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4999年3月5日 11:55
シルクス帝国首都シルクス、8番街、喫茶店《Little Sweet Cafe》

 「イシュタル・ナフカスと警視庁が3月4日の定例閣議で非難された」──このショッキングなニュースは3月4日のうちに警視庁全体に広まっていた。そして、庁内の各所からランベス枢機卿やその背後で糸を引いていたと噂されているタンカード神殿に対する批判や非難の声が噴出し始めていた。連続女性失踪事件の不手際が非難されているのならば彼らも納得できたのだが、捜査の適法性と正確性を期する目的で制定した警視庁の内規が閣議での非難対象にされたことが、警視庁職員には納得ができなかった。
 この出来事に不快感を示していたのは、デニム達3人も同じであった。
「それにしても、頭にきちゃうわね」セントラーザが憤慨して言った。「私達は市民のことを考えて仕事してるつもりなのに、その努力が『知らん』と一蹴されちゃうなんて……こんな酷い話ってあるのかしら?」
「ああ、全くだ」サーレントも力強く頷いた。「あの神殿は好きじゃなかったが、これで嫌いになったな」
「父さんに閣議の話をしたら、『そいつは酷い』と怒ってたわ」
「ウィアリムさんにとっては上司のことだからなあ」
 タンカード信者が店内に1人もいない──この喫茶店が置かれている場所は「宗教的マイノリティー」達が多数居住する区画に位置していた──ことを良いことに、タンカード神殿批判を公言して憚らないセントラーザとサーレントを横目に、デニムはストレートティーを飲みながら、今回の騒動の背景を考慮することにしてみた。
 ──話を持ち出したのはランベス枢機卿……守旧派の大物政治家で、「国父」ジョン様の義理の従兄弟に当たる皇族だ。そして、批判されたのは中立派の中心的人物である宰相イシュタル・ナフカスと我が警視庁……。
 シルクス帝国を2分する政治的抗争。建国早々にして発生したこの問題に対し、シルクス帝国に仕える政治家達は何らかの形で関わらざるを得なくなっていた。その時に彼らが取りうる態度は以下の3つに限られていた。
 第1の態度は、ジョン・フォルト・テンペスタを筆頭に、ゼトロ・ウォレス・テンペスタ大将軍、セフィロス・フォン・デューロ外務大臣などが属する守旧派に参加し、リマリック帝国時代から続いてきた魔法文化と封建主義・農業立国政策を維持する路線を支持すること。
 第2の態度は、皇后リュミア・グラディア・テンペスタを筆頭に、ジュリアス・エルブロング参謀総長、テュッティ・ナフカス通商産業大臣、そしてナヴィレント・ティヴェンス警視総監が所属する改革派に参加し、リマリック帝国時代の旧弊を打破するべく貿易立国政策や科学技術の段階的な導入に取り組む道に加わること。
 残る第3の態度は、皇帝ゲイリー・フォルト・テンペスタや宰相イシュタル・ナフカスのように、両派の争いに関してはできる限り中立を維持し、両派の献策する政策はその合理性のみを以って判断する立場に立つ。ウィリアム・フローズン財務部長もこの立場に含まれる。
 どの選択が最も良いのか、一介の官僚に過ぎなかったデニムには判断しかねていた。だが、3チーム──実質的には2チームとその他少数──による政治的抗争で各派が掲げている主張は、デニムの沈思黙考には関係無かった。極論すれば、この政治的対立はある組織の実質的な支配権を巡る争いに過ぎず、各派の掲げている思想と政策理念は各陣営の「チームカラー」を定義する要素に過ぎない──デニム・イングラスの瞳にはそう映っていた。
 ──これによって得したのはタンカード神殿だ。彼らは《7番街の楽園》への家宅捜索を強硬に主張しており、書類不備など手続き上の問題点を挙げて捜査を認めなかった警視庁を、無理矢理家宅捜索に引っ張り出せたのだから……。
 デニムはティーカップを置いて腕を組み、隣でタンカード神殿批判を続ける2人を眺めながら更に考えた。
「うちの父さんが同類じゃなくて良かった」
「全くだ」
 ──いや、これは違うな。タンカード神殿が単に《7番街の楽園》を摘発したいだけだったならば、書類の不備を直してから警視庁に書類を出せば良かったはず。警視総監閣下もこれは拒めないはずだったし、ランベス枢機卿の悪名も高まらずにすんでいたはず。万事丸く進んでいたはずなのに、神殿側は皇帝が御臨席される定例閣議にこの話題を持ち出し、「御聖断」という形で《7番街の楽園》の可及的速やかな捜索を命令した……。
 デニムは自分の頭の中に浮かんだ単語に眉をひそめた。
 ──「可及的速やか」? タンカード神殿はこれが必要だったのか? ……おそらくはそのはずだ。でも、なぜ? 《7番街の楽園》を早く捜索せねばならない理由って──
「……一体何だ……?」
「え? どうしたの?」デニムの呟き声が耳に届いたセントラーザが反応した。
「い、いや。大したことじゃないよ」

4999年3月6日 22:48
シルクス帝国首都シルクス、7番街

 《7番街の楽園》から100mほど離れた路地裏。幅が狭く奥が袋小路になっているため、人が通り掛かることは絶対にありえないこの場所で、キロス・ラマン秘書官に率いられた突入部隊が、作戦の最後の打合せを行っていた。
「突入のタイミングは私が笛で指示します」ラマンは首から提げた笛を手にとって説明した。「笛の音が鳴り響き次第、A班17名は正面玄関から、B班8名は裏口から突入。建物内に残っていた者は、本来の攻撃対象であるか否かに関係無く全員逮捕して下さい。彼らをエブラーナまで連れていくかどうかは、逮捕してから決めます。よろしいですね?」
 彼の回りに集まっていた捜査官達は無言で頷いた。その様子を見たラマンは小さく頷くと、小声で全員に指示を与えた。「武器を構えて」
 捜査官達は、腰に提げていた鉄製のロッド──警棒を、音を立てずに利き腕に構えた。その様子を確認したラマンもロッドを左手に握る。そして、無言で手を振り、捜査官達に合図を送った。
 ラマンを先頭とした彼らは、声を出さずに一斉に走り始めた。そして、目的地から40mほど離れた十字路に差しかかり、一行のうち8人が手筈通りに別方向へ走り出す。ラマン達18人はそのまま直進し、《7番街の楽園》から10mほど離れた場所で立ち止まった。幸いなことに、店の正面とその周囲には誰もおらず、店内の人間に現在進行中の事態が気付かれることは無かった。
 ラマンは笛を口にくわえたまま、無言で10カウントを数え始めた。
 ──10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……、0!
 寝静まりつつあった深夜の7番街に笛の音が響き渡る。次の瞬間、ラマンの側に待機していた捜査官達は一斉に駆け出し、我先にと《7番街の楽園》へと詰めかけた。また、少し離れた場所からは、木の扉が破壊される音──B班が裏口から強硬突入する時の音や、食器が割れたり木材が折れたりする音も断続的に聞こえた。建物の中では罵声と怒声が飛び交っているようだったが、幸運なことに断末魔の悲鳴はまだ聞こえていなかった。
 ──上手く進んだな。
 ラマン秘書官はゆっくりとした足取りで《7番街の楽園》の中に足を踏み入れた。そこには、彼が期待していた通りの光景が展開されていた。1階の食堂兼酒場には、テーブルや椅子を動かして作られた即席の空地が用意され、そこに10人以上の者が集められていた。全員、腕を後頭部で組まされている。しかし、彼が見たところでは、容疑者とされていた者のうち1人──黒い髪の女性格闘家だけがここに現れていないようであった。
「フォルティア・クロザックはどこです?」ラマンは女性格闘家の名前を口に出して訊ねた。
「……フォルティアちゃん? 上だったと思う」店主は上を向いて答えた。
「我々が来た時には、まだ店の仕事は終わっていなかったようですが?」
「ここ最近『体調が悪い』とか話していた。だから、仕事は休ませて、上でゆっくり静養させていた。確か、3月1日の夜からじゃなかったかな……」
「何か話していましたか?」
「いや」店主は力無く首を横に振った。「何か考え事をしていたようだ。口数も少なくなったしな」
「なるほど……」
「それよりも、どうして私達が逮捕されねばならんのだ?」店主の言葉に合わせて、床に座らされた人々が同調するかのように不満と怒りを露にした。
「あなた方に対して逮捕状が出されているからです」
「逮捕状? 容疑は何だ? 脱税か? それとも濁酒(どぶろく)製造か?」
「実は──」
 ラマン秘書官が答えようとした時、近くの階段から足音が聞こえてきた。数秒後、捜査官に両腕を掴まれた長髪の女性が現れた。白の半袖シャツと黒のミニスカートに身を包み、筋肉によって引き締められた健康的で美しい腕と脚を露にさせていた。
「……ちょっと、これは何なのよ!」女性格闘家──フォルティアは大声で叫んだ。
「詳しい話は警視庁でします」ラマンは冷たい声で言った後、捜査官達に命令を下した。「連行しろ」

4999年3月7日 10:18
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第1尋問室

「私がナディール教徒? 冗談じゃないわよ!」フォルティアは怒りを爆発させた。
「まあまあ、抑えて抑えて」彼女の真正面に座っていた巡査部長は両手を前にかざして応えた。「我々だって、逮捕された皆さんが異端者だとは決めて掛かっているわけじゃない。とりあえず、君には色々と話を聞いていくから、その質問に正直に答えて欲しい。……まず、名前は?」
「フォルティア。フォルティア・クロザックよ」
 彼女の言葉を聞き、部屋の奥に控えていた捜査官達がメモを取り始めた。
「職業は?」
「《7番眼の楽園》の接客係よ」
「戸籍はどこに登録している?」
「7番街のマレバス神殿。そこに残っていなかったとしたら、エブラーナのマレバス神殿に残っているはずだわ」
「……了解。では、早速、君から色々と話を聞いていきたい。念の為に訊ねるけど、君の逮捕容疑が何であるかは承知しているな?」
「だから何度も言ってるでしょう! 私は異端者じゃないって! それもよりによってナディール教団の? 冗談も程々にして欲しいわ」彼女は椅子の上で上半身を動かし、踏ん反り返るような格好になった。
「告発状では、君がナディール教団の集会に顔を出していた……ということになっているが、心当たりは? 知らず知らずのうちにそういった人々の会合に出くわしてしまったことは無いのかね?」捜査官は丁寧な口調で訊ねた。目の前の美人が異端者だとはどうしても信じられなかったのである。当然、彼はタンカード神殿による摘発劇の「強制」の話は耳にしている。
「全く無いわ」彼女は自身満々といった表情で首を横に振った。
「他にやましい所は全く無いのかね?」
 ──正当防衛で殺した2人のこと……でも、「連続女性失踪事件の犯人達を倒した」と言ったって信じてもらえるかどうか……それに、相手がどこかの神殿の聖職者だったなんて……。
 彼女の表情が一瞬だけ凍り付いた。だが、すぐに真顔に戻ると首を再度横に振った。「何も無いわ」
「ふーん、なるほどね」捜査官は彼女の表情の変化には気付かなかった。

4999年3月7日 14:01
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

「閣下」執務室のドアをノックする音と共に、キロス・ラマンの声が聞こえてきた。「入ってもよろしいですか?」
「構わんぞ」ティヴェンス警視総監は書類から目を離して答えた。
「それでは失礼します」
 ドアを開けて執務室に入ってきたラマン秘書官の顔は、徹夜での仕事のために疲れ果てていた。目の下には隈がはっきりと浮かび上がっており、その仕事──捜査と事情聴取が極めて大変であったことを暗に物語っていた。「報告書はお読みになりましたか?」
「ああ」警視総監は右手に持った書類を掲げて示した。「良い出来だ。御苦労だったな。とりあえず、この報告が終わったら一旦家に帰ってくれ。体を休めるんだな。見たところでは、昨日の朝から起きたままだろう? これでは体も持つまい」
「御配慮、痛み入ります」
「別に良い。それで、これまでに分かったことはどれだけあるのか?」
「報告書でも申し上げましたが、昨日逮捕された従業員11人と客8人の中に、タンカード神殿の容疑者リストに書かれていた8人全てが含まれていました。残り3人については、今日の朝までに全員釈放し、法的にも『逮捕された』という記録を抹消することになっています。……で、残り8人ですが、彼らの自供や周辺住民からの証言を聞いた限りでは、全員が『シロ』だと思われます」
「どういうことだ?」
「念入りな家宅捜索を実施したのですが、証拠は何も見つかりませんでした。我々の捜査官が行った聞き込み調査によりますと、問題の8人が異端者であるという証言は1つも得られませんでした。逆の証言でしたら多数得られているのですけどね」
「実に奇妙な話だな。そうは思わんかね?」
「私も同感です」ラマン秘書官は頷いた。
 ティヴェンスは左手の指で机を叩いていたが、それを急に止めてから口を開いた。「とりあえずは、捜査官達に調査を続けるよう言ってくれ。もっと情報と証拠が欲しいからな」
「承知致しました。……と、それからもう1つ。《ブルーエルフ》の捜査の途中経過です」
「《ブルーエルフ》? 何だったけ?」ティヴェンスの頭の中からはきれいに消え去っていた単語であった。
「行方不明のザール・シュレーダーが足しげく通っていた料理店ですよ」
「……ああ、思い出した。何か分かったのか?」
「ザール達に関する情報ではありませんが、面白い話が見つかりました。警視庁内の捜査記録などによると、シルクスで連続して発生している連続女性失踪事件において、その被害者である女性20人のうち3人が《ブルーエルフ》を利用したことがあるそうです。訪れていた日付はバラバラですから、彼女達が3人組と顔を合わせていたわけじゃないようですが」

4999年3月8日 21:45
シルクス帝国首都シルクス、6番街、レストラン《ウィズダム》

 ナヴィレント・ティヴェンスは着慣れない礼服に着替え、シルクス帝国有数の高級レストランの個室で窮屈そうにして椅子に腰かけていた。魔法によって明るく輝いているガラス製のシャンデリア、壁にさりげなく飾られている火山ファリスの風景画、総シルクのテーブルクロス、外国から輸入された陶磁器の皿に銀製のフォークとナイフ、そしてテーブルの中央に置かれた4970年物の赤ワイン──その全てが「高級」の名に恥じない立派かつ豪華な作りであった。世間一般の評判では、出される料理も豪華かつ美味であり、「高級」という名声と高い料金に十分見合った中身であると言われている。
 しかし、ティヴェンスはこのような高級料理店が嫌いであった。政府高官同士の密会の場として利用するには便利であったが、何度訪れても、堅苦しい店の雰囲気と複雑なテーブルマナーに慣れることはできなかった。彼自身としては、出世する前に訪れていた普通の居酒屋のような場所で、テーブルマナーを無視して──社会人としてのモラルはしっかりと守っていたが──部下や同僚達と楽しく語り合うほうが性に合っていた。
 ──ここではなく、警視庁で会うように頼めば良かったかな……。
 彼はテーブルの端を指で叩きながら、退屈そうに部屋の中を見回していたが、廊下のほうから足音が聞こえてくると、居住まいを慌てて直し、緊張した面持ちで客人の到着を待った。
「ティヴェンス警視総監ですね?」
 廊下から姿を現したのは、宰相イシュタル・ナフカスの妹であるテュッティ・ナフカス通商産業大臣。姉と同様にリマリック帝国大学の教授から政治家に転身した秀才で、今年で39歳になる美女であった。シルクス帝国の政界においては、ティヴェンスやシュレーダー大蔵大臣と同様に改革派に属し、帝国の経済改革──海上貿易の活性化を推進していた。
「お久し振りです」警視総監は立ち上がって手を差し出した。
「こちらこそ」2人はテーブルの脇で握手した。「ついこの間は、姉が何か御迷惑をかけてしまったそうで、大変申し訳ありませんでした」
「いえいえ。私のほうが無理を申し上げていましたし、それにあの件は守旧派がごり押ししたのが全ての原因です。お姉様には何ら咎めるべき点はございませんよ」
「お気遣いして頂きありがとうございます」
 テュッティ・ナフカス通産大臣が座ったのを確認してから、ティヴェンス警視総監も椅子に腰を下ろした。しばらく経ってからウェイターの男性が現れ、2人のグラスに赤ワインを少しだけ注ぎ、何も言わずに部屋を後にした。2人は軽い乾杯を交わしてワインを口に含んだ。確かに美味である。
「毎度思うのですが」ティヴェンスは声を落とした。「どうもこういう店は苦手でして……」
「別に構いませんわ」テュッティ・ナフカスは顔に穏和な笑みを浮かべた。「私もこういう堅苦しい店は苦手ですの。でも、政府の大臣ともなると、密談するのに町の居酒屋を使うわけには参りませんからね。どこで誰が何を聞いているのか分かったものではありませんから」
「確かに同感ですな」
「まあ、他人が聞き耳を立てている可能性があるのは、この店でも変わらないのですけどね」
 この言葉の直後、2人の顔から笑みが消え、本来の用件である密談が開始された。
「閣議で話題になりました《7番街の楽園》の件、その後どうなりました?」
「内務大臣にもお知らせしようと考えていた情報ですが、タンカード神殿から異端者の容疑者として告発された8人を逮捕したのですが、その全員については冤罪の可能性が出ています」
「冤罪……?」テュッティは体を前に乗り出した。
「その通りです。今日の午後から、部下達を動員して告発者と証言者の身元を洗わせたところ、非常に興味深い情報が得られたのです。告発者と証言者の合計14人は全て実在の人物でしたが、そのうち8人がタンカード神殿に所属していた者で、残る6人もその全員が何らかの形でタンカード神殿に関わりを持っていたのです」
「でも、単なる偶然だという可能性は──」
「警察官としては、これを単なる偶然としては片付けたくありません。そもそも、今回の摘発劇までの動きが全てタンカード神殿の圧力によって進められた点や、同神殿から提出された告発状がいつもとは異なり不完全だった点も気になります。何か、《7番街の楽園》に対する摘発を不自然に急かしていたような印象を受けるのです」
「つまり……彼らは何かを隠していると仰りたいのですか?」
「その可能性の否定はできないでしょう?」
「確かに。彼らが完全に『シロ』だとは思えませんね」
 2人は微妙な言い回しを使っていたが、タンカード神殿に疑いの目を向けている点は同じであった。
「それだと……彼らは釈放されるのですか?」
「残念ながら」ティヴェンスは首を横に振った。
 異端者に対する刑事訴追権は、内務省やその下部組織である警視庁、そして各封建領主が抱えている警察組織には認められていなかった。異端者を起訴できるのはシルクス帝国内の各神殿だけであった。警視庁ができることは、異端者に対する取り調べと一時的な身柄の拘留だけであり、その立場は両神殿のお手伝いに過ぎなかった。警視庁が「冤罪の可能性あり」と明記した報告書をタンカード神殿に提出したとしても、その報告書がそのままの形でエブラーナの異端審問所に送付される保証は全く存在しなかった。今までの経過を見る限り、タンカード神殿に理性的な判断を求めるのは、今回に限っては――極めて例外的なケースであるが――無理な相談と思われた。
「だとすると、彼らは冤罪なのに起訴されることに……?」
「はい。彼らは間違い無く起訴されます」ティヴェンスははっきりと言った。
 この時、廊下から靴の音が聞こえてきたので、2人は一旦会話を中断させた。
「温野菜のサラダでございます」
 部屋に現れた男性ウェイターはそう言って、2人の目の前に、白く湯気を立てている野菜が盛られた皿と、ドレッシングの入った器を静かに置いた。何1つ手落ちが見られない見事な作法を2人に見せつけ、男は静かに部屋を後にした。
「どうにかならないのですか?」ウェイターの姿が消えてからテュッティ・ナフカスが訊ねた。
「法律論での対処は不可能です。起訴するか否かを決めているのは全て神官達であり、このことは法律にしっかりと明記されているのです。冤罪なのかどうかは関係ありません。政治的圧力をかけるとしても、時間がありません。我々が根回しを続けている間に、神殿側がとっとと起訴に踏み切ってしまうのは目に見えています。そこで、お姉様……もとい、宰相閣下の御知恵を拝借したいのです」
 通産大臣はフォークを宙で泳がせていた──マナー違反である──が、やがてフォークを温められたブロッコリーに突刺した。「分かりました。明日の夜、姉と相談しましょう」

4999年3月9日 09:13
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド2階、異端審問所書記室

「ラプラスさん」マンフレートは書記室長の椅子で書類を眺めているラプラスに話し掛けた。
「ん? どうしたんだ?」ラプラスは書類から目を上げて訊ねた。
「シルクスのタンカード神殿から連絡がありました。異端者を逮捕したそうです」
「逮捕されたのは?」
 マンフレートは繊維紙の書類を机に置いてから言った。「帝都シルクスの7番街にある《7番街の楽園》の従業員と常連客の合わせて8人です。ナディール教団に参加しているとの嫌疑が掛けられています」
「容疑者達はそれを認めているのか?」
「報告書にも書かれておりますように、その件には触れられておりません。まだ調査中なのでしょう。彼らが到着する時には判明していると思いますが」
「なるほど……」ラプラスは書類を見つめながら言った。
「シルクスでは今日中に8人が起訴される模様です。移送には船を使うそうですから、到着は3月16日、裁判開始は23日頃となります」
「ゾーリア裁判長と相談しよう」ラプラスはそう言って椅子から立ち上がった。

4999年3月9日 09:20
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

 ティヴェンス警視総監の恐れていた事態は現実のものとなった。
「起訴状が届いております」キロス・ラマン秘書官は事務的な口調で報告した。
「《7番街の楽園》か?」
「はい。8人全員が起訴の対象となっています。全員が未だに容疑を認めておりませんし、我々もその旨をタンカード神殿などに報告したのですが、聞き入れられなかったようです」
「いつもより早い。実に根回しの良いことだ」
「ただし、これは法に適った措置なのです。拒否はできませんよ」
「そんなことは分かっている」ティヴェンスは不機嫌そうな声を上げた。
「タンカード神殿側は今日中の身柄引き渡しを求めております」ラマン秘書官はそう言って1枚の紙を警視総監の目の前に置いた。「8人の身柄をシルクスのタンカード神殿に引き渡す為の命令書です。閣下のサインをお願いしたいのですが」
「……拒否できるか?」
「確かに。しかし、あまり得策とは思えません。閣下がサインを拒否なさった場合は、イシュタル・ナフカス内務大臣がサインをすることになります。内務大臣もサインを拒否された場合は皇帝陛下御自らがサインをされることになります。いずれにせよ、8人の身柄が移されることには変わりありませんよ。もし閣下が署名を拒否された場合は、閣下御自身が多大な不利益を蒙ることになります。巨大な警察機構を守旧派の手に譲り渡すことは、閣下もお望みではないでしょう?」
 ティヴェンスは溜息をついてから、机の上に置かれていた羽ペンを手に取った。
「選択肢は無い、か……」

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