(0)注意 本文章は、「THE CONSUMER」に掲載された拙文『Analysis of Multi』(ぎぃす・はわぁど氏の『ToHeart』レビューの補遺)の原文である。 |
(1)最初に 恋愛ADVの金字塔的な作品として知られている『ToHeart』。淡い色彩のグラフィックやゲームの雰囲気にマッチした音楽、卓越したシナリオライターの腕前など、本作品に対する評価点を挙げればきりが無い。 だが、『ToHeart』を語る上でどうしても無視できない存在がある。その名前はマルチ。PC版の人気投票では4割以上の得票を集め、その人気はPC版が発売されてからも衰えること無く今までも続いている。今日でも、『ToHeart』関連サイトにアクセスすれば、その人気ぶりの高さ(そしてその極端さ)を窺い知ることができる。そこで、社会情報研究所第1回目の「刊行物」として、今回はマルチについて個人的な拙論を展開してみたい。 |
(2)マルチとセリオに関する客観的事実 まずは、本サイトで初めて『ToHeart』やマルチの存在について知った方の為に、マルチに関する簡単な説明を行いたい。『ToHeart』経験者はこの部分を飛ばしてもらっても結構である。 マルチの正式名称はHMX-12型。身長147cm。誕生日は3月19日。 来栖川電工第7研究室HM開発課が作成した最新型汎用アンドロイドの試作機で、HMX-13型(通称セリオ)と同時に開発された。主人公達が通う学校にマルチが現れたのは8日間限定で試験運用を行うため。掃除を最も得意とするらしく、試験運用中はほぼ毎日のように廊下をモップで磨く日々を送っている。主人公の自宅に招かれた時にも、その才能(?)を遺憾なく発揮する。ただし、その他の機能はセリオほどには器用に作られていないようで、料理の本を見ながらスパゲッティミートソースを作ろうとしたら、完成したのが「ミートせんべい」だった……というようなイベントも用意されている。また、エアホッケーで見せた異様に遅い反応からも伺えるように、機敏な動作も苦手としているようである。 彼女の設計コンセプトは「人間により近いロボット」。外見は人間の女性そのままである(アンテナ状の飾りの下には普通の耳が用意されている)し、涙腺や汗腺、呼吸器を模した機能も用意されている。動力源は基本的には電力であり、1日3回の充電作業が必要。料理や掃除を普通にこなせるところを見ると、生活防水機能も備わっていると見るべきであろう。PC版をプレーされた方ならば、肉体面における彼女の作りが徹底して人間と類似していることにお気付きであろう(聞いた話では、18禁シーンも普通の人間と同様に成立していたようだし)。彼女の精神面については、ここでは省略させていただく。 一方、彼女と同時に試験運用に掛けられていたHMX-13型ことセリオの設計コンセプトは「徹底的な機能性重視」。外見はマルチより若干年上に作られている。通信衛星を介して来栖川のデータベースにアクセスし、同社のホストコンピュータからデータやプログラムを一時的にダウンロードすることによって、様々な分野のプロフェッショナルになることが可能である。 |
(3)マルチシナリオの内容 マルチと主人公が最初に会うのは、マルチが荷物(確かコピー用紙の詰まったダンボールだったと思う)を運んでいる時にバランスを崩して倒れそうになった瞬間。この時、主人公がマルチを手伝ったことがきっかけとなり、両者の関係がスタートする。その後、2人は放課後の廊下や昼休みの食堂などで繰り返し顔を合わせることになる。また、犬にクッキーをあげているマルチの姿を主人公が見掛けることもある。 試験運用が終わりに近付くにつれ、彼らの関係は親密なものとなる。放課後にゲームセンターでエアホッケーに興じたり、日曜日にマルチが主人公の家を訪れたりする。そして、試験運用の最終日である日曜日の午後に彼らは遊園地へ出掛ける。だが、観覧車の中で、再会の約束を求める主人公に対し、マルチは衝撃的な事実を説明する。運用試験が終了した後、彼女の「心」は新型アンドロイド開発用のデータとして活用された後、来栖川電工のホストコンピュータの中に凍結されてしまう、と。目前に迫ったマルチの「死」を目前にして、主人公は狼狽し嘆き悲しむ。しかし、彼女は自分が「犠牲」になることに対して覚悟を固めていた。そして、主人公に対してこう言った。「あいしてます、[主人公名]さん……」と。 主人公が大学に進んだ後、彼は量産型として販売されていたHMX-12型を購入する。外見はマルチそのままであったが、そこにはかつてのマルチの「心」は見られなかった。だが、HMX-12型購入の数日後、来栖川電工の長瀬源五郎と名乗る人物から小包が送られてくる。その中身は、遊園地で主人公がマルチにプレゼントした麦藁帽子と、マルチの思考・記憶プログラム──「心」が詰まっていたディスクであった。彼は急いで部屋に戻りプログラムをインストールする。目を覚ましたHMX-12型── ──そして、遊園地での別れを最後に凍り付いていた時間が、再び動き始める。 PC版は18禁ゲームとして作成されていたため、途中に(省略)なシーンが挿入される(私がプレーしたのはPS版なので、Win版の正確な内容はあまり知らない)。 ストーリーを極端に単純化すれば、ほのぼのとした「癒し系」キャラとの間で展開される「永遠の別れという悲劇→再会を果たすという奇跡」というストーリーであろう。その背景に、「人格・感情を備えたアンドロイドの要・不要」というテーマが存在しているように見える。 |
(4)マルチの精神構造 さて、ここから本題に入る。 『ToHeart』では、主人公がマルチのことを「人間らしいアンドロイド」「人間よりも人間らしい心を持っている」というように捉え、最終的には「愛情」を抱くほどまでに両者の関係は進行する。彼がマルチを気に入った最大の理由は、説明するまでもなく、その心であろう。 では、主人公が「人間らしい」と考えていたマルチの精神構造はどのような作りになっていたのであろうか? まずは、本文中に登場する語句や会話から判明する事実、推測可能な事実を列挙しよう。
以上に列挙したマルチの精神構造の中で、注意が必要になるのは(e)と(f)と(h)と(i)の4点である。 (e)で記述したマルチの低スペックぶりとどじで間抜けな行動は説明不要であろう。 次に、(f)の「『怒り』の表情を見せたことが無い」という点。普通の人間ならば、怒りの表情を見せても良さそうな場面がストーリー中に何度も登場するが、彼女は怒りを露にする反応を見せなかったのである。例えば、主人公が掃除中のマルチに声を掛けた後、物陰に隠れマルチを数十分間放置した事件。主人公に対して「何故すぐに声をかけなかったのか」と問い質したり、「悪戯目的で声を掛けたのか」と怒りを露にする反応も見せられたりしたのであろうが、ここで彼女が見せた反応は、「行方不明」になった主人公のことを心配していたという言葉と、今にも泣き出しそうな表情であった。他にも、「どうして自分はどじで間抜けになっているのか」という、普通の人間ならば当然の疑問として発せられるであろう言葉を彼女が一度も口に出していない点や、明らかに悪戯目的であるPS本体の注文(高校内にある売店への買い物リストの中に「ぷれすて1個」と書かれていた)を彼女が真に受けて履行しようとしていた点など、マルチは「人間らしい」とは必ずしも言い難い言動を何度も見せているのである。 そして、(h)と(i)。プログラムの中に「人間には絶対に逆らえない」というようなプログラムが組み込まれているわけではなく、この点においては人間としての自由意思が存在するかのような外観が備わっている。ところが、彼女の思考ルーチンの中には「自分自身がアンドロイドであることは常に意識している」「常に誰かの役に立ちたいと考えている」「人間の役に立てることに喜びを感じる」というプログラムが事前に用意されている。実際、彼女は口癖のように「誰かの役に立ちたい」と語っている。しかも、本人はそのことに疑念を抱いておらず、「どういう経緯でこういう考え方が備わったのか」と考えたことも無いようだ。 個別に見れば問題が全く無いように感じられるかもしれないが、全てを繋ぎ合わせて考えてみると、そこに浮かび上がるのは、人間に対して従順な姿勢を取り続けるアンドロイドとしてのマルチであり、そこに見られるのは「心」ではなく「プログラム」である。「人間っぽい」行動と言動・思考回路を見せているが、あくまでも「人間に近い」と表現することしかできない。 なお、PC版では、マルチは主人公に対して「御主人様」という表現を使っており、「マルチは所詮アンドロイドに過ぎず、主人公に対して見せる言動もプログラムの結果に過ぎない」という上記の推論を補強する形になっている。だが、一般ユーザーの間では、この発言を巡り賛否両論が沸き起こっていたらしい。PS版では「御主人様」発言は削除されている。 |
(5)マルチの設計目的 以上の論議で、マルチの姿が「判明」した。すると、その先に登場するのはある1つの疑問である。 それは「マルチを商品化する意図はあったのか?」ということ。 マルチがアンドロイドとして商品化されるとしたら、その用途は以下の2つのいずれかになるであろう。 第1に、アンドロイドが本来持っている奉仕精神と、ほのぼのとした癒し系の「外観」を活用し、老人(または傷病者)介護用のロボットとして販売する場合。ただし、この場合には、マルチ自身の能力を強化して「どじで間抜けな」という部分を削除する必要に迫られる。 第2に、マルチを一種のセクサロイドとして販売する場合が考えられる。これは主としてPC版向きのアイデアである。この場合は、現在の思考プログラムと低スペックをそのまま継承しても問題は無くなる。 しかし、もしも、マルチの開発者である長瀬源五郎達が、商品化を端から念頭に置かず、個人的趣味だけでマルチを作ったとしたら、道徳的にかなり危険な結論が導き出されてしまうことになる。開発責任者の「『理想の女性』に対する支配願望」が結実した姿としてマルチが存在する──自分にとって都合の良い人格(マルチの場合はどじで間抜けな性格)の持ち主を作り出し、かなり強力な「奉仕」の思考回路を組み込むことによって主人に対する反逆を抑え、「理想の女性」として半永久的に支配する──という危険な解釈が成立しかねないのである。この場合、マルチは設計者の自己満足と支配願望を満たすためだけの装置に過ぎなくなってしまう。この点について、設計者自身は何も述べていないため、この推論の真偽は余人の知るところではない。 ただ、長瀬源五郎達が「ロボット/アンドロイドとしてはセリオよりもマルチのほうが理想的である」という確固とした信念を抱いていことは確かであり、彼らはそれを具体化させている。そして、主人公や神岸あかりはマルチの持つ「人間らしさ」を肯定的に捉えており、主人公に至っては「マルチのほうが普通の人間よりも人間らしい」と考えている(この考えは長瀬源五郎の発想と通じるところが多い)。また、長瀬源五郎自身が「デジタル技術を駆使して精巧なアナログ時計を作ったとしても、それは開発者の自己満足でしかない」と漏らしているように、彼らは自分達の信念の危険性にも(少しは)気付いているようである。 一方、マルチの設計思想に関しては、別の角度からの批判も可能である。それはマルチを低スペックにした開発者の行為には問題があるのではないかということである。本来ならばもっと高スペックにすることが可能であったのに、それを敢えて放棄して低スペックにして、どじで間抜けという行動パターンを「植え付けられた」マルチ。彼女が持っている向上心とひたむきに努力する姿勢の一因として、彼女の低スペック性が存在することは否定できない。だが、人間らしさを強調するが為に、故意にマルチを低スペックにしてしまったようにも感じられる。これは道徳的に許される範囲を逸脱した行為ではないのだろうか。 いずれにせよ、長瀬源五郎達の行為に、重大な道徳上の疑念が生じることは間違い無いようである。 |
(6)最後に 10kbを超える駄文であり、明らかな目汚しになってしまった。反省することしきりである。 しかし、一見すると感激物の王道パターンを例外無く踏襲したストーリーと、その独特(奇抜?)なキャラクターによって高い人気を集めているマルチシナリオも、一歩踏み込んだ分析を行うと、「感激物」「ハッピーエンド」と安易に片付けられることが許されなくなるような問題提起が浮かび上がってくる。 単純なハッピーエンドでは終わらせないような両面性のある深いストーリーを用意できたことは、『ToHeart』シナリオライターの腕の凄さを暗に物語っているようにも感じられる。 ──読者の皆さんはどのようにお考えであろうか? 最後になったが、拙稿の執筆に際して、私の馬鹿な発想を吟味するという暇潰しに付き合って下さったD・Y氏及びY・N氏(東京大学)、T・H氏(慶応大学)に対する深い感謝の意を表し、筆を置くこととしたい。 |