シチルの攻防−回想・紫苑−
朝霧 水菜
―時間は数日前、まだ、紅月夜がバライの街にて休養している頃に遡る。
「この辺りかニャ・・・」
クレア軍・シチル防衛部隊が陣を構えているシチル川のほとりで、紫苑は呟いた。
周りをクレアの兵士達が慌しく駆け回っているが、
誰も彼女の存在を気に留める様子はない。
まあ、それもそのはず―何故なら、彼女は猫なのだから。
こんな慌しい戦場では、誰にも気に留められないはずだ―本来ならば。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ・・・・っ!!」
突然、背後―それもかなり近く―から響いた声(叫び?)に驚き、
ビクッ、と背中を震わせて振り返り、見やると、
そこには、まあ、外見上は普通であるだろうと思われる男がいた。
その顔に妖しさ満点の喜悦を浮かべている以外は、だが。
男に、本能的に危険を感じ、思わず、数歩、後ずさる。
「何て、カワイイんだっ!こんな猫がクレアにも居たなんて・・・
い、いや、でもっ!向こうには、何と言ってもメイリィさんが居るんだし・・・・」
ぶつぶつ、と何かを言いながら、突き出した手の指を妖しく動かし、
紫苑が後ずさった分だけ―いや、それ以上に近寄ってくる男。
「ああ、やっぱりそれでもカワイイッ!!」
「ふにゃああああああっ!!!」
自らの体が捕らえられるよりも早く、紫苑は、脱兎の如く逃げ出していた・・・
「はぁ、はぁ・・・危なかったニャ。
さっきのは、一体、何だったんだニャ・・・?」
無事、男から逃げ切って、紫苑は荒い息を落ち着けながら歩いていた。
逃げる時に夢中で走り回ったせいか、かなり陣の深くまで来てしまったようだ。
既に前衛部隊からは離れ、後続部隊の陣に入っている。
(それにしても・・・さっきの男、メイリィがどうとか言ってたニャ・・・・)
息が落ち着いてくると共に、段々と普段の冷静さを取り戻してきた思考で、
先程の男の言動を改めて思い出す―少なくとも、紫苑は軍関係者で、
紅月夜副官を努めているあの少女以外で、『メイリィ』という名前を知らない。
(・・・・・これは・・俗に言う、『メイドモエ』とかいうやつなのかニャ?)
やはり―一部の―人間の趣向は理解し難い。
そう、胸中で呟いた時だった―不意に、その体をひょい、と摘み上げられたのは。
時雨がエアードの待機している天幕に入ってきたのは、彼が諜報部隊からの、
現在のシチルの戦況についての報告書に目を通している時だった。
「猫・・・・・・?」
言われて、情けなさそうに時雨に首を掴まれて持ち上げられている、
見るからに不幸を呼んできてくれそうな黒猫を見やる。
「そうだな・・・そこに置いておいてくれ」
言って、目の前にある作戦会議などに使う大机を指す。
「はぁ・・・エアード将軍、猫はお好きでしたっけ?」
その返事が予想外の物であったのか、
明らかに困惑しながらも時雨が黒猫を机の上に置く。
黒猫は既に観念したのか、手を離されても逃げ出す様子はない。
「猫にでも癒されないと・・・やってられないんだよ(==;」
「そ、そうなんですか・・・」
エアードの嘆息に、何やら身に覚えでもあるのか、
冷や汗を浮かべつつ、そそくさと時雨が天幕から出ていく。
その気配が完全に遠ざかったのを確認して、ようやく、エアードが口を開いた。
「そろそろ話してもいいんじゃないか、紫苑?」
言って、ちょこんと大人しそうに丸まっていた黒猫―紫苑を見やる。
この黒猫がここに居るという事は、水菜もいずれこの戦線に戻ってくるという事。
思えば、それは、確かに不幸かもしれなかった―どちらにとってかは、わからないが。
「ああ、それはコマだな・・・(−−;」
紫苑から一連の事情を聞いたエアードは、嘆息と共にその名を呟いた。
偵察に来た事、この陣まで来るつもりはなかった事、
途中で変な男に追い掛け回された事、などなど・・・
「アイツ・・・本当にお前が目当ての黒猫だって、気づかなかったのか・・・」
まあ、敢えてそれを教えに行ってやる必要もないだろう、と胸中で付け加える。
「本当に酷い目に遭ったニャ・・・けど、ここで会えたのは丁度良かったニャ」
その時の事を思い出してか、身震いをしながら、紫苑が毛づくろいをやめる。
「そういや、お前がここに来ているって事は、水菜も――」
「単刀直入に言うニャ。どうしてあの時、主と戦ったんだニャ?」
「戻ってくるんだよな・・・って、おいっ!!」
間に割り込むように、さらりと、とんでもない事を口にした紫苑に、思わず突っ込む。
「仕方ないだろうが・・・それに、仕掛けてきたのはお前らからだろ?」
俺は一騎打ちを申し込まれたから、それに応じた―それだけのはずだ。
「確かに・・・それについては謝るニャ」
珍しく―と言っても、まだ会って2度目だが―紫苑が素直に謝り、頭を下げる。
次に、顔を上げた紫苑の表情に浮かんでいたのは、微かな焦りの色だった。
「今でこそメイリィが居るから、離れられるけどニャ・・・
主は、アタシが姿を消しただけでパニックを起こすほど、情緒不安定なんだニャ」
その、紫苑の言葉を否定しようとして―それを否定できない事に気づく。
初めて会った時からの不安げな表情と、戦場での別人のような感情の欠落。
普段の水菜からすれば、兵士を殺すのも、殺されるのも、到底、耐えられないはずだ。
となると―辿り着いた結論は、余りにも馬鹿馬鹿しくて、けど、笑えない物だった。
「アイツの戦場での豹変・・・あれはマインドセットじゃなくて、現実逃避だったのか」
現実から逃げなければ、とっくに、水菜は廃人か、本物の殺人狂だろう。
「昔はそうでもなかったんだけどニャ・・・
家の掟で父親を実の弟に目の前で殺されて、その弟にも離れられて・・・
誰かに依存しないと、その心の安定を保てなくなってしまったんだニャ」
“聞くな”―そう、心の奥底で誰かが叫んでいる。
“聞けば、いざ、殺すときに躊躇いが生じてしまうだろう”と。
(それでも・・・何も知らないでいるよりは、遥にマシだ・・・・)
その“声”を一言で振り払って、改めて紫苑を見やった。
こちらの様子には気づかなかったのか、紫苑は切々と続ける。
「もし、ここでアンタを主が殺すような事があれば・・・
主の心は、間違いなく、壊れてしまうニャ」
それは間違いないだろう―アイツは既に俺にも依存してしまっている。
(つい、半年前に・・・そういう相手を殺したヤツだってのにな)
自虐的な思考に、思わず、表情には出さずに苦笑を漏らす。
「それで・・・お前は俺に、どうして欲しいんだ?」
聞かなくても、大体の予想はできたが―それでも聞いておきたかった。
自分の中で、色々な感情に区切りをつける意味でも。
「次に主と戦場で刃を交えるような事があれば・・・
その時は、主を止めて欲しいニャ。それだけだニャ」
本当に、それだけ、とでも言わんばかりに、
ひょい、と紫苑が机から飛び降りて、天幕から出て行こうとする。
けれど、俺はその背中に話しかけていた―今度こそ、相手の答えを確信して。
「俺がアイツを殺してしまうかもしれないが、いいのか?」
その言葉に、紫苑はただ、一度だけ振り返って、俺を見やる。
“それでも構わない”―その瞳は、確かにそう、語っていた。
「はぁ・・・相変わらず、理不尽だな・・・・俺の人生って」
呟いて、壁に立てかけてあったスカイハイを取る。
「あれ? エアード将軍、さっきの猫はどうしたんですか?」
そんな時、その手に煮干と牛乳を持って、時雨が現れる。
どうやら紫苑に餌をあげるつもりだったようだ。
「逃げられたよ。どうやら、俺は猫にまで見放されたらしい。
それより、俺の部隊の兵士に伝えておけ。前に出る、ってな」
皮肉っぽく笑いながら、スカイハイを背中に背負う。
(やれるだけ、やってみるか・・・)
或いは、これでお互い無事に水菜を止める事ができれば、
それで拭えない小雪との事にも、気持ちの整理がつくかもしれない。
そう考えながら、エアードは、胸中でそう呟いていた・・・
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