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4976年11月1日 20:49
リマリック帝国首都リマリック、帝城、通称「パレス・ファンタジア」、安息の間
リマリック帝国第45代皇帝ゼノン・ドリス・リマリック──ゼノン7世の住居は、「パレス・ファンタジア」の中央に作られていた。20m四方の巨大な部屋はガラスと宝石によって作られた調度品で美しく飾られ、マジックアイテムのランタンの光を受けて色鮮やかに輝いていた。部屋の南側は小さな森と池すらも有する広大な中庭に面し、開け放たれた窓には柔らかい月の光が射し込んでいる。
寝る時を除き、ゼノン7世は常に窓辺に腰を下ろし、宮内省に務める詩の名人達に囲まれながら、窓の外に広がる夜空を見つめては酒と詩吟に興じる毎夜を送っていた。妻リジョレーヌや子供達の姿が現れることは無く、詩を愛する同好の士のみが皇帝との時間を共有することができたのである。
しかし、この日、ゼノン7世の側にいたのは宮内大臣ロベルト・フォン・ナポリただ1人だけであった。
「ふう……今日も終ったな」
今年で40歳になったゼノン7世の容姿は、お世辞でも美男子とは言い難かった。40歳にして黒い頭髪には白髪が混ざり始めており、額や頬には皺も走っている。体格は中肉中背と言われているものの、腹部は並みの大人と同様脂肪が溜まり、緩やかな膨らみを帯びていた。普段着として愛用しているゆったりとしたガウンを羽織っていなければ、中年太りの無残な姿を衆目に晒すところであっただろう。しかし、彼の顔は皇帝としての威厳に満ち溢れていた。若い頃は「全てを射抜く視線」と家臣達から恐れられていた鋭い視線は今もなお健在であり、その頭の良さ──直感の鋭さが未だに衰えていないことを周囲に知らしめていた。「内面的な強さが滲み出た姿」という言葉が、ゼノン7世の姿を最も的確に捉えていたのである。
「御意」ロベルトは直立したまま僅かに頷いて応えた。
「いつもながら、ロベルトには苦労ばかりをかけているな。余の為に尽くしてくれて、本当に感謝しているぞ」皇帝が毎日のように口にしている言葉であるが、これは彼の偽らざる本心でもあった。
「身に余るお言葉……光栄にございます」宮内大臣は深々と頭を下げた。
「うむ。……して、何か報告すべきことはあるかね?」
「……」
「どうした?」宮内大臣のいつもとは異なる様子に気付いたゼノン7世が訊ねた。「ロベルトが口を噤むとは珍しいではないか。どのようなことでも構わぬから、余に申し上げてみよ」
「御意。実は、皇后陛下のことでございます」
皇帝は溜息混じりに言った。「やはりな」
「『やはり』?」ロベルトは眉をひそめた。「と仰いますと?」
「最近、リジョレーヌの行動に挙動不審な点が目立っていた。夜な夜な帝城を抜け出して城外へと向かっているそうではないか。外で何をしているのかは分からぬが、おそらく良いことではあるまい。リジョレーヌが他人に誉められることをしているのならば、一般市民達の間で噂になっていてもおかしくは無いし、余の耳にも届いているはずだ」
「その通りでございます」
「して、皇后陛下の行動について何か掴んでいるのか?」
「実は……」宮内大臣は声を落とした。「実は、非常に申し上げにくいことでございますが、皇后陛下が娼婦ギルドに出入りしていて、娼婦ギルド内にて複数の女性とお戯れになっているそうでございます」
「『女』と? 男の間違いではあるまいな?」今度はゼノン7世が眉をひそめる番であった。
「いいえ。女性にございます。娼婦ギルド関係者から多数の目撃証言が得られております」
「何てことだ」ゼノン7世は忌々しげに呟いた。「余の伴侶ともあろう人物が同性愛者だったとは……」
「御存知ではなかったのですか?」
「リジョレーヌが余のことを好いていなかったことは知っている。ゼルゲイス卿の都合による政略結婚でもあったから、結婚生活に不満を抱いていたとしても不思議ではない──こう考えていたのだが、まさか余のことを嫌っていた原因が同性愛だったとは……」
「正直申し上げますと、私も心底驚きました」
ゼノン・ドリス・リマリックとリジョレーヌ・ファーゲット・リマリックの夫婦生活は、誰もが考えるよりも早く破綻を迎えていた。2人の関係が政略結婚であるという事実が2人の頭から離れることは無く、それぞれが自分の伴侶のことを「政略の道具」としか考えることが無い状況下において、愛情が育つはずも無いのである。また、彼らの嗜好がまるで正反対であったことが夫婦の溝を一層深くさせていた。夫の方は清楚且つ質素で優しい女性を求めていたのに対して、皇后リジョレーヌは原色の口紅と宝石を散りばめた豪華絢爛な装身具を好むという、派手好きで質素さからはかけ離れた女性であった。一方、妻のほうは夫に男としての猛々しさを求めていたのに対し、夫ゼノン7世は窓辺に座って詩吟を好み、政治の世界でも文人皇帝として知られるような優男であった。そこに、妻が求めている猛々しさ・剛剣さ・勇猛さは微塵も感じ取ることはできなかったのである。
そんな彼らにとって、夫婦の「夜の生活」──性生活とは、皇帝と皇后の義務を果たす為の儀式以外の何物でも有り得なかった。彼らは子供を産むとすぐ別居生活に突入し、公式行事以外の場では顔すら合わせない毎日を送っていた。最後に2人が言葉を交わしたのがいつのことであったのか、宮内大臣のロベルト・フォン・ナポリですら分からなくなっていたのである。しかし、ゼノン7世やロベルトも、皇帝と皇后の不仲の原因の1つに、皇后の「異常性癖」──同性愛が混じっていたとは夢にも思っていなかった。
「それが普通だ」皇帝は頷いた。「では、それを踏まえた上で、この件をどう扱う? 同性愛者をそのまま妻として娶るのは問題があろう。男が女を、女が男を愛するのが自然の摂理であるはず。それに外れるリジョレーヌのことは余も庇いきれぬ。できる限り早く──」リマリック帝国の常識的な道徳観念を持ち合わせているゼノン7世にとって、同性愛は忌み嫌われる行為の1つとして扱われていた。
「離婚でございますか?」
「それではダメかね?」ゼノン7世は外の景色から目を離し、宮内大臣のほうを向いて訊ねた。
「陛下を御守りする立場にある私と致しましては、その案には残念ですが同意致すことはできませぬ」
「しかし、このことを道徳神ラミアや農業神ファルーザの神殿が聞きつけたらどうなると思う? そのことを考えれば、今ここでリジョレーヌと素早く縁を切ることも当然考慮せねばならないのではないかね?」
「縁を切った結果として、ファーゲット侯爵を敵に回すおつもりですか?」
「……ちっ、そうだったな」皇帝は舌打ちした。「妻の実家のことを忘れていたぞ」
「陛下がファーゲット家のことを嫌っておられるのは私も承知致しております。しかし、現在、ファーゲット家当主であらせられるゼルゲイス様が皇帝直属軍のトップに立っておられることはどうかお忘れなきよう。ゼルゲイス様が、皇帝直属軍の人事を全て決定できる立場に立っておられるのです。今申し上げました言葉が何を意味しているか、聡明なる陛下でしたらすぐに御理解して頂けるものと存じます」
「ファーゲット家がクーデターを起こすかもしれない、というわけだな」
「御意」ロベルトは頷いた。
暫しの沈黙の後、皇帝は顔をゆがめ吐き捨てるように言った。「くそっ、忌々しい」
「陛下、汚い言葉は──」
「分かっておる!」ゼノン7世は大声でロベルトの言葉を遮った。「……いや、失礼した。しかし、あの家のことを考えると……」
「心中、お察し致します」
「ありがとう。……それはそうと、話を元に戻すが、離婚がダメだとするとどのようにするのかね?」
「まず、皇后陛下の為に新たな後宮を内密に作らねばなりますまい」
「同性愛者専用の後宮か? そんな汚らわしい物を──」
「陛下、事を露見させぬ為には手段を選ぶことはできませぬ。それに、後宮で働く侍女達の間で同性愛やそれに類似した行為が日夜行われているのは周知の事実。同性愛者でしたら既に後宮内に数多く存在するのです。これは事実であり、今更修正できるものではありません」宮内大臣はここで手を挙げ、反論しようとしていた皇帝を遮った。「おっと、陛下。先に申し上げますが、彼女達を全員追い出すこともできませぬ。そのようなことをしたら、新たな混乱の種を蒔くだけでございます」
「やれやれ……難しいものだ」
「理想と現実というものは常に乖離している物でございます」この言葉はロベルトの口癖になっていた。
「分かった。この件はロベルトに任せよう。他には?」
「新しい妃──第2皇后を捜さねばなりません。この時、ファーゲット家の者も建前として候補に加えます」
「余の新しい伴侶か……それは楽しみだな」先程までの厳しい表情とは打って変わり、皇帝の顔には笑みすら広がっていた。「分かった。それについてもロベルトに任せよう。世に相応しい女性をなんとか捜し出してくれ」
「御意」
宮内大臣が恭しく頭を下げる。それを見たゼノン7世は無言で頷く、再び視線を窓の外へ移し、晴れた秋の夜空に広がる星々を見つめ始めた。そして、小さな声で話しかけた。「……なあ、ロベルト」
「はい?」
「……いや、いい。独り言を言おうとしていただけだ」皇帝は手を振って応えた。
「そうですか……分かりました」
その後、夜の挨拶を述べて宮内大臣が退出してからも、ゼノン7世は星空を見つめ続けていた。星空を見て楽しむのではない。星空を見ながら自分だけの世界に没入し、より深い思索に耽る為であった。そして、ロベルトに対して漏らそうとした言葉を、心の中で呟いた。
──ファーゲット家……後の災いになりそうだ。何らかの手を打たねばなるまい。
4976年11月3日 10:14
リマリック帝国首都リマリック北38km、カルネンスの森
かつて、リマリック帝国首都リマリックの北には、皇室の御料地として広大な森林地帯が広がっていた。このカルネンスの森──正式には「リマリック御料地」と呼ばれていた──は豊かな自然の宝庫として知られており、歴代皇帝の気晴らしや避暑の為に長年愛用され続けていた。春や秋には、皇帝が帝国各地の諸侯や軍人達をこの自然豊かな森に集め、大々的な狩猟大会を執り行うことも珍しくなかった。
しかし、カルネンスの森が皇帝だけのものであった時代は遠い昔のことである。リマリック帝国の財政が傾き始めた50世紀になると、皇帝は毎年のように行われていた狩猟大会を取り止めるようになった。皇室の威信が低下して有力諸侯が集まらなくなり、莫大な費用をかけて狩猟大会を開くのに見合うだけのメリットが無くなってしまったのである。また、無人となった御料地を有力諸侯に対して、有料で貸し出すことも珍しくなくなった。現在、この御料地に足を踏み入れていたゼーブルファー・ロストファームやゼルゲイス・フォン・ファーゲットも、皇室に金を払って御料地に立ち入りを許されていたのである。
「調子はいかがかな?」
軍馬に跨っていたゼルゲイスは隣を向き、同じく馬上に腰を落ち付けていたゼーブルファーに訊ねた。
「まだ始まったばかりです。調子が良いのかどうかも分からぬところです」
「であろうな」ゼルゲイスはそう言い、正面で動き回っている人々に目を向けた。「それにしても、ゼーブルファー殿の御子息は狩りが御得意のようだ。あのようにきびきびと動き回る姿は実に素晴らしい。ゼーブルファー殿とは違い、軍人としての素質に恵まれているようだ」
「閣下からのお褒めの言葉、誠にありがとうございます。息子も喜ぶでしょう。もっとも、弓の腕前よりも罠の作り方や動物の追い詰め方を得意としておるようですが」
ゼーブルファーが視線を向ける先には、部下の兵士達を指揮棒と声で巧みに操るラスファット・ザイッシュ・ロストファームの姿があった。獲物となる小動物を巧みに追い詰め、自らの手で作り上げた精巧な罠へ導いていくその姿は、父親ゼーブルファーだけではなくゼルゲイスをも唸らせていた。多数の子供に恵まれていながら、その誰もが軍人として恵まれていなかったゼルゲイズ・フォン・ファーゲットにとっては、狩りに興じるラスファットの姿は羨ましい限りであった。
「時に、ゼルゲイス殿の御子息は、来年リマリック帝国大学を御卒業されるそうですね」
「……」視線をラスファット立ちに向けたまま、ゼルゲイスは口を噤んでいた。
「専攻は魔術理論だと伺っておりますが?」
「あいつの身に付けた知識は何も役に立たぬ」ゼルゲイスは首を横に振った。「息子が学んだのは金系統呪文──動物達を操る呪文だというのだが、そんなものは大学のキャンパスで椅子に座り、教授の話をノートに書き写して学ぶようなものではないはず。狭苦しい塀の外に飛び出し、この手で呪文を用いてこそ初めて真理が掴めるというものだ」
「そうかもしれません」ゼーブルファーは差し障りの無い返答をした。
「帝国大学ではなく、魔術師ギルドで勉強させるべきだったかもしれんな」ゼルゲイスは独り言のように呟くと、隣に顔を向けた。「……して、ロストファーム卿。本日、このような会談の席を設けられた真意をお訊ねしたい」
「真意、ですか?」
「左様」ゼルゲイスは頷いた。「このような場所をお作りにならないゼーブルファー殿の普段のお姿を見ると、本日のようなことは誠に奇異に感じられる。……いや、ゼーブルファー殿に疑心暗鬼を抱いているわけではない。単に珍しいことを面白がっているだけのことであるが」
「そうですか。ならば、本題に入ってもよろしいですな」
「良かろう」
ゼーブルファーはゼルゲイスの側まで馬を近付けた。「御息女にして皇后陛下であらせられるリジョレーヌ様の件です」
「どうかしたというのかね?」
「同性愛者ではないかとの疑惑が持ち上がっております」
ゼルゲイスは眉1つ動かさずに訊ねた。「大蔵大臣閣下がそう御判断された根拠を伺おう」
「首都リマリックの娼婦ギルドにて、皇后陛下がお忍びでお遊びになっているところを、複数の人間に目撃されています。娼婦ギルド関係者の証言によって、その相手が女性であることも判明致しております。今のところ、情報の流出は抑えられていますが、このまま御遊興が続くようであれば、この異常事態が一般市民に露見することも覚悟して頂かねばなりません。そうなったらどうなるか……聡明な将軍閣下でしたらお分かりでしょう」
──本当はどこまで聡明なのか全く分かりませんけどね。
ゼーブルファーは心の中で侮蔑の言葉を付け加えた。
「……それで、何が言いたい?」皇帝直属軍司令長官は表情を変えぬまま訊ねた。しかし、その声は1オクターブ低くなっている。
「何らかの善後策を講じる必要がある、ということでございます。この点につきましては、同意して頂けますな?」
「勿論」ゼルゲイスは頷いた。「では、善後策の中身について大蔵大臣殿にお訊ねしたい」
──おやおや、これは意外と冷静な対応だ。もしかしたら、侯爵はこうなることを予見していたのかもしれないぞ。しかし、次の言葉を聞いたらどうなるやら……。
ゼーブルファーは息を整えてから言葉を続けた。「善後策は大きく分けて2つ。皇后陛下専用の後宮の設置と、第2皇后の設置です」
「リジョレーヌ専用の後宮と、第2夫人?」ゼルゲイスが眉を動かした。
「はい」
「そのような要求、寝耳に水だぞ。我がファーゲット家としては即答しかねる上に受け入れ難い重大な要求だぞ。第1、そのようなことを皇帝陛下がお認めになるのか?」
「お認めになるでしょう──いや」ゼーブルファーは首を軽く振った。「皇帝陛下には、今申し上げた2つの解決策をどちらとも呑んで頂かねばなりません。もしも、それが実現しないのでしたら、皇帝陛下とリジョレーヌ様には夫婦の仮面を被ったまま、危険な綱渡りを続けて頂く以外に道は無いのでございます。そして、この方策が極めて危険であることは先程も申し上げました。皇室の権威を失墜させ国民に笑われるような事態だけは、何が何でも排除しなければならないのです」
「普通の家庭ならば離婚という道も残されているのだが、陛下にはそれが認められておらぬからな」
「その通り。家庭の維持を最優先とする我が国の法律・戸籍政策に鑑みますれば、皇帝陛下とリジョレーヌ様の御離婚は絶対に回避せねばなりません。ですから、私は先ほど申し上げたような解決策を申し上げたのでございます。これ以上、私の申し上げることに反論をお続けになるのでしたら、私や皇帝陛下、宮内大臣に納得して頂けるだけの対案を提示して頂きたいものです」ゼーブルファーは語気を強めた。「もしも対案を提示して頂かないまま批判を続けられるでしたら、私はゼルゲイス殿のことを子供と見なしますぞ」
──いや、どう考えても子供なんですけどね、貴方は。50を過ぎた立派なおじさんだというのに。
ゼーブルファーの刺々しい言葉──心中の呟きは更に刺々しかった──を耳にして、ゼルゲイスの顔に僅かながら赤みがさした。
「ふむふむ。それで?」
「改めて伺いたいのですが、第2夫人と新しき後宮の件、御了承して頂けるでしょうか?」
ゼルゲイスはしばし空を見上げた後、静かな声で答えた。「良かろう。ただし」
「ただし?」
「具体的な方策は全て皇帝陛下と宮内大臣のみに任せること。私やゼーブルファー殿も含め、外部の人間は一切口を出させないこと。これを条件としたいが、それでよろしいか?」
「はい」ゼーブルファーは満足げに頷いた。
──ほぼ私の考えた通りのシナリオになったか。
「では、大蔵大臣閣下。政治の話はこのくらいで切り上げようではないか。狩りの続きを楽しみたい。丁度、御子息が獲物を仕留められたようだしな」
そう言ってゼルゲイスが指差した先では、ラスファット・ザイッシュ・ロストファームが仕留めた兎を手に掲げ、大人達に向かって誇らしげに見せていた。その姿を見たゼーブルファーの顔に自然と笑みが広がる。
「いいぞ! その調子だ!」ゼーブルファーは息子を褒め称えた。
──いい調子、か。確かに調子に乗ってはいるな。
ゼルゲイスはゼーブルファーの喜ぶ姿を微笑みながら見つめていた。しかし、その心中は全く正反対であった。共にリマリック帝国の有力貴族であり、片方は大蔵大臣、もう片方は皇帝直属軍司令長官という要職に就く彼らの関係は、どんなに好意的に解釈してもライバル同士でしかなく、本心では対抗意識と敵意を抱いていたのである。ゼーブルファーはゼルゲイスのことを戦争しか知らない筋肉馬鹿として捉えている面があり、一方でゼルゲイスはゼーブルファーのことをひ弱な官僚と侮蔑していた。表面上は礼儀正しく振舞う2人であったが、その礼儀正しさは内に秘めた嫌悪感を隠す為の鎧でしかなかった。
──官僚風情に何ができる? この国を真に支えているのが私であることを、いつか思い知らせてやる。
4999年11月4日 15:30
リマリック帝国領レイゴーステム、クレス・リュッツェン邸、応接室
「ごめんなさい!」
ルクレツィア・ファディスはソファから下りて床に座ると、家の住人達に深々と頭を下げていた。額を床に擦りつけんばかりであったその姿勢は、家の住人達を大いに慌てさせていた。貴族──それも自分達の領主の娘ともあろう方が、土下座して謝罪の言葉を述べるということは、リマリック帝国の一般市民達にとっては有り得ない事としか考えられなかったのである。しかし、客観的に見れば、彼女が謝ることには一定の合理的理由が存在した。家主であった人物クレス・リュッツェンは、失踪していたルクレツィア・ファヴィスの捜索中に、ルクレツィアを監禁していた山賊達の手によって殺害されていたのだから。
「あ、あのルクレツィア様、そんな格好を──」
狼狽する喪服姿の家族の反応とは無関係にルクレツィアの謝罪の言葉は続いた。「私のせいで……私が後先考えずに遊び回ってしまったせいで、こんな取り返しのつかないことになるなんて……本当にごめんなさい。謝って解決することじゃないことは……私にも……私……」
「あの、ルクレツィア様……」クレス・リュッツェンの妻がルクレツィアの肩に手を添えた。
「ううっ……うわわぁっ!」ルクレツィアは大粒の涙を流した。「本当に……本当に……」
「お姫様……」
ルクレツィアが泣き止むまで、クレス・リュッツェンの遺族達は無言で彼女を見つめるしかなかった。彼女が泣き止むと、遺族達は再びソファに戻るようルクレツィアに進めてから、興奮気味だった彼女の心を静める為、温めたミルクを彼女に出した。
「お姫様のお気持ちは本当に良く分かりました」目元をハンカチで拭いながらクレスの未亡人が口を開いた。
ルクレツィアはミルクの入ったコップを手に持ったまま言った。「でも……私が許されるわけでは……。だって、私がクレスさんを殺してしまったようなもの──」
「クレスは義務を果たしただけですぞ」未亡人の隣に腰を下ろしていたクレスの父親が答えた。彼は小隊長を務めたこともある元軍人だった。
「義務?」
「そう。君主に使える部下としての義務……兵士としての義務を立派に果たされた。ただ、それだけなのです」
「だとしたら……」
「そう。上に立つ貴族の方も、立派に義務を果たして頂かなければなりません」
父親の言葉を聞き、ルクレツィアの顔が暗く沈んだ。
「息子が亡くなった直後、息子に何があったのかを同僚の方から伺った時には、正直申し上げますと悲しいと共にやるせない気持ちになりました。いくら息子が自分の仕事を全うしたとはいえ、大切な息子がなくなってしまったという事実は変わりませんし、ルクレツィア様がなさったことが変わるわけでもありません」
「はい……それは私も……」
「しかし、ルクレツィア様の今のお姿を見て、少しは救われたような気が致します」
「……え?」領主の娘はコップから顔を上げると、クレス・リュッツェンの父親の顔を正面から見つめた。
「ルクレツィア様は私達の家にお見舞いに来て下さいました。普通の貴族ならば存在すら気に留めないような普通の兵士に対しても、お気遣いを見せて下さったのです」父親は軽く溜息を吐いた。「貴方が来て下さったことで、息子が亡くなってしまった悲しみが全て消えたわけではございません。しかし、ルクレツィア様のお気遣いのおかげで、私達は多少なりとも救われました。もしも、ルクレツィア様が来て下さらなかったとしたらどうなっていたことか……。貴族の放蕩に巻き込まれた不幸な兵士が哀れにも死んでしまい、当の貴族はそのことについて罪の意識も哀悼の意も抱かないとなると……」
「……」
「申し訳ありません。言葉が過ぎましたな」
「いいえ、そんなことはありません」ルクレツィアは首を横に振った。
「どうか、これからはこのようなことが二度と起こらぬようどうかお願い致します。そして、アシュヴィル様と共に立派な貴族になって頂きたいと存じます。それが亡くなった息子の為でもありますから」
「はい」ルクレツィアは再度深々と頭を下げた。「ところで、クレスさんの……」
「息子ですか? 今は、奥の部屋で安らかに眠っています。葬儀は明日の予定ですので」
暫しの沈黙を経て、ルクレツィアは躊躇いがちに口を開いた。「あの……会わせて頂けますか? やはり、クレスさんに直接会って謝らないと気が済まないんです。無理なお願いだとは承知していますが、お願いできませんでしょうか?」
ちなみに、ルクレツィアがクレス・リュッツェンの遺族と会う前に訪れていた場所──もう1人の死亡した兵士の自宅では、彼女は遺族との面会すら拒否されていた。
遺族達は互いに顔を見合わせ無言で「相談」を続けていたが、やがて彼らを代表する形でクレスの父親が答えた。「分かりました」
「あ、ありがとうございます!」ルクレツィアは頭を下げた。これで何回目になるか、彼女も覚えていなかった。
「では、こちらへどうぞ」父親はそう言って立ち上がると、ルクレツィアを奥の部屋へ案内した。
「あれ? あの時のみんなじゃないの。一体……?」
クレス・リュッツェン邸から出てきたルクレツィアは、シルヴァイル・ブロスティン達の姿を見て素っ頓狂な声を上げていた。彼らの横には、アレス・ローゼンの姿もあった。
「ルクレツィア様……いや、ルクレツィアさん、用事は終わったかしら?」リスティルが訊ねる。
「うん……」ルクレツィアは頷いた。「それよりも、みんなどうしてここに……?」
「お父様の御依頼でね」シルヴァイルが答えた。
「どういうこと?」
「実は、ルクレツィア様の護衛……いや」シルヴァイルは首を横に振って自分の言葉を訂正した。「仲間になって欲しいという御依頼がアシュヴィル様からあったんだ。これからもルクレツィア様は外で冒険者をお続けになるのだろうから、その時ルクレツィア様の仲間になって色々と支えてやって欲しいと……」
「お父様が? 本当にそうなの?」
「はい」シルヴァイルの隣に立っていたナイアスが首を縦に振った。
次に口を開いたのはリスティルだった。「それに、お父様の御依頼が無かったとしても、ルクレツィアさんのことは気になってたからね。このまま1人だけで冒険者を続けていっても大丈夫なのかなって。今回は私達がたまたま通り掛かったから良かったけど、そんな偶然ってなかなか起こらないでしょ? ルクレツィアさんだって、仲間がいなかったら寂しいでしょうし」
「うん……」
「ねえ、ルクレツィアさん。そういうわけで、今から一緒に行かないかしら? 私達も新しい仲間が欲しかったところだし」
ルクレツィアは5人の顔をじっと見つめていたが、彼らの眼差しが本気であり好意的であることに気付くと、硬かった表情を柔らかくして訊ねた。「私でいいの? 一緒にいていいの?」
「そうだよ」シルヴァイルは頷いた。「そうだよね、みんな?」
彼の言葉に反応して、他の仲間達──ブレシスやルッカも首を縦に振っていた。
「本当にいいのね?」
「ルクレツィアさんもしつこいわよ」リスティルは苦笑いした。「今の私達の言葉は本当よ。嘘じゃないわ」
レイゴーステム領主の長女は目尻を手で拭うと、嬉しそうに微笑んだ。「ありがとう。だったら、一緒にさせてもらうね」
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