 私のゲームのレビューコーナーに「システム(=ゲーム性+ゲームシステムの斬新さ・ユニークさ・面白さ)」という項目をわざわざ設置したのも、「ゲーム性のあるゲーム」を好む私にとっては、ゲーム性やゲームシステムの好悪・優劣を、ゲーム評価の判断材料から外すことは不可能であると感じたからである。私の書いているレビューで、受動的な返答によってのみストーリーが進むだけという典型的なADVに対して、批判的な態度を取りがちになるのも、その理由の75%はこの考え方にある(残り25%は『ONE』の主人公に誤って自分の名前を入力したことのトラウマである)。


 この考え方から言えば、『AIR』という作品──特に“SUMMER”編と“AIR”編は、ゲームの持つ双方向性/ゲーム性を限界すれすれまで排除してしまった作品であり、「ゲームというカテゴリーに分類すべきなのか怪しい作品」と言わざるを得なくなる。

※なお、この意見を『AIR』の持ち主だった人物に漏らしたところ、「ゲームのジャンルの捉え方が狭過ぎる」と批判された。
狭量なのは認めるが、『AIR』を「ゲーム」として絶賛するのだけは難しいような気がしてならないのだが……。



(5)『FFVII』との奇妙な類似性……「河を渡っちゃったもの」としての『AIR』

 さて、『AIR』をシナリオとゲームシステムの2面から分析してみたのだが、ここまで筆を進めてみたところで、自分がある奇妙な感覚に囚われていることに気が付いた。
 それは、「『AIR』と『FINAL FANTASY VII』ってどこか似ていないか?」ということである。
 無論、ゲームシステムや脚本が似ているわけではない。私が「似ている」と感じたのは、脚本・演出の派手さや脚本の一方通行性が強調されることによって、ゲームとは異質のメディアの姿が作品の中に見え隠れするようになったことである。

 かつて、『FINAL FANTASY VII』がPlayStationで発表された時のことを覚えていらっしゃるだろうか? プレーヤーがゲームに関与できる範囲が余りに小さいことを根拠に多数の批判が集まり、プレーを放棄したゲーマーが相当数いたのである。この時と同様、『AIR』で実践されたプレーヤーを排除したシナリオ進行には、賛否両論が集まっている。どちらの作品も、映像と音楽(『AIR』の場合はついでに文章)による演出効果には高い評価が付けられ、その一方でプレーヤーの介入可能性という観点から批判の声が上がっている点では一緒なのである。
 その先に見えた新しいメディアの姿は未だに明瞭かつ具体的な形を取って現れていないが、その方向性は比較的はっきりとしている。
 『FFVII』の場合はゲームと映画を融合させた娯楽作品である。
 そして、『AIR』の場合はゲームの持つ音楽・CG等の演出効果を活用した文芸作品になるのではないだろうか。

 付け加えて、両作品とも、当事のゲーム市場の規模から見れば記録的な大ヒットとなったことを指摘しておく。『FFVII』の場合は300万本以上を売っている。『AIR』は10万本単位のヒットであり『FFVII』には遠く及ばないものの、18禁ゲーム市場の規模を考えれば、10万本のセールスは家庭用ゲーム機市場で100万本以上を売った大ヒット作に相当する。ここまで多数のセールスを記録できるゲーム(及びゲーム会社)はそう滅多に現れない。
 更に付け加えて言えば、サウンドトラック(『AIR』ではアレンジ版CD)はどちらのソフトでも大人気。
 もっと付け加えて言えば、設定や脚本の説明不足が原因で難解なシナリオになってしまっているのはどちらも同じ。
 最後に付け加えるが、メインヒロイン(エアリス・ゲインズブール/神尾観鈴)が死ぬところまで一緒!

 ……ほら、似て見えてきたでしょ?

 『FFVII』サウンドトラックのベスト版である『FINAL FANTASY VII / Reunion Tracks』のブックレットには、こんな対話が書かれていた。

VIIは原石のダイアモンド
渋谷陽一:で、一番お好きなゲームはFFのVIIということで。それはやっぱり最新作だからという──。
植松伸夫:そうでうそうです。
渋谷陽一:めちゃくちゃわかりやすいですねえ。
植松伸夫:はははは。いや、僕結構いい線行ってると思うんですよね、VIIて。かと言って完成してるとは言いませんけど。あのー、自分らで言うのも何ですけど、原石のダイアモンドみたいな感じがするんですよね。また全然ゴツゴツしてるし、何だこれっていう、ダイアモンドが見えてない部分もいっぱいあるんですけど。もっともっと磨き込んでいったら、いわゆる巷で言われてるような新しいエンターテイメントのゲームになり得るものができるんではないでしょうかね。
渋谷陽一:僕はね、VIIっていうのはついに途中で止めてしまったクチなんですよ。
植松伸夫:ああ、わかりますわかります。
渋谷陽一:昔の、より古典的なRPGに近いものの方が好きで、ここまで作られちゃうと、なんか、やってんだかやらされてんだかわかんないという。もうごくごく一般的な、これが出た時に賛否両論のあった、その“否”の代表的なパターンなんですけどね。
植松伸夫:それねぇ、一番問題なんですよね、うちのゲームって。やってんだかやらされてんだかわからないっていうのは、結構昔っからそうですよね『ファイナルファンタジー』は。
渋谷陽一:そうですね。でもこのVIIっていうのは、それこそ河を渡っちゃいましたよね。
植松伸夫:う〜ん。だから誰も行ってないんで、次どこへ行っていいのかわかんないんですよね。手探りでやっていくしかないんで。
渋谷陽一:だから河を渡っちゃったものとしての完成度はもう素晴らしいですよね。素晴らしいけれども、渡りたくなかった人たちにとっては、なんか向こうに行ってしまったなあ、みたいな。で渡っちゃったものをこれだけ、300万人以上の人間が喜んでいるんだから、って言われりゃあ「はいはい」みたいな。だけど僕のFFが……みたいなね。
植松伸夫:ええ。それはあるとは思います。ただ……でも、誰かがやんなきゃならないんですよね。

(以上は『FINAL FANTASY VII / Reunion Tracks』ブックレット内に掲載された『the accidental dialogue 対談:植松伸夫×渋谷陽一』からの抜粋であり、文章の著作権は株式会社デジキューブに属する。なお、原典は白黒印刷であり、対談者の名前は省略形で書かれていたが、分かり易さを優先させるため敢えて修正させて頂いた)

 上述の文章の中で渋谷氏と植松氏が言及していた「河を渡っちゃったもの」という表現、「渡っちゃったもの」としての完成度の高さ、『FF』シリーズの問題点として指摘された「やってんだかやらされてんだかわからない」プレー感覚、「渡っちゃったもの」を大勢の人々が「喜んでいる」という事実──これらを現在の『AIR』に対する評価としてそのまま用いても、あながち間違いにはならないはずである。


 しかし、ここで私が述べた『FFVII』と『AIR』の類似性の論理には問題点がある。それは、Keyのスタッフがそこまで難しいことを考えて『AIR』を作ったのかどうか分からないことである。手元にスタッフのインタビュー記事が何1つ無いので、この疑問点に対する解答を提示することはできない。果たして、『AIR』のスタッフに、前出の植松伸夫氏が「誰かがやんなきゃならないんですよね」と述べたような覚悟があるのか、それとも、「河を渡っちゃったもの」になってしまった『AIR』からの方向転換を考えているのか、それとも自分達の感性の赴くままに作品を作ったら、芸術性は高いもののゲームとしては大きな問題点が転がっているソフトがいつの間にか完成していただけなのか……。一介のゲーマーとして答えを知りたいところである。
 ちなみに、『FFVII』以降のスクウェアは確信犯的に映像面の強化を進めている。

 そして、この「『FFVII』≒『AIR』」という理論構造が実際に正しかった場合、これは別の問題・疑問の源となる。

 まず第1に、この考え方は『AIR』のスタッフだけの意見なのかKeyの総意なのか不明である点。『AIR』のファンなら御存知であろうが、Keyという会社には麻枝准と久弥直樹という2人のシナリオライターが存在する。『ONE』『Kanon』は2人の合作であるが、キャラクター別のシナリオ作成は2人が分担して行っていた。
 ここで気になるのが、『ONE』から『AIR』に至る一連の作品で企画・脚本の中心して活動し続けた2人の間に、Keyの次回作をどのようなものにするか合意が図られているのかどうかである。私の記憶が正しければ、今回の企画は麻枝氏が中心となって進めたものであり、久弥氏はノータッチとまではいかなくてもそれに近い立場に立っていたらしいのである。もしも、ゲームのあり方──更には作風の差異を巡る久弥氏と麻枝氏の考え方の違いが存在し、それが解消されなかったとしたら、究極的にはKeyというブランドの分裂ということに繋がりかねない。

 続いて第2に、この新しい考え方はKeyのファン全てに受け入れられているとは到底思えない点。ファン専門の掲示板やらレビューサイトやらを覗いてみると、『AIR』に対する評価そのものは平均点・合格点を大きく上回っているものの、「『Kanon』と比較すると『AIR』の方が出来が悪い」という論調が色々な場所で見うけられるのである。そして、この「『Kanon』>『AIR』」という論調の根拠の1つが、(4)で触れたプレーヤーの不在なのである。

 最後に、Key以外の会社は『AIR』をどう捉えているのかということ。他人様の会社が作るソフトなので、気にしないで無視するという選択肢もありだろう。しかし、『Kanon』や『AIR』の成功に触発されて、その他のゲームソフトメーカー(これには一般向けも18禁向けも含まれる)が「右へ習え」と言わんばかりに類似したソフトばかりを作り出すとなると、これは好き嫌いの問題を超えた忌々しき事態となる。『Kanon』や『AIR』のようなソフトがADVの代名詞となり、その他のゲーム性・独創性に富んだADVが駆逐されてしまうのではないかと危惧しているのである。私がわざわざ『マンネリなギャルゲーに飽きた方へ』というコーナーを立ち上げて、ゲームシステムの面から見て面白いADVの発掘作業を進めているのも、このような危機意識を持っているからこそである。
 『FFVII』の場合、映像演出の強化という手法に対しては「映像だけではなく中身も重要」という声が上がっていた。その後、『FFVIII』の失敗(熱狂的スクウェアファンには好評でも他の場所で叩かれることが多いソフトだった)てよってゲームにおける脚本・ゲーム性の重要性が再認識されるようになり、映像演出を抑え余力を脚本・ゲーム性・操作性などの向上に回した大作RPG──例えば『DRAGON QUEST VII』──も登場するようになった。スクウェアも『FFVIII』の反省を活かし、洗練された完成度の高い脚本と華麗なCGの両方を備えたRPGの姿を『FFIX』で提示し、(セールス的には必ずしも成功とは言えなかったものの)『FFVIII』の汚名をかなり返上することに成功している。

 果たして、ADVを専門(?)に作るゲームメーカーに、『Kanon』や『AIR』で示された方法論とは異なるアプローチ──演出だけではなくゲーム性を重視する方向性でADVを作ろうとする無鉄砲で勇気あるメーカーはあるのだろうか。「『ゲーム』としてのゲーム」が好きな人間としては、そんな命知らずなゲームメーカーが活躍することを切に願わずにはいられない。


(6)後書き

 『Kanon』のアンチテーゼにして「ゲーム」と「文芸」の境界にあるもの。

 私が『AIR』に対して抱いた印象をまとめると以上のような言葉になる。
 Keyの作り出す次の作品が文字通り「ヴィジュアルな」ノベルになるのか、それともADVとしてのゲーム性を取り戻すのか──Keyのファンではない(どちらかという毛嫌いしている節がある)私にとってもつい気になってしまうところである。

 ……ここまでの論議とは全く関係無いことであるが、超常的な設定と「イノセントな」ヒロインは、次回作辺りで1回止めてみたほうが良いの思うのは、果たして私だけでだろうか?(5作目も同じだとプレーヤーが飽きるぞ)

 最後になったが、本文書作成の為に必要な資料とインスピレーションを与えて下さった各HP──特に「presented by tatuya」及び「Pasteltown Network」の運営者各位と、拙い文章と見にくいレイアウトを我慢して、ここまで読み勧めて下さった全ての方に深く感謝して、筆を置くことにしたい。



追記:「Key≒スクウェア」論は余りに馬鹿馬鹿し過ぎるし危険なので書けませんでした。
リクエストがあった場合には考慮します。



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関連リンク

-Key(『Kanon』『AIR』製作元)

SQUARE(『FINAL FANTASY』シリーズ製作元)

-presented by tatuya(TRPG・作品批評中心)

Pasteltown Network(アニメ・ゲーム等の情報交換サイト)[別館][本館]

『Miracles do not come true.……』(『Kanon』レビュー)

SROM様による『Air』レビュー


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