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-プロローグ / -本編(2)

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4999年1月5日 17:24
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階

 大陸の中に砂漠が1つも見られないことから「緑の大陸」の異名を取るエルドール大陸。今回の話の舞台となるシルクス帝国は、このエルドール大陸の西端を支配する大国であった。そして、帝国の政治・経済の中心地である首都シルクスは、帝国の中でも最も西──エルドール大陸の西端に位置していた。
 シルクスの町は、市街地の中央に位置する帝城──皇帝ゲイリー1世の住まいから伸びた8本の大通りによって、大きく8つのブロックに分割されていた。そして、各ブロックは北北東──北と北東に伸びた大通りに挟まれているブロックから順に1番街、2番街、3番街……と名付けられていた。ただし、都市機能はブロックごとに割り振られるわけではなく、市街地の拡大はその場その場で無計画に行われていた。実は、今から7世紀以上も昔に作られたシルクスの都市計画では、各ブロックが異なる都市機能を有するはずであったが、この点はとうの昔に放棄され、計画の中で現在まで残されているのは、大通りによって市街地を8分割するという都市計画と、各ブロックを「×番街」と番号で呼ぶ方式だけとなっていた。
 帝都シルクスの治安維持を一手に担っているシルクス警視庁の建物は、シルクス帝国の政治の中枢である帝城の東北東側──2番街の「先端」に位置していた。今から15年前に旧シルクス市役所を取り壊して作り直されたもので、地上5階・地下3階・総部屋数120の広さを誇っている。

 そんなシルクス警視庁の1階に設けられていた被害届受付を担当するデニム・イングラスは、昨年の10月に就職したばかりの新人官僚であった。4978年にシルクス3番街で生まれた彼は、幼い頃から「神童」として知られていた。僅か3歳にして大陸交易語と西方語の字を全て覚え、7歳にして4桁までの四則演算が自由自在にこなせるようになった。両親は彼の将来に希望を託し、持てる財産を全てなげうって彼をリマリック帝国大学に入学させた。大学でも彼は優秀な成績を収め、誰もが彼の学者としての将来に期待を抱いていた。しかし、彼は周囲の人々の勧めを全て断り、シルクス帝国の国家公務員として生涯を過ごす道を選んだのである。彼が進路選択に迷っていた時期はルテナエア事件当時の最中であり、リマリック帝国は戦いの舞台として大混乱に陥っていた。その中で、彼はリマリック帝国の勝利とそれに続く帝国の崩壊、そして新たなる国家の建国を予期し、その新国家で自分の力を試してみる気になったのである。
 国家公務員試験に合格した彼が最初に配属されたのが、ここシルクス警視庁の受付職員であった。官僚機構の中で最下層に位置する職場であったが、彼はそのことには不満を抱いていなかった。リマリック帝国やシルクス帝国の官吏登用システムでは、あらゆる国家公務員は最も地位の低い場所に配属されることになっており、彼もこのことを十分に承知していたのである。私生活や健康、更にはプライドを犠牲にして、巨大なピラミッドの底辺から急な階段を駆け上がることによってのみ、官僚達の将来の栄達と成功は手に入れられるのである。
 ──退屈な仕事だが、これも修業のうちだ。頑張らねば!
 疲労のピークに達する夕暮れ時を乗り切るため、彼は心の中で叫び声を上げた。そして、彼が目を警視庁の玄関に戻した時、玄関から小走りで駆け込んで来る40歳代の女性の姿が目に入った。普段着のままの格好で現れたその女性は、受付に座っていたデニムの元へ駆け寄ると、大声を張り上げた。「助けて下さい!」
「落ち着いて下さい」デニムは落ち着いた声で話しかけた。「落ち着いて、ゆっくりと話して下さい。大丈夫ですよ。我々はあなたの味方です」
「落ち着けって!? そんなの無理です!」女性の声は悲鳴に近くなっていた。「私の大事な……大事な一人娘が、いなくなったんです! そんな時に落ち着けなんて──」
「ええ。大丈夫です。我々に任せて下さい。それはともかく、事情を──」
「早くして! 娘がどこかに売られたらどうするの!?」
 ──どうしよう……ほとんど錯乱状態じゃないか……。
 デニムが心の中で溜息をついた時、少し離れたところから上司の声が聞こえてきた。「どうした?」
「この女性の方が、『娘がいなくなった』ということでお越しですが……」
「……分かった。その方を談話室にお通ししろ。君が話を聞いてくれ」
「しかし、受付は──」
「俺がやっておく」上司はデニムの声を遮るようにして言った。「彼女からは君が話を聞いてあげるんだ」

4999年1月5日 17:38
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階、談話室

 デニムと問題の女性は、警視庁の中庭に面していた談話室のソファに向かい合って腰を下ろしていた。テーブルの上には、飲みかけのハーブティーが残っていたティーカップが2つ置かれていた。
「落ち着きましたか?」デニムはあいも変わらず落ち着いた声で訊ねた。
「ええ。先ほどは取り乱してしまって申し訳ありませんでした」女性は静かに頭を下げた。ハーブティーのおかげなのかどうかは不明だが、女性は冷静さを取り戻していた。
「いえ、ああいうことには慣れていますから大丈夫ですよ。気になさらないで下さい。……それよりも、そろそろ話して頂けますか? あなたがここに来た理由を」
「ええ。それよりもまず、自己紹介から入りますわね。私はセレナ・ヴィンセンスです」
「私はデニム・イングラスです。よろしくお願いします」
「こちらこそ。……それで、先ほども話しましたが、娘がいなくなったのです」
「窓口でのお話では、一人娘だと伺ったのですが……」
「その通りです。ルザミアといいまして、ついこの間10歳になったばかりの可愛い子でした」
「いなくなったと仰いましたが、いつもからこうなんですか? 例えば、友達と遊んでから帰って来るのが夜になるとか、外出するのが好きだとか──」
「そんなことはありません」セレナは首を強く横に振った。「普段から大人しい子でして、友達の家に遊びへ出掛けることも少なかったのです。今日は用事があったので、あの子にお使いを頼んだのですが……」
「何時頃ですか?」
「3時くらいだったと思います。丁度その時、鐘の音が鳴っていましたから」
 ──白昼堂々と消えてしまったわけか。単なる迷子ですめばそれで良いのだが……。
「お使い先って、どのくらいの時間がかかるところなのですか?」
「私が住んでおります8番街の自宅から、歩いて10分ほどの場所だったと思います。私が普段使っている八百屋でして、以前も何回かお使いに出したことがあるんです……」
 ──迷子の説は却下だ。
 デニムは頭の中で自分の推論を修正した。
 ──いくら子供だとはいえ、歩いて10分以内の場所を間違えることがあるとはとても思えない。よほどの方向音痴ならばともかく、何度も行ったことのある場所を勘違いすると考えるのはあまりに不自然。だとすると、彼女が何らかの事件に巻き込まれたとする可能性も考慮せねば……。
「いつも通っている店ですから、迷うことは無いとは思うのですが……」
「分かりました。……それでしたら、ルザミアちゃんに関して御存知のことを全て話して頂けますか?」
「全て、ですか?」セレナはデニムの言葉に困惑した表情を浮かべた。
「いや、言い方が悪かったですね。失礼しました。……例えば、彼女の身長とか体重とか顔の特徴とか、今日の服装とかお使い先の八百屋の名前とか、色々あります。できれば、彼女のお友達のことも教えて頂けたら助かります。彼女を探す時の手がかりが増えますから」
「では、捜して頂けるのですね?」セレナはすがるようにして訊ねた。
「はい」デニムは躊躇せずに返答した。
 実際には、被害届を受理した後に捜査を行うのかどうかは、デニムではなく彼の直属の上司であるサーレント・スレイディー警部補が決定することとなっており、彼の言葉は警視庁の内規に抵触する可能性があった。しかし、彼はこの時、内規の存在を完全に忘れていたのだ。
「ええっ!? 本当ですか?」
「はい。迷子になったお子さんを探すのも我々の仕事のうちですし」
「ああ、ありがとうございます!」セレナはテーブルの上に身を乗り出し、デニムの手を硬く握り締めた。

 セレナ・ヴィンセンスへの事情聴取が終わったのは、午後6時過ぎのことであった。
「どうだったか?」デニムの姿を認めるなり、上司の男が質問をかけてきた。
 この上司の名前はサーレント・スレイディー(30)。シルクス警視庁では常に捜査の最前線に回されていた男である。警部補に昇格した現在は、初めての管理職として被害届受付の最高責任者を任されていた。
「10歳になる娘さんが行方不明になった、とかいうことだそうです。話を聞いている限りでは、単なる迷子だとはとても思えないのです。何らかの事件に巻き込まれた可能性があると考えるべきです」
 デニムはその後、セレナから聞き出した事件の概要をサーレントに説明した。
「……なるほど。確かにお前の言う通りだな」サーレント・スレイディーも彼の結論を受け入れていた。
「今すぐ捜査を始めるべきだと思うのですが?」
「分かった。今から上に報告してくる」
 こうして、ルザミア・ヴィンセンス失踪事件の捜査が開始され、デニム・イングラスの内規違反は葬られた。

4999年1月9日 16:09
シルクス帝国領リマリック、リマリック帝国大学、文学部1号館、大講堂

「──というわけで、以上のような解答も可能だったわけです」
 大講堂の中に、チョークの音と講師の話し声だけが響き渡る。全ての学生は講師──デスリム・フォン・ラプラス教授の声を一字一句聞き漏らすまいと全神経を集中させていた。学問を教えたい者と学問を教わりたい者の相互作用によってのみ作り出し得る静かな熱気が、この大講堂の中に流れていた。
 リマリック帝国大学文学部教授デスリム・フォン・ラプラスの授業は、常に人気が高かった。弁舌が立つ人物ではないのだが、その丁寧で分かりやすい教え方と、生徒からの質問や意見を積極的に受け入れる授業の進行方法、そして黒板の字の綺麗さ──実は重要な要素である──が評判になっていた。ラプラスが専門に扱っているのは宗教史。特に、シルクス帝国やその前身となったリマリック帝国の宗教制度、そして両国で活動している様々な宗派に対する分析を専攻とし、4996年の春に書いた学術論文──新興宗教団体の調査報告書が認められて、彼は帝国大学の教授に就任したのである。
「この他にも、第5問では様々な解答が用意できたと思います。採点する側としては、解答が論理的に正しく、学術的な知識と事実関係に誤認が見られなかったものについては、全て満点を与えることにしました」ラプラスはそう言ってチョークを黒板の溝に置いた。「以上が今回のミニテストに関する解説です。残念ですが、今日はこの後に教授会がありますので、質問の時間が用意できません。ミニテストに関する質問や添削が必要な方は、明日以降に2号館にあります私の研究室まで直接来て下さい。では、今日はこれで終わりです」
 ラプラスが言い終わると同時に終業を知らせる鐘の音が構内に鳴り響いた。生徒達が荷物を片付けて大講堂から出て行く様子を眺めながら、ラプラスも演壇の上の荷物を片付け始めた。
 ──大学総長直々のお呼び出しと聞いたが、何をなさるつもりだ?
 ラプラスが生徒に対して「教授会がある」と説明したのは嘘であった。実は、彼はリマリック帝国大学総長であるラシェイド・サファルダスから、極秘の呼び出しを受けていたのである。前日、彼のオフィスに現れた大学総長の女性秘書からは、「国家機密に関わる内容ですので、できる限り他言無用で」と警告を受けており、それに従わざるを得なかったのだ。
 ──「国家機密」ということだが……。あまり気持ちの良い話ではなさそうだな……。
 ラプラスはノートの詰まった鞄のチャックを閉め、早足で文学部1号館の廊下を外へ進んだ。
 ──面会の時間は4時15分ということになっていたな。急がねば……。
 1号館を出たところで彼は一旦立ち止まり、冬の青空を見上げながら大きく息を吐いた。そして、先ほどと変わらぬ速さで帝国大学の石畳の上を歩き始めた。
 ──異端者に関する研究分析でも頼まれるんだろうか?
 ラプラスは様々なことを想像しながら、中央事務棟2階にある大学総長の執務室へと向かった。彼が執務室の前に到着した時には、既に大学総長の女性秘書が廊下でラプラスを迎えるべく現れていた。
「ラプラス教授、大学総長がお呼びです」
「分かった」
「どうぞこちらへ」
 ラプラスは秘書の誘導に従って、リマリック帝国大学総長ラシェイド・サファルダスの待つ部屋へと足を踏み入れた。サファルダス総長とはほぼ毎日のように顔を合わせている彼であるが、大学総長の執務室に直接呼ばれたのはこれが2回目であった。1回目は3年前の大学赴任時であり、この時は緊張のあまり会話が丸で成立しなかったことを今でも覚えている。
 ──大した用事で無ければ良いのだが……。
 ラプラスは部屋に入ると、真正面の椅子に腰かける老人の顔に目を向けた。ラシェイド・サファルダスは今年で62歳となる老人であり、その顔には無数の皺が刻まれ、髪の生え際は既に後頭部にまで後退していた。しかし、その瞳に浮かぶ鋭い眼差しは、壁に掛けられている肖像画──50歳代前半に描かれたものである──と比べて衰えているどころか、むしろより一層鋭くなったように思えた。
「ラプラス教授、今日も元気そうですな」
「教授のほうこそ、あいも変わらずお元気そうですね」
 サファルダスはラプラスの言葉に微笑んだ。「毎日続けている散歩の賜物ですな。70になるまでは現役で頑張って見せるつもりですぞ。若い者にはまだまだ負けられませんしな」
「それは心強いですね」
 サファルダスは無言で頷くと、秘書に顔を向けた。「すまんが、我々2人にしてくれ。国家機密に関わる話だ」
「承知致しました」秘書は静かな声で応え、ラプラスが入ってきた扉から静かに退出した。
 彼女の姿が見えなくなってから、大学総長は声を落として言った。「実は、今日は内密の話があったので、あなたをこのようにお呼びしたのですが……」
「大学のカフェテラスではできないような話ですか?」ラプラスは大学総長の執務机に歩み寄りながら訊ねた。
「ええ」サファルダスは懐から1通の羊皮紙を取り出しラプラスの正面に置いた。「実は、今朝、帝国首都シルクスから我が大学宛にこのような辞令が届いたのです」
 ラプラスは羊皮紙を手にとって一読した。

リマリック帝国大学文学部教授(宗教学) デスリム・フォン・ラプラス殿

 貴方を、4999年3月1日付で、異端審問所書記室長に任命します。
 つきましては、2月28日迄に新しい勤務地(エブラーナ市)に移動し、現地で職務相続の手続きを取られるようお願い致します。異動後も大学教授の資格は残ります。また、任期満了時にはリマリック帝国大学に戻って頂くことになります。なお、異動に伴う費用は全て内務省が用意致しますので、2月16日午後5時迄に、リマリック内務局までお越しの上、費用の給付を受けるようお願い致します。

新太陽暦4999年1月8日 宰相兼内務大臣 イシュタル・ナフカス


「異端審問所書記室長への転勤……?」
「その通りです。異端審問における書記官達の統率と、異端審問所の事務的な運営の最高責任者──これが教授の次のお仕事だそうです」
「なるほど……」
 宗教学と宗教史の専門家としてリマリック帝国大学で教鞭を振るうラプラスにとって、「異端審問」という単語は聞き慣れたものであった。
 そもそも、「異端(heterodoxy)」という言葉は、「その世界や時代で正統と考えられている信仰や思想などからはずれていること(『岩波国語辞典』より抜粋)」を意味する。特に宗教において「正当」と「異端」の区別は徹底して行われ、異端とされた者は、異宗教の信者や分派に属する者以上に激しく憎悪され、しばし追放されたり処刑されたりするなどの迫害を受けていた。特に異端者への迫害が厳しかった17世紀までのキリスト教世界においては、異端派の人々やその他の一般市民達の多くが異端審問や魔女裁判──異端審問が変質した裁判──によって「有罪」とされ、次々と火刑台に送られていたのである。
 エルドール大陸にも異端審問制度は存在していた。新太陽暦4761年、リマリック帝国がバディル勅令を公表し、帝国内における異端派の弾圧と根絶の必要性を説いて以来、13都市に異端審問所が設置され、数千人の異端者達の処断を行ってきたのである。リマリック帝国において「異端」と認定されたのは、エルドール大陸に伝えられる神話体系において「邪悪神」と認定された神々──5000年前の戦争に敗北し月に追放された神々など──を信仰した者とその司祭達が中心であった。しかし、それと同時に、リマリック帝国の封建体制を脅かす無数の政治思想も、その思想が宗教の体裁を取っているか否かに関係無く異端と認定され、弾圧の対象に加えられたのである。リマリック帝国における異端審問制度は、その後エルドール大陸の各国に広がり、ダウ王国、ベルナス王国、メテス聖王国でも実施されるようになっていた。
 そして、リマリック帝国の政治体制の多くを継承し4998年に建国されたシルクス帝国も、異端審問制度を継承した。ただし、帝国各都市に設置されていた異端審問所は、帝国南西部にある港湾都市エブラーナの異端審問所に一本化され、異端審問所の運営に携わる職員や裁判官も大幅に入れ替えられたのである。異端審問所の運営目的も、その対象を宗教ではなく政治思想を中心に変えつつあった。
「しかし、なぜ私が指名されたのでしょうか?」ラプラスは突然の指名に戸惑っていた。
「大きく分けて、2つの理由があると考えられるでしょうな」サファルダスはそう言って指を2本立てた。「まず第1に、あなたが宗教学の専門家であり、筆記の特技もあることですな」
「それくらいだったら私にも分かりますよ」
 若い頃には冒険者をしていたラプラスであったが、4985年10月──26歳の時に大学に入ってからは常に宗教学と宗教史の研究の第1線で活躍し続けた。冒険者時代を含めた長い学者としての生活で培われた宗教学と宗教史の知識は膨大なものであり、この分野においては、40歳にして早くも第一人者の名声を得ていた。また、学会では速記の特技でも有名であり、専門知識と技術という点に関しては、ラプラスが最適とも言える人材であったことは、彼自身も承知していた。
 サファルダスは指を1本だけ曲げてから更に話を続けた。「第2の理由ですが、これは『通過儀礼』の一種なんですよ」
「『通過儀礼』……って、あの『実務規定』ですか?」
 リマリック帝国大学の規定では、教授に昇格した者は、昇格後5年以内に1年以上の実務経験を積まねばならないとされていた。実務経験の中身は「大学の外で働く」事ならば何でも良く、官公庁での勤務だけではなく、聖職者や在野の研究員、果ては冒険者になる者も存在した。「世間知らずのお坊っちゃまが多い」「象牙の塔」と批判されることが多い大学教授達に、少しでも実社会の経験を味わわせ、彼らの「非常識さ」を少しでも直そうとして考え出された制度である。なお、大学で魔法理論の研究に携わっていたラシェイド・サファルダスの場合は、リマリックの魔術師ギルドに顧問として就職し規定をクリアしていた。
「ええ。あなたは今まで大学に籠ってばかりでしたから、今年のうちにどこかで働かないと規定が満たされず、助教授に降格されてしまうんですよ。それは望んでないでしょう?」
「まあ、そうですね。私も人並みの野心と出世欲はありますから。……しかし、まさか異端審問所に配属されるとは、全く想像もできませんでしたよ」
「異端審問所が不満なのですかな?」
「いや、そんなことは……」ラプラスは言葉を濁し首を横に振った。
「ならば、これで決まりですな」大学総長はそう言うと、テーブルの上に置かれたベルを鳴らした。
 約20秒後、ドアが開き先ほどの女性秘書が入ってきた。「何か御用ですか?」
「ラプラス教授の壮行会を開きたい。適当な日と時間を見つけてくれ」

4999年1月13日 16:55
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階、談話室

「あの子は見つかりましたか?」
 セレナ・ヴィンセンスは談話室に通されるなりすぐに口を開いた。その表情には不安と焦りが滲み出ている。
 デニムは彼女に腰掛けるようジェスチャーで促してから返答した。「いいえ、残念ながら。手掛かりや情報はいくつか入手しているのですが、そのいずれもが有力とは言いがたいものでして、ルザミアちゃんを見つけ出すには時間がかかりそうです。無論、我々が仕事を怠けているわけではありません。我々は全力で捜査に当たっています」
 捜査願いが正式に受理されてから、シルクス警視庁は5人の捜査官をこの事件の捜査に割り当てていた。本来ならばもっと多くの人間を捜査に割り当てるべきであった。しかし、現在の警視庁は2つの大きな事件──3番街での連続殺人事件とシルクス港での宝石盗難事件──を抱えており、1人の少女の捜索により多くの人員をまわす余裕が無いのが実情であった。5人でも捜査員を確保できたのが奇跡であり、デニムはそのことを十分に承知し、彼の上司の手腕と活躍に感謝していたのである。
「そうですか……」
「我々が掴んでいる情報を総合すれば、『彼女は自分の意志とは無関係に行方不明になった』ということになります。今のところ、シルクス港での目撃情報を除いて有力な手掛かりは得られていませんが、捜査は着実に身を結びつつあります」
「シルクス港にいたというのは?」
「彼女がいなくなった日の午後4時半頃、彼女が見知らぬ男性とシルクス港を歩き回ってところを目撃した人が数人存在するのです。相手の男性というのがフードを深々と被った魔術師のような人物だったそうで、年齢やら風貌は分からずじまいでしたし、まあ、あの港は貿易港ですから、見慣れない人間は山ほど歩き回っています。誰がルザミアちゃんと一緒に歩いていたのかを調べるのは極めて困難ですが、少なくても彼女がその日のうちにシルクス港にいたことは確認できました」
「じゃあ、あの子は生きているんですね!?」
 ──1月5日の午後4時半までは間違い無く、と言うべきだけど……。まあ、この位の嘘はついても害はないだろう。
「はい。その可能性はかなり高いものと考えてい──」
 デニムがセレナに対して嘘の報告を述べた時、談話室のドアが音を立てて開いた。驚いた2人が振り向いたところには、息を切らしながら壁に手を当てているサーレントの姿があった。
「デニム、ちょっといいか?」
「どうしたんです? そんなに慌てて?」
「女性の失踪だ。今度は2人」
「またですか?」デニムは顔をしかめた。その隣ではセレナ・ヴィンセントが無言でサーレントの言葉の続きを待っていた。
「そうだ。『昨日の夜から自宅に帰っていない』ということで、それぞれの女性の両親がここに詰め掛けている。ルザミアちゃんの件とも関連があるかもしれん。俺は今からその両親達から話を聞き出すから、セレナさんからの話はお前が聞いといてくれ」
「分か──」
 サーレントはデニムの返答を待たずに談話室のドアを閉めた。

4999年1月13日 20:07
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階

「先輩のほうはどうなりました?」デニムはサーレント・スレイディーに訊ねた。
「2番街に住む18歳の花売りアリス・トランジットと、5番街の食堂で働いている16歳の女性エリザベート・ライスブルクが、今日になっても家に帰っていないんだそうだ。で、親戚の家や職場とかを聞いて回ったにもかかわらず行方が掴めなくなっていて、完全にお手上げになって我々警視庁に助けを求めた、ということらしい」
「失踪事件ですか?」
「多分な」サーレントは頷いた。「単に家出しただけ、という可能性も否定できないが、その可能性は極めて低いと考えざるを得ない。どちらの家庭も平和そのもので、彼女達の周囲に家出や失踪に繋がるようなトラブルは微塵も存在しなかったぞ。花売りに関しては、24歳の家具職人との婚約が既に決まっており、今月末に結婚式を挙げる予定になっていたんだ。……家出する人間の環境とはとても思えないだろ?」
「彼女達が異端指定の宗教団体に接触してたという可能性は?」
「ゼロだ」上司は首を横に振った。「2人とも敬虔なバソリー信者だったと聞いている。教会の礼拝には毎週顔を出していたそうだし、異端者達と接触した形跡もない。彼女達が自発的に行方不明になったという可能性は完全に捨てきれると思う」
「だとすると……誘拐、ですか?」
「それか殺人のどちらかだな。君が話を聞いたルザミア・ヴィンセンスの事件との関連性も考慮せねばならん」
「絶対間違いないです。関連があるに決まっています」デニムは語気を強めた。
「そう決め付けるな」サーレントは手でデニムを制した。「3人の事件が全く同種の犯罪であるとは俺も考えている。その点はお前の言う通りだと思う。でも、犯人が一緒だという根拠は何処にあるんだ? 説明できるか? 根拠はあるのか?」
「そ、それは……」デニムは返答に窮した。
「全く異なる3組の犯人が別々の犯行を行った、という可能性もあるだろう? なにしろ、3つの事件に共通しているのは『被害者が若い女性である』、『彼女達に自発的な家出を行う理由が全く無い』という2点だけなのだぞ。他に共通点が見つけられるほどの情報を我々警視庁が持っている、とでも考えたのか? 今日届出があった2人の女性に関しては、つい今さっき届出を受理したばかりなのに。そもそも、『3人の女性が誘拐か殺人に巻き込まれた』という俺の意見も根拠が薄いんだぞ」
「……確かにそうですね」デニムは素直に自分の非を認めた。
「こういうのをただの『当てずっぽう』と言うんだ」捜査官の経験を持つサーレントは言葉を続けた。「推測や推理を行う前にできる限り情報を集める、これが犯罪捜査の基本だぞ。少ない情報だけで捜査に当たっても間違った結論しか得られないんだぞ。実際、俺はこうして『迷宮』入りになった事件を見たことがある」
 デニムは無言で頷いた。
「お前も実際に経験してみれば分かるはずだ」

4999年1月17日 11:30
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階

「あのう……」
 カウンターの向こうから掛けられた女性の声に気付き、デニムは種類の束から顔を上げた。その女性は絹で織られた服装に真珠を使ったイヤリングとネックレス、そしてエメラルドをあしらった指輪で着飾られていた。顔には丁寧に化粧が施され、頭の上で結わえられた髪を止めるために使われた飾りには惜し気も無く金が使われていた。しかし、彼女が抱いていた不安感と心の動揺は顔に現れており、丁寧に施されていた化粧でもそれを隠すことはできなかった。
「はい、何でしょうか?」
「警視庁への被害届って……ここに出せば良いのでしょうか?」その女性はおどおどしながら訊ねた。
「そうですが……何かトラブルでも?」
「ええ。実は……」女性は少しだけ間を置いてから口を開いた。「娘がいなくなりました」
 ──これで4人目か!?
 デニムは内心の動揺を隠しながら落ち着いた声で訊ねた。「どういうことなのか、お話して頂けますか?」
「分かりました。私の13歳になる娘──セリス・キーシングと申しますが、あの子が昨日、お友達の家に遊びに出掛けたまま戻らなかったのです。で、お友達の家に出向きまして話を伺ったのですが、午後5時には家を出ていた、というのです。その後、必至になって探したのですが……朝になっても見つからず……どうなったのか……心配で……」セリス・キーシングの母親は涙声になりながら事情を説明した。
「大丈夫です」デニムは彼女を落ち着かせようと努力した。「我々に任せて下さい。必ずセリスちゃんを見つけ出しますよ」
「でも……(グスン)……あの子、体が弱いんです……。お医者様から頂いた薬を……毎日飲みませんと発作が起こってしまうのです……。(グスン)……ですから、あの子がどうなるか心配で心配で……」
 デニムが返答する前に、彼の背後からスレイディー警部補が声を掛けてきた。「どうした?」
「失踪の被害届です。セリス・キーシングという少女だそうです」
「4人目?」サーレントは呟くと、デニムの隣まで歩み寄り、セリスの母親に訊ねた。「もう少し詳しく話して頂けませんか?」
「(グスン)……あの子、昨日の午後2時から、8番街にあるお友達のいるアパートに……遊びに出掛けてたんです。最近、あの子と仲良くなった女の子の家だったんですが……(グスン)……午後5時にその女の子の家を出てから、何処に行ってしまったのか全然分からなくなったんです……。どうすれば……」
「家出の可能性は?」サーレントが訊ねた。
「あの子に限ってそんなことはありません!」セリスの母親は語気鋭く反論した。「だって、あの子はとても優しくて、私達に対してそんな大変なことをする様子は無かったんです……。バソリー様の神殿にもよく通っていましたし……。それに、あの日は薬を飲んでいませんでしたから、夕食の時に薬を飲まないと大変なことになるくらい、あの子も十分に分かっていたはずです……」
 デニムは心の中で溜息をついた。母親の言葉によって、セリス・キーシングの救出にはタイムリミットが用意されていることが判明したからである。
「セリスちゃんの行動に変化が見られた、ということはありませんか?」
「いいえ……全然……」サーレントの質問に対して母親は首を横に振った。

 その後、2人はセリス・キーシングの母親から様々な情報を聞き出し、約20分の時間を掛けて被害届を完成させた。
「どう思います?」母親が警視庁から出て行く姿を眺めながらデニムがサーレントに訊ねた。
「この間は『誘拐又は殺人という考えは当てずっぽうだ』とか言ったが、こうも続くと当てずっぽうでは済まなさそうだな。話を聞いている限りでは、セリス・キーシングという女の子は、家出をしでかすほどの人物にはとても思えないしな」
「ええ。しかし……何人いなくなるんでしょう?」
「ああ……。それに、いなくなっている3人が見つかっているわけではないし……。現場の人間じゃない俺達は、これ以上の被害者が出ないことを祈るくらいしかすることは無い……」
「そうですね……」
「現場から離れて何もできない、というのがこれほど辛いとはな……」
 サーレントは深々と溜息を吐き出した。

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