(0)注意 サブタイトルにあるように、本文章は『AIR』(Windows98以降)のレビューである。 前回、『Miracles do not come true.……』で、同社が出したゲームソフト『Kanon』に対し、かなり辛辣な批判文を書いてしまったため、その続編である『AIR』や、以前に製作された『ONE』『MOON』のレビューを書くべきかどうか、つい悩んでしまっていた。 しかし、Keyという会社の出すソフトに、賛否両論を含めた活発な論議を行わせるだけのパワーが秘められていることは確かであり、また、一連のソフトのプレーが、私の創作活動の指針・方針を再検討させる契機になっていることも確かである。『Kanon』の場合、文芸における写実主義と幻想主義の対立について考えさせられる契機になった。歴史解説書やテクノスリラーの文法で小説を書いている私の場合、どうしても写実主義のほうに軸足を置いてしまう傾向があるわけなのだが……。 さて、話を『AIR』に戻そう。 サイトとしてのスタンスを崩さないため必然的にそうなってしまったのか、単に私が「『ゲーム』好きだから」なのかは不明であるが、今回もまた批判文めいた文章になっている。前作『Kanon』ほどの悪評にはなっていないが、Keyのシナリオライターの書かれる文章に心から酔いしれておられる方や、KeyあるいはKey発足前のTactics作品を無条件で賛美する方──特に『Kanon』を熱狂的に支持する方は、以下の文章に目を通す前に、上述のことを一応考慮して頂くことを希望する。 あと、『AIR』『Kanon』のネタバレ情報が当然のように満載されている。未プレーの方は注意。 |
(1)ゲームとしての客観的データ 今回のレビュー対象となるソフトは、2000年9月にKeyが発表した18禁ADV(Windows98以降、95でも動いた……と思う)。 ストーリーの概略は以下の通りである。 作品の舞台となるのは日本のとある小さな港町。時期は梅雨が明け太陽が燦燦と照付ける2000年7月。主人公の国崎往人(以下「主人公」)は、行く当ても無くバスで旅行を続ける旅芸人。彼は人形を離れた場所から超能力らしき能力で動かし、その芸によって路銀を稼ぐ生活を送っていた。 彼は作品の舞台となる街で行き倒れ状態となっていたが、ここで不思議な雰囲気を持つ少女・神尾観鈴と出会う。そして、勧められるまま、主人公は神尾観鈴の自宅へ居候することになる。こうして、奇妙な旅芸人と不思議な少女達による幻想的なドラマが幕を開ける。 ゲームシステムとしては、ストーリー描写を優先させる為、受動的で典型的な恋愛ADVの手法が用いられている。『Kanon』とほぼ一緒だと考えて頂ければ良い。ただし、今回の『AIR』レビューでは、ゲームシステムについて踏み込んだ論議を行うので、簡単な説明はこの程度で切り上げたい(詳細はシステムレビューを参照のこと)。 18禁CG(全て純愛系)の存在価値が薄い点も前作通りである。この種のシーンを目当てにこのゲームをプレーする人は絶対にいないと思われるが、念の為に。 多分、このソフトも、1年くらい経った時点で、DreamCastかその後継機に移植されるのではないだろうか。 (追記:2000年8月26日/……と言ってる側からDC版発売の話が進んでいる。予想通りと言うべきか) 登場人物については、脚本レビューに合わせて紹介するので、ここでは省略させて頂く。 |
(2)APRIL FOOLが下した『AIR』に対する評価 さて、インターネットで本作品の情報を検索されたことのある方なら御存知だと思われるが、本作品は一部のファンから熱狂的な支持を集めることになった『Kanon』(1999年6月発表)の続編であり、どのような作品を作ったとしても批判されかねないという、製作者としては非常に困った状態の中での作品発表となった。実際、インターネット上では、『Kanon』のファンサイトを中心に、『Kanon』と本作品を比較して『Kanon』のほうがより優れていると判断する意見が多く見受けられた。 では、『Kanon』をこき下ろしてしまった私はどう考えたかというと、以下の通りになる。 参考までに、『Kanon』のレビューを右端に記載しておく。
つまり、『AIR』は『Kanon』より上、と判断を下したことになる。 では、今から、本作品において論議を呼ぶことになった2点──脚本とゲームシステムについて、個別に論議を行い、私なりの考えを提示してみることとする。 |
(3-1)脚本レビュー1……客観的情報 まずは客観的な情報の紹介から入りたい。最初に、本作品のヒロインとなる女性を全て紹介しよう。
現代編で登場するメインヒロイン達が例外無く幼くて「イノセントな」(火塚たつや氏・談)キャラクターである点は前作と同様であり、もはや「イノセントなヒロイン」がKeyという会社のブランドイメージとしてが定着してしまうのではないかとすら感じられるようになっている。ここまでは『Kanon』と殆ど一緒である。 本作品のストーリーの進め方であるが、ADVとしては特殊な方法が採用されている。具体的には以下の通り。
『Kanon』では時間の流れ方は不可逆的であり、途中で各ヒロインの個別シナリオへ突入したら、元へ戻ることは不可能になる。ところが、本作品では、各ヒロインのシナリオを全て説いた後に“SUMMER”『AIR』という2本のシナリオが追加され、この追加シナリオで“DREAM”編の謎を解く構造を取っている。無論、この会社のスタッフの常套手段として、設定情報は全て明かさず解答を明示していないため、難解さが漂う内容になっている。しかも、“DREAM”“AIR”編と“SUMMER”編で使われている用語がことごとく異なっている(これはスタッフが故意に修正した模様)ため、難解さに輪が掛かっている。プレーヤーは現代編と平安時代編の間に隠されている関連性を読み取らねばならず、こうすることによってようやくストーリーの全体像が把握できる構造になっている。このストーリー構成は興味深いものがあり、私は「脚本」の項でこれを評価している。 作品のメインテーマであるが、私は「親と子(特に母親と子)の絆」と「記憶(及びその継承)」の2本立てと考えている。前者だけを描写するのなら、神尾観鈴をただの重病人にしてしまえば(=輪廻転生なんて難しい設定は全て省略される)済む話である。かと言って、後者のみに主眼を置いて作品を作ったとしたら、“AIR”編後半の闘病記録は価値を持たなくなる。どちらか片方が欠落したとしても、今のスタイルでの『AIR』というゲームは成立し得なかったであろう。 |
(3-2)脚本レビュー2……『Kanon』のアンチテーゼとしての『AIR』 私が『AIR』というゲームの脚本を通じて強く感じたことが1つある。それは、 『AIR』は『Kanon』のアンチテーゼとして作られている可能性がある ──という考えである。 どうしてそういう考えに思い至ったのか、その理由は2つある。
以上を御覧になれば、私が『AIR』を『Kanon』のアンチテーゼとして捉えたことに一定の合理的理由が存在することを理解して頂けたのではないだろうか。 それにしても、霧島佳乃シナリオだけが異質に取り扱われているような気がするのは私だけであろうか? 1回しかプレーしていないので、詳しいことは何とも言えないのだが……。 |
(4)ゲームシステムレビュー……ゲーム性を徹底して削ったソフトとしての『AIR』 ここまではシナリオ面から『AIR』のレビューを行ってみた。シナリオ面から見れば、『AIR』は『Kanon』のアンチテーゼとしての側面を有しており、それ故、『Kanon』が気に入らなかった私としては、『AIR』の中に評価できる点を色々と見出すことができた。しかし、それでいてなお、『AIR』の主観評価が20点止まりになっている(主観評価の基準点は20点)のは、ゲームシステムのほうに問題があると考えたことに因る。そこで、今からはゲームシステム面から見た『AIR』のレビューを試みてみたい。 冒頭にも書いたが、『AIR』のゲームシステムは、ストーリー描写を優先させる為、受動的で典型的な恋愛ADVの手法が用いられている。『Kanon』とほぼ一緒だと考えて頂ければ良い。 ところが、本作品には選択肢が少な過ぎるのである。 最も少ないのは“SUMMER”編。ここでは選択肢が1つも登場しない。 また、“DREAM”編遠野美凪シナリオや“AIR”編の後半では、1時間以上選択肢が登場しない場所が何ヶ所も登場するのである。また、“AIR”編そのものが事実上の1本道シナリオであり、選択肢にどれだけの意味があるのかまるで分からないというゲーム進行になっていた。選択肢に意味があるのは“DREAM”編前半のみであり、それ以外には全く選択肢に意味が無い(もしくは選択肢そのものが存在しない)。プレーヤーが為すべきことは、左クリック(もしくはCtrlキー)を使ってストーリーを読み進め、話の結末を見届けるのみである。 プレーヤーがストーリーに介入する余地をここまで排除したゲームは珍しい。 このようなゲームシステムを持つ『AIR』という作品に対して、どのような評価が可能であろうか? 「昇華された演出と情感溢れる文章によって綴られた感動的なADV」とベタ褒めすることも可能であろうし、「演出が多過ぎる」と批判することも可能であろう。「さすがKey様」と礼賛することもできれば、「所詮はオタクの自己逃避の延長線」と非難することも不可能ではない。さすがに、「18禁シーンが駄目」と苦情を言うことだけは却下したい(18禁シーン目当てにKeyのソフトを買うのは金の無駄使いである)。 そして、私はこういう評価を下した。 「『ゲーム』としては駄作。『ゲームに類似した創作』としては傑作に準ずる秀作」 ここでいう「ゲームに類似した創作」というのは、「画像付きCDブック」もしくは「音楽付きCG漫画」と表現するのが最も適切であろう。 何故このような表現になってしまったか──その理由は私なりのコンピュータゲーム観にある。
この考え方から言えば、『AIR』という作品──特に“SUMMER”編と“AIR”編は、ゲームの持つ双方向性/ゲーム性を限界すれすれまで排除してしまった作品であり、「ゲームというカテゴリーに分類すべきなのか怪しい作品」と言わざるを得なくなる。 ※なお、この意見を『AIR』の持ち主だった人物に漏らしたところ、「ゲームのジャンルの捉え方が狭過ぎる」と批判された。 狭量なのは認めるが、『AIR』を「ゲーム」として絶賛するのだけは難しいような気がしてならないのだが……。 |
(5)『FFVII』との奇妙な類似性……「河を渡っちゃったもの」としての『AIR』 さて、『AIR』をシナリオとゲームシステムの2面から分析してみたのだが、ここまで筆を進めてみたところで、自分がある奇妙な感覚に囚われていることに気が付いた。 それは、「『AIR』と『FINAL FANTASY VII』ってどこか似ていないか?」ということである。 無論、ゲームシステムや脚本が似ているわけではない。私が「似ている」と感じたのは、脚本・演出の派手さや脚本の一方通行性が強調されることによって、ゲームとは異質のメディアの姿が作品の中に見え隠れするようになったことである。 かつて、『FINAL FANTASY VII』がPlayStationで発表された時のことを覚えていらっしゃるだろうか? プレーヤーがゲームに関与できる範囲が余りに小さいことを根拠に多数の批判が集まり、プレーを放棄したゲーマーが相当数いたのである。この時と同様、『AIR』で実践されたプレーヤーを排除したシナリオ進行には、賛否両論が集まっている。どちらの作品も、映像と音楽(『AIR』の場合はついでに文章)による演出効果には高い評価が付けられ、その一方でプレーヤーの介入可能性という観点から批判の声が上がっている点では一緒なのである。 その先に見えた新しいメディアの姿は未だに明瞭かつ具体的な形を取って現れていないが、その方向性は比較的はっきりとしている。 『FFVII』の場合はゲームと映画を融合させた娯楽作品である。 そして、『AIR』の場合はゲームの持つ音楽・CG等の演出効果を活用した文芸作品になるのではないだろうか。 付け加えて、両作品とも、当事のゲーム市場の規模から見れば記録的な大ヒットとなったことを指摘しておく。『FFVII』の場合は300万本以上を売っている。『AIR』は10万本単位のヒットであり『FFVII』には遠く及ばないものの、18禁ゲーム市場の規模を考えれば、10万本のセールスは家庭用ゲーム機市場で100万本以上を売った大ヒット作に相当する。ここまで多数のセールスを記録できるゲーム(及びゲーム会社)はそう滅多に現れない。 更に付け加えて言えば、サウンドトラック(『AIR』ではアレンジ版CD)はどちらのソフトでも大人気。 もっと付け加えて言えば、設定や脚本の説明不足が原因で難解なシナリオになってしまっているのはどちらも同じ。 最後に付け加えるが、メインヒロイン(エアリス・ゲインズブール/神尾観鈴)が死ぬところまで一緒! ……ほら、似て見えてきたでしょ? 『FFVII』サウンドトラックのベスト版である『FINAL FANTASY VII / Reunion Tracks』のブックレットには、こんな対話が書かれていた。
(以上は『FINAL FANTASY VII / Reunion Tracks』ブックレット内に掲載された『the accidental dialogue 対談:植松伸夫×渋谷陽一』からの抜粋であり、文章の著作権は株式会社デジキューブに属する。なお、原典は白黒印刷であり、対談者の名前は省略形で書かれていたが、分かり易さを優先させるため敢えて修正させて頂いた) 上述の文章の中で渋谷氏と植松氏が言及していた「河を渡っちゃったもの」という表現、「渡っちゃったもの」としての完成度の高さ、『FF』シリーズの問題点として指摘された「やってんだかやらされてんだかわからない」プレー感覚、「渡っちゃったもの」を大勢の人々が「喜んでいる」という事実──これらを現在の『AIR』に対する評価としてそのまま用いても、あながち間違いにはならないはずである。 しかし、ここで私が述べた『FFVII』と『AIR』の類似性の論理には問題点がある。それは、Keyのスタッフがそこまで難しいことを考えて『AIR』を作ったのかどうか分からないことである。手元にスタッフのインタビュー記事が何1つ無いので、この疑問点に対する解答を提示することはできない。果たして、『AIR』のスタッフに、前出の植松伸夫氏が「誰かがやんなきゃならないんですよね」と述べたような覚悟があるのか、それとも、「河を渡っちゃったもの」になってしまった『AIR』からの方向転換を考えているのか、それとも自分達の感性の赴くままに作品を作ったら、芸術性は高いもののゲームとしては大きな問題点が転がっているソフトがいつの間にか完成していただけなのか……。一介のゲーマーとして答えを知りたいところである。 ちなみに、『FFVII』以降のスクウェアは確信犯的に映像面の強化を進めている。 そして、この「『FFVII』≒『AIR』」という理論構造が実際に正しかった場合、これは別の問題・疑問の源となる。 まず第1に、この考え方は『AIR』のスタッフだけの意見なのかKeyの総意なのか不明である点。『AIR』のファンなら御存知であろうが、Keyという会社には麻枝准と久弥直樹という2人のシナリオライターが存在する。『ONE』『Kanon』は2人の合作であるが、キャラクター別のシナリオ作成は2人が分担して行っていた。 ここで気になるのが、『ONE』から『AIR』に至る一連の作品で企画・脚本の中心して活動し続けた2人の間に、Keyの次回作をどのようなものにするか合意が図られているのかどうかである。私の記憶が正しければ、今回の企画は麻枝氏が中心となって進めたものであり、久弥氏はノータッチとまではいかなくてもそれに近い立場に立っていたらしいのである。もしも、ゲームのあり方──更には作風の差異を巡る久弥氏と麻枝氏の考え方の違いが存在し、それが解消されなかったとしたら、究極的にはKeyというブランドの分裂ということに繋がりかねない。 続いて第2に、この新しい考え方はKeyのファン全てに受け入れられているとは到底思えない点。ファン専門の掲示板やらレビューサイトやらを覗いてみると、『AIR』に対する評価そのものは平均点・合格点を大きく上回っているものの、「『Kanon』と比較すると『AIR』の方が出来が悪い」という論調が色々な場所で見うけられるのである。そして、この「『Kanon』>『AIR』」という論調の根拠の1つが、(4)で触れたプレーヤーの不在なのである。 最後に、Key以外の会社は『AIR』をどう捉えているのかということ。他人様の会社が作るソフトなので、気にしないで無視するという選択肢もありだろう。しかし、『Kanon』や『AIR』の成功に触発されて、その他のゲームソフトメーカー(これには一般向けも18禁向けも含まれる)が「右へ習え」と言わんばかりに類似したソフトばかりを作り出すとなると、これは好き嫌いの問題を超えた忌々しき事態となる。『Kanon』や『AIR』のようなソフトがADVの代名詞となり、その他のゲーム性・独創性に富んだADVが駆逐されてしまうのではないかと危惧しているのである。私がわざわざ『マンネリなギャルゲーに飽きた方へ』というコーナーを立ち上げて、ゲームシステムの面から見て面白いADVの発掘作業を進めているのも、このような危機意識を持っているからこそである。 『FFVII』の場合、映像演出の強化という手法に対しては「映像だけではなく中身も重要」という声が上がっていた。その後、『FFVIII』の失敗(熱狂的スクウェアファンには好評でも他の場所で叩かれることが多いソフトだった)てよってゲームにおける脚本・ゲーム性の重要性が再認識されるようになり、映像演出を抑え余力を脚本・ゲーム性・操作性などの向上に回した大作RPG──例えば『DRAGON QUEST VII』──も登場するようになった。スクウェアも『FFVIII』の反省を活かし、洗練された完成度の高い脚本と華麗なCGの両方を備えたRPGの姿を『FFIX』で提示し、(セールス的には必ずしも成功とは言えなかったものの)『FFVIII』の汚名をかなり返上することに成功している。 果たして、ADVを専門(?)に作るゲームメーカーに、『Kanon』や『AIR』で示された方法論とは異なるアプローチ──演出だけではなくゲーム性を重視する方向性でADVを作ろうとする無鉄砲で勇気あるメーカーはあるのだろうか。「『ゲーム』としてのゲーム」が好きな人間としては、そんな命知らずなゲームメーカーが活躍することを切に願わずにはいられない。 |
(6)後書き 『Kanon』のアンチテーゼにして「ゲーム」と「文芸」の境界にあるもの。 私が『AIR』に対して抱いた印象をまとめると以上のような言葉になる。 Keyの作り出す次の作品が文字通り「ヴィジュアルな」ノベルになるのか、それともADVとしてのゲーム性を取り戻すのか──Keyのファンではない(どちらかという毛嫌いしている節がある)私にとってもつい気になってしまうところである。 ……ここまでの論議とは全く関係無いことであるが、超常的な設定と「イノセントな」ヒロインは、次回作辺りで1回止めてみたほうが良いの思うのは、果たして私だけでだろうか?(5作目も同じだとプレーヤーが飽きるぞ) 最後になったが、本文書作成の為に必要な資料とインスピレーションを与えて下さった各HP──特に「presented by tatuya」及び「Pasteltown Network」の運営者各位と、拙い文章と見にくいレイアウトを我慢して、ここまで読み勧めて下さった全ての方に深く感謝して、筆を置くことにしたい。 追記:「Key≒スクウェア」論は余りに馬鹿馬鹿し過ぎるし危険なので書けませんでした。 リクエストがあった場合には考慮します。 |