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4999年3月3日 10:14
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

「……それで、ザール・シュレーダーは見つかったのか?」
 ティヴェンスの質問に対し、ラマンは簡潔に答えた。「ノーです。見つかっていません」
「手掛かりも見つからなかったのか?」
「それもノーです……いや、厳密にはイエスかな……とにかく、手掛かりは見つかりました。全て、聞き込みによって得られた話です」
「長い前置きは要らん。早く教えてくれ」
「申し訳ありません」ラマン秘書官は手に持っていた繊維紙の束に目を落とした。「結論から言いますと、ザールはあの店の常連ではありませんでした」
「どういうことだ?」警視総監の眉間に皺が寄る。
「確かに、実の父親であるバーゼルスタッド卿と面会する時にはあの店を使っていたそうですが、ザールがあの店に現れるのはその時だけだったようです。現に、《イエローリボンガーデン》の店主や従業員達も、はっきりと覚えているのはバーゼルスタッド卿の顔だけで、ザールの存在についてはうろ覚えに近い状態だったのです。ザールだけの似顔絵を見せ、『確かに彼が来ていました』と言えたのは、従業員13名のうち0名。大蔵大臣の名前を持ち出してようやく思い出せた人間もたったの1名。常連客だったとは言えませんよ」
「なるほどな」
「その代わりに、ザール達3人が足繁く通っていた店は見つかりました」ラマンはそう言うと、警視総監の執務机の上に帝都シルクスの地図を広げ、7番街の中央部を指で叩いた。「ここ。7番街の中心部にある《ブルーエルフ》という名前の居酒屋でした」
「どういう店だ? 教えてくれ」
 ラマンは近くの本棚から本を取り出し、5秒ほどページをめくってから答えた。「『7番街の中央広場から路地裏に20mほど踏み込んだ場所にある料理店。4964年に青い髪のエルフの老人がチーズ料理の店として開いたのが始まり。4997年に店主が代わってからは居酒屋としてリニューアルオープンする。チーズ料理専門店時代からの伝統らしく、乳製品に対しては高い拘りを見せており、また店に揃えられているワインの品質も優れていることから、食通の間での評価が極めて高い店である。予算は25リラから──』」
「……待て」ティヴェンスは穏やかな声で訊ねた。
「『──予約は不要であ──』……っと、何でしょうか?」
「何の本だ?」
「これですか?」ラマンは右手の本に目をやってから答えた。「『シルクスの名店ガイド』。閣下が『店の情報が欲しい』と仰ったから、ここの本棚に置いてありましたこの本を──」
「分かった」ティヴェンスは右手を振って秘書官の言葉を遮った。「店の案内はもう十分だ。そんなことよりも、『この店にどんな客が来るのか』とか、『3人の行動はどうだったのか』とかいったことを教えてくれ。店の観光案内をする時間は無いぞ」
「は、はあ……」ラマン秘書官は本を応接机の上に置き、繊維紙の束に再び目を落とした。「人気の店でして、数多くの人々がここを訪れていたそうです。被害者達のうち、エドバルトが大のチーズ好きでして、彼が残り2名を連れて来て以来、3人はこの店の常連になったんだそうです。店の主人とエドバルトは結構仲が良かったそうですよ」
「その店で特に怪しいところはないのか?」
「『怪しい』と呼べるほどのことかどうかは分かりませんが、あの店には個室がありました。1階の奥を壁とカーテンで仕切った構造になっており、常連客には個室を貸し出していたそうです。例の3人組も頻繁に使っていたようです」
「個室ばかり使っていたというのが気になるな……」ティヴェンスは声を落とした。
「ええ。ただ、店主は特に気にしていなかったそうです。金払いが良かったのが理由だとか」
「どうやら、この店……何だったけ?」
「《ブルーエルフ》です」
「そうだった。とにかく、この《ブルーエルフ》の店員からもっと詳しい話を聞き出してくれ」
「承知致しました」ラマン書記官は恭しく頭を下げた。
「できれば今日中に答えを出してくれ。我々が捜査すべきことは他にも──」警視総監の言葉は、ドアを叩く音によって中断された。
「失礼致します」室内からの返事を待たずに、別の秘書官がドアを開けて室内に入った。「内務大臣からの要請で、『至急内務省まで出頭して頂きたい』とのことですが」
 ティヴェンスは苦虫を潰したような表情を浮かべた。「こちらは殺人事件の捜査中だというのに……で、大臣閣下の御用件とは何だ?」
「詳しいことは何も……」女性秘書は首を横に振る。「ただ、内務省の方は『異端者の件で相談があります』と仰っておりましたが……」

4999年3月3日 11:20
シルクス帝国首都シルクス、5番街、内務省4階、内務大臣執務室

「突然のお呼び出し、申し訳ありません」
「いえいえ、別に構いませんよ」ティヴェンスはイシュタル・ナフカス内務大臣の手を握った。「それで、本日の御用とは何でしょうか? 部下からの連絡ですと、異端者に関する話題だと伺いましたが……」
「その通りです」イシュタルはティヴェンスを応接用のソファに誘導した。「本日の朝、タンカード神殿から、異端者摘発の『要請』が内務省宛に届きました」
「宗派は?」ティヴェンスはソファに腰掛けながら訊ねた。
「ナディール教団です」イシュタルもソファに腰掛けた。「とりあえず、その『要請』を御覧下さい」

内務大臣イシュタル・ナフカス殿
シルクス警視庁警視総監ナヴィレント・ティヴェンス殿

 昨晩遅く、我が神殿に仕える司祭の1人が、帝都シルクス7番街の酒場《7番街の楽園》で、ナディール教徒と思われる複数の異端者を発見したと、我々に報告してきました。つきましては、可及的速やかに、同店の異端者達に対する摘発を行うよう要請します。
 貴方様にタンカード様の御加護があらんことを。

4999年3月3日 タンカード神最高司祭 ジョン・フォルト・テンペスタ


「異端者摘発の『命令』ですな」ティヴェンス警視総監は不快感を露にした。
「表向きは『要請』ですけどね」不快だったのはイシュタル・ナフカスも同じであった。
 2体の竜神──タンカード及びバソリーを神として崇拝する宗教は、ここシルクス帝国では国教に指定されていた。そして、この2体の竜神の血はそれぞれテンペスタ家とルディス家に流れ、両家がそれぞれの神を司る神殿の最高司祭職を世襲していた。また、彼らはシルクス帝国においては最大の封建領主でもあり、皇帝ゲイリー1世の直轄領とされている両家の所有する土地は帝国の半分以上に及んでいた。シルクス帝国における最も強大な政治勢力であった両神官家の権威は、シルクス帝国の宰相といえども無視できず、彼らから出された「要請」も、実質的には「命令」に等しい効果を持つことが多かった。特に、異端審問など宗教的・思想的な問題に関しては、その傾向が顕著であった。
「届けられたのはこれだけですか?」
「ええ」イシュタルは頷いた。
「いつもみたいに、もう少ししっかりした情報が欲しいですな」
 普段、タンカード神殿から行われる異端者摘発の「要請」には、より細かい情報と証言が同時に提出されており、このことが要請の体裁を取った「命令」の不条理さを限りなく0に近付けていた。「物証と情報は揃っている、後は被疑者だけ」という状態になっていることも珍しくない。しかし、今回の「要請」にはそれが無い。このことが2人に不快感と不安を与えていた。
「『異端者がいる』だけでは、動けないのですか?」
「その通りです」ティヴェンスは頷いた。「部下を派遣して、本当に異端者がいるのかどうか調べることはできますが、これだけの情報で店を家宅捜索するのは無理ですな。問題の店でに異端者がいたとしても、たまたま彼が立ち寄って食事を取っているだけかもしれませんし、店主が筋金入りの異端者で、店全体を異端者達に貸しているかもしれないのです。とにかく、情報が足りません。法律上は全く問題無いのですが、無実の人間を誤って逮捕することだけは避けたいのです」
「捜査のプロとしてのプライドが許せない、と?」
「仰る通りです。連続女性失踪事件と7番街の殺人事件の捜査のせいで、捜査官がほとんど余っていないのが現状でして、たかが1人の目撃情報という不十分な根拠に基いて、捜査官達を別のところに派遣させるわけにはいかないのです。大学で法律を学ばれた閣下でしたら、これらの事情も十分にお解りでしょう?」
 宰相イシュタル・ナフカスは腕を組んで沈思黙考していた。
 ──今の言葉、そのままタンカード神殿に伝えたら、大騒ぎになるわね……。
「ですから、今回の件に関しては、タンカード神殿には『お待ち下さい』と返答してもらいたいのです。数人の捜査官を《7番街の楽園》に派遣して、その調査結果を待って動くつもりです。異端者の1人が偶然に立ち寄っただけでしたら、店を踏み荒らす為の合理的理由が消えてしまいますからね。無論、店ぐるみで異端の活動に手を染めていたら、問答無用で家宅捜索に踏み切ります。タンカード神殿は『すぐにでも逮捕しろ』と言いたいつもりでしょうが、我々犯罪捜査のプロとしては、そんな要求は認められないのです」
「承知致しました」彼女は腕組みを解いた。「受け入れられるかどうか分かりませんが、今の閣下の言葉を、穏当な表現に置き換えて、タンカード神殿に伝えたいと思います」
「ありがとうございます」警視総監は頭を下げた。
「やはり、法律を専門にして商売している人間は、考えることが似ているのですね」
「その通りですな」
 シルクス帝国の警察機構を支える2人の男女は、そう言って微笑みあった。

4999年3月3日 19:01
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁、正面玄関前

「セントラーザさんにイングラス事務官?」
 聞き込み調査の結果を報告してから家路につこうとしていたデニムとセントラーザの背中に、若い男性の声が掛けられた。
「あら、リデルじゃないの」
 そう言って振り返ったセントラーザの視線の先には、リデル・ベント巡査の姿があった。
「今から帰るところかい?」
「はい」デニムは頷いた。「サーレントさんの御命令でしてね、『可愛い独身の女性を自宅までエスコートして差し上げろ』ということなんですよ。偶然にも、自宅が同じ方向でしたのでね」
「そうでしたか……それでしたら、少し私に付き合って頂けませんか?」
「どうしたの?」
「15日が家内の誕生日なんだ。だから、そのプレゼントを買いに行こうと思ってね。確か、東大通り(2番街と3番街を分割する大通り)に家内が大好きなブローチやアクセサリの専門店があるから、そこに立ち寄って新しいのを買っていこうと思うんだ。帰り道の途中だということだし、一緒に行ってみないか?」
「あ、それはいいわね」セントラーザは笑みを浮かべて隣を向いた。「デニムもどう?」
「いいけど……僕は大してブローチのことは知らないよ」
「別に構いませんよ。でも、すみません。私用に御二人を巻き込んでしまって」
「うんうん、別に構わないわ。そろそろまた息抜きが必要だと思っていた頃だし」

 3人が向かったのは、シルクス警視庁から300mほど離れた場所にあるアクセサリ専門店であった。店の出入り口には「ボールドウィン装飾品店」と書かれた木製の看板が掛けられている。店内からは客の話し声や照明が漏れ出しており、活況を呈していることをうかがわせていた。
「遅くまで営業しているんですね」デニムが店内に目を向けながら言った。
「ええ。午後9時までやっているそうですよ」リデルが応える。
「じゃあ、早速入ってみましょ」
 彼らが玄関をくぐり、ランタンと魔法による照明で煌々と照らされた店内に足を踏み入れる。男性店員の1人がデニム達に気付き、彼らの元へ歩み寄った。「いらっしゃいませ。どういう御用向きでしょうか?」
「3月15日が家内の誕生日なんです」リデルが答える。「それで、誕生日プレゼントということで、何かプレゼントを買ってあげようと思いまして……。何かいいものはございませんか?」
「分かりました」店員は頷いた。「では、こちらへどうぞ」
 3人は店員の誘導にしたがって、店の奥に用意されている記念用アクセサリのコーナーへと向かった。
「こちらへ御掛け下さい」
 記念用アクセサリのコーナーは店の奥に用意されていた。ただし、製品を陳列する為の棚は作られておらず、そこには応接用のテーブルと皮張りのソファが置かれているだけであった。
「では、こちらで御待ち下さい。係の者をお呼びします」
 店員はそれだけ言うと、壁に黒く空いた通路の奥へ消えて行った。
「……それにしても、製品が無いですね」デニムがソファに腰を下ろしながら言った。
 先に腰を下ろしていたリデルが答えた。「オーダーメイドのサービスです。記念品の一部は、こうやってオーダーメイドで注文することができるんです。せっかくの記念品ですからね、ありきたりの既製品では面白くありません。大切な妻の為の、大切な思い出の品ですからね」
「それほどまでに奥様のことを……」
「はい」リデルは微笑みながら頷いた。
 リデルの言葉が終った時、通路の奥から60歳前後の女性が現れた。彼女は脇に分厚いファイルを抱えている。
「はいはい、いらっしゃい」女性はそう言って反対側のソファに腰を下ろし、ファイルを応接用テーブルの上に置いた。「奥様の誕生日のプレゼント、ということでしたね?」
「はい」リデルは頷いた。
「では、こちらを御覧下さいな」女性はファイルを開いた。「当店では、オーダーメイドでのサービスを行っておりまして、お客様の御意向を最大限反映させ、お客様が120%満足して頂けるような商品を作らせて頂いております。まずは、お客様の御望みの形状と素材につきまして、その大まかな部分をこのリストの中から決めて頂きます。料金につきましても、お客様に御満足して頂けるよう、精一杯勉強致しております」
 ファイルに並ぶリストに目を落としたセントラーザが歓喜の声を上げた。「へえ、こんなに種類があるんですねぇ」
「109種類を御用意致しました」
「ありがとうございます。では、早速……」
 その後、セントラーザとリデルは、店員が持参してきたファイルのページを捲りながら、リデル・ベントの妻へ送る誕生日のプレゼントを何にするか論議を続けていた。当初は話の輪に加わろうとしていたデニムであったが、装飾品に関する知識が全く無かったデニムが2人と店員の会話に加わることは事実上不可能であり、彼は退屈そうに3人の会話を見守るだけの時間を過していた。だが、彼が退屈さを我慢するのは限界に近付きつつあった。
 ──退屈だな……店の他の場所でも見てくるか……。
 デニムは欠伸を噛み殺すと、ソファからゆっくりと立ち上がった。
「あれ? どうしたの?」セントラーザが顔を上げて訊ねる。
「ちょっと、他の場所を見ているよ。僕の出番は無さそうだしね」
「そうですか……すみません、退屈させてしまって」リデルがすまなそうな表情を浮かべて頭を下げた。
「いえ、別に構いませんよ」
 デニムは3人に軽く会釈すると、記念用アクセサリのコーナーを離れ、人々の賑やかな声が聞こえてくる一般の商品の陳列棚のほうへ向かった。
 ──それにしても……貴族が誰もいないな……。
 デニムは周囲を興味深そうに見回していたが、1分も経たないうちにある事実に気が付いた。それは「客に貴族が誰もいない」ことである。ここボールドウィン装飾品店を訪れていたの客はいわゆる一般市民ばかりである。華美なドレスで着飾り、指に七色に光り輝く指輪を何個もはめ、素肌が全く分からなくなるほどの厚化粧で「武装」した貴婦人や、一般市民から見れば奇妙で不便そうな衣装に身を包み、胸を張って周囲の者に威厳を撒き散らしながら歩き回る貴族の姿は全く見られなかった。一般市民の生まれであったデニムには、「装飾品とは即ち貴族の特権」という発想が身に染みてしまっており、一般市民だけが装飾品を楽しげに手にとって眺めている光景はどこか違和感を感じさせるものがあった。
 ──何があるんだろう?
 デニムは売り場の監督と思われる人物を見つけると、彼に話し掛けた。「あの、すみません」
 30代後半と思われる男性はデニムのほうを向いた。「はい、いかがなされましたか?」
「とても繁盛されているようですが……貴族の姿が見えませんね?」
「はい。当店では、爵位を御持ちでいらっしゃるような方には、当店へのお越しを御遠慮して頂いております」
「遠慮……何かトラブルでも?」
「いえ、そういうことでは決してございません」監督は手を振って否定のジェスチャーを示した。「一応、当店は貴族ではない普通のお客様──今までの高級店には立ち入ることさえ拒否されるような方々にも、気軽に装飾品を楽しんで頂けるように考えて作られました。貴族の方などには、当店への直接のお越しは御遠慮して頂いております代わり、当店の姉妹店でありますカストヴィル宝石商会を御紹介しておりまして、そちらの方から店員が御自宅まで直接伺いに参る、という方法を採らせて頂いております。カストヴィル宝石商会では、『訪問販売』と呼んでおります」
「『訪問販売』……」デニムは聞き慣れない言葉を頭の中で反芻していた。
「はい。当店ではそのようなサービスは致しておりませんし、貴族の皆様に対して行っております分割払いのサービスも致しておりません。その代わり、品質が良く、それでいて安い商品を皆様に提供する──これが当店の目標であり理想でございます。お陰様で、本日も御覧のように多くのお客様にお越し頂いております」男の言葉は自信に満ち溢れていた。
「客層に合わせた商売、ということですか」
「その通りでございます」監督はそう言って頷いた。「ところで、何か御用命の物は?」
「いや、そういうわけではありません」デニムは慌てて手を振った。「連れが奥でオリジナル装飾品を考えているところでして、暇になったからこうやって出てきたわけですが……」
「なるほど……」監督は首を上下に動かしてデニムの格好を観察した。「……私が見たところでは、お役人か魔術師の方のようですね?」
「ええ、まあ」デニムにとってはどちらでも正解であった。
「それでしたら、お勧めの商品がございます」監督はそう言って、2mほど離れた場所に陳列されていたアクセサリを手で示した。
 デニムは棚に歩み寄った。「なるほど……携帯用羽ペンケースですね」
「はい。インクが漏れないように工夫された最新製でございます。胸ポケットに取り付けることになります。装飾の部分が派手なものも、シンプルさを追求したものも御用意致します」
 デニムは興味深そうに棚に並ぶペンケース(?)を眺めていたが、その中から1個を取り上げた。
「これはどんな感じですか?」
 彼が手に取ったのは、目立った装飾が施されていないシンプルな構造のペンケースだった。見栄えの質素さに反比例して値段の高い商品であったが、そこが逆にデニムの注目を惹いたのである。
「機能性重視の品物をお選びになりましたか。ペンケースの性能として求められている機密性を特に重視した商品でございまして、他のケースよりもやや厚めの構造になっております。そのため、見栄えが悪い割に少し高めになっております」
 デニムは「機能性」という言葉に弱かった。「これをお願いします」
「ありがとうございます」フロアの監督は深々と頭を下げた。

 セントラーザとリデルの相談が終ったのは、デニムがペンケースを購入してから30分後のことだった。
「決まりましたか?」店の玄関をくぐりながらデニムが訊ねた。
「はい。明日、もう1回打ち合わせが必要になりましたが、今日の相談で大体のところは決めることができました」
「それは良かったですね」
「私達が1時間掛けて選んだんだから、きっと奥さんにも気に入ってもらえるわよ」
「そうだね」リデルは微笑んだ。「今日は遅くまで付き合わせてしまって申し訳ありませんでした」
「そんなことはありませんよ」デニムは微笑みながら応えた。
「では、また明日、警視庁で会いましょう」
「そうね。じゃあ、また明日ね」
「お休みなさい」
 3人は別れの挨拶を済ませると、リデル・ベントは早足で元来た道を逆方向──西へ戻り始めた。その後姿を見つめながら、セントラーザがデニムに訊ねた。「ねえ、席外してた間に何やってたの?」
「ウインドウショッピング」デニムは懐から先程購入したペンケースを取り出した。「で、そのついでにこれを買ったんだ」
「へえ〜〜」セントラーザはペンケースを手にとった。
「僕はこれが気に入ったんだけど……セントラーザはどう思う?」
 彼女は数秒の沈黙を空けてから逆に聞き返した。「デニムって、実は光物が嫌いじゃないのかしら?」
「まあね。……でも、どうしてそれが?」
「私の父さんもそうなの」

4999年3月4日 11:09
シルクス帝国首都シルクス、5番街、内務省4階、内務大臣執務室

 内務省からの緊急の出頭要請を受けたナヴィレント・ティヴェンスは、警視庁で行われていた連続女性失踪事件の捜査会議から抜け出し、大急ぎで宰相兼内務大臣イシュタル・ナフカスのもとに現れた。そこで彼を待ち受けていたのは、タンカード神殿からの再度の捜査「要請」と、同神殿から送られてきた多数の繊維紙の山であった。
「摘発『命令』ですか?」
「その通りです。つい先程届けられました」
 イシュタルは懐から羊皮紙の手紙を取り出し、応接机の上に広げた。

内務大臣イシュタル・ナフカス殿
シルクス警視庁警視総監ナヴィレント・ティヴェンス殿

 先日の要請に関して、当神殿が独自に行いました調査結果をお送りします。この情報に基づきまして、可及的速やかに、《7番街の楽園》の異端者達に対する摘発を行うよう要請します。
 貴方様にタンカード様の御加護があらんことを。

4999年3月4日 タンカード神殿最高司祭 ジョン・フォルト・テンペスタ


「『調査結果』ねえ……」ティヴェンスは羊皮紙を指で叩きながら呟いた。
「これです」イシュタルはそう言い、床に置かれていた繊維紙の束を取り出し、応接机の上に置いた。「数えてみたところ、表紙込みで22ページほどありました」
 繊維紙の束はその左端を黒い紐で閉じられていた。表紙には「異端者捜索記録・《7番街の楽園》」と赤のインクで書かれており、中のページは片面だけに黒のインクで文字が書かれていた。警視総監が中を読んでみたところ、《7番街の楽園》の従業員の記録と、書類提出の為に行われた住民への聞き込み調査の記録がほぼ半数ずつを占めていた。
 この書類によると、異端者の容疑を掛けられているのは、《7番街の楽園》の従業員全11人のうち4人と、この店に現れる常連客3人の合計7人。また、店主に対しても、容疑者達が異端者であることを承知した上で雇用した容疑が掛けられている。タンカード神殿側は、この8人を摘発対象とするように求めているのだ。
「どうですか?」イシュタルが体を前に乗り出して訊ねた。
「警視庁内のガイドラインに従えば、受理すべきではない書類になります」警視総監は書類を応接机の上に放り投げた。
「『ガイドライン』?」イシュタルはこの言葉が初耳だった。
「その通りです。摘発要請を適法に処理する為に我々警視庁が全く独自に定めたものです。で、このガイドラインでは、異端者としてシルクス市民を摘発するには、今から話す要件を満たさねばならないのです。まず、告発者──今回は7番街に住む21歳の男性でしたが──以外に、異端者に関する証言者が複数存在することが必要です」
「1人だけの証言では意味がありませんからね」イシュタルは小さく頷いていた。
「次に、証言者と告発者がいずれもシルクス国民として実在していることが必要です。死体や幽霊の証言は原則として無視されます。そんなものを認めていたら埒があきません。また、告発者と被告発者が反論可能な精神状態と知能を有していることも求められます。これは、異端審問を行う為の必要条件です。そして、証言の中身が異端となる行為に直接触れていることも必要です。リマリック帝国時代の異端審問制度においては、異端に該当する思想や宗教を信奉していること自体が有罪となるのですが、現在の我々の内規では、その思想に基いた表面的な反秩序的行動を実際に見せない限り、摘発や逮捕には踏み出しません。このことはタンカード神殿も承知しております」
「要するに、異端審問でも『被害無ければ犯罪無し』の原則が存在するわけですね」法学者でもあるイシュタル・ナフカス内務大臣は、ティヴェンスの言葉を十分に理解していた。
「そういうことです。そして最後に、告発者と証言者の全員が『嘘はつきません』と宣誓していることが必要です。リマリック帝国時代には、自分の嫌いな人を異端者として誣告することが横行していましたから、それを防ぐ目的で用意しました」
 シルクス帝国の刑法では、宣誓後に誣告や偽証が発覚した場合、被告発人が課される可能性のある最も重い刑罰を、誣告ないし偽証した人物に対して課すように定められている。リマリック帝国の刑法には、誣告と偽証を罰する規定が置かれていなかったため、誣告が横行して裁判制度が麻痺することも多かったのである。なお、異端者に対して課される最も重たい刑罰は火刑である。
「これでガイドラインは全てでしたわね。それで、この書類ではどこがまずいのですか?」
「2番目の規定──告発者と証言者の身元確認が行われていません。その書類が添付されていません」
「なるほどね」イシュタルは納得した表情を浮かべた。「では、これも不受理?」
「そうなります」ティヴェンスは首を縦に振った。

4999年3月4日 15:30
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

 イシュタル・ナフカスは部屋に入るなり、挨拶もせずにナヴィレント・ティヴェンスの元へ歩み寄った。そして、厳しい表情を浮かべながら口を開いた。「ティヴェンス警視総監」
「……何でしょうか?」ティヴェンスは立ち上がりながら訊ねた。
「宰相として命令します。《7番街の楽園》を一両日中に家宅捜索して下さい」
 ティヴェンスは突然の命令に戸惑っていた。「ちょっと待って下さい。あの告発は不受理だと──」
「皇帝陛下の御命令でもあるのです」彼女はそう言うと困り果てた表情を見せた。「実は、今日の午後1時から、帝城で定例閣議が行われたのですが、その席上で、ランベス大蔵副大臣が『異端者がいるのにそれを放置しているのは職務怠慢である』と発言し、内務省とシルクス警視庁のことを公然と非難したんです」
「あの男め……」ティヴェンスは忌々しげに呟いた。
 アーサー・フォン・ランベス大蔵副大臣は、タンカード神殿を支配するジョン・フォルト・テンペスタの義理の従兄弟であり、名字に「テンペスタ」の文字が書かれていないにもかかわらず、皇室の一員として扱われていた。タンカード神殿の枢機卿でもある彼は、シルクス帝国建国時にジョン・フォルト・テンペスタの要請で大蔵副大臣に就任、シュレーダー大蔵大臣に負けないほどの辣腕を発揮し、リマリック帝国末期の混乱を引きずるシルクス帝国の財政を立て直すべく奮闘する優秀な人物として知られていた。だが、彼が大蔵省に派遣された真の目的は、大蔵省にタンカード神殿側の大物政治家を送り込み、同省内でタンカード神殿──そして守旧派の勢力を拡大させることであった。改革派に組するティヴェンスは、ランベス枢機卿が政治家として優秀な人材であることは分かっていても、彼に対して好意を抱くことはできなかった。警視総監の目から見たランベス枢機卿の姿は「タンカード神殿の飼い犬」でしかなかったのである。
「それをお聞きなった皇帝陛下が私に色々と事情をお訊ねになり、私が事実関係の全てを申し上げたら、最後になって『タンカード神殿の要請通りにせよ』とお命じになられて……」
「警視庁の『ガイドライン』のことも申し上げたのですか?」
「ええ。そうしたら、ランベス副大臣が『そんなもの知らん』と一蹴して……」
「ジョン様が皇帝陛下に圧力を掛けたようですな……」
 ティヴェンスは椅子に腰を落とすと、深々と溜息を吐いた。犯罪捜査の素人──しかも自分の政敵でもある──から(結果的にせよ)犯罪捜査の方針をあれこれ指図されてしまったことが、無性に悔しくてならないのだ。これは純粋なプロとしての自尊心の問題になっていた。
 イシュタルもティヴェンスと同様の悔しさを顔に滲ませていた。「申し訳ありません。この私が力不足だったばかりに、貴方と部下の方々に御迷惑を──」
「それはもう良いことです」ティヴェンスは軽く手を振った。「確かに、我々は共にプライドを大きく傷付けられましたが、お互いに失脚したわけではないのですよ。気を滅入らせるのはこの辺で終わりにして、また気合いを入れて仕事に励みましょう」
「…………そうですね……」
 この沈黙の長さが、イシュタル・ナフカスの心のダメージの大きさを暗に物語っていた。彼女の場合は、法律家としてのプライドだけではなく政治家としてのプライドも大きく傷付けられていた。また、一連の騒動を通じて、タンカード神殿側からは彼女の政治的中立性に疑問を抱かせることになってしまい、政治的な立場も危うくなってしまったのである。
 一方、ティヴェンス警視総監のは早々とショックから立ち直っていた。《7番街の楽園》の異端者達を摘発する為の段取りを考え始めており、内務大臣のように過去を振り返る──そして心の傷が広がる──暇も無かったのだ。
 ──動員すべき捜査官の数は25人、必要な魔法使いの数は2人、店に踏み込むのは閉店直前の午後11時……こんなもので十分だろう。作戦の障害になりそうだと思われるのは、数年前から住み込みで働くロングヘアの女性格闘家と、「毎日来ている」との証言があった男性の風水術師、この2人だけ。考えていたよりも楽に終わりそうだな。
 ナヴィレント・ティヴェンスは腕を組み、ただ1人で頭を回転させていた。
 ──それにしても、タンカード神殿の対応は不自然だったな。普段ならば絶対に犯さない書類不備のミスに、書類の不受理時に見せた迅速かつ過剰な反応。冷静に見れば、「1日でも早く《7番街の楽園》に踏み込め」と我々を急かしていたように思えなくもない……。あの神殿に一体何があったというのだろうか……?

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『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
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