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4999年3月10日 19:33
シルクス帝国首都シルクス、6番街、レストラン《ウィズダム》

 ナヴィレント・ティヴェンス警視総監は、2日前にテュッティ・ナフカスとの会食で使われた時と全く個室で、2日前と全く同じように堅苦しそうに腰を下ろしていた。テーブルマナーというものを毛嫌いする彼には、高級料理店での食事が一種の拷問に思えることが度々あった。多くの政府高官の場合、このような高級料理店を自由に──状況次第では公費を使って──利用できることが魅力的に思えるのだが、ティヴェンスには彼らの心理が全く理解できなかった。高級料理店が政府高官同士の密会の場として魅力的であることはティヴェンスも承知しており、堅苦しいテーブルマナーに我慢して料理を食べることも多かったが、何度通っても高級料理店に慣れることは無かったし、テーブルマナーを覚えることも無かった。
 ──他人の金で飲み食いするのだから、あまり文句は言えないが……。
 ティヴェンスが溜息を吐いた時、廊下からウェイターの男性の声が聞こえてきた。「ティヴェンス様、お客様が到着されました」
「ああ、ありがとう」
 約15秒後、ティヴェンスの待つ部屋に、シルクス帝国を代表する2人の才女が姿を見せた。ティヴェンスは椅子から立ち上がり、2人のほうへ歩み寄った。「お仕事、お疲れ様です」
「そんなことありません。それよりも警視総監閣下、お忙しい中をお呼びしてしまい申し訳ありません」テュッティ・ナフカス通商産業大臣はそう言って手を差し出した。
「いえいえ」ティヴェンスはそう言いながら差し出された手を握った。「閣下でしたらいつでも歓迎します」
「今の御言葉、御世辞だったとしてもありがたいですわ」テュッティは微笑んだ。「今日は姉も連れて来ました」
「お仕事、御苦労様です」イシュタル・ナフカス宰相兼内務大臣も手を出した。
「ありがとうございます」ティヴェンスはテュッティから手を離し、直属の上司と握手を交わした。「とりあえず、席に着きましょう」
 ティヴェンスの言葉に従う形で、テュッティとイシュタルは椅子に腰を下ろした。ティヴェンスも自分が座っていた席に戻る。
「まずは」最初に口を開いたのはティヴェンス警視総監だった。「一覧の騒動と事件に関しては、色々と御二人に御迷惑を掛けてしまったかもしれません。その点については、大変申し訳無く思っております」
「そんなことはありませんわ」イシュタルは手を振った。「あれは守旧派が無理難題を押し付けたのが原因です。少なくても、《7番街の楽園》の件に関しては、警視庁には一切問題点が無いはずです。ただ、警視庁内部で聞こえているタンカード神殿に対する非難の声に関しては、シルクス帝国に混乱をもたらす可能性が高く、内務大臣としては看破できません。職員に対しては、私からの訓示の形で冷静になるよう促すつもりでいます」
「そうして頂けると大変助かります」ティヴェンスは頭を下げた。
「できれば、警視総監のほうでも同様の訓示を出して頂きたいのですが」
「分かりました。帰庁後に手配致しましょう」
「姉さん」テュッティが姉のほうを向いた。「そろそろ本題に入らない?」
「そうだったわね」イシュタルは頷いた後、ティヴェンスのほうに向き直った。「確か、用向きは《7番街の楽園》に関する情報だと伺いましたが……?」
「はい」ティヴェンスは丸テーブルに置かれていたコップの水で唇を濡らした。「妹のテュッティさんからお話は伺ったかもしれませんが、《7番街の楽園》で逮捕された異端者8人は、その全員が無罪である可能性が強くなりました」
「……本当ですか?」イシュタルは声を落として訊ねた。
「はい。警視庁の捜査官達が情報収集を進めているのですが、一般市民からの情報に基けば、8人は全員無罪です。彼らが異端者であるという証言は何1つ得られていないのです。告発人達は口を揃えて『奴らが異端者だった証拠を知っている』と主張していますが、それと相反する証言も多数揃っているのです」
「やはり、冤罪になるのですか?」テュッティが訊ねた。
「残念ながら、その通りかもしれません」
 イシュタルは溜息を吐いた。「これでは、リマリック帝国時代と変わらないわねぇ……」
 妹のテュッティは冷静な反応を示した。「事情は分かりました」
「そこで、我々警視庁としては、この事態に対して御二人──特に宰相閣下の御助力をお願いしたいのです。表面的な事実関係だけを観察すれば、我々が対処して処理すべき問題かもしれません。ただし、相手がタンカード神殿という巨大組織である上に、警視庁の捜査権は帝都シルクスに限られているため、私の権限で実行できることには限度があります」
「それで、私の力を借りたいと?」イシュタルが訊ねた。
「はい」
「しかし、私達にできることは無いはずですよ」テュッティが横から口を挟んだ。「警視総監も御承知のことだとは思いますが、我々が異端審問所に対して異議を唱えることは立派な司法妨害になります。異端審問に関して宗教組織が持っている『暗黙の優越権』を侵害すること──」
「何です、それ?」
「詳しいことは異端審問所書記室長のラプラス教授に聞いて下さい」イシュタルが妹の代りに説明した。「端的に言えば、『世俗の権力は異端審問において神殿組織の言うことを聞かねばならない』ことです。異端審問制度創設時に公布されたバディル勅令に明記された内容であり、神殿組織に対して唯一干渉可能なのは皇帝のみであると定められたのです」
「しかし、異端審問所の職員はあなたが任命なさる──」
「ええ」イシュタルはあっさりと認めた。「でも、私が任命できるのは異端審問所の書記室長──事務方のトップまでです。ついこの間も、ラプラス教授を新任の書記室長任命したばかりです。その書記室長の上司となる11人の聖職者達は、帝国政府に布教を許可された各神殿が自由に人選を行えることになっています。……で、話を戻しますが、妹が『司法妨害になる』と説明したのは、このバディル勅令の正当な解釈であり、現在の帝国大学での学説となっています。皇帝以外の世俗の官僚が異端審問制度に口を挟むことはバディル勅令に違反する行為ですし、この勅令に基いて作られた異端審問所をそっくりそのまま継承した我が帝国の異端審問制度にも当てはまることなのです」
「でしたら、皇帝陛下の──」
 ティヴェンスが言いかけた時、部屋に前菜となる料理が運ばれて来た。白身魚と野菜をマリネにした一品であり、シルクス帝国の高級料理店では一般的な前菜として知られていた。また、同時に4981年産の白ワインとワイングラス3個が部屋に届けられた。
 ウェイター達が全員退出し3人が乾杯を交わしてから、論議は再開された。
「先程は言いかけでしたが、皇帝陛下のお言葉ならば──」
「期待はできません」テュッティは首を横に振った。「今回の騒動では、皇帝陛下はタンカード神殿側の肩をお持ちになっています。陛下の御本心が何なのかは推測するしかありませんが……」
「これでは、我々にできることはほとんど無いですな……」
「しかも、最大の問題点は、表面上は手続きが適法に動いていることですね」イシュタルが付け足した。「タンカード神殿側が何らかの違法行為を働きましたら、私達が超法規的措置を講じて事態の打開に動くことができるのですが、今回はそれもできません。私達が事態を打開する為に何か行動を起こしたとしたら、タンカード神殿側からは『バディル勅令に違反している』と攻撃されるのは目に見えています。そうなっては全てが水泡に帰してしまいます」
「姉さん」テュッティが訊ねた。「新証拠発見による裁判やり直し──」
 法律の専門家である宰相は首を横に振った。「それも駄目。死刑が刑罰として規定されていない犯罪だったら、その手法も通用したかもしれないわ。でも、今回争われているナディール教団の件については、最高刑に死刑が明記されている。タンカード神殿の息が掛かっている異端審問所の裁判官達がどのような判決を下すか、結果は見えているでしょう?」
「合法的な対処法が何1つ無い、というのが結論なのですか……?」ティヴェンスが訊ねた。
「ええ」テュッティは頷いた。「合法的な方法でしたらね」
「ちょっと待って。それじゃ、まさか──」
「そう、その『まさか』」テュッティは姉の言葉に頷くと、ワイングラスを一気に空にした。「無論、大っぴらに違法行為に手を染めるわけにはいかないから、他人に見えないところで、必ずしも違法行為とは断言できない方法で対処しましょう。本当は嫌だけど、状況がこうなっている以上止むを得ないでしょう。警視庁側の言い分が正しかった場合は、タンカード神殿も証拠捏造と訴権乱用を犯している可能性が極めて強いことですし」
「しかし……どうするんです?」ティヴェンスが訊ねる。
 通産大臣はグラスに白ワインを注いでから答えた。「シルクス警視庁の誰かに、バソリー神殿に対して《7番街の楽園》に関する情報を漏洩して頂くんです」
「バソリー神殿ですか?」ティヴェンスは眉をひそめた。「守旧派の手を借りるんですか?」
「止むを得ないでしょう? 他の政府機関は手が出せず、他の神殿はマイノリティーで政治的な発言力が低いのですから……。捜査官のどなたかがバソリー神殿に事情聴取に赴いた際、聴取に応じてくれた司祭に、『一般市民の間で《7番街の楽園》で逮捕された8人が冤罪ではないかという噂が流れている』とさり気無く教えるだけです。警視庁による大々的な事情聴取が行われていることですし、噂の存在事態は嘘にはならないはずです」
「しかし、バソリー神殿がどう反応するでしょうか?」ティヴェンスが疑問を口に出した。
「バソリー神殿が《7番街の楽園》に関してタンカード神殿と共謀しているのでなければ、神殿のどこかで調査を求める声が上がるはずです。こうなれば、バソリー神殿全体が動き始めるはずです。最高司祭ステファナ・ルディス・テンペスタ様の道徳心が鍵になりますが、道徳と善を尊重するバソリー神の教義を考えると、あの方は動くはずです」
「大丈夫、これは『適法』だわ」イシュタルは妹の献策を評価した。「これで行きましょう」
 イシュタル・ナフカスの言葉で、室内に張り詰めていた緊迫した空気が緩む。
「やれやれ……」ティヴェンスが溜息混じりに呟いた。
「大事件の捜査だけでも大変なのに、難題が更に増えてしまいましたね」テュッティが同情の言葉を掛けた。
「ええ。どれか1つだけでも解決してくればありがたいのですが、時間が掛かりそうです。何しろ、いずれの件もその動機が不明ですからなぁ……」
 ──そう、これが最大の謎として残っている。
 ティヴェンスは白ワインを飲み干すと、空になったグラスを眺めながら思った。
 ──タンカード神殿が《7番街の楽園》への摘発を急がせた理由……一体何だ?

4999年3月10日 21:05
シルクス帝国首都シルクス、某所

「『商品』は揃ったわけだな」
「ああ」髭無しの男は髭面の男の言葉に頷いた。「最後の最後で、部下達の間に犠牲者が出てしまったがな」
「犠牲者? どういう意味だ?」
「目撃者を消そうとして3人を深追いさせたが、そのうち2人が死体になってしまった」
「あの殺人事件のことか。……しかし、それは危険ではないかね?」
「大丈夫だ。『処置』は済ませている」
「相変わらず手早いな」髭面の男は微笑んだ。
「それはどうでも良い。そちらに任せよう。……ところで、『納品』はいつにする?」
「4月12日に出港しよう」

4999年3月11日 10:34
シルクス帝国首都シルクス、6番街、倉庫街の某所

 ナターシャ・ノブゴロドが誘拐されてから11日が既に経過していた。
 ──やはり間違い無い。どうやら人身売買組織のようだわ……。
 彼女に対する待遇は誘拐されたその日のうちに改善された。ロープと目隠しと猿轡によって何もできない状態に置かれていた彼女であったが、誘拐された日──3月1日のうちに、犯人から「大声を出さずに大人しくしていれば決して殺さない」という趣旨の警告を受けた上で、体に受けていた全ての縛めを解かれたのである。
 とりあえず、自分が殺害されるという可能性が皆無に等しいということが判明してからは、彼女は心を落ち着けて、自分の置かれている現在の状況を把握する為の作業を開始した。監禁されている女性達に対する犯人達の対応は、ナターシャが考えていたよりもはるかに紳士的なものであった。犯人達の監視が付いていたままならば倉庫内を比較的自由に移動することが認められていたし、ナターシャの他に監禁されている女性達との会話も禁止されなかった。被害者達に対して与えられる食事は野菜を中心とした献立であり、冒険者として体作りに励んでいた彼女には少し物足りないものであったが、1日2回欠かすことなく与えられており、監禁された女性達が飢えで苦しむようなことは見られなかった。
 だが、ナターシャを最も驚かせたのは、彼女達を監視する犯人グループの中に相当数の女性──ナターシャが確認できただけでも最低3人が加わっていたことである。人質であるが故に、彼女達がトイレや水浴び──実は水浴びが認められていたこと自体が相当な驚きであるのだが──を行う時にも監視の目は光っていたのだが、その監視は男性ではなく女性が行うように決められていたのである。見ず知らずの人物に自分の恥ずかしいところを見られるならば、異性ではなく同性から見られるほうが数千倍もましであった。
 以上の情報から、ナターシャは「犯人達が被害者の女性達を丁寧に扱っている」と結論付けた。犯人達が監禁中の女性に暴力を振るうことはこれまで2回だけであった──しかもその後に回復呪文で傷の手当てを受けた──ことからも、そう考えるほうが適当であった。となると、次に浮かび上がる疑問は、犯人達が彼女達を丁寧に扱う理由であった。だが、犯人達の会話が耳に飛び込んできたため、この疑問は間も無く氷解した。
 ──他人に売ることを前提として私達をさらったのなら、少なくても殺されることは無いはず。……でも、私達をどこに売り捌くつもりなのかしら? これだけがまだ分からない……。
 ナターシャが木箱にもたれ掛かりながら考えていると、隣からセリス・キーシングが声を掛けた。「……ねえ、お姉さま?」
「どうしたの?」ナターシャは小声で応えた。
「考えごと?」
「うん、ちょっとね……」ナターシャはそう言いながら、倉庫の中で友人となった少女の顔を見つめた。
 ──喘息持ちの少女……彼女、耐えられるのかしら?
 現在のナターシャには、自分自身の身の安全よりも、定期的に薬を投与されている病弱なセリスのほうがはるかに心配であった。彼女はフェールスマイゼンの存在を知っており、セリス・キーシングの病が何であるかを既に知っていた。喘息の発作によってセリスが苦しめられているところを見たことが無いとはいえ、犯人達がわざわざフェールスマイゼンを買い与えていることから見て、セリスの喘息は決して軽くはないであろうと推測していた。
 ──犯人達が薬を買い続けられるほど裕福だったらいいけど……。

4999年3月11日 11:59
シルクス帝国首都シルクス、5番街、バソリー神殿、聖堂

「ここに願う、我が神聖かつ偉大なる神バソリーの加護が我等が民に与えられんことを──」
 5番街のバソリー神殿を統括する司教スーザ・ルディス・テンペスタの澄んだ声が、ステンドグラスと宗教壁画によって彩られた聖堂の中に響き渡る。聖堂の長椅子を埋め尽くしたバソリー信者達は、ある者は手を合わせ、またある者はその手にバソリー神の姿を掘り込んだペンダント──ホーリーシンボルではない──を握り締めて、無言で礼拝に加わっていた。敬虔なバソリー信者が多数住んでいるのか、はたまた単にシルクス帝国の皇女でもある司教の姿が見たいが為だけなのかは不明であるが、スーザが執り行う儀式や礼拝には、いつも多数の人間が訪れていた。
「──そして、この大地に更なる恵みと実りをもたらさんことを。ディラス・セフィーニ
「ディラス・セフィーニ」
 長椅子に座る住民達が、スーザに続いて祈りの言葉を発した。「ディラス・セフィーニ」という言葉は、数千年もの昔から使われている古代語の短縮形である。本来は「神よ、我等の願いを聞き入れ給え」という意味の文章であったのだが、全部を発音するのが面倒になったためか、新太陽暦3000年頃から「神よ、聞き入れ給え」と短縮して使われるようになった。しかし、この聖堂に集まっている人々の中でこのことを知っている者は皆無であった。彼らにとっては、祈りに使われている単語よりも祈りを捧げているという事実のほうが重要であり、言語学者や宗教学者による詳しくて難しい説明を聞く気にはなれなかった。神を分析の対象として認識したことが無いスーザも同じであった。
 祈りが全て終わった時、帝城内に建てられている運命神ゾルトスの神殿が鳴らす鐘の音──正午の時報──が聖堂内にも聞こえてきた。スーザは顔を上げると、温和な笑みを浮かべて聴衆達に語り掛けた。「これで礼拝は終わります。本日はお集まり頂き誠にありがとうございました。皆様に、バソリー様の慈悲と加護があらんことを」
 その言葉が礼拝終了の合図であった。ある者は食堂の席を確保する為に小走りで聖堂を後にし、またある者はスーザと丁寧な挨拶を交わし、別の者は顔見知りの司祭に親しげに話し掛けていた。毎日のように繰り返される平和な光景を眺め、彼女に頭を下げる訪問者に対して丁寧に黙礼を返しながら、スーザは平和な日々が続いていることを神であり祖先でもある氷竜バソリーに感謝していた。
 ──今日もありがとうございます。この平和が長続きすれば良いのですけれど……。
 4998年に発生したルテナエア事件は、スーザに対して様々な試練を与えることになった。バソリー神殿の1司祭としての生活を過ごしていた彼女は、テンバーン王国との戦争で発生した多数の傷病者の看護に追われる日々を送っていた。だが、ある日、西リマリック帝国と父親ジョン・フォルト・テンペスタの要請により、反テンバーンの活動を展開していたレイ・ジスランのパーティー──彼女の兄であるゼトロも加わっていた──に参加することになり、生まれて初めてシルクスの地を離れ旅に出たのである。長旅や過酷な戦闘を潜り抜け、3ヶ月後にシルクスに戻ってきた彼女を待っていたのは、西リマリック帝国内に潜んでいた親テンバーン派によるクーデター未遂事件であった。ゲイリーやジョンを初めとする政府高官の大半が出払っていた隙を突いて発生した反乱であり、シルクスから逃げ遅れた彼女は逮捕され、親テンバーン派の人質(手土産)という形でテンバーン王国に連行されたのである。そして、首都近郊に作られていたイシリアの隠しアジトに連行された彼女は、サディストの異常性癖を持っていたイシリアの手により様々な暴行や拷問を受けることになった。ゼトロ達の手によって救出された後も、スーザの心や肉体には様々な傷が残っており、彼女の健康が回復して司教への昇格と公務への復帰が実現するまでには4ヶ月の時間が掛かったのである。
 スーザの手首や背中には、今でも拷問によって付けられた傷跡が残されていた。高度な呪文を駆使すれば、全ての傷を消し去り再び子供を産める体に回復できる──子宮の損傷も激しかったのである──ことは分かっており、両親や兄達は幾度と無く呪文による治療を受けるようにスーザを説得したが、彼女は決して受け入れなかった。自分の受けた傷と敢えて正面から向き合い、それを克服する道を彼女は選んだのである。この時の経験と葛藤が、公務復帰後の彼女の心の支えと自信の源になっていた。
 また、テンバーン王国との戦いを通じ、彼女は戦争の持つ無意味さも感じ取っていた。最前線から送られてくる多数の傷病者を手当てする時に「被害者」として戦争の姿に触れた。そして、テンバーンへの移送中に立ち寄ったパベッドの街で、カジェタノと名乗る兵士から西リマリック帝国軍の包囲攻撃によるパベッド市民の惨状を聞かされた時に、「加害者」として戦争の姿を知ったのである。皇帝直属軍や帝国政府の高官達が度々口にする「国益」や「外交問題」という単語にも、彼女は一種の違和感を抱いていた。最も重要なのは一般市民の命と生活であり、何物にも換え難いこれらを戦争によって損なうことは許されないのではないか──スーザはそう考えていた。
 ──この世で永続するものは1つもないことは分かっています。でも、この平和な時代がもっと長く続いて欲しいのです……。どうか、お願いします……。
 スーザが心の中での祈りを捧げ終わった時、彼女の耳に男性の声が聞こえてきた。「スーザ様、よろしいですか?」
「はい、何でしょう──」彼女は男性の顔を思い出した。「ラマンさん、こんにちわ」
「こんにちわ」ラマンは深々と頭を下げた。
「いつもは夜の礼拝にお越しですが……今はお仕事ではなかったのですか?」
「ええ。そうなんですが──」キロス・ラマン秘書官はそう言ってスーザに近付いた。「実は、私達の仕事のことに関しまして、スーザ様に御相談したいことがありまして、ここに参った次第でございます」
「深刻そうなお話ですか?」
「スーザ様の御解釈はともかく、私達にとっては大きな問題です」
「承知致しました。……場所を変えましょう」
 ラマン秘書官は無言で頷くと、スーザの案内で聖堂を後にした。
「……それで、お話というのは?」神殿の廊下を歩きながらスーザが訊ねた。
「はい。3月に入りまして、7番街でナディール信者が8名逮捕されたことは御存知ですか?」
「噂としては知っております」
「異端者達は《7番街の楽園》という酒場に勤めていた従業員とその常連客達でした。既に、エブラーナの異端審問所に移送されております」
「……それでしたら、なぜ警視庁のあなたがお困りになるのでしょう?」
「実は、彼らは冤罪ではなかったのかという可能性が浮上しているのです」
「冤罪?」スーザは立ち止まってラマン秘書官のほうを向いた。「だとすると、間違って罪も無い方を逮捕されてしまったのですか?」
「お恥ずかしい話ですが、その通りです」ラマンはうなだれるように言った。「警視庁で捜査できる事件でしたら、私達シルクス警視庁のほうで自力で処理できた事案でした。ですが、逮捕された人々に掛けられていた容疑が異端に関するものだった上に、捜査の主導権をタンカード神殿側に奪われたため、逮捕後の調査で彼らの冤罪と無実を示す情報が山ほど見つかったにもかかわらず、私達はタンカード神殿による起訴を見守るほかありませんでした……」
「タンカード神殿にはお知らせしたのですか?」
「はい。しかし、彼らは私達の言葉を聞き入れてもらえませんでした」
 スーザは深々と溜息を吐いた。「そうですか……。嫌は話ですね……」
「仰る通りです。法律を犯していなかった人々を間違って逮捕──」
 スーザは首を横に振った。「確かにそれも嫌な話です。でも、私は異端審問制度そのものが大嫌いなんです」
「本当ですか?」ラマンは目を丸くした。聖職者が自分達の持つ特権を批判することは珍しいからだ。
「はい。異端者も他の犯罪者も、兄上達が定めた法律を破ったという事実では、犯した罪の質というのは全く同じのはずです。それなのに、異端者達に対してはわざわざ別の裁判所を作り、彼らを別の名前で呼んで非難の対象に選び、国民達の要らぬ不信感と憎悪を掻き立てている……私にはそう思えるんです。人々の憎しみを悪戯に増大させることは、我が神バソリー様も間違っているとお考えになるはずですわ」
「うーん、どうでしょうか……」ラマンは即答を避けた。「実務を担当する者としましては、異端審問に関しては不便ということがとにかく重大で深刻ですね。全く異なる裁判所の為に全く異なる手続きを用意しなければなりませんし、異端審問所のほうはエブラーナにしか設置されていないため、判決を出すまでにえらく手間と時間が掛かってしまうのです。無くすべきかどうかは別問題ですし、私程度のヒラ官僚が決められる話ではございませんが、改善する余地は大きく残されていると存じます」
「ラマンさんらしくありませんね」スーザは寂しげに微笑んだ。「何かに遠慮したような言い方ですわ」
「異端審問制度を非難して異端審問に掛けられるのだけは御免ですからね」
 2人はひとしきり微笑んでいたが、やがて真顔に戻った。「ラマンさんや警視庁の皆様はどうお考えなのですか?」
「私や上司であるナヴィレント・ティヴェンス警視総監は、8人を誤って逮捕し、彼らが起訴されるのを見過ごすしかなかったことに対して深い罪の意識を抱いているのでございます。何の罪も無い人々を逮捕してしまい彼らを助けられなかったことに対して、そして自分達の不甲斐なさに対して……」
「分かりました」スーザは頷いた。「お気持ちは良く分かります。でも、今の私には『最大限の努力を惜しまないように』と助言してあげることができません。まだ、仮らが有罪になったと決まったわけではないのでしょう?」
「はい……確かにそうですが……」
「ならば、最後の最後まで努力を惜しまないことです。正しい目的の為に正しいことをなさる方を、バソリー様は決して見捨ては致しません。あなたが正しいと思ったことをして下さい。必ずや、神様もそれに報いて下さるでしょう。タンカード様や、タンカード神殿にお勤めになられている司祭の方々も、自分達の間違いに気付いて頂けるはずです。どうか悲観なさらないで。私も、逮捕されてしまった8人の方の無事を祈ることに致します」
「ありがとうございます」ラマン秘書官は深々と頭を下げた。

 ラマン秘書官が神殿を後にしてから、スーザは神殿の廊下をゆっくりと歩きながら、彼が話した警視庁とタンカード神殿の「罪」についてじっくりと考えた。
 ──8人の方が冤罪だとしたら、大急ぎで助けてあげないといけない……。でも、私は異端審問のことは詳しく知らないし、8人がこれからどうなってしまうのかも分からない……。どうにかしてあげなければいけないとは分かっているのに……。
 スーザは深々と溜息を吐き、窓から帝城の方角に目を向けた。
 ──お母様に話してみよう……。

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