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4999年2月23日 15:40
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室

「──報告は以上です」
 サーレントの言葉にビューロー卿は頷いた。「ありがとう」
「詳しいことはこちらをどうぞ」サーレントはそう言って報告書をビューロー卿に手渡した。「それにしても、長引きそうな事件ですな」
「残念ながらそうらしいな」
 3人がビューロー卿に対してグレスト・シュトライザーに関する疑惑を報告してから、既に10日以上が経過していた。しかし、シルクスで発生している連続女性失踪事件に解決の兆しは見られなかった。この10日間に新たに判明した事実は、帝都シルクスの戸籍にグレスト・シュトライザーという人物は存在しないこと、グレスト・シュトライザー(仮)がソロン博士からフェールスマイゼンを購入することを止めてしまったこと、グレスト・シュトライザーや謎の3人組が、7番街スラムにある問題のアパートの利用を止めてしまったことなど、フェールスマイゼンからの追跡調査が困難になったことを示すものばかりであった。また、被害者達の足取りに関する新しい情報は入りつつあったが、警視庁が重点目標として考えていたシルクス港と倉庫街での情報収集活動の成果だけは、どういうわけか皆無であった。
 その一方で、新たな被害者が発生してしまっているのも事実であった。2月23日現在で被害者の累計は18人となっており、捜査官達にとっては悪いことに、エレハイム・カッセル姉妹の失踪以降、犯行が目撃情報の極端に少ない深夜に行われるようになっていたのである。
「まるでいたちごっこですね」セントラーザが言った。
「全くだ」ビューロー卿も同意した。「犯人とのいつ終わるか分からない駆け引き……こちらが相手の手法を考えて対応策を講じたら、相手もそれに合わせて犯行パターンを変えている。我々が考えている以上の知能犯だ。相当手強そうだぞ」
「連続して18人の誘拐に成功していますからね」デニムが相槌を打った。
「何とかして早く捕まえたいものですな……」
「その通りだ」ビューロー卿は報告書をファイルに収納した。「少し話は変わるが、ここら辺で1回休みを取らないかね?」
「休暇?」サーレントが聞き返した。「しかし、捜査は──」
「これだけの大所帯だ。少し欠けても問題無いだろう。それに、そろそろ休みを取らせないと士気が落ちて捜査にも支障が出る。既に、宝石盗難事件から引き継いだ捜査官達には、日付をずらしながら休暇を取ってもらった。次が君達3人の順番になった、というわけだ。正直なところを聞くが、疲れが溜まっているだろう?」
「ええ……まあ……確かにそうですが……」デニムは渋々認めた。
「それならば、無理をしないことだ。悪いことは言わないから、ここで1日半の休暇を取り、体と心を休ませるんだ。スレイディー警部補には、家族サービスのための時間も必要だしな」
「そこまで考えてたんですか」サーレントは微笑んだ。
「私も妻子持ちだからな。とりあえず、今日は御苦労だった。明後日の朝までは自由時間だ」
 ビューロー卿が別の捜査官達のところへ向かう姿を眺めながら、3人は突如として言い渡された1日半の休暇時間の使い方を考え始めていた。3人とも、何らかの息抜きが欲しかったのは事実であるが、息抜きの為の時間をどう使うかについては、連続女性失踪事件の捜査に忙殺されたために、何も考えていなかったのである。
「……どうします?」最初にデニムが口を開いた。
「休暇をもらったのはありがたいんだがな……」サーレントも休暇の使い道に悩んでいた。
「ねえ」セントラーザが2人の顔を覗きながら言った。「いいアイデアがあるんだけど」
「どうするんだ?」
「私の家で夕食を食べません?」

4999年2月23日 18:06
シルクス帝国首都シルクス、3番街、アパート2階、セントラーザ・フローズン邸

 セントラーザのアイデアにより、デニムとサーレントは彼女の自宅がある3番街のアパートにお邪魔することにした。彼女の両親は、突然の来客に驚きを隠さなかったものの、2人を快く迎え入れてくれた。この日の夕食は、セントラーザの母親が市場で買ってきた鶏肉を使った鍋料理となり、5人はテーブル中央に置かれた土鍋を囲むようにして座っていた。
「申し訳ありません」食事を始める前にデニムが頭を下げた。「私達が無理を言ってお邪魔することになってしまいましたが」
「そんなことはないです。皆さんでしたらいつでも大歓迎ですぞ」
 そう答えたセントラーザの父親の名前はウィリアム・フローズン。口髭を蓄え温和そうな表情を見せていた。だが、その頭髪は既に半分以上が白くなっており(口髭も白くなっていた)、この人物の仕事が多大な精神力と体力を消耗させる内容であることを暗に物語っていた。
「ええ。遠慮なさらずにいつでもどうぞ」
 そのウィリアムの隣に座っていた女性──リディア・ミントス・フローズンが相槌を打った。彼女のほうはセントラーザと同様、赤茶色のストレートヘアの持ち主であった。デニムが注意深く見たところでは、顔の輪郭や目の色など様々な身体的特徴がセントラーザと似ていたのである。
 ──セントラーザは母親似ってことか……。
「それでは、今晩は御好意に甘えさせて頂きます」サーレントはそう言って頭を下げた。
「では、とりあえずは乾杯と参りましょうか」
 ウィリアムの言葉に従って、ウィリアムとサーレントは陶器のビールジョッキを、セントラーザは白ワインが注がれたワイングラスを、デニムとリディアはフローズン家特製と聞かされた果実酒が注がれたコップを持ち上げた。
「乾杯!」
「かんぱーい!」
 ウィリアムの声に合わせて、全員の杯が音を立てて触れ合った。そして、彼らはそれぞれが持つ杯に注がれた酒を喉に流し込んだ。サーレントは約半月ぶり、そしてデニムとフローズン一家は約1ヶ月ぶりに味わった酒であり、彼らにはアルコールの味が格別に美味しく感じられた。
「はあ〜、やっぱり酒はいいですなあ〜」サーレントが嬉しそうに言った。
「まったくその通りですな」相槌を打つウィリアムの声も明るくなっていた。「さあ、どんどんどうぞ。デフルノール王国では冬の名物となっている料理でしてな、体が芯から温まりますぞ。一度は食べてみたほうがよろしいですね」
「では、早速頂きます」
 サーレントはそう言うと、手元に置かれていたお玉を使って、土鍋の中から白菜と椎茸を取り出し自分の器に入れた。そして、小さめのスプーンに持ち替えて椎茸を口の中に入れた。次の瞬間、サーレントの顔に笑みが広がった。
「どうです?」デニムが訊ねた。
「これは美味い。これなら芯からあったまりそうです」サーレントは喜びを隠さずに言った。
「ありがとうございます」リディアは少しだけ頭を下げた。
「では、私も頂きます」デニムもそう言うとお玉を手に取った。「ところで、リディアさんが作られているフローズン家特製のお酒ですが、美味しかったですよ。でも……今まで味わったことのない独特の味でしたね」
「喜んでもらえて嬉しいですわ。あれは梅を原料にしてるんです」
「梅、ですか?」
「はい。デフルノール王国では、ビールと同じくらい飲まれている酒なんです。向こうでは『梅酒』と呼ばれてるんだそうです。シルクスで言うところのワインみたいなものですわね」
「詳しいんですね」サーレントが率直な感想を漏らした。
「私、料理学校の先生をしておりまして、シルクスの6番街で貴族の師弟の方やお嬢様相手に、毎日教鞭を振るっておりますの。ですから嫌でも詳しくなるんです」
「そうだったんですか」
「そう」セントラーザがデニムの隣で小声で言った。「だから、料理には色々とうるさいの。私も、子供のときからみっちり修行されられてるの」
「あら、いいじゃないの。料理が得意だからって損することは無いわよ」
「それはそうだけど……」セントラーザは軽く溜息をついた。
 サーレントがウィリアムのほうを向いて訊ねた。「ところで、話は変わりますが、ウィリアムさんのお仕事は一体何でしょうか?」
「私ですか? 30年ほど昔は冒険者をしておりましたが、現在は大蔵省の財政部長を拝命しております」
 その言葉を聞いた瞬間、デニムは慌てて鶏肉を喉に詰まらせそうになった。
「ちょっと、大丈夫?」セントラーザが背中をさすりながら訊ねた。
「(ゴクッ)あ、ああ……」デニムは梅酒で鶏肉を胃に送りこんでからウィリアムに頭を下げた。「(ハア)これは酷い姿を見せてしまいました。大先輩だとは存じ上げなかったものですから……」
「いえいえ、それは構いませんが……ひょっとすると、あなたは事務官ですか?」
「はい。内務省の事務官ですが、今はシルクス警視庁でお仕事をさせて頂いている身です」
「あの事件を解決なされば、見事な成果となるでしょうな。活躍を期待しておりますぞ」
「『あの事件』って……私のことは御存知なのですか?」
「皆様のことは娘から伺いましたのでね」
 デニムがセントラーザのほうを振り向くと、彼女は舌を少しだけ出して微笑んでいた。
「財政部長、ですか?」サーレントが話を元に戻した。
「はい。西リマリック帝国時代には主計局長と呼ばれていましたが、分かり難いということで、シルクス帝国建国時の組織改変で今の名前になりました。まあ、読んで字のごとく、我が帝国の国家予算を編成する事務作業を統括するのが私の役目です。昨日で4999年度予算が無事完成しましたから、今日からは久し振りに家で休めるようになりました。しかし、一昨日までは予算編成の書類作りに追われる日々が続いておりました」
「だから、家に帰らない日も多いの」隣からセントラーザが口を挟んだ。
「それにしても、それは大変なお仕事ですなぁ」サーレントはそう言ってウィリアムのジョッキにビールを注ぎ足した。「さぞかし、色々と御苦労なれてるのではありませんかな?」
「仕事が大変なのにはもう慣れております。徹夜も日常茶飯事ですからな」
「やはり、地位が高くなると徹夜も増えるのでしょうか?」デニムが大先輩に訊ねた。
「いえいえ、そんなことは決してありません。今はむしろ楽になったほうですよ」ウィリアムはビールジョッキに口をつけてから話を続けた。「一番忙しいのは、私の直属の部下の方達ですね。私の場合には税務課長をはじめとする5人の課長達ですが、彼らの仕事は本当に大変でして、予算を仕上げる1ヶ月前になると毎日が徹夜になるんです。私が課長だった時も、寝る時は大蔵省のソファで2時間だけ仮眠を取るのが精一杯でしたし。私ではないですけれど、私と同期の方で過労で倒れた課長も2人おりました」
「そ、それはハードな職場ですね……」デニムは率直に感想を述べた。
「はい。その代わり、働いた分だけの残業手当はしっかりと頂いております。課長時代には、残業手当のほうが本来の給料よりも上回った、ということもよくありました。そのお陰でこのような立派なアパートの部屋を買い、シルクスの街でそれなりに裕福な暮らしができるのですけどね」
「本当は一戸建てが欲しかったんですよ」隣でリディアが言った。
「あれは土地付きで買わなければならないからな……。大臣にでもなれば買えるが、今の私では無理だろうな……」
「大丈夫よ」セントラーザはそう言って父親の背中を軽く叩いた。「父さんなら大丈夫よ。上には後3人しかいないんだから、いつかは大臣にもなれるって」
「ありがとうな」ウィリアムは娘の頭を撫でた。「……さて、仕事の話はこのくらいで終わりにしませんか? せっかくのお休みですし、自分の仕事のことはひとまず忘れて今夜は大いに楽しみましょう。ささ、デニムさんもサーレントさんも、遠慮なさらずにどんどん飲んで食べて下さい」
「では、お言葉に甘えまして」サーレントはそう言うや否やすぐに、お玉を手にして鍋から鶏肉の団子を取り出していた。
「デニムさんも遠慮なさることはありませんわ」
「はあ……ではお代わりをお願いします」
「はいはい」リディアはデニムが両手で持っていたグラスに特製の梅酒を注ぎ足した。
「……ちょっと、父さん。明日の仕事はどうなるの?」盛り上がりつつある酒宴を眺めながらセントラーザが小声で訊ねた。
「せっかくの機会だ。私も思い切り飲みたいしな」
「でも……」
「大丈夫だ。明後日までの休暇は取ってある」

4999年2月24日 03:30
シルクス帝国首都シルクス、3番街、アパート2階、セントラーザ・フローズン邸

 デニム・イングラスは、頭の中に響き渡るような鈍い痛みで目を覚ました。
 ──はあ……結局眠ってしまったか……。
 彼の隣を見ると、サーレントが大の字になっていびきをかいていた。彼に掛けられていたはずの毛布は、彼の足元に寄せられていた。
 ──暑いのかもしれないが……これだと風邪をひくなあ……。
 デニムは音を立てないようにしてサーレントの足元に近寄ると、無造作に放置されていた毛布を手に取り、彼の体に静かに被せた。サーレントのほうはデニムに全く気付かないまま、大きないびきをかき続けていた。デニムはこれで満足すると、近くに置かれていた「永久照明」──ランタン型のマジックアイテム──を手に持って立ち上がった。
「顔を洗ってから眠り直すか……」
 デニムは声を出して呟くと、痛みを訴える頭を酷使してアパートの見取り図を思い出しながら、ゆっくりと音を立てないように廊下へと出た。フローズン家の3人も眠っているらしく、どの部屋からも光は漏れ出していなかった。5人の宴会場となった台所は綺麗に片付けられていた。最後まで起きていた人──多分フローズン家の人間であろう──が後片付けをしてくれたのである。テーブルの上には、鶏鍋用に使われた土鍋だけが置かれていた。
 ──多分、リディアさんが片付けてくれたんだな……。
 デニムはリビングを通過して、玄関の隣に設けられていた洗面所へ向かって歩き出そうとした。だが、この時、アパートの外から突如として女性の悲鳴が聞こえてきた。
 ──悲鳴……近いが……まさか?
 デニムは永久照明を持っていない左手でズボンのポケットを調べ、魔法発動体が全て揃っていることを確認すると、音を立てるのも気にせずに廊下を走り出し、玄関に掛けられていた鍵を大急ぎで開けた。頭はまだ痛みを訴え続けているが、一刻を争う緊急事態を無視することはできなかった。
 ──まさか……19人目の犠牲者が?
 デニムはランタンを持ったまま階段を駆け下り、アパート前の廊下に飛び出すと、大急ぎでアパート前の通りを見回し不審人物を探し出そうとした。
 ──どっちに……って見つけたぞ!
 デニムが発見した不審人物達は、ソフトレザーアーマーを着用した3人の人物であった。髪形から見で男性だと思われる3人の内1人は女性と思われる物体を担いでおり、もう1人は女性を担いでいる男性の前を警戒しており、残る1人はデニムのいる方角を向き、背後からの攻撃に備えているようであった。
「待て! 警察だ!」デニムは大声で叫んだ。
 男達は一瞬だけ立ち止まったが、この内2人──先導役と女性を担いでいる男──は前方へと再び走り出した。そして、残る1人は懐に手を入れ、口元を僅かに動かした。
 ──魔法使いか……。
 男性の呪文は3秒足らずで完成した。「……光の矢よ、出でよ!」
 次の瞬間、男の胸元から水色の光の矢が飛び出し、デニムへと襲い掛かった。
 ──水色……神聖魔法!?
 デニムは飛ぶような格好で後ずさりし、間一髪のところで水色の光を回避した。そして、大急ぎで呪文の詠唱に取り掛かった。魔法発動体を握れば威力が上昇することは魔法使い達の間には知られており、デニムも普段は魔法発動体を握り締めて呪文を唱えることにしていたのだが、現在は緊急事態であり、魔法発動体を握るために手を動かす時間も不要に感じられた。
「時の守護者よ! 奴を束縛せよ!」
 デニムの懐が一瞬だけ紫色に光ると、謎の男の周囲に紫色の煙が発生した。だが、男は拳を固めて気合を入れ、霧を全て吹き飛ばした。そして、その直後から男は次なる呪文詠唱を開始していた。
 ──くっ……早いぞ!
 デニムはまた魔法発動体を握らずに呪文を詠唱した。
「時の守護者よ! 我に魔力の盾を!」
 デニムの呪文が先に完成した。彼の周囲に紫色に輝く力場が出現した。
「…………大いなる力を以ってかの者を滅ぼせ!」
 男の手に水色の光の塊が出現した。次の瞬間、その光の塊は男の手を離れ、石畳の表面を削り轟音を立てながらデニムのほうへ高速で飛来してきた。そして、デニムの正面で、紫色の力場と光の玉が衝突した。
 ──耐えられるのか……?
 デニムの背中に冷や汗が流れる。
 だが、デニムにとっては信じられないことが発生した。突如として彼の周囲の力場の輝きが増したかと思うと、水色の光の玉が音も立てずに砕け散ったのである。その様子を見た謎の男は、後ろを振り返り先行する2人を追うべく走り始めた。
「深追いは禁物ですぞ!」彼の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「ウィリアムさん!」
 2階にあるセントラーザ・フローズン邸の窓から、ウィリアム・フローズン財務部長は上半身を乗り出していた。彼の手には紫系統呪文の魔法発動体が握られている。「無茶は止めなさい! 二日酔いの体で奴らと戦えるというんですか!? 1人の呪文を防ぐのにも私の助けが必要だったんです! 彼らの後を追っても、待ち伏せにあって殺されるだけですぞ!」
「うっ……確かに……」デニムは財務部長の言葉が事実であることを受け入れるしかなかった。
「とりあえず、今から降ります」
 ウィリアムが窓から姿を消したのを見てから、デニムは周囲の様子に目を向けた。女性の悲鳴や魔法による戦闘音を聞きつけたのだろうか、アパートのいくつかの部屋にランプの光が灯った。窓を開けて、怒りと落胆が入り混じった複雑な表情を見せていたデニムを興味深そうに観察する男女の姿も目に入った。
 ──結局取り逃がしてしまったか……。もっと力があれば……。
 アパートの出入り口にウィリアムが現れた。「大丈夫でしたか?」
「ええ……何とか……」
「犯人を逃がしたことについては、気にしないほうが良いでしょうな」
「しかし……女性が連れ去られて……」
「分かっています。19人目の被害者ですな。助けられれば良かったとは思いますが、玄関のドアが開いた音で目を覚ましたものですから、私は彼女を助けたくても間に合いませんでした……。無力感にさいなまされているのは私だって一緒です。ただ、それ以上に、私は1つ非常に気になることを発見したのですが……」
「奴が神聖魔法の使い手だった、ということですね」
「はい」ウィリアムは頷いた。
 デニムが口に出した神聖魔法とは色彩宝石魔法の1つであり、信者の要望に応じて、神が自分の使える呪文を信者を会して発動させる魔法のことを指していた。神及び亜神ごとに使用可能な呪文が細かく異なっていることが最大の特徴である。魔法発動体には水色(善神又は中立神)又は赤紫色(邪悪神)の宝石が埋め込まれたネックレスが使われており、一般にホーリーシンボルと呼ばれていた。つまり、デニムが戦った相手は神聖呪文の使い手であり、その宗派は善か中立に属していたということになる。犯罪者と神聖呪文の使い手が同一であるという「矛盾」が発生したのだ。
「私が戦った相手のこと、信じてもらえるでしょうか……?」
 ウィリアムは数秒の沈黙を開けてから答えた。「期待はしないほうが良いでしょう」

4999年2月24日 07:48
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室

 ウィリアム・フローズンの予測は的中した。
「……はあ? 神聖魔法を使っていた?」ビューロー卿はデニムの話を聞き目を丸くした。「赤紫色の間違いではないのだろうな?」
「いいえ。確かに水色でした。私の他にも、ウィリアム・フローズン大蔵省財政部長も確認しています。もし疑問に感じられるのでしたら、財務部長のお話もお聞きになったほうがよろしいと思います」
「君が嘘をついているとはとても思えないのだが……俄かには信じられんぞ」
「私もそうでした」サーレントが言った。
「それに、事実だったとしても、シルクス帝国の高官はこの話を握り潰すことになるだろうな。私が上司に話したところで、誰もまともには取り合ってくれないし、逆に君達3人──下手すれば私までもが危険人物にされてしまうぞ。『聖職者が犯罪組織に荷担していた』という馬鹿な話、目撃者以外の人々が信じてくれると思うのか?」
「まあ……確かに、それは認めますが……」
「それに、シルクス帝国で生活する聖職者の多くが国教の竜神達に仕えている、という事実も無視でないだろう? 最悪の場合、この聖職者達だけではなくシルクス帝国を治めておられる皇室の方々を敵に回すことになるのだぞ。これはもはや1つの事件の捜査だけでは済まされない。政治的に危険なゲームでもあるぞ」
 シルクス帝国の国教に指定されている神は2体存在する。
 1体は火の竜神タンカード。シルクス近郊にある火山ファリスに生息するエンシェントドレイク──非常に強力なドラゴンでもある。火山ファリスとその周辺の自然及び住民、そしてシルクス帝国皇室の守護神であり、非常に短期で猛々しい性格だが、その怒りを破壊活動に向けることはない。名前に冠されている言葉通り、炎を自在に操る力を有している。その教義は秩序を尊ぶものであるが、自らの荒々しい性格を反映してか、経典では戦争の守護者としての側面が強く打ち出されている。
 もう1体は氷の竜神バソリー。シルクス近郊にある永久凍土の岬に生息するエンシェントドレイクであり、永久凍土の岬周辺とシルクス皇室の守護神でもある。非常に大人しい性格であるが、戦闘に際しては冷気を自在に操ることができる。また、この竜の頭には膨大な量の知識が詰め込まれており、知識の豊富さはどの時代のいかなる賢者をも上回ると言われている。タンカードとは好対照をなすこの竜神の教義は、道徳と善を尊ぶ内容が前面に押し出されている。大地母神としての側面も有しているのか、農業神ファルーザの経典と似た内容の言葉も多く見受けられるのが特徴である。
 この2体を崇める宗教が国教に指定されているのは、彼らがシルクス帝国領内に生息しているためだけではない。彼らの血が現在のシルクス帝国の皇室に受け継がれているためであった。タンカードの血はテンペスタ家に、バソリーの血はルディス家に継承されている。そして、4973年(今から26年前)に、当時の両家の当主であったジョン・フォルト・テンペスタとステファナ・ルディスが結婚、2人の間に生まれた最初の子供が、現シルクス皇帝ゲイリー・フォルト・テンペスタであった。4998年に成立したシルクス帝国が、地元の人々の守護者であり自分達の「祖先」でもある2体の竜神を、国教に指定して崇拝の対象に選ぶことは、ごく当然の帰結であった。また、リマリック帝国滅亡時にリマリック家から多くの領土を継承したため、シルクス帝国における両家の支配領域は帝国全土の半分以上──その領域の6割は森林・山岳・荒野など耕作に適さない地域だったが──に及んでおり、必然的に、両家が信奉している2体の竜神に対する一般庶民の信仰も篤くなっていたのである。
 つまり、ここで警視庁が「連続女性失踪事件の犯人には神聖魔法の使い手が含まれていた」と外部に公表することは、警視庁が公式に「女性連続失踪事件の犯人に竜神の聖職者が含まれていた可能性が高い」と認めることになる。シルクス帝国の政府機関の1つが祖国を支配する2つの宗教組織に対する不祥事の疑惑に触れる──その政治的影響は計り知れなかった。何しろ、この2つの巨大な宗教組織の頂点に立ち、名実共に支配しているのが、現在のシルクス帝国の皇室の一員であるのだから……。
「じゃあ、どうするんです?」セントラーザが訊ねた。
「6人だけの秘密だ」ビューロー卿は声を落とした。「君達3人とフローズン財務部長夫妻、そして私。今、私と君達が話したことは全てこの6人だけの秘密としよう。大っぴらに公表したり、シルクス警視庁の人間を各神殿の捜査に向けるのは、具体的で詳しい情報と証人が得られてからにする。この情報を確証も無く外部に漏らしたら、困るのは我々全員になるのだからな」
「……分かりました」返事をするデニムの声も小さくなっていた。
「よろしい」ビューロー卿は頷いてから、3人を改めて見回した。「……仕事着だな」
「休暇は返上しちゃいました。事件解決後に取り直します」
「我々は仕事熱心ですからな」サーレントはそう言って微笑んだ。

4999年2月24日 10:15
シルクス帝国領エブラーナ、ゾルトス神殿、神殿長執務室

 エルドール大陸の神話体系の頂点に位置する運命神ゾルトスとは、神話の中で特異な存在として位置付けられていた。「超神」──事実上の創造神──に次いで高い地位を与えられ、この世界に時間をもたらした神。神話の世界で繰り広げられるあらゆる対立と抗争において常に中立を守り続けた神。教典と伝道師を持たない神。そして、神話の中では唯一の両性具有……。ゾルトス神を形作る要素はあまりに特異であり、それ故にこの神に仕える聖職者は、その地位とは反比例して極めて少数であった。
 だが、運命神ゾルトスに仕える聖職者達は、社会的に極めて高く尊敬されていた。時間を作り管理する神に仕えている彼らは、エルドール大陸各地にあるゾルトス神殿の時計塔を管理・運営し、一般市民達に現在時刻を教えるという役割を担っていたのである。全てのゾルトス神殿には時計台が作られ、その最上部に吊り下げられていた巨大な釣鐘は、デフルノール王国領サロニアに設置されていた「世界時計」──1/10秒単位で正確な時間を計測するマジックアイテム──と連動して、午前5時から1時間毎に鳴らされるようになっている。世界各地のゾルトス神殿で生活する聖職者達は、巨大な釣鐘と複数の中継装置のメンテナンスを任されていた。特に神殿長は「時の守護者」と呼ばれ、一般市民達から高い尊敬を集めていた。
 エブラーナの「時の守護者」であるキャサリン・グリーノック司教は、女性「とされている」37歳の人物であった。戸籍上は女性とされ、外見は女性と全く変わらないキャサリンであるが、彼女は性別を「持たない」人物であったのだ。
 リマリック近郊の農家の家庭に生まれた彼女は、幼い頃から外見通り女性として育てられた。家族と友人に暖かく包まれて、キャサリンは心優しい女性に育つものと誰もが期待していたのである。ところが、彼女が思春期を迎えた時、周囲の人々は彼女に対して不安を抱き始めた。15歳になっても月経が1回も見られなかったのである。不安になった両親は彼女を連れて知識神シャーンズの神殿を訪れた。そこで宿直の司祭から真実を聞かされ、両親は多いに驚愕した。儀式による検査によって、キャサリン・グリーノックは医学的には中性であり、外見は女性のままで育つことはできるが子供を産むことはできないと判明したのである。
 両親はこの真実を聞き大いに困惑していた。たとえ法的には女性のまま生活することができたとしても、彼女に対する社会からの風当たりが厳しくなることは必至だったからである。そのため、両親は彼女に対して、結婚を諦めた上で冒険者になるように勧めた。キャサリンはそれを受け入れ、村を離れリマリックに住み着き、16歳の若さで冒険者としての活動を始めた。そして、当時のクライアントの1人が運命神ゾルトスの司教であり、その人物──実は両性具有だった──の勧めに従い、キャサリンは運命神ゾルトスの聖職者になる道を選んだのである。同神殿が両性具有や中性の人物の保護に積極的に取り組んでいたことと、その思想的中立性が彼女の価値観に合っていたことがキャサリンを決断させたのである。その後、彼女は運命神ゾルトスの神官戦士という極めて稀有な存在して活躍し、4998年11月に司教に昇格、エブラーナのゾルトス神殿を任されることになった。
 ──時計も釣鐘も異常ないみたいだわ。
 彼女は椅子に座ったまま背伸びをすると、大きく欠伸した。ゾルトス神殿で働く聖職者達の仕事の大半は時計台の管理に費やされており、毎日朝4時に起きる生活を余儀なくされていた。不満は無いものの肉体が悲鳴を上げ始めていた。
 ──私も老いたのかしら……。
 キャサリンが溜息を吐いた時、執務室の扉がノックされた。
「どうぞ」
 扉を開けて中に入ってきたのは、彼女の直属の「部下」であるラウレード・プロヴァンヌ司祭であった。今年1月に25歳となった彼は、妻と子供を持つごく普通の男性であった。「エブラーナ盗賊ギルドから連絡が届いております」
「何なのかしら?」
「異端審問所の人事交代です。書記室長に新しくデスリム・フォン・ラプラス──」
 キャサリンはプロヴァンヌ司祭の言葉を遮った。「待って、ラウル。『ラプラス』って言わなかった?」
「その通りです。リマリック近郊に領地を持つラプラス族の一員だそうで、リマリック帝国大学で宗教学と宗教史を専攻する教授として有名な方です。……それがどうかしましたか?」
「いや、いいのよ」キャサリンは手を振った。「私の幼馴染に似た名前の人がいたのよ」
「そうでしたか」
「ええ。それだけのことよ」
 彼女はラウレード・プロヴァンヌを下がらせると、椅子に座ったまま窓の外を眺め、今から20年以上も昔に彼女と淡い恋に落ちた人物のことを思い出した。非常に聡明で向学心があり、貴族でありながら自らの地位を気にしない言動と行動を見せる少年──デスリム・フォン・ラプラスに対し、キャサリンは漠然とした恋心を抱いていた。相手の少年も彼女のことを気に入っていたようで、2人の仲は親密なものに発展していた。少年がリマリックに引っ越した時を境にして2人の関係は途絶えてしまうが、彼女は未だにラプラス対して憧れに近い感情を抱き続けていた。その後は、彼女が住んでいた村に彼女の好みの男性がいなかったことと、15歳の時に知った中性の事実が原因となり、彼女もまた恋愛から遠ざかった毎日を過ごしていたのである。
 ──彼と会うのも久し振りだわ……。27年ぶりかしら……。

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