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4999年2月28日 12:50
シルクス帝国首都シルクス、8番街、喫茶店《Little Sweet Cafe》

「進展が無いねぇ〜」セントラーザがティーカップを木のスプーンで掻き混ぜながら呟いた。
「ああ」サーレントのティーカップは既に空になっていた。
「そうですね……」デニムのティーカップも空になっていた。
 デニム・イングラスが3番街で誘拐の現場を目撃した後、彼らは何ら有力な情報を聞き出していなかった。8番街の住人に対する聞き込み調査でも新事実は見つけ出すことはできず、シルクス港での張り込みも効果が上がっていなかった。【フェールスマイゼン】に対する調査も行き詰まり、7番街のアパートを見張る捜査官達からも新しい動きは伝えられてこなかった。
「何が間違っているのでしょうか……」
「さあな。ただ、1つだけ気になることがあるんだが」サーレントはそう言ってデニムのほうを向いた。「お前がフローズン邸の正面での戦闘で見たと言ってた神聖魔法の光、あれが幻影で作られたという可能性は無いのか?」
「それは……」サーレントの指摘にデニムは驚きを隠せなかった。彼はこの可能性を全く検討していなかったのだ。
「『連中が警視庁を攪乱させるために幻覚を使ってデニム達を騙したんじゃないのか』って、今朝になって突然思い付いた。で、試しに秘密を知ってるビューロー警視に聞いてみたところ、『知らん』と一蹴された。あの人は神聖魔法を使ってるから、橙系統呪文に属する幻影呪文の使い方なんて全く知らないんだそうだ。それで、しょうがないから、後で別の人に聞こうと思ってたんだが……デニムとセントラーザ、何か心当たりはあるか?」
「僕には分かりません」デニムは首を横に振った。「僕は橙系統呪文は使えません。幻影呪文については完全な門外漢です」
「私もそうですね。ただ……」
「どうした?」サーレントはセントラーザのほうを向いた。
「私の父は橙系統呪文は使えるんです。冒険者だった頃にしっかりと勉強してたそうですよ」
「すまんな。財務部長には迷惑かもしれんが、今日の夜にでも聞いといてくれんか?」
「了解」

4999年2月28日 22:58
シルクス帝国首都シルクス、7番街、アパート4階の一室

「準備は大丈夫だな?」御者の男性が訊ねた。
「ああ」男達の1人がそう言って胸をどんと叩いた。「バッチリだ」
「しつこいようだが、油断だけはするな。相手は手強いからな」
「それは心配無い。俺達の力を信用するんだな」
「心強いな。……ただ、ついこの間別のチームがへまをやらかしたんでな」
「いつのことだ?」
「2月24日。3番街での仕事だったんだが、近くにいたシルクス警視庁の人間と、アパートに住んでいた大蔵省の高級官僚に邪魔されそうになった。幸いにも、『商品』の調達には成功したが、その際に結構激しい戦闘があったそうだ」
「その大蔵省の高級官僚って誰のことだ?」別の男が訊ねた。
「大蔵省財務部長ウィリアム・フローズン。『大蔵省の良心』とも呼ばれている『中立派』の官僚だ。シルクス帝国の権力抗争にも巻き込まれていないため、大蔵大臣やその他の政治家達にも好かれている人間らしい。無論、我々の『シンジケート』とは全く関係の無い部外者だ」
「厄介だな……」隅のほうで待機していた男性が小さな声で言った。
「まあ、そのことは『シンジケート』に任せれば済む話だ」御者の男はそう言って部屋を見回した。「では、もう1階確認するが、準備のほうは大丈夫だな?」
「ああ」男達の1人が答えた。少し遅れて、残りの2人も首を立てに振る。
「よろしい。では出発だ」

4999年2月28日 23:00
シルクス帝国首都シルクス、3番街、アパート2階、セントラーザ・フローズン邸

「ねえ、父さん」セントラーザは、ソファに腰掛けて本を読んでいるウィリアムに訊ねる。
「どうした? まだ眠っていなかったのか? 母さんはもう寝てるというのに」
「ちょっと時間いい?」彼女はウィリアムの隣に腰を下ろした。
「まあ……別に構わんが」ウィリアムは本を隣のテーブルに置いてからセントラーザのほうを向いた。「早く終わらせたほうがいいぞ。明日も仕事はあるんだからな」
「その仕事の話」セントラーザは声を落とした。「この間、みんなで飲んで騒いだ後に、父さんがデニムと一緒に戦ったっていう男の話だけど……」
「進展があったのか?」
 セントラーザは首を横に振った。「謎が見つかったの。サーレントさんが言い出したことなんだけど、あの男が使っていたという神聖魔法は、実は幻覚で作られたものじゃないのかしら?」
「幻覚?」ウィリアムは眉をひそめた。
「うん。確か、父さんが使える橙系統呪文って、幻影の呪文も含まれてたでしょ? だから聞いてみたんだけど、どうなの? 幻覚でああいう戦闘を再現できるの?」
 ウィリアムは腕を組んで考えていたが、10秒ほど経ってから口を開いた。「不可能ではない」
「え? 本当なの?」
「説明もできるが……ややこしいぞ。時間はいいのか?」
 セントラーザは無言で頷いた。
「分かった。……まず、幻影の呪文を使うことによって、本来物体が存在しないところに別の物を作り出すことはできる。無論、手を突き出せばすり抜けてしまう程度の代物だがな。こうすることによって、死んだはずの人物の幻影を作り出して、あたかもその人物が生きているかのように装うことができるし、例えば崖の上に架空の地面を作り出し、敵をそこに誘導して転落死させることもできる。どちらも、父さんが実際にやったことだけどな」
「転落死って……何をしたの?」セントラーザは恐る恐る訊ねた。
「駆け出しの新米冒険者だった時にもらった最初の仕事が、村を襲っていたトロールを退治するという内容だった。正面きって戦うことができないから、トロールを村の吊橋まで誘導し、吊橋が掛けられていた崖に幻覚で地面を作りだし、そこにトロールを誘き寄せた。難しい仕事だったが無事成功したぞ。まあ、そんな武勇談は別にして、話を先に進めよう。続いて、幻覚をごく普通の物体に被せることもできる。例えば、テーブルの上に詰まれている金貨の山を銅貨の山に見せることもできるし、机の上に置かれているはずの重要書類を存在しないかのように見せることだってできる。マジックアイテムに対してもこの方法は有効だ。ただ、これは物体が無いところに幻影を作り出すのと大して変わらない、比較的簡単な行為だ」
「なるほどね」
「しかし、ある人間が持っている品物に対して幻覚の魔法を使う場合は難しい。例えば、仲間の持っている武器の刀身を透明にして攻撃を当りやすくさせたり、敵の持っている装備品の形状を変更させて相手を慌てさせたりする場合のことだが、この時はその道具の所有者の同意が必要になる。同意が得られない場合は、相手が呪文に対して抵抗するのを打ち破らねばならない。当然、相手が手強ければ手強いほど、より強大な魔力を用意しておかないと抵抗を打ち破れないわけだ。ここまでで幻影の呪文に関する簡単な説明は終わったが、大丈夫か?」
 セントラーザはこくりと頷いた。
「分かった。……そこで、父さんとデニム君が戦った時に、敵が使った呪文──仮に赤系統呪文の【エナジーボルト】として話を進めるが、こいつを神聖魔法にある呪文【ホーリーストライク】に見せかけるためには、2つの可能性しかない。1つ目の方法は、あの男がマジックアイテムを持っていて、その効果が『全ての呪文の効果を神聖魔法の類似した呪文のように見せかける』というふざけたものだった場合。2つ目は、父さんとデニムが戦ったあの辺り一帯に強力な幻影呪文を掛けていた場合だ」
「可能なの?」
「可能だがやっていないと思うな」ウィリアムは首を横に振った。「まず、あのような効果を持ったマジックアイテムを作るには手間と時間が必要だ。少なくても、父さんはそんなマジックアイテムの存在を聞いたことが無い。それから、術者以外の人間が幻影を見破る方法は、実際に幻影を触って違和感を感じとるだけではない。幻影が張られている空間に足を踏み入れた瞬間や、幻影が掛けられている品物に手を触れた瞬間にも、無意識の内に『これは幻影だ』と感じる可能性があるんだ」
「どういうこと?」
「幻影や幻覚の魔法に対して足を踏み入れた人が抵抗を試みているんだ、無意識にね。抵抗に成功したならば、幻覚の存在を自覚できるようになり、幻影・幻覚の掛けられていない、物体の真実の姿も知覚できるようになるわけだ。だから、もしもあの場所全体に幻覚の呪文が掛けられていたとしても、父さんとデニム君は抵抗できなかったことになる。デニム君のほうはどうか知らないが、父さんはそれなりに冒険を積んでいるし、呪文に対する抵抗力だけは人一倍努力して身に付けたんだ。だから、もし幻覚の呪文が原因だったとすれば、その敵は相当高度な魔術師だったということになる。事件の後で街路に飛び出してきた人もみんな、幻覚の呪文に引っ掛かったことになるが、それも頷ける話なる」
「……じゃあ、その通りじゃないの?」
「ところが、そこまで高度な幻覚の呪文を使いこなせたり、あんな高級なマジックアイテムを作り出せたりするほどの力を持った橙系統呪文の魔術師が存在するとしたなら、そいつは幻覚以外にも様々な呪文を使うことができるはずだぞ。例えば、突然の睡魔に襲わせて眠らせる呪文とか、橙色の光の矢を飛ばして麻痺させる呪文とか、催眠状態に陥らせて術者の思うが侭に犠牲者を操る呪文とか、挙げればきりが無い。そういった呪文を使えば、デニム君の攻撃を簡単に振り切ることができたはすだ。1回目の呪文でデニム君を麻痺させ、反撃させないようにすることぐらい造作も無いはずだ。それ以前に、女性を誘拐する際に幻覚の呪文を使い、女性に悲鳴を上げさせないようにすることだってできたはずだぞ。父さんが犯人の立場だったら、そのような方法を使って、安全かつ隠密裏に女性達を誘拐していた」サーレントはそう言って椅子から立ち上がった。
「……誰かを誘拐したことあるの?」
「いや。仲間の冒険者がこの方法で誘拐され、殺されそうになったことがあるんだ。それはともかく、父さんとしての解答は『可能だが非現実的であり非合理的』というところになるな。……参考になったかな?」
「うん。ありがとう」セントラーザも立ち上がった。「じゃあ、明日、このことをデニムとサーレントさんに教えるね」
「分かった。……明日も早いんだろう? そろそろ寝なさい」
「そうね……」セントラーザは睡魔に襲われ始めてた。「じゃあ……お休みなさい」
「ああ、お休み」

4999年3月1日 01:58
シルクス帝国首都シルクス、7番街、酒場《火山灰カクテル》

「では、また明日な」
「はい。お休みなさい」
 7番街の中心部に位置する酒場《火山灰カクテル》で働くナターシャ・ノブゴロドは、《火山灰カクテル》の主人に別れの挨拶をしてから、7番街の路地を歩き家路についた。午後5時から深夜1時までのアルバイトであったが、アットホームな店の雰囲気とき給与の良さが気に入っており、睡眠不足になるのも構わずに働き続けていた。
 ──失踪事件はまだ解決しないのかしら……。
 今年の1月で17歳になったばかりの彼女にとっては、シルクスで発生している連続女性失踪事件のことが不安で仕方なかった。最初は昼間だけを狙って行われていた犯行が、最近は深夜でも行われるようになっており、彼女のような深夜労働者は謎の犯人達に対して恐怖と憎悪の念を抱いていた。また、事件を解決できないシルクス警視庁に対する不信感も募りつつあり、ある女性グループの一団が、警視庁に事件の早期解決を求めて陳情したこともあった。
 ──でも、まさか私が犠牲者になることは無いわよね……。
 彼女は腰から下げていたレイピアの柄にそっと手を触れた。15歳で冒険者の道に入った彼女が護身用に持ち歩いていた武器であり、その腕前は並みの男の戦士相手に引けを取らぬほどとなっていた。去年の10月12日、ナターシャは深夜に1人で道を歩いていた時に暴漢に襲われたが、彼女はこのレイピアでその不届き者の右目を突き刺すという「戦果」を挙げていた。この時の暴漢は、自分の性欲の代償として命を失っている。彼女は正当防衛ということで一切お咎めを受けず、戦争神マレバス神殿からは「犯罪を恐れぬ勇気ある行動」として表彰されていた。自分のレイピアの実力に自信を持っていた彼女は、万が一何者かに教われてもレイピアで撃退できるという自信──過信とも言えるが──を持っていた。
 ──明日もガンバらな……って、あれは誰かしら?
 ナターシャは路地の一角でうずくまっている人物を発見した。かすかではあるが、その人物──男性と思われた──の呻き声も聞こえてきた。彼女はゆっくりと近付きながら男性に声を掛けた。「どうしたんです?」
「う…………」男性は呻き声を上げるだけであった。
「どうしたんです?」彼女は同じ質問を繰り返し更に近付いた。
「……う……」男性の反応は一緒である。
「大丈夫ですか──」ナターシャは男性の肩に手を触れた。
「用があるんでね!」
「!」
 男性はそう言うと突然立ち上がり、懐に隠し持っていたダガーを突き出した。月の光を浴びて銀色に輝くの金属の板は彼女の頬をかすめ、後に赤い線──擦り傷を残した。
「何するのよ!」彼女は大声を出すと、レイピアを抜いて目の前の男に切り掛かった。
 彼女の素早い反撃に驚いた男は、間一髪のところでレイピアの一振りを回避した。そして、手を動かして周囲に合図を送る。次の瞬間には、ナターシャの周囲には更に3人の男性が現れ、彼女は完全に包囲されてしまった。追加で出現した男達の手にはブロードソードが握られている。
「あんた達……」ナターシャは4人を見回したが、新たに現れた3人の顔にはナターシャも見覚えがあった。そのことを思い出した彼女は忌々しげに言った。「そうだったのね……あんた達が女の子達をさらっていた連中だったのね……」
「武器を置け」ダガーを持った男が低い声で言った。「命は助けてやる」
「嫌よ!」彼女は叫んでから、正面に控えていたダガーを持つ男に切り掛かろうとした。「てやぁ──」
 だが、ナターシャの足は凍りついたかのように動かなくなっていた。足元を見ると、水色に輝く細い糸のようなものが彼女の両足に巻き付いている。
 ──嘘!? 動けない!?
 彼女の注意が足元に向けられていた隙を突き、彼女の右側面に立っていた男が近寄ってブロードソードを振り下ろした。彼女は視界の端でその動きを捉えることはできたものの、足を束縛されているために攻撃を回避することはできなかった。
「くっ!」
 ブロードソードの一撃は右手に命中し、彼女はレイピアを石畳の上に落としてしまった。ダガーを持っていた男はそれを見ると、左足を素早く動かして、石畳に転がっていたレイピアの彼女の後方へと蹴り飛ばした。
「てめえら……」
 彼女は右手の傷を庇いながら男達の顔を睨んだが、その他にはどうすることもできなかった。レイピアを使った戦闘術だけに習熟したナターシャにとって、攻撃の手段であり防御の手段でもあったレイピアが使えなくなったことは、戦闘終了──彼女の敗北を意味していた。大声を叫んで助けを求めることも可能であったが、初めての敗北によってプライドを傷付けられていた彼女に、そのようなことを考える余裕は無かったのである。もっとも、悲鳴を上げていたとしたならば、男達は持っていたブロードソードで彼女を刺し殺す算段になっていたため、ナターシャは結果的に命拾いをすることになる。
「やれ」ダガーを持っていた男が命令した。
 彼女は背後から男が近寄ってくる気配を感じた。
「誰──」
 ナターシャは振り向こうとしたが、次の瞬間、後頭部に鈍い痛みが走り彼女の意識は消失した。

4999年3月1日 02:04
シルクス帝国首都シルクス、7番街

「上出来だった」ダガーを持った男が言った。
「それはどうも」女性の右側に立っていた男が訊ねた。その手に握られているブロードソードには血糊が付着していた。「で、こいつはどうするんだ?」
「用意した荷馬車に乗せる。とりあえず──」ダガーを持っていた男は辺りを見回した。「……誰だ?」
 彼の視界の端に写ったのは、黒く長い髪を持つ格闘家風の女性であった。彼女は始めは状況を把握していなかったが、男達が全員武器を構えており、その中央で1人の女性が倒れているのを見ると、すぐに眼前で進行した事態を悟り、男達の様子を観察しながら少しずつ後ずさりし始めた。
 ──目撃者か!
「奴を捕まえろ!」男は彼女を指差して命令を出した。
 ブロードソードを構えた男達が彼女に向かって走り出す。それを見た格闘家の女性も後ろを向き全速力で逃げ始めた。4人が建物の影に入り見えなくなった頃になって、5人目の男性──連絡役として3人組に顔を見せていた人物が現れた。彼は4人が去った路地を一瞥した後、ダガーを持っていた男に言った。「頬の傷は? 『商品』が傷物になってしまうぞ」
「すまん。この程度なら大丈夫だ。それよりも、ここから早く立ち去ろう。目撃者がいる」
「始末は?」
「あの3人に任せる。とにかく、我々はこいつを運ぶぞ」
 5人目の男は頷いた。「最後の『商品』だな」

4999年3月1日 02:10
シルクス帝国首都シルクス、7番街、路地裏

 ──逃げなければ……。
 南西の空高くに位置する満月の光と、後方で煌々と輝く魔法の光が、真夜中の路地の間を走り抜ける1人の女性の姿を照らし出していた。黒く長い髪が風になびき、白の半袖シャツと黒のミニスカートに包まれた凹凸に富んだ体が光の中で躍動する。
 ──あいつらから逃げなければ……。
 彼女は幾度となく後ろを振り返りながら、無人の石畳を前へと走り続けた。その40m後ろからは、数人の男達の足音と怒声が届いていた。
「逃がすか!」
 男達の手には、鞘から抜かれた状態のブロードソードが握られていた。その刀身は血糊によって赤く染まり、月光を浴びて不気味に輝いている。男達は、刀身を錆から守るために必要な行為──刀身の血糊を拭うことも忘れ、ただひたすら女を追い続けた。彼らの持つブロードソードのうち1本は、その先端に【イルミネイト】の呪文が付与されており、本来ならば黒色の固まりにしか見えないはずの壁と地面を照らし出していた。
「『あれ』を見られた以上は生かしちゃおけねえんだよ!」
 彼女は男達の罵声を聞き流し、無言で前へ走り続けた。
 ──あいつらに捕まったら最後なのよ。ここは絶対逃げなきゃ!
 走り続ける彼女の目の視界に、突如として三差路が現れた。路地に面する煉瓦作りのアパートに月光が遮られているためか、いずれの路地も深い闇に包まれていた。本来の彼女ならば絶対に踏み込まない場所であるが、背後から迫る生命の危機を回避せねばならない現状では、ここに踏み留まることや三差路から引き返すことは許されなかった。
 ──こっちだわ!
 彼女は迷う事なく左の路地に飛び込み、そのまま全力で走り続けた。だが、彼女は1分も経たないうちに、自らの決断が不正解だったことを知ることになる。
 ──嘘でしょ……。
 彼女が飛び込んだ路地の先は緩やかにカーブしており、その先は行き止まりになっていた。彼女は袋小路の奥で立ち止まると、必死になって辺りを見回し、逃げ込める場所がないかどうかを探し求めた。だが、彼女が期待したようなものは1つも存在しなかった。袋小路に面する建物にはドアが1つも付いておらず、全ての窓は2階より上にしか作られていなかったのだ。盗賊の心得が無い彼女にとっては、壁をロープなしで這い上がることは不可能であった。
「戦うしかなさそうだわ……」
 彼女は声を出して決意を固めると、両手にはめられていたグローブのベルトを締め直した。格闘技を学んだ彼女にとっては、自らの拳と足だけが信頼できる武器であり、男達の持つような「凶器」は一切不要であった。彼女が着用している革製のグローブは、武器というよりも拳の保護を主目的として着用するものであった。
 彼女が準備を終えた頃、路地の先から足音が聞こえてきた。そして、彼女から10m程まで近付いた場所で足音は止み、その代わりに男達の下品な声が聞こえてきた。「逃げられんぞ」
「ほう? どうかしら?」
 彼女がそう答えた時、カーブの先から光が漏れ始めた。その光は時間を追う毎に強くなり、光源となるブロードソードを構えた男達が現れた時に最大となった。この魔法の照明によって、彼女は初めて相手の数と容貌を知る事ができた。
 ──1対3……勝てるかどうかは相手次第ね。
「こいつだったな?」光を発する剣を持つ男が訊ねた。
「そうだ」最初に彼女を追い詰めた男が頷く。「我々の仕事の『現場』を見られた以上、こいつにはここで死んでもらわねばならん」
「へえ」彼女は侮蔑を隠さずに言った。「可愛い年頃の女の子を誘拐し、相手が抵抗したらその剣で切り殺してしまうなんて、普通の人間のすることじゃないわね。それでもあんた達って立派な神官戦士なの? ゴブリンやダークエルフと同類だわ」
「貴様! 今のは取り消せ!」男達の1人が顔を真っ赤に染めながら彼女の言葉を遮った。「俺達人間をあのゴブリンとかと同類に扱いやがって……。何があっても許すことはできん! ここで殺してやる!」
「いや、殺すのは勿体ないぞ」先端が光った剣を構える男が応じた。「あの女、なかなかの『上物』だぞ。奴隷として海の向こうへ売り飛ばしてやったほうがいいんじゃないか?」
「奴隷?」彼女は眉を潜めた。
「そうだ」残る1人の男が頷く。「貴様が詳しいことを知る必要は全く無い。……ただ、おとなしく我々に捕まれば、その顔や胸を傷1つ付ける事なく、愛玩用の奴隷として売りさばくことができる。こうすれば、貴様を買い取った者の所で生き延びられるぞ。ここで殺されずに命拾いができるんだ、ありがたく思うんだな」
「……だとすると、あの女の子達も?」
「それ以上は知る必要は無い」男はブロードソードを構えたまま1歩前へ出た。「さて、貴様もそろそろ決めてもらおうか。我々に素直に従うか、それともここで死ぬか。さあ、どうする──」
 彼女の返答は既に決まっていた。「どちらも嫌よ」
「ならば……仕方ない!」
 男達はブロードソードを構え直すと、彼女の正面と左右の3方向へゆっくりと分かれた。そして、2人が左右に付いたのを確認して、正面に残っていた男──剣の先端が光っている──が雄叫びを上げながら、武器を何1つ持っていない彼女に駆け寄り、上段に構えたブロードソードを振り下ろす。だが、彼女は軽くジャンプして後方に退くと、鋭く右足を振り上げ、男の顔に痛烈なハイキックを見舞った。男は一瞬だけ悲鳴を上げると、そのまま地面に倒れて動かなくなった。
「こ、こいつ……強いぞ!」男の1人が叫んだが、その声は震えていた。
「絶対仕留めてやる!」
 もう1人の男はそう応えると、地面に倒れている男と同じようにブロードソードを上段に構え、彼と同じようにして叫び声を上げながら格闘家の女性に駆け寄った。しかし、彼女は男の振り下ろした剣を横にステップして回避すると、男に対して数発の軽い殴りと蹴りを加えた。そして、隙だらけとなった男の股間に鋭い膝蹴りが命中する。哀れな犠牲者は痛さのあまり目を白黒させ、煉瓦舗装の地面に顔を衝突させた。
「あなたはどうするの?」女性は立ち上がりながら、唯一残された男のほうを向いて訊ねる。「この2人のように倒されたいのかしら?」
 残された男に選択肢は存在しなかった。「く……覚えてやがれ!」
 定番の捨て台詞を吐き捨て、仲間を見捨てて逃げ帰る戦士。闇の中に消えゆくその背中を見つめながら、彼女は小さな声で呟いた。「あの光……神聖魔法の光……?」

4999年3月1日 05:10
シルクス帝国首都シルクス、某所

 ナターシャ・ノブゴロドの意識が回復した時、彼女の視界は闇に閉ざされていた。
 ──夜……どういうことなの?
 続いて、彼女は声を出そうとした。だが、口腔内に詰められていた異物のため、口から出てくるのは人間の言葉ではなく動物の呻き声のような音だけであった。
 ──口の中に何かか……取り除かなくっちゃ……。
 彼女は腕を動かそうとした。だが、背中側に回されている腕は何かによって握られているのか、全く動こうともしなかった。また、彼女は足首に締め付けられるような感覚を覚えていた。こちらのほうは何とか動かすことはできたが、右足が曲がると一緒に左足も曲げられるという具合に、彼女の思う通りに動かすことはできなかった。
 ──これは……どういうこ……痛い……。
 前触れも無しに、右手の甲に痛みが走った。
 ──そうだわ、あの時に男達に……。だとすると、現在は……。
 右手の痛みをきっかけに彼女の脳細胞が動き出し、記憶を失う直前に彼女を襲った事件が頭の中で蘇った。そして、彼女はようやく現状を(不完全ながらも)正しく認識することができた。端的に言うと、ナターシャ・ノブゴロドは某所で監禁されていたのである。視界が闇に閉ざされているのは布で目隠しをされているためであり、口の中に異物を感じるのは猿轡としてハンカチが口腔内に詰められているからであり、手首と足首に拘束感を覚えるのはその部位をロープで縛られているためであった。
 ──私は20人目なのね……。
 現状が認識できたとしても身動きが取れない現在の彼女にできることは、時間が経過して誰かが現れるのを待つことだけであった。

4999年3月1日 06:52
シルクス帝国首都シルクス、7番街、アパート3階の一室

 昨日で満7歳を迎えたリテラ・ミグラスボーンは、古汚いベッドの上で、心地好い夢から覚めたばかりであった。初春の優しい太陽の光が降り注ぐ中で、緑色の美しい絨毯──大草原の中に腰かけて、大好きな子犬達と心行くまで戯れるという夢であった。
 前日の夜は、家族と隣──厳密には向かい正面──の住人を交えた彼女の誕生日パーティーが開かれ、彼女は大好物であった砂糖菓子を心行くまで味わうことができた。そして、家族と隣人達からは可愛らしい小犬の縫いぐるみが1体ずつ贈られた。彼女は本物の小犬が欲しかったのだが、シルクス市の条例とアパートの規則によって動物の飼育が禁じられていたため、縫いぐるみで我慢するしかなかったのだ。しかし、本物でなかったとはいえ、この贈り物は大の犬好きであった彼女を心の底から喜ばせ、満足させたのである。
 ──今日のよるも、小犬さんたちのゆめが見られますように。
 リテラはベッドに転がっていた小犬の縫いぐるみ2体を見つけると、彼女の親達が毎朝しているように軽く口付けし、今日の夜も大好きな夢が見られるように祈った。そして、ベッドの下に落ちていた白のシーツを畳むと、窓辺まで歩み寄り、青銅製の止め金を外し、部屋の窓を外に向かって開け放った。昨晩の夢に登場したような春の温かい日差しが部屋の中に差し込み、早春の冷えて澄み切った空気が室内に流れ込む。
 ──今日は外もきもちいいだろうなあ〜。
 彼女は大きく深呼吸した後、窓の外に顔を出した。雲1つない快晴である。外で遊ぶことも大好きだったリテラは微笑むと、何気なく視線を袋小路となった路地に向けた。5ヵ月ほど前、この袋小路に小犬6匹が捨てられていたことがあり、それ以来、彼女は毎日この袋小路を観察しては小犬がまた落ちていないかどうかを確かめるようになっていた。
 しかし、この日の袋小路に「捨てられていた」のは、彼女が期待していたような小犬ではなかった。
 ──あれ……なんなの?
 リテラ・ミグラスボーンの目に飛び込んだのは、袋小路で折り重なるように倒れている2人の男達の姿であった。医学の知識が全く無かった彼女であったが、彼らが既に死んでいる──または重大な生命の危機に曝されていることは直感で理解できた。
 ──たいへん! 早くしらせないと!
 リテラは窓から離れると、小走りで両親の待つ台所へ駆け込んだ。そして、彼女は親達に朝の挨拶もせずに、大声で叫んだ。「たいへんよ!」
「どうしたの? 挨拶もせずにそんなに慌てて」母親のルーナが訊ねる。その手にはルーナの大好物であった温野菜のサラダが盛られた木製の皿が握られている。
「人がたおれてるの!」リテラはそう言って自室の窓を指さした。
「倒れてる?」
「うん!」
 ルーナはサラダの入った木製の皿をテーブルに置くと、愛娘が示した窓へ大股で歩み寄った。そして、上半身を窓から乗り出して袋小路の様子を観察する。確かに、リテラの言う通り、2人の男が路地の奥で倒れていた。身動き1つせず、一部の関節が不自然な方向に曲がっている。彼らの回りには小さな血溜りも見られた。2人の目に入っていた光景の全てが、男達の生存の可能性を否定していた。
「どうなの?」
「……あれは……死んでるのよ」ルーナの声は震えていた。悲鳴を抑えるのが精一杯であった。

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『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
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