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4976年10月25日 10:35
リマリック帝国領シーディング村の東3km、山賊達のアジト

 シルヴァイル・ブロスティン達の作戦は無事に成功した。リスティルの唱えた呪文が盗賊達の視界を奪っている隙に兵士達が雪崩れ込み、無防備に等しい状態で立ち竦んでいた盗賊達を次々と切り捨てていった。山賊達のアジトとして使われていた部屋の壁は山賊達の血で赤く染まり、床には物言わぬ死体に変わり果てた山賊9人の遺体が転がっていた。唯一生き残っているのは山賊達の首領であった女性のみであるが、彼女も腹と胸にいくつもの深い傷を負っており、顔は青を通り越して土気色になっていた。
「足元に気を付けるんだ」
 シルヴァイル達冒険者が立ち入りを許されたのは、建物内に敵がいなくなったのを確認してからであった。血の異臭が漂う現場を目の当たりにしたシルヴァイルは顔をしかめ、口元を手で覆っていた。
「く、臭えな……」ブレシスは鼻をつまんで異臭に耐えていた。
「これが戦場の匂い──『血』の匂いだ」アレスが言った。「戦争では、頻繁に鼻にする匂いだ。この匂いに慣れなければ、軍人として生きて行くことはできん。見たところ、君達はまだ慣れていないようだな」
「ああ」ブレシスは頷いた。「足手纏いになっちまったかな?」
「足手纏いにはなったかもしれぬが、この匂いに慣れていないということは決して問題ではない。……いや、この匂いに慣れてしまうということがそもそも異常だからな。軍人生活を続けていると、時々『血の匂いが好きでたまらない』という困った人間を目にすることがある。そういった者の多くは精神異常を来す数歩手前の、不安定な頃の持ち主であることが多い」
「困った話ね」リスティルが言った。
「普通ならば、そういった人間は軍隊から隔離されるか戦場で殺されているかのどちらかなのだが、ごく稀に、そういった血を見る困った人間が軍隊のトップにまで上り詰めることがある。そうなったら、我々下士官や一般兵士にとっては悲惨なことになるぞ。……と、雑談はこの位にして、室内の整理の続きだ」
「悲鳴を上げていた女の子ってどこなのでしょう?」ナイアスが口を開いた。
「いたとすると……ここかな」
 アレスが指差した先にあるのは高さ及び幅2m、奥行き50cmの掃除用具入れであった。その扉には大きな鍵が掛けられている。そして、扉の奥からは少女の怒鳴り声が響いてきた。「……戦いは終わったの!? だったら、早く開けて!」
「! ルクレツィア様! 御無事でしたか!?」
「うん! 私も大丈夫だけど……早くここを開けて! 暗くて狭いのは苦手なの!」
「じゃ、ブレシス。お願いできないかしら?」リスティルはそう言って掃除用具入れの鍵を指差した。「あればっかりは私達じゃどうしようもないから。これで、足手纏いにならずに済むでしょ?」
「まあ……そういうことなら、早速一仕事だぜ」
 ブレシスは床に広がる血の海の中を忍び足で抜け、掃除用具入れの前に辿り着いた。そして、懐から針金を取り出し鍵穴にさし込むと、慣れた手付きで針金を回し、僅か10秒足らずで扉の鍵を外してしまった。盗賊達の専門知識を持たないシルヴァイル達にとって、ブレシスがほんの少しの時間で扉を開けてしまったことは大きな驚きであった。
「……話には聞いてたけど、凄いのね」リスティルが感嘆の声を上げた。
「この程度の扉じゃ、ウォーミングアップにもならねえな」ブレシスは軽く笑った。「……じゃ、扉を開けて、おてんば姫との御対面に参るぜ」
「ああ。粗相の無いようにな」
「へいへい、分かってますぜ」
 ブレシスは扉に手をかけると、勢い良く扉を左右に開ける。中から現れたのは、使われなくなった掃除用具に挟まれ窮屈そうに体を捩じらせていた少女だった。アレスの言葉通り、色の長袖シャツとベージュの半ズボン、ソフトレザーアーマーに身を包んでいた彼女は、既に戦闘が終結していた小屋の中を見渡した。そして、面白く無さそうに軽く舌打ちして言った。「ああ、これで……っと、もう終わったの?」
「ルクレツィア様、御無事でしたか!?」
 少女は掃除用具入れから出ると、血で靴下を濡らさないように気を付けながら、部屋の中央で待つアレス・ローゼンのところへ歩み寄った。
「うん」少女──ルクレツィア・ファヴィスは頷いた。「怪我とかは無かったけど、大丈夫。私は元気よ」
「この者達にも手伝ってもらいましたぞ」アレスはそう言って、隣に立っていたシルヴァイルとリスティルを手で示した。
 少女がルクレツィアだと気付いたシルヴァイル達は慌てて膝を付こうとしたが、それを少女の声が遮った。「別にいいよ。私、そんなことしてもらうほど大した人間じゃないし、頭を下げなければならないのは私のほうよ。だって、皆さんに助けてもらったんだから、お礼を言わなきゃならないでしょ? それに……」
「それに?」リスティルが聞き返した。
「床が汚れてるでしょ?」
「そういえばそうですね」シルヴァイルが言った。「では、立ったままで御挨拶ですね。……いや、場所を変えた方がいいのかな?」

 約15分後。
 山賊達全員の死亡を確認した一向は、山小屋の外に集まっていた。外で逮捕された山賊は舌を噛み切って自害していたが、それを止めようとする者は誰もいなかった。レイゴーステムに帰れば絞首台行きになるのは確実だったため、「ここで死なせた方が慈悲じゃないのか」と誰もが考えていたのである。そして、遺体を全て小屋の中に入れると、アレスは手を振って兵士達に合図を送った。兵士達が木造の小屋に火のついた松明を放り込んでいく。程無くして、小屋は黒い煙と赤い炎の中に消えて行った。
「燃え広がらないのでしょうか?」ナイアスが炎を見つめながら心配そうに訊ねた。
「その時には、君達に消火を頼むことになるが……まあ、大丈夫だろう」
「ところで、自己紹介の途中だったけど……」ルクレツィアはそう言うと、物珍しそうに5人を見回した。「……ひょっとして、冒険者?」
「そう」リスティルは頷いた。「そんなに冒険者が珍しい?」
「珍しい……ってわけじゃないけど、なんか『羨ましいなあ』って。だから……」
「それで勝手に外に出ておてんばぶりを発揮していたってわけですか?」
 シルヴァイルの言葉にルクレツィアは無言で頷いた。
「全く……ルクレツィア様、困りますぞ。勝手に外を出歩かれては」
「いいじゃない」ルクレツィアはアレス・ローゼンの言葉に反駁した。「私だって外で遊んで、泥んこになってはしゃいで、汗を流して……他の人と同じように暮らしたいのよ。生まれが貴族だったからというのは分かっているけど、だからって逆に何もできないのは不便じゃない。だって貴族だから──」
「何でもできる?」リスティルがルクレツィアの言葉を継いだ。
「うん……そう思っていたけど……。甘いかな?」
「それは甘いわね」リスティルがさらりと言った。
「リスティルさん、それは言い過ぎではありません──」
「ちょっと黙って」リスティルはナイアスに鋭い視線を向けて彼を黙らせた。そして、再びルクレツィアのほうを向いて話しかける。「まあ、ちょっと難しい話かもしれないけどちゃんと聞いてね。確かに、あなたは私達と違って貴族でしょ。だから、法律や規則なんかで、私達よりももっと多くのことができる。でも、それと一緒に、あなたには『こうしないといけない』って義務を持ってるのよ。例えば、あなたのお父様であるアシュヴィル様。あの方は貴族であり、私達よりもずっと偉い方だけど、アシュヴィル様にはね、私達から頂いた税金を使って、レイゴーステムの街やその周りの村をより住みやすい場所にして、人々を幸せにする義務を負ってるのよ。もしも戦争になったら、あなたのお父様は兵士達を連れて戦場に行って、全ての兵士達の先頭に立って戦わなければならないのよ。ここまでは分かるわね?」
 ルクレツィアは無言で頷いた。
「それと同じで、あなたも義務を負っているのよ」
「私の……義務?」
「そうよ。色々あるけど、ルクレツィアさん……いや、ルクレツィア様の場合、一番大事なのは、国を治める義務を果たすのに忙しいお父様を支え、お父様に迷惑をかけないことでしょうね。……でも、あなたは散々迷惑掛けてるじゃないの。現に、アレスさんをこんな田舎の森まで引っ張り出しているのよ。その間に、レイゴーステムの街で異変があったらどうするつもりなの? その挙句に、あなたを捜していた兵士が何人か死んでいるのよ」
 ルクレツィアは無言で俯いていた。口調は穏やかだったものの、リスティルの言葉はルクレツィアの心に突き刺さっていた。
「それを理解した上で冒険者になろうとしているの? 冒険者に憧れているの?」
「おいおい」リスティルの耳元でブレシスが言った。「これじゃあ、ルクレツィア様に『家で大人しくしてろ』って言ってるようなもんじゃねえか」
「半端な覚悟で冒険者にはなるべきじゃないわ。特に、自分の家が貴族だった時にはね。こう言ったら失礼だけど、今までのルクレツィア様の行動って、どう贔屓目に見たって『冒険ごっこ』にしか思えないわ」リスティルは視線をルクレツィアに戻した。「ルクレツィア様も、今回の騒ぎを機に、身の振り方を考え直して見たらどうかしら?」
 ルクレツィアは何も答えなかった。

 この後一行は、焼け焦げた小屋を後にしてレイゴーステムへと戻っていった。だが、その道中でも、ルクレツィアが自分の将来について口を開き語ることは無かった。

4976年10月26日 17:23
リマリック帝国首都リマリック、帝城、宮内省3階、宮内大臣執務室

 リマリック帝国皇帝たるエディオス・アリム・リマリックの住居は、帝国首都リマリックの中心に位置する帝城の一角に置かれていた。大小合わせて112の部屋で構成されるその「巨大な家」の中は、巨大なマジックアイテムである強化ガラス製のステンドグラスによって色鮮やかに彩られ、エルドール大陸で活躍した芸術家達が生み出した傑作が所狭しと並べられていた。床は全て真紅の厚い絨毯で被われ、天井からは眩い光を放つマジックアイテムのシャンデリアが吊り下げられていた。一般市民にとって、リマリック帝国皇帝の住まいとはまさに御伽噺の世界であり、彼らはそれ故、リマリック皇帝の住まいであるこの宮殿を「パレス・ファンタジア」──《幻想宮殿》と呼んでいた。正式には「リマリック第1宮殿」という名前が付けられていたものの、そのことを知る市民はほぼ皆無であった。皇帝ですら堅苦しい正式名称を無視し、一般市民を真似して自らの家を《パレス・ファンタジア》と呼んでいた。
 しかし、この巨大な宮殿で働く人間達にとって、「ファンタジア」という表現は何の価値も持たなかった。綺麗好きの皇帝や神経質な皇后が少しでも快適な生活を送り、「リマリック第1宮殿」を訪問する客にリマリック帝国の繁栄と皇室の権威を示す為、全身全霊を傾けて宮殿の整備に当たらねばならなかった。その心構えは、《パレス・ファンタジア》を支える職員達の頂点に立つ宮内大臣も一緒であった。
「異状は無しか」
 宮内大臣ロベルト・フォン・ナポリは報告に現れた宮内省事務官に訊ねた。
「はい。帝城内の全室、異状はありませんでした」
「分かった」
 ロベルトは無感情に頷いた。彼にとって、「異状無し」という報告は当たり前のものでなければならなかった。
「次の報告は午後9時です」
「了解。報告、御苦労だった」
 事務官が退出し、大臣執務室の扉が静かに閉められる。ロベルトは椅子に座ったまま軽く体を動かすと、机の上に置かれている小さなイラスト立てに目を向けた。中に入れられているのは、ロベルトの妻と息子達、そして今年80歳になったロベルトの母を描いた肖像画であった。彼が宮内大臣の激務に疲れた時に、いつも机の上の家族達の姿に目を移し、彼らのことを思い浮かべていた。
 ──いつも苦労を掛けているな……。時には、家に帰ってやらねば……。
 ロベルト・フォン・ナポリは今年56歳。33年前にリマリック帝国大学を首席で卒業した彼は、男爵という地位の低い貴族でありながら、現皇帝ゼノン・ドリス・リマリックの養育係を拝命し、4970年からはリマリック帝国の官僚機構では栄誉ある最高の地位である宮内大臣の職に就いていた。そして、宮内大臣就任から6年間、彼は皇帝の期待に背くこと無く職務に励み、宮内大臣になり損ねた同年代の官僚達の妬み・やっかみを跳ね除け、大蔵大臣ゼーブルファー・ロストファームに並ぶほどの名声を勝ち得ていた。
 権限の広さは宰相に及ばなかったものの、宮内大臣は単なる行政法上の権限とは異なった「力」──人によっては「道徳的権威」と呼んでいた──を持ち、その政治的影響力は計り知れなかった。また、宮内大臣は侍従長も兼任していたため、その多忙ぶりは「激務」と呼ぶに相応しいものであった。ロベルト自身、宮内大臣に就任して以来、リマリック市内にある自宅に帰ることができず、宮内省の建物で一夜を明かしたことを幾度と無く経験していた。4972年の夏には、過労のあまり体調を崩し、皇帝ゼノン7世の見舞いを受けることもあった。しかし、彼はゼノン7世のことをあたかも自分の子供であるかのように見つめており、彼自身の子供達に負けず劣らぬ程の愛情を注いできた。そして、自分自身が皇帝を育て上げ、1人前の政治家として大成させたことに大きな誇りを抱き、宮内大臣兼侍従長という現在の仕事に大きな満足感と誇りを抱いていた。彼にとって、ゼノン・ドリス・リマリックという人物は人生の大きな部分を占めていたのである。
 だが、彼は同時に家族を愛することのできるごく普通の1人の父であり夫であった。机の上に置かれていた小さな肖像画はその証である。また、ロベルトの庇護(?)を受けていたゼノン7世も、自分だけではなく家族を大事にするロベルトの姿勢に強く共感し、彼に大いなる信頼を寄せていた。同年代の官僚のやっかみを跳ね除け、5年以上の長期にわたって宮内大臣の椅子にロベルト・フォン・ナポリを座らせていたのも、皇帝自身がロベルトのことを実の親であるかのように慕い、信頼していたからであった。
 ──昨日は泊まり込みだったからな……。今日、家に帰る時には、何かお土産でも買っていかねばな……。
 ロベルトが軽い溜息を吐いた時、秘書室に通じるドアが開かれ、中からロベルトの男性秘書が顔を出した。「閣下、お客様です」
「客? 誰かね?」
「大蔵大臣閣下と、レゾヴィス・グラーブ様です」
「分かった。お通し致せ」
 宮内大臣の指示が出されてから15秒後、執務室正面のドアが開かれ、2人の男達が姿を見せた。
「大臣閣下、お元気ですかな?」ゼーブルファーが微笑みながら訊ねた。
「それはもう」宮内大臣は差し出された大蔵大臣の手を握り締めた。「……それと、レゾヴィス殿、いつも御苦労様です」
「いえいえ、そんなことはありませぬ」
 そう応えたレゾヴィス・グラーブは2人の貴族とは異なり、質素な服装と紐がほつれかかった靴に身を包んでいた。普通ならば、このようなみすぼらしい姿をした人間が帝城の中を歩くことさえ憚れるのであるが、レゾヴィス・グラーブは今の帝城に必要不可欠な人材であり、それ故、卑しい(と貴族たちから考えられていた)格好のまま、帝城の赤絨毯を踏みしめることができたのである。
 彼を帝城にとって必要不可欠な人材たらしめていたのは、レゾヴィスが身に付けていた高度な清掃技術であった。彼はリマリックから遠く東に離れたリマリック帝国領ウルで生まれ育った貧しい泥棒であり、20歳になったばかりの時──4957年9月に逮捕され、ウル郊外の刑務所に投獄されてしまったのである。だが、この投獄されている間、彼は模範囚として過ごしたことにより、当時の刑務所長から特別の待遇を受け、その上に「出所後に備えての職業訓練」という名目で、塀の中で清掃の技術を修得する機会を与えられたのである(これは、リマリック帝国の刑務所としては異例のことである)。
 刑務所を出所してから、彼は刑務所で培った知識を生かして清掃会社グラーブ・クリーニングを開業する。後にその腕前が帝国中に知られるようになり、4972年からリマリック帝国皇室御用足の清掃業者としての地位を獲得し、帝城内の清掃業務にも関わるようになった。今では、娘のルザリア・グラーブと並び、エルドール大陸における指折りの「掃除職人」としての賞賛を浴びるまでになっていた。
「とりあえず、立ったまま話すのは疲れるでしょうからな」
 ロベルトはそう言って2人に応接用のソファに座るよう促し、それに続いて自らもソファに腰を下ろした。それを見計らったかのように秘書室へのドアが開かれ、温められた紅茶と茶菓子を持った秘書が現れる。
「や、いつもありがとうございます」レゾヴィスが頭を深々と下げた。
「ほほう……これは珍しい」ゼーブルファーは砂糖菓子の1つを手でつまみ、目の高さに掲げてじっくりと観察した。「見たことも無い菓子だ。どこで買われたのかな?」
「今日の茶菓子は私が持参致しました」男性秘書が応えた。「妻の実家から頂いた新作の砂糖菓子だそうです」
「ああ、そうだったな。君の義母さんは砂糖菓子作りの名人だったか」
「はい」男性秘書は頷いた。
「では、早速頂こう」大蔵大臣は砂糖菓子を口に運んだ。「……ふむ、これは上品な味だ。甘さは控えめで、香ばしい香りが口の中に広がる……。いや、いつもながら見事な腕前。これならば、砂糖菓子職人としても立派にやっていけるぞ」
「あ、ありがとうございます!」秘書は体を強張らせながら深く一礼した。
 ロベルトは軽く咳払いしてから小声で命じた。「今から、大事が話がある。誰も入室させないように」
「承知致しました。では」
 男性秘書の姿が消え、秘書室のドアが閉められてから、ロベルトが口を開いた。「彼のおかげで、茶菓子には困りませんな。家に持ち返ることもあるのですが、家族や母上にも喜んでもらっておりますぞ」
「それは良かったですね」レゾヴィスが応えた。
「世の中、彼のような幸せな家族だけならばどれだけ平和なことか」ゼーブルファーが呟くように言った。
「全くもってその通り」宮内大臣が頷いた。
「国家の頂点に立ち国民に範を垂れるべき皇帝陛下御自身の家庭が乱れているとは、実に嘆かわしい……」
 この大蔵大臣の言葉が合図になり、男達の顔が引き締まった。
「本日の御用件は、皇帝陛下のことですな?」
「その通りです」ゼーブルファーは頷いた。「宮内大臣も御報告を受けておられることとは思いますが、皇帝陛下と皇后陛下との関係が冷え切っています。その件に関し、非常に頭の痛くなる噂を耳に致しました」
「どのような噂ですかな?」
 ゼーブルファー・ロストファームは声を落とした。「皇后陛下がスラム街脇にある娼婦ギルドに出入しているとの噂です」
 紅茶を飲もうとしていたロベルトは、危うくティーカップを落としそうになった。驚愕のあまり、その目は大きく丸く見開かれていた。「……大蔵大臣閣下、その噂は本当ですか? 悪い冗談では済まされないのですか?」
「私も悪い冗談で済めば良いと思いました」隣に座っていたレゾヴィス・グラーブが応える。「しかし、残念ながら、この噂は紛れも無い事実だと考えられます。皇后陛下とその取り巻きが周囲に対して緘口令を敷いているので、宮内大臣閣下のお耳にはなかなか届かなかったことなのですが、皇后陛下を乗せた馬車がスラム街脇の娼婦ギルドへ疾走して行くのを目撃した職員は確かに存在します。我が社の社員の中にも、その様子を目撃した者がいるのです」
「それを見たのは誰なのです? 見間違えたという可能性は──」
「皇后陛下が出ていくところを見たのは帝城裏門の警備兵達と宮内省の夜勤スタッフ、それと警備手伝いとして滞在していた我が社の社員ルザリア・グラーブ──私の娘です。合計で10人ほどだったと思われます」
「いつのことですかな?」宮内大臣は体を乗り出して訊ねた。
「10月24日。一昨日深夜のことです」
「当然、緘口令は敷かれたのでしょうな?」ゼーブルファーが訊ねる。
「はい」レゾヴィスは頷いた。「……と申しましても、実際に緘口令を敷いたのは宮内大臣閣下でもなく皇帝陛下でもありません。皇后陛下と実家のファーゲット家です。それから、緘口令を敷く際、ファーゲット家と一部の職員の間で、金銭の授受が行われたとの情報も掴んでいます」
 ロベルトの顔には冷汗が流れていた。「……本当ですか?」
「それも本当です。私の娘に対して、ファーゲット家から『見舞金』の名目で金銭提供の申し出があったそうです。……まあ、娘ルザリアから今日になって話を聞き出して、ようやく私がことの次第を知ったわけです」
 ロベルト・フォン・ナポリは深々と溜息を吐いた。「これは……何てことだ……」
「閣下は御存知無かったのですか?」大蔵大臣が宮内大臣に訊ねる。
「いえ、全く存じ上げませんでしたぞ。確かに、昨日深夜、馬車が帝城に出入りする音は耳にしていますが、それはいつものことだと思っていましたからな。帝城の門は24時間常に開かれていて、真夜中にも荷馬車の出入りがあるのですから、てっきり荷馬車だろうと思っていたのですが……」
「まあ、閣下が誤解されたことを今更論議しても始まりますまい」ゼーブルファーは肩をすくめた。「それよりも、今はもっと緊急性の高い問題が控えているはずです。皇后陛下の『御乱交』……いや、『御乱行』が事実であることを確認する作業、そしてこの事実を皇帝陛下に御報告し、対応策を今から考え出す作業。この2つを片付けなければなりませんぞ」
「その通りですな。……して、大蔵大臣の御意見は?」
 ゼーブルファーは紅茶で口を湿らせてから言った。「前者については対応済みのはずです……よね?」
「その通りです」レゾヴィスが応えた。「皇后リジョレーヌ様の侍女達の中に我が社のスタッフが紛れ込んでいます。彼女からの報告を待つことにしましょう。問題はもう1つではないかと……」
「皇帝陛下に対しては私から申し上げましょう」ロベルトが言った。「そして、対応策ですが……これは、大蔵大臣閣下の知恵を是非とも拝借したいですな。大臣閣下については、いつも『奥様の女性問題』で頭を悩まされていらっしゃるそうですし」
「私のほうは『合意』の上でやっているのですぞ」ゼーブルファーは渋面を作った。
「そうかも知れませぬが、御世辞でも誉められたことではないでしょう──」
「愚痴は後回しにして頂きたい」ゼーブルファーは手を上げてロベルトの言葉を止めさせた。
「……まあ、今はそれでよろしいでしょう。それで、対応策は考えてあるのですか?」
 ゼーブルファーは残念そうに首を横に振った。「考えてみたのですが、どれを見ても難しいですな。緘口令を敷くなど、『受身』の対応ならばいくらでも実行することができるのですが、リジョレーヌ様と皇帝陛下の関係を修復させるとなると、一筋縄では行かないでしょうなあ……。そもそも、皇帝陛下の御婚約は政略結婚以外の何物でもない上に、皇帝陛下と皇后陛下の性格がまるで合わないとなると……」
「つまり、あの結婚は無理以外の何物でもなかった、というわけですか……」レゾヴィスが呟くように言った。
「その通り。だからこそ、11年前に、ナポリ卿も御結婚に反対されていたのでしょう?」
「ええ……」宮内大臣は頷いた。
「しかし、大蔵大臣閣下。皇帝陛下とリジョレーヌ様が御離婚なさるのも絶対に有り得ない話ですよね? リジョレーヌ様の実家であるファーゲット公爵家が反対するのは火を見るよりも明らかですから」
「そう。だからこそ、話がややこしいのですよ」ゼーブルファーは肩をすくめた。「ただ、皇后陛下が娼婦ギルドで何をしているのか──それを正確に知れば、もう少し考えるのが楽になるでしょう。皇后陛下が娼婦ギルドにお出かけになられているのは不倫でも淫行でもなく、実は性病予防薬の配給所を娼婦ギルドの中で運営していらっしゃったからだ、ということだって無いとは言い切れないのですから。……まあ、リジョレーヌ様に限って、そんなことは絶対に有り得ないでしょうがね」
「今の御発言は部外秘にしましょう」レゾヴィスが小声で言った。
「当然ですな」大蔵大臣が頷いた。「では、そろそろ『結論』をまとめましょうか?」
「『結論』と呼べるほどのことではありますまい」宮内大臣は首を横に振った。「何はともあれ、緘口令の徹底と情報収集の続行に努めましょう。全てはそれからですぞ。よろしいですな?」
「了解しました」レゾヴィスは頷いた。「ところで、陛下への御報告は──」
「事実が確定するまで後回しです。今は何もお知らせしないことが、陛下の御身を助けるのですから」
 ゼーブルファー・ロストファームは宮内大臣の言葉に無言で頷いていたが、その動作は単なる了解とは異なる意味も帯びていた。
 ──「皇后陛下を守る」とは言わなかった……。宮内大臣は、いざとなればリジョレーヌ様を切り捨てるつもりらしい……。

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『Campaign 4980』目次 / 登場人物一覧
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