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4976年10月28日 17:59
リマリック帝国領レイゴーステム、アシュヴィル・フォン・ファヴィス邸、食堂

 この日の午後5時にレイゴーステムに帰還したシルヴァイル達は、アレス・ローゼンの案内でレイゴーステム領主アシュヴィル・フォン・ファヴィスの邸宅へと向かった。そして、一行は屋敷のあまりの大きさに溜息を漏らしながら、建物の主であるアシュヴィルの待つ応接間へ入っていった。だが、彼らの側には、山賊達から救い出したルクレツィアの姿は無かった。アシュヴィルの指示で5人と別れさせられ、屋敷内の別の場所へ連れて行かれていったからだった。
「大丈夫かな……?」ティーカップの赤い水面を見つめながらルッカ・クトローネが呟いた。
「ルクレツィア様のこと?」リスティルが聞き返す。
「うん。別の場所に行っちゃったけど……」
「気にしたって始まらねえぜ」ブレシスはそう言うと、テーブルの上に積まれていた茶菓子を無造作に取り、そのまま口の中に放り込んだ。
「ちょっと、ブレシス。行儀悪いんじゃないの?」
「だ〜いじょうぶ大丈夫」ブレシスはリスティルの注意を聞き流し、茶菓子を頬張り続けた。
「美味しそうですね」ナイアスがテーブル上の菓子を見つめながら言った。
「多分ね。僕も今すぐ食べたいけど、ホスト役が現れるまでは待つことにするよ」シルヴァイルは菓子にまだ手を出していなかった。
「ホスト役……アシュヴィル様のことね。一体、どういう方なのかしら?」
「僕もあまり話は聞いたこと無いよ。結構いい人らしいってことは聞いているけど、それくらいかなあ」
「ふ〜ん、シルヴァイルでも知らないことってあるのね」
 彼がリスティルの言葉に応えようとした時、応接間のドアが外から静かに開けられた。
「皆様、アシュヴィル様がお越しになりました」
 廊下からの声を聞き、シルヴァイル達は慌てて椅子から立ち上がった。菓子を頬張っていたブレシスも、ルッカに引っ張られるようにして渋々立ち上がった。菓子は口に入れたままである。
 ドアが完全に開いてから現れたのは、中肉中背の紳士だった。一見すると、屋敷で生活する他の人間と殆ど変わらぬ質素な身形(みなり)であったのだが、全てを見通しているかのような鋭い視線と、形容し難い独特の威厳と威圧感が備わっていた。少し注意を払えば、この人間が只者ではないことは誰の目にも明らかであった。この「領主」としての独特の雰囲気は生来のものであったのか、それとも「レイゴーステム領主」「公爵」という肩書きがこの男を飾り立てていたのか、若造に過ぎないシルヴァイル・ブロスティンには判然としなかった。
 ──これが領主様か。凄い方だな……。
 シルヴァイルはアシュヴィルの顔を認めると、床に片膝をつこうとした。
「いや、それには及ばん」アシュヴィルは苦笑いを浮かべ、中腰になったシルヴァイルを制止した。「堅苦しい挨拶は抜きだ。それに、本来ならば、膝をつくべきは私のほうだ。何しろ、娘の命を助けてもらったのだからな」
「恐れ入ります」シルヴァイルは立ち上がると、アシュヴィルに深々と頭を下げた。
「とりあえず、またゆっくりを腰を降ろすんだ」アシュヴィルはそう言ってブレシスに視線を向けた。「こちらに、お腹を空かしている人がいるようだからな」
「え……あ、ひょっとして俺の事ですかい?」
「他に誰がいると言うのかね? 菓子を口の中に入れたままにしているではないか」
「ほら、やっぱり領主様から言われたでしょ」リスティルが横を向いて言った。
「そんなこと言われたってよ、美味しいからしょうがねえじゃないか」
「食い意地が張るというのは健康な証拠だ。……と、それはともかく、腰を下ろしてゆっくりと話がしたいのだが、よろしいか?」
「はい。それではお言葉に甘えまして」
 6人が椅子に腰を下ろし、メイド達の手によって再び紅茶が全員に運ばれる。その後、シルヴァイル達5人の自己紹介が行われたのだが、緊張のあまり彼らの言葉は微かに震えていた。アシュヴィルはぎこちない彼らの姿勢を咎めることも無く、興味深そうに5人の自己紹介に耳を傾けた。
「──では、改めて私の紹介が必要だな。しかし、紹介するまでも無いかもしれぬが」アシュヴィルは軽く咳払いした。「私の名前はアシュヴィル・フォン・ファヴィス。ファヴィス家当主にしてレイゴーステムの領主でもある。この度は、娘ルクレツィアの件で君達に大変世話になった。改めて礼を申し上げる」
「例だなんて……私達はただ人助けをしただけです」リスティルが応える。
「そんなに謙遜することは無い。この戦乱の世で人助けをすることは非常に立派なことだ」
「ありがとうございます。そう仰って頂けるだけでも大変光栄です」ナイアスが深々と頭を下げた。「……さて、そのルクレツィア様は今どうされていらっしゃいますか?」
「仕置の為、物置小屋に閉じ込めた。今は接触禁止だ」
「接触禁止……って、そいつは厳しいんじゃねえんですかい?」
 ブレシスの質問にアシュヴィルは首を横に振った。「いや。お仕置として子供を物置小屋に閉じ込めるのは我がファヴィス家の伝統だ。私だって閉じ込められたことがあるぞ。それに、今回はあいつに対して厳しく言っておかねばならんからな」
「何をですかい?」ブレシスが訊ねる。
「ルクレツィアは自分の我侭のため、結果的に人間を死なせている。そのことの重大さを自分で悟り、遺族に対して謝罪するまでは、私はあそこからあいつを出すつもりは無いし、冒険者の真似事を続けさせるつもりも全く無い。我々は貴族である以上、軍隊を率いて敵と戦うことだってある。そういう立場にある人間が他人の命に無頓着であってはならないはずだ。違うかね?」
「はい。私も仰る通りだと存じ上げます」リスティルが頷いた。「でも、あの元気で活発でおてんば姫として知られているルクレツィア様が、この件を理由にして冒険者ごっこから足を完全に洗うとは考えにくいのですが……」
「それは私も考えた。そこで、冒険者の方々に折り入って頼みがあるのだが……」アシュヴィルは声を落とした。
「何でしょうか?」シルヴァイルが訊ねる。
「ルクレツィアのことをお願いできないだろうか」
 冒険者達はレイゴーステム領主の言葉を聞き自分の耳を疑っていた。茶菓子に手を伸ばそうとしていたルッカも動きを止め、思わず口を開けたまま発言者の姿を凝視していた。
「『頼む』とはどういう意味でしょうか?」リスティルが聞き返した。
「端的に言えば、娘の守役を頼みたい、ということだ」
「……あのう、領主様。本気ですか?」シルヴァイルが恐る恐る訊ねた。
「何を驚いている?」冒険者達の反応を見たアシュヴィルが笑い声を立てた。「ルクレツィアにレイゴーステム領主の座を譲ろうと考えている。その為の社会勉強を手伝って欲しいのだ。これは冗談でも寝言でも夢でもないぞ。私は本気だ」
 次のアシュヴィルの言葉は、シルヴァイル達だけではなく、食堂で働いていたメイド達も驚かせた。6人の会話を邪魔しないよう黙々と自分の職務をこなしていた彼女達も、ファヴィス家の将来に関わる重大な話が耳に届くと、その発言の重さと意外さに衝撃を受け、思わず手を休め、発言者の顔を中止していた。
 驚きから覚めやらぬ人々を代表する形でナイアスが訊ねた。「まず最初にお訊ねしたいのですが、どうしてルクレツィア様を後継者になさろうとお思いになったのですか? 貴族の爵位は男子相続が基本のはずではございませんか?」
「それでは駄目なのだよ」アシュヴィルは首を横に振った。「確かに、君──ええと……そう、ナイアス君の言う通り、我が国では男性だけが貴族の称号を獲得し領地を継ぐことが慣例になっている。しかし、今の私のように、子供達が全員女性である場合はどうなるのかね? 彼女達にこの領地を継いでもらうしかないではないか。男子相続の決まりだって所詮は慣例に過ぎんし、我がリマリック帝国には女性が領主になった実例もある。法的には女性が領主になっても何ら問題は無いのだよ」
「アシュヴィル様の弟君はどうなのです?」ナイアスが訊ねた。「他にも、アシュヴィル様には、多数の男性の親戚の方がおられたはず──」
「連中では駄目だ」アシュヴィルは吐き捨てるように言った。「私が政治家として有能であるのかどうかは別にして、今の領主である私の目から見ると、弟リチャードや叔父のダニエル殿は政治家としてあまりに頼りない。軍人として見るならば2人とも非常に頼り甲斐のある人間だが、領主に求められるのは軍人の素質だけではない。政治家として、レイゴーステムの人々を幸せにするだけの手腕が必要なのだ。だが、リチャードやダニエル殿にはその手腕が無い。彼らに任せるぐらいなら、まだ私の娘達に任せるほうが良いというものだ」
「お嬢様……ディアドラ様とルクレツィア様は領主たる器の持ち主なのでしょうか?」シルヴァイルが訊ねた。
「今はまだ分からぬ。私に分かっているのは、リチャードやダニエル殿と比べれば『まし』だということだけだ。だから、今からディアドラとルクレツィアをしっかりと教育し、彼女達を領主に相応しい人間にしなければならない。その手伝いを君達に頼みたいのだよ」
「つまり、私達の仕事は『宝石の原石を磨いて綺麗にしろ』ってことですね?」
 リスティルの言葉に領主は微笑んだ。「『宝石を磨く』とはドワーフらしい喩えだな。まあ、私の要請は大体そんなところだ。もっとも、君達に頼むのはルクレツィア1人だけだ。ディアドラの教育は別の場所に住む別の者に頼むつもりでいる」
「でも、どうしてそういう仕事を私達に頼むんですか?」リスティルが訊ねる。
「冒険者である自分達に、か?」
 領主の問い掛けにリスティルは無言で首を縦に振った。
「確かに、娘のおてんば振りに頭を痛めているのは事実だ。今回は部下の中に死者すら出してしまった。しかし、その一方で、今のルクレツィアにとって、冒険者ほど『教育』に相応しい勉強の舞台は存在しないのも事実だ。冒険者として活動する以上、嫌でも武術や魔術の腕前は向上するし、仲間達との付き合いや依頼を通じて人付き合いも勉強できる。一般庶民の生活を間近で実感できるというのも利点の1つだ。下々の者達のことを肌で知っていれば、彼らのことを考えた政治を行うこともできる。社交儀礼やマナーなどは、必要になってから覚えさせれば良い。中身が良くなければ外面が良くても意味が無いし、外面程度はいくらでも整えることができる。それに──」
「それに?」シルヴァイルが先を促した。
「今のルクレツィアには同年代の友人達があまりに少ない。昔は他の貴族達の中にも友人がいたのだが、あいつが外で遊び続け冒険者の真似事をしているせいで、彼女達もルクレツィアから離れてしまった。今のままでは、彼女は誰も友人を持たない孤独な人生を送ってしまうことになる。『指導者とは常に孤独である』という言葉はあるが、それは公の場に限ったこと。自分の悩みを打ち明ける相手、限りある余暇を共に過ごす相手がいなければ、精神の平衡を保つことは不可能だ。私の場合には妻と子供達がいるからその心配は無いが」
「それで俺達に友人役を頼んだってわけですかい?」
「まあ、そういうことだ」ブレシスの質問にアシュヴィルは頷いて答えた。
「……とても変わった依頼ですね。それに難しいし」リスティルが率直に言った。
「それは承知している。しかし、これが彼女にとって最善の道であると信じている。このまま1人で冒険ごっこを続け、どこかで事故で巻き込まれてあいつを死なせるところなぞ──」
「御主人様!」メイドの1人が叫ぶ。
「ああ、すまぬ。今のは言い過ぎだったかもしれぬな」アシュヴィルはメイドに手を上げて応えた。「しかし、ルクレツィアがこのままでは駄目になってしまうのは紛れもない事実。そういうわけで、この難しい依頼、引き受けてもらえないかね?」
 アシュヴィルの言葉が終わると、食堂の中は静まり返った。メイド達やアシュヴィルは冒険者達の返答を無言で待ち続け、シルヴァイル達は突然の依頼にどう応えるべきか思案し続けていた。
 ──どうしたらいい?
 シルヴァイルは声に出さない問い掛けを発しながら、リスティルのほうを向いた。彼女は無言で頷く。
 ──シルヴァイルに任せるわ。
 リスティルの奥に座るナイアスが頷いたのを確認してから、シルヴァイルは反対側を向いた。
「任せるぜ」ブレシスは簡潔に回答した。その奥でルッカも首を縦に振る。
 ──だとしたら……これしかないか。
「……それでは、シルヴァイル君。どうするかね?」アシュヴィルが重々しく口を開いた。
 シルヴァイルは息を整えてから答えた。「依頼の件、私共にお任せ下さい」
「分かった。頼むぞ」アシュヴィルはそう言って安堵の溜息を漏らした。

4976年10月28日 21:48
リマリック帝国首都リマリック、スラム街、娼婦ギルド

 光ある所には必ず陰がある。帝都リマリックの中心街にある「パレス・ファンタジア」を光に喩えるならば、ここスラム街は陰の象徴であった。そして、ここ娼婦ギルドの建物は陰の中心に立つ存在であり、リマリック帝国を裏で支配する闇社会の中心的存在でもあった。
 ──仕事とはいえ、どうしてここにいるのかな……。
 ルザリア・グラーブは物陰に隠れて娼婦ギルドの建物を観察していたが、その異様な光景に耐えることができず、思わず目を逸らすと目を閉じ首を強く振った。マジックアイテムの半透明塗料によって桃色や紫色に飾り立てられているランタン、露出度が高く妖しげな衣装に身を包み惜しげも無くその肢体を晒し出す女達、タキシード姿に身を包みながらも視線が虚ろなチンピラ達──ルザリアにとってはその全てが、この世に存在してはならぬ異世界の存在に思えてならなかった。だが、目を開けると、そこに広がるのは先程と変わらぬ光景であり、見紛うこと無き現実である。
 スラム街に生まれ育ち、人間としての最低水準の生活すら享受できなかった日々を送ったこともあるルザリアであったが、娼婦ギルドや闇世界の商売に手を染めることは決して無かった。彼女達スラム街の人間にとって、娼婦ギルドとは男女共に高収入が約束されている夢の職場であり、ルザリアの友人達の中には、極貧に耐えられず娼婦ギルドに身を投げるものも数多く存在した。だが、彼女には、自らの体を売ることが人間として最低の行為に思えてならず、その道に進む気にはなれなかったのである。後になって、「娼婦ギルドに進んだ友人達の中に死者が出た」という話を聞き、彼女は幼い頃に下した感情的な判断が正しいことを知った。今では、父レゾヴィスと共に、リマリック帝国内外に名を知られる著名な清掃業者として、多忙ながらも充実した健康的な毎日を過ごしている。その姿は、異様な色の照明の下で退廃的な日々を送るかつての友人達とは対照的であった。
 ──まさか、ここに顔を出すことになるとは思わなかったよ……。
 ルザリアは溜息を吐くと、再度視線を娼婦ギルドに戻した。
 彼女が視線を向けていたのは、2ヵ所設置されていた娼婦ギルド出入り口の一方のみであった。こちらは主として「一般市民専用」の出入り口として整備された場所であり、人の出入りが激しかった。もう一方の出入り口は「貴族専用」であり、スラム街には似つかわしくない停車場や噴水、大理石の建造物も並んでいた。ルザリアは魔術の専門家である同僚男性2人を裏門と通りに面した壁沿いの場所に派遣し、自分は正面玄関の監視を担当した。この他にも、グラーブ・クリーニング社の社員3名が皇后リジョレーヌの付き人に変装していた。運が良ければ、彼らがリジョレーヌと共に娼婦ギルドに現れ、娼婦ギルド内部での彼女の行動を隠すところ無く観察できるはずである。
「さて、何が出るかな……」
 ルザリアはごく小さな声で呟いた。その次の瞬間、彼女の声に応えるかのように、喧騒と人間の足音とは全く異なる音が彼女の耳に届き始めた。ルザリアの心臓の鼓動が速くなる。
 ──馬車の音!
 娼婦ギルドに近付く馬車に気付いたのはギルドの人々も同じであった。彼らは娼婦ギルドの壁に寝そべっていた乞食達を足蹴にして建物から引き剥がし、通り掛かる馬車の為の場所を確保した。程無くして馬車が止まり、ルザリアから見て反対側のドアが静かに開かれた。中から複数の人間達が降りると、その人間は出迎えのギルドメンバーが恭しく頭を下げた。しかし、娼婦ギルド正面玄関で何が起きているかを正確に知る術は、今のルザリアには無かった。運悪く、馬車が娼婦ギルド正面玄関とルザリアの間を塞ぐ位置に止まってしまったためである。
 ──ちっ、ついてないねえ……。
 彼女は軽く舌打ちしたものの、視線を馬車から離すことは無かった。
 馬車が現れてから80秒後、御者が鞭を振い、再び馬が前へ進み始める。ルザリアから見て障害物が無くなった娼婦ギルド正面玄関は堅く閉じられ、「貸し切り中」の札が下げられていた。
 ──他に手掛かりは?
 ルザリアは娼婦ギルドから目を離し左右を見回した。貴族専用出入り口を見張っていた職員が彼女の元へやって来るのが目に入る。
「報告があります」男はルザリアの側に屈み小声で言った。
「どうしたの?」
「貴族専用出入り口が開放され、客と思われる人間が全員外に出されています」
「もう店仕舞いとは早いねえ。夜はこれからだっていうのに」
「まだ午後10時にもなっていません」男が応える。
「他に裏門では何かあった?」
「いいえ。もう1人が何か見ているかもしれませんが、これ以上の動きは今のところありません」
「ありがとう。また監視に戻って」
 男はルザリアの言葉に頷くと、監視の為に再び裏口のほうへ歩き去っていった。
 ──これでは決定力不足だねえ……。
 ルザリアが男の背中を見つめながら息をついたその時、背中から別の男性の声が掛かった。「ルザリアさん?」
「ああ。何か分かったかい?」彼女は振り向いて訊ねる。
「中に放っていた使い魔が客人の正体を確認しました。間違いありません」
「リジョレーヌ様かい?」
 ルザリアの質問に男性魔術師は無言で頷いた。
「それは本当かい? 影武者だという可能性は──」
「間違いありません。更衣室で確認しました。ですから間違い──」
「ちょっと待って。『更衣室』?」ルザリアが眉をひそめた。
「はい。私の使い魔はネズミですから」魔術師はニヤリと口元を歪めた。「それにしても、リジョレーヌ様は変わった御趣味をお持ちですね」
「え?」
「更衣室に入った時、あの方はドレス姿でいらっしゃいました。その後、更衣室で男物の服にお着替えになったのですが」
「ははあ……男装ねえ」ルザリアは納得した。「こいつは意外だったよ」

4976年10月29日 02:17
リマリック帝国首都リマリック、西部高級住宅街、ロベルト・フォン・ナポリ邸、応接室

「つまり、事実だったわけですか」
 宮内大臣の質問に、ルザリアは頷いた。「ええ。確かに、皇后リジョレーヌ様は娼婦ギルドに出入りしていましたよ。建物内では、皇后陛下は男性の姿で行動し、娼婦達と一緒に過ごされているそうです」
「男装?」宮内大臣は聞き返した。「見間違いではないですね?」
「それは間違いありません。閉店後に娼婦ギルドの職員から話を聞き出して裏も取りました」
「ルザリア、リジョレーヌ様の目的は何だったか分かるか?」
「親父……女のあたしに言わせる気?」父レゾヴィスの質問に娘は顔を真っ赤にした。
「説明不要、というわけですか」宮内大臣は溜息を吐いた。
「でしょうな」上座に腰を下ろしていたロストファーム大蔵大臣が言った。「いやはや、男に飢えた女というものは怖いですが、皇后陛下が女に飢えた女だったとは思いもよりませんでしたな。私も家内を見ていると『我ながら苦労しているな』とは思っていたのですが、これでは皇帝陛下の方がもっと大変でいらっしゃることでしょうなあ」
「さっすが大蔵大臣閣下。奥様が『専門家』だと違うわね」
 ゼーブルファーは咳払いした。「……とまあ、戯言を言い合うのはこのくらいにして、そろそろ本気で善後策を考えねばなりますまい。皇后陛下が娼婦ギルドに出入りしているのが事実であると判明した以上、早急に手を打たねばなりませんぞ。『皇后陛下が娼婦ギルドに出入りしてた』というのだけでもスキャンダルですが、『皇后陛下がレズだった』ということまで一般市民達の間で噂になると──」
「確かに大事ですな」レゾヴィスが頷いた。
「皇后陛下が新興宗教団体に入ってるって話はあるのかな?」ルザリアが小声で訊ねた。
 運命神ゾルトスを頂点とする既存の神話体系に属する神々の大半は、同性愛に対して否定的な見解を示していた。もっとも過激な意見を唱えるのは農業神ファルーザであり、同神殿の教典には同性愛者の抹殺を推奨していると解釈可能な文言すら盛り込まれていた。一方、同性愛に対して寛容な態度を示していたのは、芸術神メルデューサを除けば、その多くが既存の神話体系から独立した神々を崇める集団──いわゆる新興宗教団体ばかりであった。エルドール大陸屈指の新興宗教団体であり、ここリマリック帝国では異端に指定されているナディール教団には、「女が女を、男が男を愛して何が悪い?」という言葉も伝えられていた。
 ルザリア・グラーブの質問は、ここに示したエルドール大陸特有の宗教事情によるものであった。リマリック帝国も含め、この大陸に住む人々の大多数は同性愛を嫌うよう「刷り込まれて」おり、同性愛者は「神の教えに背く不届き者」と非難の対象になっていたのである。もしも、皇后リジョレーヌがその「忌み嫌われる」同性愛者であり、万一ナディール教団のような新興宗教団体に所属していたとしたらどうなるか──彼女はこのことが心配でならなかったのである。ただし、ルザリアは皇后リジョレーヌの身を案じているわけではなかった。皇后のスキャンダルによってリマリック帝国が乱れることを恐れていたのである。
「いや、それはありません」宮内大臣は首を横に振った。「もっとも、あの方は芸術神メルデューサ様の信者でいらっしゃいますが」
「ふ〜ん……」
「スラム街の住人達はこのことをどれくらい知っているのですか?」ゼーブルファーが訊ねる。
「娼婦ギルドのこともレズの話も出ていません。しかし、『皇族に通じているかもしれない大物が娼婦ギルドに出入りしている』と、噂になりつつありますな」
「しかし、出入りしている人間が皇后陛下だと断定されたわけではないでしょう?」ロベルト・フォン・ナポリが訊ねた。
「断定はされていません。しかし、根拠の無いデマや噂が偶然にも真実を探り当てていた、ということは時たま起こりますぞ。それに、皇后陛下が娼婦ギルドで何をしていたのかを『具体的に』知っている人間だって存在するはずです。娘の話を聞いた限りでは、皇后陛下がお戯れになっていた相手というのは、娼婦ギルドの部内者だそうですが、その口の堅さは全く保証できませんぞ。何しろ、娘の質問に対していとも簡単に、皇后陛下のことを話してしまったのですからな」
 大蔵大臣と宮内大臣はその言葉に思わず顔を見合わせていた。
「掃除職人である私からは、これ以上難しいことは申し上げられませんが、今が危険な状況であることはお分かりでしょう?」
「それは承知しています」ゼーブルファーは頷いた。「緘口令でも対処は無理でしょう。ですから……」
「……ですから?」ロベルトが先を促す。
「2つのことを同時に行わなければなりません。まず第1に、もっともらしい作り話を予め用意しておいて、民衆に噂が広まった後もすぐに対処できるようにしておくこと。そして第2に、皇帝陛下などと話をつけ、皇后陛下の御乱交に歯止めを掛けること。場合によっては、皇帝陛下とリジョレーヌ様を別れさせることも検討しなければなりませんぞ」
 ゼーブルファーの口から飛び出した言葉を聞き、応接間にいる人々が一斉に彼の顔に視線を向けた。だが、視線を向けられてもなお、ゼーブルファーは泰然とした態度を取り続けていた。
「……大蔵大臣」レゾヴィスが重々しい沈黙を破った。「今のお言葉がどういう意味をお持ちなのか、お分かりですか?」
「それはもう、嫌と言うほどにね。無論、離婚は最後の手ですから使いたくはありません」
「だとしたら『家庭内離婚』?」
 ルザリアの言葉に男達は互いに顔を見合わせた。彼らにとってルザリアの言葉は初耳だったからだ。
「つまり……法的には離婚していないが、実際には離婚も同然の状態にするわけですか?」ゼーブルファーが訊ねた。
「え? あ……はい、そういうになるんでしょうか」
「分かりました」ゼーブルファーは頷いた。「『家庭内離婚』か……。聞き慣れないが、良い言葉だ」
「は、はあ……」
「まあ、それはともかく我々が目指すべき状態はこれではっきりしたわけですな」
「『家庭内離婚』ですか?」レゾヴィスが大蔵大臣に訊ねる。
「その通り。何しろ、リジョレーヌ様と皇帝陛下の不仲の原因が、どうやら皇后陛下の同性愛であるらしいことが分かった以上、通常の方法では絶対に解決不可能です。原因が性格の不一致やごく普通の不倫だったとしたら、仲直りも決して不可能ではないと思われますが……」
「そうですなあ」宮内大臣は溜息を吐いた。
「したがって、皇帝陛下とリジョレーヌ様の仲直りは、原則として有り得ないものとして話を進めなければなりません。ただし、離婚も危険であり選択できません。となると、我々が目指すべきものは比較的明確だと思われます。皇帝陛下と皇后陛下には『仮面夫婦』を続けて頂く一方で、それぞれに対して新しい『伴侶』をお付け致さねばなりません。まあ、ありていに言ってしまえば、皇帝陛下には第2夫人が、そして皇后陛下には同性愛者専用の後宮が必要になるでしょう。それこそ、先程ルザリアさんが仰った『家庭内離婚』の実現です」
「でも、同性愛者専用の後宮というのは前例があるのですか?」ルザリアが訊ねる。
「正式に設置されたことは全くありませぬ」ロベルトは首を横に振った。「しかし、後宮というものはそもそも女性だけしか住まわない場所。我が国では、遠く離れた異国のように、去勢された男性を後宮内に立ち入らせることすら認められていません。したがって、後宮で働く女性達の中には、フラストレーションを解消する為に、同僚の女性と同性愛の関係に入る者もおります。ルザリア殿が御存知でないとするならば、幸運にも、そのような場面や道具を御覧になったことが無いだけなのでしょう」
「へえ……」今まで知らなかった後宮の裏側を知ったルザリアは、思わず溜息を漏らしていた。
「しかし、人選はいかがなさるのです?」レゾヴィスが訊ねた。
 この質問には大蔵大臣が答えた。「そう、それが問題なのです。皇后陛下の『御伽』のお相手の女性はすぐに見つかると思いますが、皇帝陛下のお相手となる女性を捜すのは至難の技でしょうなあ……。何しろ、名門貴族たるファーゲット家からお越しになった皇后陛下の面子を保ち、ファーゲット家にも認めてもらう縁組でなければなりません」
「では、どういう方がよろしいかと──」
 ゼーブルファーは宮内大臣の言葉を遮った。「そんな都合の良い人間、いるわけ無いじゃないですか」

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