プロローグ
/ 本編(2)
(1)
4976年7月11日 20:07
リマリック帝国領レイゴーステム、宿屋《タイクーン・グラハム》
──へえ……ここが《タイクーン・グラハム》か……。
僅か7日前に17歳の誕生日を迎えたシルヴァイル・ブロスティンは、レイゴーステム有数の宿《タイクーン・グラハム》の扉を見て溜息を漏らしていた。彼の目には、その木製の扉は眼前に聳(そび)え立つ石の城壁であるかのように映っていた。
彼が今から足を踏み入れようとしている場所は、レイゴーステムでは4軒しかない「冒険者の店」の1つである。レイゴーステムとその周りから様々な人々が集まり、建物の中で同好の士と語り合い気の合った仲間を見つけ、そして一攫千金を目指して別の地へ旅立っていく場所──これが冒険者の宿である。特に、リマリック帝国の場合、建国者のエディオス・アリム・リマリックが冒険者としても著名であったため、多くの若者達が「第2のエディオス」になるべく、冒険者の宿に足を運んでいたのである。無論、冒険には危険は付き物であり、3人に1人は天寿を全うすることができず冒険先の見知らぬ土地で葬られていた。しかし、今の彼にとって、この宿屋──そして冒険者への道は唯一の選択であった。これは彼自身の選択であったが、客観的に見れば、彼には選択肢が事実上与えられていなかったのである。
4959年7月4日、彼はシルクス在住の戦争神マレバス司祭の夫婦の間に、次男として生まれた。幼い頃から、兄や父と共に剣の練習に励み、戦争神マレバスの教典にも数多く目を通し、両親と同じマレバスの神官戦士になるべく鍛えられていた。しかし、12歳になって彼がマレバス神殿に入ろうとした時、当時のシルクス神殿長(司教)は、家族に対して衝撃的な事実を告白した。「シルヴァイル・ブロスティンは神聖魔法を習得することができない」と。彼は神聖魔法を習得する為に必要な素質が足りず、聖職者としての道を生まれながらにして閉ざされていたのである。
最初、この告白は家族を大いに困惑させた。だが、この告白によって、シルヴァイルと彼の家族達は、彼の持つ新しい可能性を真剣に考慮することになった。エルドール大陸で使われている魔法の1つであり、シルヴァイルが習得できないと判断された神聖魔法には、「頭が切れ過ぎる人間には使いこなすことができない」という奇妙な特性が存在していた。両親はシルクス神殿長の言葉を聞き、「ひょっとしたら、この子は頭が良過ぎたから神聖魔法が使えなかったのではないか」と思ったのである。そして、この両親の推測は正鵠を射ていた。シルヴァイルが両親とマレバス神殿の勧めで商業神クリーヴスや技術神ナランド、知識神シャーンズの神殿に通うようになってから、彼は周囲の誰もが驚くほど多数の知識を次々と学んでいった。
彼が冒険者としての旅に出発したのは、今から5日前──4976年7月6日のことであった。祖先が代々マレバスの神官戦士であったブロスティン家では、17歳の誕生日を迎えた人間を、男女の別無く4年間冒険者として修行させることにしていた。無論、祖先や親戚達の中には、この「大人になる為の通過儀礼」を突破することができず、家族の元に物言わぬ姿に成り果てて戻って来る者も少なくなかった。幸運なことに、5歳年上である彼の兄は無事に帰還することができ、シルクスのマレバス神殿で親戚と信者達の拍手で迎えられていた。
そして、次はシルヴァイルの番だった。6日の朝、両親や兄はシルヴァイルとの一時の別れを惜しみ、母親に至っては「これが今生の別れになるかもしれない」と涙を流していた。だが、彼はこの冒険の先行きを楽観し、期待に胸を膨らませていた。彼の心中に不安が無いと言えば嘘になる。しかし、今の彼にとっては、旅先で死ぬかもしれないという恐怖感よりも、未知との遭遇への期待感のほうが大きかった。
──これで、僕も冒険者の仲間入りか……。
シルヴァイル・ブロスティンは左手を腰に当てた。その手のひらが触れたのは、父親から譲り受けた銀のシミターだった。兄の冒険でも使われたマジックアイテムであり、その切れ味の良さと使い心地の良さは、父や兄が語って聞かせた武勇伝の端々で紹介されていた。シルヴァイル自身も、このシミターで藁人形相手に試し切りをしたことがあるが、彼らの言う通り、切れ味と使い心地は抜群に良かった。そして、シルヴァイルはこの銀の刃に命を預けることにしたのである。
レイゴーステムまでの道中、彼はタバコの行商人の一団に混じっていた。あわよくば、この行商人達に護衛として雇ってもらおうと考えていたのである。しかし、リマリックから来たというタバコ商人は、シルヴァイルの願いを断った。他の護衛達が全員20代や30代の男性で占められている中、まだ成人(18歳)にも達していないシルヴァイルの存在は、一時の客として迎えるには丁度良くても、数年に及ぶ長旅を共にする相手としては邪魔になるだけだ──商人は少年の心を傷つけないよう言葉を選びながら、就職を許可できない理由を説明した。そして、失望するシルヴァイルの為に、レイゴーステムで最も多くの冒険者が集まるという宿《タイクーン・グラハム》のことを教え、この宿で自分に合った冒険者仲間を見つけるよう進言した。シルヴァイルは商人の言葉に失望すると共に感謝しながら、今から1時間前にタバコ行商人の一団を離れた。そして、この親切な男の勧めてくれた《タイクーン・グラハム》へと足を向けたのである。
──さて……ここにいい人がいるといいけど……。
「あれ、どうしたの?」
扉を見ては溜息を吐いていたシルヴァイルの背中に女性の声が掛かった。彼が後を振りかえると、そこにはローブを羽織った背の低い女性が立っていた。僅かに尖った耳と人懐っこそうな笑顔、そしてこの歳の女性にしては筋肉質な体格をした彼女の姿を見て、シルヴァイルは思ったことをそのまま口に出してしまっていた。「君は……ドワーフ?」
「そう。良く気付いたね」ドワーフの女性は頷いた。
「シルクスにいた時、先生だったナランド神殿の司祭様が女性のドワーフだったんだ」
「へえ……あなた、ナランド様の神殿に行ってたの……。珍しい……」
シルヴァイルは首を傾げた。「そんなに珍しい?」
「ええ。だって、この辺りでは、竜神様か道徳神ラミア様、それに農業神ファルーザ様の神殿に行くのが相場だから。ナランド様の神殿に通うのって、私のようなドワーフか盗賊だけだし」
「へえ……そうだったのか……」
「……まあ、シルクスのような都会と、レイゴーステムのような田舎町では、話が違ってるかもしれないけど」ドワーフの女性は微笑んだ。「とりあえず、ボーっと突っ立ってないで、中に入らない? このままだと、他のお客さんの邪魔になるでしょ?」
「ああ……そうだね」
シルヴァイルは頷くと、自分よりも背の低いドワーフの女性の後について、《タイクーン・グラハム》店内へ足を踏み入れた。夜の闇と静寂に包まれたレイゴーステムの街とは異なり、店の中はマジックアイテムである永久照明の光と、酒を片手に自慢話に華を咲かせる冒険者達の喧騒で溢れかえっていた。シルヴァイルには、店の中だけがまだ昼間であるかのような錯覚に陥っていた。
「おや、いらっしゃい」口髭を生やした宿屋の主人が2人に話しかけた。
「はじめまして」シルヴァイルは頭を下げた。
「おや……君は初めて見る顔だな。名前を教えてもらえるか?」
「シルヴァイル・ブロスティンです」
主人は宿帳に少年の名前を書きとめた。「聞き慣れない名前だ。レイゴーステムは初めて?」
「はい」シルヴァイルは頷いた。
「それならば……誰か、仲間になる冒険者が必要だな」主人はそう言ってドワーフの女性のほうを向いた。「そう言えば、リスティルのパーティーには専業の戦士が足りなかったそうだな?」
リスティルは苦笑いを浮かべて言った。「確かに足りないと言えば足りないけど、私のパーティーはたったの2人。盗賊すらいないのよ。コボルトの手だって借りたい気分ね」
「そう言えばそうだったな」主人は頷いた。
「仲間?」シルヴァイルはドワーフのほうを向いて訊ねた。
「ええと……そう、あそこに座っているのが私の仲間」
リスティルが手で示したのは酒場のカウンターに腰を下ろしている少年だった。リスティルの到着には気付かずに、目の前に並ぶ夕食を美味しそうに口に運んでいた。
「僕と同じ位の少年かな?」
「歳が? いや、違う」主人はシルヴァイルの言葉に対して首を横に振った。「あいつはまだ14歳だ。多分、君よりも2年か3年下のはずだ」
「はいぃ!?」シルヴァイルは素っ頓狂な声を上げた。「14歳で冒険者ですか?」
「その通りだ。あいつの場合、事情が事情だったからな。まあ……この街ではそんなに珍しいことでもあるまい。とりあえず、あいつと一緒にパーティーを組むんだったら、早く挨拶に行ってくることだな。君達3人でもできるような、ちょっとした仕事の依頼が入ってるから、その説明をせねばならん」
「分かった」リスティルは頷くと、隣に立っていたシルヴァイルの肩を叩いた。「早速行くよ」
「え……あ、ひょっとして、僕も『3人』の1人になっている──」
「それは当然。あなただって、1人だけで冒険はしたくないでしょ?」
リスティルはそう言うと、シルヴァイルが返答するよりも早く彼の腕を掴み、半ば引きずるようにして問題の冒険者の所へ連れて行った。だが、リスティルの相棒とされる少年は、リスティル達がすぐ隣に現れても、眼前に並べられた食事の皿から顔を上げようとはしなかった。その様子を見たリスティルが苦笑いを浮かべながら言った。「いつもこんな感じなの」
「食べることが大好きなのかな?」
「そう。いつもは温厚で優しい人なんだけど、食事をしている間だけは性格が変わってしまうのよ。理由は聞いたこと無いけど」
「へえ……」
「とりあえず、食事が終るまで待ちましょ」
シルヴァイルとリスティルが見守る中、少年の食事はこの後2分間続いた。そして、彼は目の前の皿4つを全て平らげ、横に置かれていたナプキンで口元を拭ってから、ようやく後に来ていた仲間とその客人の存在に気付き、後ろを振り向いた。「ああ、申し訳ございません」
「別に構わないよ。いつものことでしょ?」リスティルは微笑んで応えた。
「まあ……そうですね」少年は微笑むと、彼女の隣に立っていたシルヴァイルに目を向けた。「あの……あなたは?」
「シルヴァイル・ブロスティン。シルクスから来たんだ」
「どうもはじめまして」少年は礼儀正しく頭を下げた。「私はナイアス・ヴォーゲル。商業神クリーヴス様にお仕えする身でございます」
年齢には似つかわしくないほど大人びた挨拶を見て、シルヴァイルは返答に窮した。「あ……それはどうも……」
「どうかされましたか? 私の顔にゴミでも?」
「あ……いや、そういうわけでは……」
──僕より年下なのに態度が大人びている……。悪い人じゃなさそうだけど、なんか調子狂うなあ……。
「それは良かった」少年はにっこりと微笑んだ。「折角ですし、隣の席にどうぞ」
シルヴァイルはナイアスの隣に腰を下ろしてから応えた。「ありがとう」
「先ほども仰いましたが、シルクスからお越しだそうですね?」
「うん」シルヴァイルは頷いた。
「いい街でしょうね」
「どうなんだろう……僕の場合、ずっとあの街に暮らしていたから、良いも悪いもシルクスのことしか知らないわけだし……。まあ、人が多い街だてことは確かだね。ダルザムール大陸なんかから来た人も多いし」
「へえ……それは是非見てみたいですね」ナイアスの顔に笑みが広がる。
「でも、君が期待しているほど珍しい格好をしているわけじゃないよ。着ている服がちょっと厚めなだけで、他は全部こっちに住んでいる人と一緒だし。何しろ、向こうの大陸にあるダルザムール帝国の王族って、元々はこっちの大陸の人間だっていう話を聞いたことがあるんだ」
「へえ……良く知ってるのね」
「シャーンズ様の神殿で色々と勉強したから」
「じゃあ……この宿屋の名前の由来って分かる?」リスティルはからかい半分で訊ねてみた。新しい仲間の実力を試してみるつもりだった。
「多分。本と司祭様の話でしか聞いたことが無いけど。リマリック帝国ができる前にこの辺りを支配していたパヴィス王国の建国王である、『タイクーン・グラハム』ことグラハム・アルザ・パヴィスのことだろう?」
残る2人は顔を見合わせた。そして、シルヴァイルの回答から5秒遅れでナイアスが言った。「凄い! 正解ですよ!」
「レイゴーステム出身じゃないのに、ここまで知ってるなんて凄い!」
「凄いも何も、神殿で教えてもらったことを棒読みしただけだよ」シルヴァイルは照れながら言った。
「棒読みでも構わないの。物を知ってるってことは、それだけでも立派な才能よ。私達2人はそれが無いからね。……それじゃ、決まりよ」
「決まり……って、何が?」
「何とぼけてるのよ」リスティルはシルヴァイルを肘で軽く突ついた。「私達3人でパーティーを組むのよ。丁度お互いに仲間が足りないところだったし、盗賊がいないことを除けば、私達だけでも十分何とかなるでしょ?」
「え……まあ、確かにそうだけど……」あまりの急展開にシルヴァイルはただたじろぐことしかできなかった。
「ナイアスも異存は無いでしょ?」
「はい。私もこの人と一緒だったら大丈夫だと思います」ナイアス・ヴォーゲルは大きく頷いた。
「それじゃあ、これで決まりね」
リスティルが一方的に結論を述べた直後、宿の主人が3人に声を掛けてきた。「おーい! そっちはどうなった?」
「ええ。もう決まった! この3人で一緒に行くことにしたから!」リスティルはそう言った後に隣を向き、シルヴァイルに小声で訊ねた。「ね、これでいいでしょ?」
「……ああ、そうだね」シルヴァイルは苦笑いを浮かべるしかなかった。
4976年7月11日 21:11
リマリック帝国首都リマリック、東部高級住宅街、ゼーブルファー・ロストファーム邸、書斎
「ゼーブルファー様」
ドアの向こうから上がった声を聞き、書斎の主は顔を上げずに言った。「どうした?」
「夜食をお持ちしました」
「分かった。入ってもいいぞ」
「はい。それでは、失礼致します」
部屋の中に入ってきたのは、半袖にミニスカートという涼しそうな出で立ちのメイドだった。その手には、紅茶と砂糖菓子が乗せられた銀のトレイを持っている。彼女は主人の机の上の開いている場所に、ティーカップと砂糖菓子の皿を静かに置いていった。
「ああ、ありがとう」主人は穏やかな声で応えた。
「いえ……。それよりも、御主人様……今晩は……あの……」メイドは顔を赤らめながら訊ねた。
「『饗宴』のことか?」
「はい……」メイドはこくんと頷いた。「既に奥様は地下のほうにいらっしゃいますが……」
「私は出られない、と伝えてくれ。ここのところ忙しくて、趣味にまで回す時間が無い」
「そうですか……」メイドは残念そうに言った。「せっかく、奥様が準備を整えてお待ちしておりますのに……」
「やれやれ」主人は苦笑いを浮かべた。「いいか。私は今、リマリック帝国の大蔵大臣という要職にある。だから、毎日毎日マーヴェルの『饗宴』に付き合うわけはいかんのだ。今も、皇帝陛下の御命令を受けて、色々と片付けなければならない仕事を抱えている。少しはそれを理解してもらいたいものだ。一昔前までのように、時間を自由に使える立場ではなくなっているのだぞ」
「も、申し訳ありませんでした!」主人の愚痴に恐縮したメイドが頭を深く下げる。
「いや、これはマーヴェルのせいであって君のせいではないから、君がここまで恐縮する必要は無い。……とりあえず、後で地下室のほうへ立ち寄って、マーヴェルに今日の『饗宴』を中止するよう伝えてくれ。『饗宴』をするとなれば、今日ではなく明日のほうが良いだろう。明後日は皇帝陛下に休みを頂くことにするからな」
「かしこまりました」
「『準備』は怠るなよ」主人はそう言って、メイドの頬に軽くキスした。女性は再度顔を真っ赤にする。
「は、はい……それでは…………」
メイドが部屋を退出してドアが閉められてから、主人──ゼーブルファー・ロストファーム公爵は、机の上に広げられた資料に目を戻した。妻が用意していた「饗宴」のことも気になっていたが、今は明日行われる御前会議に必要な報告書を作るのが先であった。何しろ、明日の御前会議では、単年度決算で赤字が確定的となった4975年度予算(4975年7月〜4976年6月)の決算報告が議題となっており、ゼーブルファーは大蔵大臣として、財政赤字対策の政策パッケージを提示しなければならなかったのである。幸運なことに、政策パッケージそのものは既に完成しており、約10日前にリマリック帝国大学経済学部宛に論文として投稿したばかりであった。だから、明日の御前会議では、ゼーブルファーが既に公開した論文を、皇帝ゼノン・ドリス・リマリック(ゼノン7世)をはじめとする経済学の素人達に対して、分かりやすく説明するだけで良かった。しかし、それでもゼーブルファーは緊張していた。2ヶ月前には、御前会議での不手際が原因で、10年以上も辣腕を振るい続けていた法務大臣が突然罷免されており、その緊張感は尚更高まっていたのである。
3329年7月1日──1647年前にエディオス・アリム・リマリックによって建国されたリマリック帝国。建国以来のあまりに長い歴史を経て、エルドール大陸最大の勢力を誇るこの帝国にも崩壊の兆しが現れ始めていた。最も衰退傾向が現れていたのが帝国政府の財政赤字であり、4971年度から既に4年連続で赤字が続いていた。そして、4975年度決算も赤字になることはほぼ確実な情勢である。前の大蔵大臣は新たな増税を連発することによって財政赤字を解消しようとしていたが、帝国政府の歳入減少は一向に解消されなかった。そのため、財政赤字に業を煮やしたゼノン7世は、4975年10月1日に前の大蔵大臣を罷免し、その代わりにゼーブルファーを大蔵大臣として登用したのである。新大蔵大臣ゼーブルファー・ロストファームの任務は単純明快であった──リマリック帝国の財務体質を強化し、単年度決算での財政均衡と累積した財政赤字を解消することである。
──これで大丈夫だろう。私以外の閣僚達はみんな経済音痴揃いだから、いざとなったら、アドリブで切り抜けて、難しい言葉を並べれば問題あるまい。御前会議に顔を出す人間の中で、経済のことをまともに知っているのは私だけだからな。
ゼーブルファーは結論を得て納得すると、机の上に広げられていた資料を厚紙のフォルダの中に収めた。そして、フォルダを皮製の鞄の中に入れる。これで明日の御前会議の準備は全て整った。言うべきことは全て彼の頭に収められている。予行練習も行った。皇帝も含め経済の素人達を納得させることは、リマリック帝国大学経済学部の教授達を納得させるほどの論文を書くことや、東のエルドール帝国や北のテンバーン王国に住む大商人達と熱い論議を交わすことよりも、はるかに楽な行為であった。
──これが終れば、マーヴェ(妻マーヴェルの愛称:筆者注)と「饗宴」に耽ることができるのだ。何と素晴らしいことではないか。
4976年7月14日 19:37
リマリック帝国領レイゴーステムの北東30km、ガライ村、広場
シルヴァイル・ブロスティン達3人の初仕事は、レイゴーステム近郊の村に出没していたコボルト達の退治であった。そして、彼らの初仕事はいくつもの幸運と敵失に助けられ、目立った怪我を負うことも無く無事に達成されたのである。コボルト退治の仕事を終えた3人は村人達の歓迎を受け、今まで屋外でのパーティーに参加していたところであった。村人達の多くは明日の畑仕事に備えて家へ引き返していったが、冒険の興奮が冷め遣らぬ3人は屋外に残り、興奮と緊張に満ちた今日1日の戦いを振りかえっていた。
「3人とも無事で良かったですね」
「うん」シルヴァイルは頷いた。「リスティルとナイアスの呪文のおかげで大分楽ができたよ」
「そうですね」ナイアスはシルヴァイルの言葉に賛意を示した。「私のほうは怪我を治すことぐらいしかできませんでしたが、リスティルさんは大活躍してましたね。コボルト達を眠らせたり、私達の使う鎧を強化してくれたりしましたから。ドワーフって重戦士揃いで、力押しの戦い方しかできないっていうイメージがあったのですが、リスティルさんの戦い振りを見て、大分考えが変わりましたよ」
「良かった。私がちゃんと役に立ったからね。ドワーフに対する偏見も治ったし」リスティルは微笑んだ。「それに『力押し』といっても、実際には、どんな戦い方をしても間違い無く勝てるように、戦う前にはしっかりと準備をするものなの。力押ししているのは、前準備がしっかりとできているから、小細工無しでも勝てるだけのこと。『それがドワーフの戦い方だ』って、母さんやナランドの司祭さんとかは話していたけどね」
「そうなんですか……」戦い慣れしていなかったナイアスは素直に頷いた。
「まあ、相手も賢くなかったから、今日は楽ができたけどね。でも、ゴブリンや別のモンスター相手に戦うとなったら、今の私達の実力じゃ絶対に無理でしょうね」
「そうだね」シルヴァイルは頷いた。「僕達の住む場所が大きく広がり、危険なモンスター達の多くがいなくなっているけど、この大陸の山奥には、今でも多くの……そして強力なモンスター達が住んでいる。彼らにとっては、僕達の存在は自分達の生活を脅かす外敵でしかないんだ。そして、僕達人間にとっても、彼らモンスターは邪魔でしかない。だって、山や森の中には、僕達の生活を助けることになるかもしれない物が数多く眠っているからね」
「相手が邪魔者なのはお互い様、というわけね」リスティルはシルヴァイルの言葉に頷いていた。
「ナランド様の教えですか?」ナイアスが口を挟んだ。
「そう。本当はもうちょっと穏やかな表現だったかもしれないけど、私はこのように教えてもらったの。シルヴァイルもそうでしょ?」
「うん。でも、教えてもらった後で、司祭様は『今の話はエルフの前でしないように』なんて付け加えていたけどね」
シルヴァイルの言葉を聞いたナイアスは思わず噴き出していた。「いかにも『さもありなん』という話ですね。リマリック帝国にはエルフが住んでいないから良かったのですけどね」
「人間から見たら笑い話かもしれないけど、実際は結構根が深いのよ」リスティルの顔から笑みは消えていた。「いい? ドワーフとエルフの対立って、人間が考えている以上に根が深いのよ。何しろ、エルフの中の過激な人達の中には、私達ドワーフやナランド神殿の人達を『自然に対する反逆者』と勝手に決め付けて、『自然を守る為に』とか訳の分からないことを言って殺そうとしているのよ。実際に、それで殺された政治家だっているんだから」
「そこまでひどいものなのですか?」
「うん」シルヴァイルが答えた。「海の向こうのダルザムール帝国での話なんだけど、今から4年くらい前に、ダルザムール帝国の工業化を進めていた皇帝ファリス・ダルザムール4世が、数人の過激なエルフの手によって暗殺されるということがあったんだ。皇帝を殺した人達は捕まった後に、『自分達は植物神エルフィール様の教えに忠実に生きただけ。悪いことは何1つしていない』と言っていたらしいけどね」
「そういうこともあったけど……良く知ってたわね」リスティルは感心半分、驚愕半分といった表情でシルヴァイルを見ていた。
「僕が勉強の為に通っていたナランドの司祭様が、事件があった時に詳しく教えてくれたんだ」
「へえ……」
「……ちょっと話がずれてしまったけど、そういう事件があったのは本当のことなの。まあ、神官の資格を持っているナイアスだったら、少しは知ってるかもしれないけど、ドワーフとエルフというのは本当に仲が悪いの。人間から見たら他人事かもしれないしばかばかしいかもしれないけど、喧嘩をしている本人達にしてみれば、これは笑い話では済まされないのよ。それはちゃんと分かってあげてね」
「……そうでしたね、ごめんなさい」
「分かったならいいけど……。それにしても、シルヴァイルも凄かったじゃないの。あのシミターさばき、今まで実戦を積んだことが無い人間だとはとても思えないほどよ。どこで訓練してきたの?」
「父さんと兄さんに教えてもらったんだ。でも、本当はそれだけじゃなくて、この刀のおかげなんだけどね」シルヴァイルはそう言って鞘に入ったままのシミターを手で示した。「父さんが南のほうに旅行へ出掛けた時に見つけた品物らしいんだ。父さんの話によると、トロイア王国という場所にあった古代遺跡でこれを見つけたそうなんだ。一応、マジックアイテムだと聞いているよ」
「あなたの父さんって商人だったの?」リスティルが訊ねる。
「いや、父さんにも兄さんもマレバスの神官戦士だったんだ。でも、僕は普通の戦士さ」シルヴァイルは溜息混じりに言った。「父さんや母さんは、僕がマレバス様の司祭になれなかったことを大変悔やんでいたよ。僕だってそうさ……」
「やっぱり、神官になりたかったのですか?」
シルヴァイルは数瞬躊躇ってから答えた。「……うん。父さんもおじいさんも、その前の御先祖様もずっとマレバス様の司祭だった。だから、そんな中で僕だけが司祭になれなかったとなると……」
「周りから違った目で見られてしまう?」ナイアスがシルヴァイルの言葉を継いだ。
「うん……」
シルヴァイル・ブロスティンにとって、神聖魔法が使えないということは、単なる客観的事実以上の深くて重い意味を持っていた。神聖魔法が使えないという事実を知ってからも、彼の直系の親族達はシルヴァイルのことを温かく見守っていたのだが、傍系の親族──例えばシルヴァイルの叔父・従兄弟などは、以前と比べて冷淡な態度を示すようになっていた。それは「付き合いの回数が減る」「お土産の食べ物の質が下がった」程度の些細な変化であったのだが、シルヴァイルはこの些細な変化も見逃すことは無かった。そして、この些細な変化が持つメッセージもほぼ正確に読み取っていた──「この者はブロスティン一族の中では異質な存在である」と。親が彼に慰めの言葉を掛け、その鋭い知性に着目した教育を彼に対して施してくれたとしても、シルヴァイルに対する一族の視線が和らぐことは無かった。
「へえ……」リスティルはシルヴァイルの姿を舐め回すように見た。「……でも、神官にはなれないんだったら、魔術師にはなれるかもよ?」
「魔術?」シルヴァイルは意外そうに訊ねた。
「そう、私みたいにね。聞いたことがあるかもしれないけど、神聖魔法を使えない人の多くは、その代わりに優秀な魔術師になれるらしいの。だから、私みたいに多くの呪文が使えるようになるかもしれないって思ったんだけど、どうかしら? しかも、記憶力が良さそうだから多くの呪文も使えそうだし。魔術師ギルドに行って調べてもらうだけの価値はあると思うけど」
「魔術か……」シルヴァイルは星空を見上げ呟くように言った。「今まで考えたことも無かったな……」
「是非行ってみなさいよ。絶対に素質があるから。大丈夫よ! 神聖魔法が使えないことなんて、気にならなくなるよ!」
「……本当?」シルヴァイルは躊躇いがちに訊ねた。ブロスティン一族の中で、過去これまで魔術が使える者は殆どいなかったことが、彼の躊躇の原因であった。
「絶対に大丈夫!」リスティルは自身たっぷりに頷いた。
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