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4999年3月11日 13:04
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

 ラマンからの報告を聞き、ティヴェンスは目を丸くした。「……待て、本当か?」
「はい」ラマンは頷いた。「閣下の御命令ということで、私の自宅のすぐ側にあるバソリー神殿に行きまして、司教でいらっしゃるスーザ様にお話したのです。私は閣下の御命令通りに動いたまでですが……?」
「……いや、それは分かっている。しかし……これほど簡単に高位の聖職者と接触できるとはな……」
 ティヴェンスはこの日の朝、ラマン秘書官や手の開いていた捜査官4人を集め、バソリー神殿に対して《7番街の楽園》での冤罪疑惑の情報を間接的に流すように指示した。具体的には、ラマン秘書官が行ったように、各神殿に出向いたものがバソリー神殿の司祭や司教と面会し、その中で告白と懺悔という形で情報を流すのであった。
 エルドール大陸で活動する各宗教の神殿には、「懺悔など信者の告白から知り得た秘密はできる限り公開してはならない。公開する場合も情報源は秘匿すること」という暗黙の掟が存在しており、これはバソリー神殿でも厳格に守られていた。ティヴェンスは、この暗黙の掟と、バソリー神殿の司祭達が持つ道徳心を「利用」する作戦に出たのである。暗黙の掟を破ったら自分の身が破滅するバソリー神殿の司祭達が、情報源を明かした上でこの話を外部に公表することだけは絶対にあり得ないのだ。しかし、情報をバソリー神殿に漏らした時、その話を聞いた聖職者の1人がシルクス帝国の皇族だったというのは、ティヴェンスは夢想だにしていなかったのである。
「……とりあえず、御苦労だった」
 ラマン秘書官は黙って一礼すると、静かに執務室を後にした。ドアが閉められ、室内にただ1人残されたティヴェンスは椅子から立ち上がり、窓に写る帝城の姿に視線を向けた。
 ──ステファナ様は動くだろうか?

4999年3月11日 21:48
シルクス帝国首都シルクス、帝城、バソリー神殿総本山、最高司祭執務室

 火竜タンカードと並ぶシルクス帝国の2大宗教の1つである氷竜バソリーを崇める神殿の総本山は、シルクス帝国の政治中枢である帝城の一角に建てられていた。4985年に公布されたドリシリアン勅令によってリマリック帝国の領土が5分割され、シルクスを首都とする西リマリック帝国が建国された時、シルクス郊外に設置されていた総本山を移設したものである。建物の落成は4988年、帝都シルクスに存在する石造建築物の中では最も新しい建物の1つとして数えられていた。厳重な警備が敷かれている帝城の中では、民間人の立ち入りが自由に行える数少ない場所の1つであったこともあり、総本山は連日多数の人が訪れていた。その大半は観光客か巡礼者であり、総本山で働く聖職者や職員の約半分は、これら外部からの訪問客への対応に追われていた。
 最高司祭であるステファナ・ルディス・テンペスタも、1日の多くを観光客との歓談や、2回行われる公開ミサでの演説に費やしていた。午後7時に観光客達が帝城から締め出されると、続いては最高司祭としての事務的な作業が彼女を待ち受けていた。かつてはこのスケジュールが苦にならなかったステファナも、今では目や肩の痛みを訴えることが多くなり、バソリー神殿が研究・栽培していた薬用ハーブを利用したハーブティーを飲む回数も増えていた。
 ──私も年老いたのかしら……。
 今年で48歳となるステファナは、午後10時から始まる儀式までの空き時間を使い、各地のバソリー神殿から届けられた報告書に目を通していた。老いが目立つようになった最近は特に、神聖魔法の使用能力では母を数段上回るスーザに儀式や祭祀の多くを任せ、自分は総本山やバソリー神殿全体の運営に力を注ぐようになったのである。午後10時からの儀式への参加は最高司祭としての義務であったため休むことはできなかったが、自分自身の疲労を少しでも少なくするため、儀式の下準備は全て司祭など下位の聖職者に任せていた。
 ──今日はこの次で最後だわ。
 ステファナはリマリックのバソリー神殿から届けられた2月の活動報告書にサインを書き加え、「既決」のラベルが張られた箱の中に入れた。「未決」の箱に最後まで残っていたのは繊維紙で作られた5番街の神殿からの報告書であった。作成日時は3月11日──今日となっていた。封筒として提出された書類の表面には蝋による封印が施されており、封印の横には赤インクで「機密文書」と警告が書き加えられていた。
 ──2月の活動報告書は届けられているはずだけど……一体何かしら?
 ステファナはペーパーナイフを手に取ると、慣れた手付きで蝋の封印を剥がし、封筒の中からスーザ・ルディス・テンペスタの直筆の手紙を取り出し、卓上ランプ(マジックアイテム)の側に広げた。

 前略 母上様

 3月6日にシルクス警視庁によって逮捕された《7番街の楽園》の従業員達のことは御存知でしょうか? タンカード教徒の男性によって摘発されたこの8人の方は、ナディール教団に参加していたという疑いが掛けられ逮捕されました。既に起訴されてしまい、エブラーナに護送中だとも聞き及んでいます。
 しかし、最近、神殿を訪れる人々の間に、「あの8人は冤罪だった」という良からぬ噂が流れ始めています。一介の聖職者であり、犯罪捜査や異端審問に関しては全くの素人である私には、人々の噂が本物であるかどうかは確認できません。ですが、もしもこの噂が本当だったとしたら、これは善を尊ぶバソリー様の教えに反する行為が行われていたことになり、見過ごせなくなるのではないでしょうか? バソリー様の敬虔な使途である私には、無実の人が苦しんでいる姿を無言で眺めるという真似はしたくありませんし、バソリー神殿の最高司祭であられる母上様にもそのように振舞って欲しくはありません。
 何とかして、無実の人達を救って差し上げる機会を作って上げられませんでしょうか? 無理なお願いかもしれませんが、どうかお願い致します。
 バソリー様の御加護が、母上様にもあらんことを。 草々

4999年3月11日 スーザ・ルディス・テンペスタ


 ──スーザも噂を耳にしたのね……。
 ステファナもこの噂を知っていた。11日の午後、帝都シルクスにあるバソリー神殿のうち3ヵ所から、「3月6日に逮捕された異端者達が冤罪ではないかという噂が流れている」という情報を相次いで受け取っていたのである。注意深い人間ならば、この情報がバソリー神殿にもたらされたタイミングを不審に感じる可能性も存在したが、彼女は異端審問で冤罪が発生したかもしれない事実に衝撃を受けており、ここまで頭を働かせることはできなかった。
 ステファナは手紙を畳み封筒の中に戻すと、執務机の1番上の引き出しに入れ、外から鍵を掛けた。この引出しは最高司祭ただ1人だけが鍵を持つことができる一種の金庫であり、別の者が無理して鍵を開けようと試みた場合、建物全体に警告音が鳴り響くという魔法性のトラップも仕掛けてあった。この引出しの中を調べることは最高司祭以外の者には不可能であった。
 ──これで一安心ね。
 目を擦って背伸びすると、側に置かれていたハーブティーのカップに手を伸ばした。ティーカップの中身はぬるくなっていたが、彼女はそれでも構わなかった。
 ──タンカード神殿が無理して《7番街の楽園》の従業員達を異端審問に掛けようとしているらしい……。本当なのかしら? もし本当だっら、これはかなり酷い話になるわね。だとしても、タンカード神殿がそれを素直に認めるようなことには絶対にならないはずだわ……。タンカード神殿も噂のことぐらいは知っているはずだけど……。
 ステファナは首を強く横に振った。
 ──まずは、冤罪の疑いがあるという情報の信憑性がどれほどのものなのか、まずはそこから調べてみないと話にならないわ。何とかして情報を聞き出さないといけないわね。警視庁の方を呼ぶべきなのか、それとも助祭達に聞きこみさせるのか……。儀式が終わってから考えたほうが良いかしら……?
 彼女は卓上のねじ巻き式時計に目を向けた。時計の長針は「11」を指していた。儀式開始までは後5分となっていることを確認すると、ステファナはゆっくりと立ち上がり、卓上ランプの光を消した。
 ──何にしても、儀式の後の「残業」が増えたことは確かだわ。

4999年3月12日 15:40
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

「よろしいでしょうか?」ドアの向こうからラマン秘書官の声が聞こえてきた。
「入ってくれ」
「失礼します」部屋に現れたラマンはドアをすぐに閉めると、足早に警視総監の机に近付いた。「火急の知らせがあります」
「何があった?」ティヴェンスは7番街での殺人事件の報告書から目を上げた。
「ステファナ様から御連絡です。明日──3月13日午後11時に、帝城内にあるバソリー神殿総本山までお越し願いたいとのことです。その際に、《7番街の楽園》で逮捕された8人の捜査に関する資料も持参してもらいたい、とのことです。また、この話し合いには宰相イシュタル・ナフカス様も参加されるそうです」
 警視総監の顔に笑みが広がった。「突破口が開いたな」
「その通りですね」ラマンも嬉しそうに頷いた。

4999年3月12日 17:01
シルクス帝国首都シルクス、1番街、大蔵省4階、大蔵大臣執務室

「──私からの報告は以上です」
 定例の報告を終えたウィリアム・フローズン財務部長は、手に持っていた書類をバーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣の執務机の上に置いた。大蔵大臣は書類に軽く目を通すと、書類を「既決」と書かれた箱の中に入れた。だが、その動きは緩慢としたものであり、大蔵大臣の顔からは表情が消えていた。
「大臣……」ウィリアムは心配そうに声を掛けた。
「……ああ、大丈夫だ」シュレーダーは抑揚の無い声で応えた。「迷惑を掛けているようだな。申し訳無い」
「いえ、そんなことはありません」
「そうか……」
「それよりも、閣下。昨日も申し上げましたが、休暇を取られるべきではありませんか? 仕事に対する使命感というものは私も理解できますが、御自身の健康と心を害されてまで仕事に励む必要は無いと思われます。大丈夫だとは仰いましたが、私の目にはとても大丈夫だとは写っておりません。せめて1日だけでも──」
 大蔵大臣は手を振ってウィリアムの進言を退けた。「君が心から心配してくれていることは理解している。……だが、私にとっては、仕事に打ち込むことこそがザールの件による重圧に耐える唯一の方法なのだ。気遣いはありがたいが……」
「そうですか……。息子さんの無事を心から祈っておりますよ」
「……ありがとう」
 ウィリアムは黙礼すると、大蔵大臣執務室から退出した。
 ──息子さんが早く見つかれば良いが……。
 執務室のドアを閉めてから、ウィリアムは深々と溜息を吐いた。
 7番街でダルクレント・パロスとエドバルト・ゼルス・ガートゥーンが殺害され、ザール・ボジェット・フォン・シュレーダーが行方不明になってから既に10日以上が経過していた。警視庁の必死の捜索にもかかわらず、ザールは未だに姿をあらわしていなかった。3月6日以降は、帝国内の主要都市全てにザールを捜索するための張り紙が張られ、7番街での殺人事件の唯一の生き残りを探す作業は帝国全土に広がっていた。警視庁が彼の身柄を確保しようと躍起になっているのは、彼が殺人事件の犯人を知っているはずだと考えられたからである。捜査官達は誰も口には出さなかったが、ザール自身が殺人犯だったという可能性も当然残されている。
 日常から口論をすることが多く、互いに相手を憎みあう間柄であったザールとバーゼルスタッドであるが、心の底では父親は息子を愛していたのである。その可愛い息子がいなくなり、その友人2人が死体となって発見されたと聞かされてからは、シュレーダー大蔵大臣は心因性の胃痛や頭痛に悩まされることが多くなった。5階の大会議室で定例会議が行われている時も、ウィリアムなど部下の報告がまるで耳に入らないかのような様子を見せ、秘書に注意されて我に返ることが多くなった。昼休みに地下1階の食堂に現れる時も注文はミルクティー1杯だけであり、かつてのように、大盛りの定食を平然と平らげる姿は影も形も無くなった。大臣本人は「大丈夫だ」と発言していたが、シュレーダー大蔵大臣の憔悴しきった姿を知っている大蔵省の職員達は、誰もこの言葉を信じていなかった。
 ──もし見つからなかった時は……引退に追い込まれるのだろうか……? できれば、シュレーダー卿にはもう少しは頑張ってもらいたいのだが……。
 大蔵省の下級官僚達の間では、「シュレーダー大蔵大臣が今月中に辞任する」という噂も流れ始めていた。この噂通りに事態が推移した場合、次の大蔵大臣にはアーサー・フォン・ランベス大蔵副大臣が就任すると見られていた。大蔵省のナンバー4に位置していたウィリアムは、横滑りする形で官房長に就任することになる。出世には違いないが、ウィリアムはこのことを歓迎する気持ちにはなれなかった。シュレーダー家の悲劇が出世の原因となるであろうことが彼の心を締め付けるだけでなく、ランベス大蔵副大臣と現在の官房長フェロヴィッチ・カリーニンが守旧派であり、党派性の強い人事異動が横行することは目に見えていたからである。大臣がまだ(形式上は)健在とされている現状においても、彼らは大臣の判断力不足を利用して、守旧派にとって明らかに有利な人事を既に1つ実現させており、ウィリアムを初めとする中立派の官僚達からは不興を、シュレーダーの手によって抜擢された改革派の官僚達からは激しい反感を買っていた。事務官として2人が有能であることは間違い無かったが、そのことは不興や不満を和らげることには繋がらなかった。
 ──あの2人の暴走を阻止しないと、大蔵省が権力抗争で破壊されてしまう。何とかせねばならんが、とりあえずは仕事の続きを片付けねば……。
 ウィリアムが階段のほうへ歩き出そうとした時、背後から聞きたくなかった声が掛かった。「財務部長?」
 ──あの男、執務室から出るのを待っていたのか……?
「何か?」ウィリアムは振り返り、声の主であるランベス枢機卿に訊ねた。
「どのような御用向きでしたか?」
 ウィリアムは冷静さを装いながら答えた。「4999年度予算案変更の報告でした。詳細は大臣にお訊ね下さい。書類も大臣のテーブルに置かれているはずです」
「分かりました」ランベスはつまらなさそうに応えた。「それはそうとして……大臣の御様子は?」
「元気がありません。前日よりも憔悴しています。今日も休暇を取るよう進言したのですが、受け入れられませんでした。これからお会いになるのでしたら、副大臣のほうからも休暇を取るよう具申して頂けませんか?」
「仰る通りですね」ランベスは頷いた。「今から大臣と面会しますので、その席で私からも申し上げましょう」
「お願い致します」ウィリアムは軽く頭を下げた。
「では」
 ランベスは会釈すると、大臣執務室のドアをノックせずに開け、無遠慮に部屋へ入って行った。その様子を見届けたウィリアムはドアを閉めると、深い溜息を吐き階段へ向けて再び歩き始めた。

4999年3月14日 00:03
シルクス帝国首都シルクス、帝城、バソリー神殿総本山、応接室

 ステファナ・ルディス・テンペスタ、イシュタル・ナフカス、ナヴィレント・ティヴェンスの3人による極秘会談は、バソリー神殿の夜の儀式が終了してから開始された。彼らは応接室の中央に詰まれた繊維紙の山──《7番街の楽園》の捜査資料と格闘し、眠気覚ましのために幾度と無くハーブティーをお代わりし、喧々諤々の論議を約2時間続けて、ようやく納得できる結論に辿り着いた。だが、この結論はティヴェンス達が予測していた通りであった。
「8人は無実だと考えるのが妥当ですね」
 ステファナの言葉に、イシュタルとティヴェンスは無言で頷いた。
「これで、今回の起訴が誤った判断であることは分かりました。それにしても、聞いていて気持ちの良い話ではありませんね。私達の国の重要機関の1つがこれほど重大な過ちを犯し、他の政府機関にはそれを救済する手段が残されていないとは……」
「はい」イシュタルは頷いた。「折を見つけて、バディル勅令に代わる異端審問制度の創設が必要になるかもしれません」
「ええ。……でも、今はそれよりも先に片付けるべきことがありますね」
「8人の救出ですね?」ティヴェンスが確認のために訊ねた。
「その通りです。私も協力致しましょう」
 ステファナの言葉を聞き、イシュタルとティヴェンスは顔を見合わせ、安堵の溜息を漏らした。これで、シルクス帝国の2大宗教組織の1つがティヴェンス達の味方に加わったのである。このことは、バディル勅令によってほぼ全ての世俗の機関から守られていた異端審問に対し、ティヴェンス達が介入する手段を得たことも意味している。
「ありがとうございます」ティヴェンスは深々と頭を下げた。イシュタルも彼に倣った。
「しかし、私達は何をすべきなのでしょうか?」
「内務省は手が出せません」イシュタルが答えた。「バディル勅令によって、異端審問に対する行政府側の介入は事実上禁止されています。皇帝陛下の御言葉1つで事態はどのようにも動きますが、ここで我々が陛下に対して異端審問への介入を具申したところで、タンカード神殿が反対するのは火を見るよりも明らかです。8人を逮捕する御命令を下された3月4日の定例閣議でも、皇帝陛下はタンカード神殿側の言い分を一方的に認めた感があるのです」
「それは始めて聞きましたわ」皇帝の母親は右手を頬に当て困った仕草を見せた。「ゲイリーは閣議のことはあまり話して下さらなかったものですから……」
「皇帝陛下がタンカード神殿側の言い分をお認めになられたのは、陛下がタンカード神殿の枢機卿の資格をお持ちになられていることが関係しているかもしれませんけどね……。話を戻させて頂きますが、異端審問に介入できないのは警視庁も同じでございます。こちらのほうは、法的に禁止されているだけではなく、捜査官がエブラーナに配置されていないという物理的な理由も存在しております。他の省庁が異端審問に介入できないのは説明するまでもないことだと思います」
「それですと、8人を直接救えるのは私達バソリー神殿だけですか……」
「仰る通りでございます」ティヴェンスが答えた。
「分かりました。私達の神殿からは4人が異端審問所に派遣されていますから、彼らには私が手紙でお伝えすることにしましょう。もしも必要ならば、更に直接的な圧力を加える心積もりで臨みましょう。他にするべきことはございますか?」
「異端審問所の事務方にも連絡しましょう」イシュタルが提案した。「どれほどの効果が上がるかは定かではありませんが、混乱することが予想される異端審問に備えるために、事前に警告を発しておくことは悪くないでしょう。幸い、現在の事務方のトップであるデスリム・フォン・ラプラス教授は、聡明かつ清廉な人柄として知られておりますから、8人にとって悪いようにはなさらないはずです。こちらは私が受け持ちます」
「大丈夫でしょうか?」ステファナが訊ねた。
「はい。私ではなく妹のテュッティに手紙を書いてもらうんです」イシュタルはここで声を落とした。「彼女がサロニアの六賢者の1人であることをお忘れでしたか?」
 宰相の意外な提案にステファナとティヴェンスは息をのんだ。
 「サロニアの六賢者」を説明するためには、35世紀前の事件を解説せねばならない。
 今から3000年以上も昔である新太陽暦1343年2月1日、頻発していた魔法技術の悪用に対応するため、エルドール大陸東部の保養地サロニアに、地球上のあらゆるところから大魔術師・大賢者が集められた。そして、彼らは数ヶ月にも及ぶ大討論の末、地球上における魔法文明の発展に対して一定の歯止めをかけることを決定し、同年9月1日にサロニア協約という史上最大規模の国際条約が成立した。後の歴史化からは「サロニア公会議」と呼ばれるようになる半年間の会議と、その成果であるサロニア協約によって、通信・情報分野での魔法開発は継続される一方、他の分野──特に魔法によるモンスター合成や時空操作など──における魔法開発には厳しい制限がかけられるようになった。これらの制限の加えられた分野に属する呪文──禁呪と呼ばれている──は、世界各地の魔術師ギルド内の最深部で厳重に封印され、ギルド長の管理下に置かれることになった。そして、これらの危険な呪文書の管理を総括する目的でサロニアに巨大図書館が建てられ、サロニアの六賢者の制度が創設されたのである。
 サロニアの六賢者の制度は、エルドール大陸におけるサロニア協約の履行を監視するために設置された制度である。サロニア市立図書館が、エルドール大陸において特に優秀だと認めた6人の学者に対して「●の賢者」という称号を与え、彼らに条約履行の監視を手伝わせるのである。この時、履行監視業務を円滑に進めるため、サロニア協約に参加している各国──エルドール大陸では全ての国家が参加している──には、この6人の大賢者に対して、身体の不可侵権や通信の秘密の保証、そしてサロニア協約に違反した個人に対する無制限の殺人ライセンスなど、国家元首と同等の法的特権を与えることが義務付けられた。
 テュッティ・ナフカスがサロニアの六賢者に選ばれたのは4986年12月。「理の賢者」の称号を持つ大賢者ジェシカ・ヘナトス・フレッチャーと共同で製作した論文で、金融に関する鋭い分析と準備金制度──「銀行の銀行」──の理論を提示できたことが認められ、弱冠25歳で「財の賢者」の称号を獲得したのである。
「妹に手紙を書いてもらいその中に私からの信書を同封するか、妹に事実経過を記した手紙を作ってもらうかすれば大丈夫です。テュッティが作った手紙はサロニアの六賢者のルールに従い、あらゆる国家権力による検閲を受けることがありませんし、受け取った側もその内容を秘匿して口外しないように求められればそれに従わざるを得ません」
「ラプラス教授は大丈夫でしょうか?」ティヴェンスが疑問を口にした。
「大丈夫です。彼はテュッティの次にサロニア市立図書館と親しい方ですから」
「……分かりました」ステファナはイシュタルのほうに向き直った。「では、書記室のほうへの御連絡は妹さんに全てお任せしますが、よろしいでしょうか?」
「承知致しました」イシュタルは恭しく頭を下げた。
「これで体制は整いましたな」書類を整理しながらティヴェンスが言った。
「その通りですわ」ステファナは頷いた。「しかし、8人を助け出さないと意味がありませんからね」
「それは承知しております。我々警視庁も全力を挙げて奮闘致します」
「心強いですわ。それにしても……」ステファナは言葉を切った。
「どうされました?」イシュタルが顔を近付けて訊ねる。
「タンカード神殿やジョンは何を考えているのでしょう? 今回のことが故意の無いただの過失だったら話は単純なのですが、お話を伺い資料を読ませて頂いた限りでは、私には今回の騒ぎが故意だと考えるほうが自然に思えるのです。そうなりますと、次に気になるのがその目的であり、動機なのです。ティヴェンスさんもお考えになったことはあるはずでしょう?」
「その通りでございます。ですが、情報不足のため、正確なところは全く分かりません。憶測でもよろしいのでしたら、私なりの考えを説明致しますが……?」
「是非ともお願いします」ステファナが体を前に乗り出した。ティヴェンスの横に座っていたイシュタル・ナフカスも、興味津々といった表情でティヴェンスの顔を見つめている。
 警視総監は軽く一息入れた後、口を開いた。「事件の真相が分からない時、私達捜査官はいつも2つのことを考えます。『事件の発生で得をしたのは誰か』と『得の中身は何か』……。この2つの観点から事件を見直せば、多くの事件の場合は解決への糸口が見えてくるのです。そこで、今回の《7番街の楽園》の事件をこの観点で洗い直すことにしましょう。まず、第1の問題である『事件の発生で得にしたのは誰か』ですが、この解答は極めて明白だと思われます」
「タンカード神殿ですね」イシュタルが言った。
「はい。《7番街の楽園》は7番街の中でも比較的人気のある酒場の1つでして、捜査資料によりますと経営状態も良好でした。借金を背負っていたという様子もありませんでしたし、その他のトラブルを抱えていた様子もありませんでした。逮捕直前に起きていた最も大きなトラブルは、逮捕された8人の中の1人であるフォルティア・クロザックが体調を崩していたことぐらいです。従業員・客と周辺住民の関係も親しかったようです。そして、彼らは今回の逮捕劇で様々な損害を蒙っています。ある者は失業し、またある者はお得意先の店を失い、別のある者は憩いの場を失った……。地域住民で今回の逮捕劇で得をした人は誰もいないのです。そうなると、最も得をしたのは8人の逮捕を強く指示しその起訴に着手したタンカード神殿になるのです。彼らが8人の起訴に執着したのも、そうせざるを得ない理由があったからに他なりませんし。ここまではよろしいですか?」ティヴェンスは言葉を切って2人の女性に目を向けた。
「続きをお願いします」ステファナが穏やかな口調で命令した。
「はい。では、第2の問題『何を得したのか』ですが、ここでは彼らの目的と動機を考えねばななりません」
「答えは見つかったのですか?」イシュタルが訊ねる。
「残念ながら……」ティヴェンスは首を横に振った。「ですが、ある程度は推測できています。恐らくは正解しているでしょう」
「何ですか?」ステファナが訊ねる。
「彼らの狙いは合法的な殺人の達成です」
 ティヴェンスの言葉を聞き、2人の女性の顔から血の気が引いていった。
「より正確にお話しますと、8人のうち誰かを殺す必要に迫られているのでしょう。8人のうち誰がそれに該当しているのか、私には分かりかねます。1人かもしれませんし8人全てかもしれません。ですから、目的の人物だけ殺すように仕向ければ、残りの人物は全員助けても良いと考えているかもしれません」
「しかし、どうしてその結論に至ったのです?」ステファナが訊ねる。
「その他の動機が全く考えられないからです。彼らが無理を押し通して8人の逮捕と異端審問に固執した理由として、8人の命以外の物が挙げられるとすれば、それは非常に非効率的なのです。例えば、あの《7番街の楽園》の誰かがひそかに大金を持っていて、それを奪い取りたかったのならば、異端審問で有罪判決が出て資産接収の措置が取られるのを待つよりも、国内にあるタンカード神殿に頼んで同額の金を別ルートで入手するほうが、はるかに迅速かつ安全なのです。その他にも、あの8人のうち誰かが重要な品物を持ち歩いており、それを強奪しようとして異端審問を利用したのだったならば、シルクスの盗賊ギルドに頼んで盗んでもらったほうが簡単なのです。……というように、彼らが財産を目当てに8人を狙うというのは非合理的であり、あり得ないものと考えても良いのです。だとすると、彼らの狙いは8人のうちの誰かの命としか考えられません。命を狙う理由までは分かりませんが」
「しかし、それでしたら暗殺者を雇っても同じでは──」イシュタルが反論した。
「そう。そこも重要なのです」
「え?」宰相は眉をひそめ、警視総監の説明を待った。
「暗殺者を雇ったほうが合理的に見える状況でその方法を選択しなかった──そのことは3つの可能性の存在を示していると私は思います。1つ目の可能性は、8人のうち誰かを暗殺者で殺そうとした作戦が既に失敗しており、タンカード神殿が異端審問の利用という新たな作戦を考えたというもの。2つ目の可能性は、8人を破滅させることを考え付いた人間の頭の中に『暗殺者の使用』という選択肢が欠落していた可能性です。タンカード神殿の教義の中には暗殺者の利用を否定する記述が存在されていますし、彼らの教義が基本的には戦争神マレバスに似ていて、勇敢かつ正々堂々とした戦いを推奨している点も考え合わせますと、この可能性が最も高いのではないかと思いますね」
「では、最後の可能性は?」ステファナが訊ねた。
 ティヴェンスは誰の目にも見えるように大きく息をしてから言った。「私や宰相閣下が説明申し上げた推論──8人に対する異端者の容疑は冤罪であるという意見が実は間違っているという可能性です。8人のうちの誰か──ひょっとしたら全員が本当に異端者であり、そのことを知ったタンカード神殿がこれに便乗する形で異端審問を利用したのかもしれません」
「だとすると……」イシュタルは呟いた。
「私達の努力は取り越し苦労だったことになります。それならそれで良いんですがね……」
 ティヴェンス溜息を吐いた。
 ──でも、最後の可能性は無いはずだ。

4999年3月16日 11:05
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド2階、異端審問所書記室

「ラプラスさん」
 マンフレートの声を聞き、ラプラスは机の上の書類から顔を上げた。「どうした?」
「【召喚魔法ペガサス】であなた宛の手紙が届いています。差出人は通産大臣です」マンフレートはテュッティ・ナフカスからの手紙をラプラスに手渡した。
「何があったのだろう?」ラプラスははさみで手紙の封を切り、中から繊維紙の手紙を取り出した。

デスリム・フォン・ラプラス様

 突然の御手紙で申し訳ありませんでした。しかし、教授が務めておられる異端審問所に関する重大な問題が浮上し、このことがシルクス帝国の国益に関係する可能性が極めて高いため、やむを得ず筆を取った次第であります。
 私がお話したいのは、3月6日に逮捕された《7番街の楽園》の従業員達に関する話でございます。彼らが既に起訴され、現在はエブラーナに向けて護送中であることは、教授もご存知のことだと思われます。ところが、この8人に対して冤罪の可能性が浮上してきたのです。詳しいことは後発の手紙でお知らせしますが、シルクス警視庁、内務省、バソリー神殿の間では、以下の事実を理由にして、8人が冤罪である可能性が高いと結論付けました。

●告発人の全てがタンカード神殿に所属または関係していたこと
●書類手続きにおいて、通常のタンカード神殿では考えられないような瑕疵が見られたこと
●上記の内容を指摘して警視庁が摘発を渋っていたところ、タンカード神殿側から政治的圧力が掛けられたこと
●《7番街の楽園》周辺の聞きこみ調査では、8人が有罪だと判断するに足る証言は1つも得られなかったこと

 タンカード神殿側に何が発生したのかは全く分かりません。単に書類手続きが珍しく杜撰だったのかもしれませんし、彼らが8人の殺害を意図して冤罪を仕組んだのかもしれません。しかし、いずれにせよ、この8人は異端審問に掛けられるべきではない人物であり、起訴と異端審問所への送致は間違った判断であると信ずるものであります。
 そこで、ラプラス教授にお願いがあります。教授のお力添えを以って、異端審問所で8人に対する正当な審理が行われるようにして頂きたいのです。彼らは無罪である可能性が高く、正当な審理が行われれば彼らが無罪であることは必ずや立証されるものと信じております。我々が8人の釈放のために尽力できるのならばそうしたいところなのですが、我々には「バディル勅令」という名前の足枷が存在し、思うような行動が取れないのが現実であり、教授のように異端審問所の内部で働いておられる方々のお力がどうしても不可欠なのです。無理なお願いだとは重々承知しておりますが、何卒よろしくお願い致します。
 最後になりましたが、異端審問所書記室の皆様の御健康と御活躍を祈りつつ、筆を置きたいと思います。
 乱筆乱文の程はどうか御容赦下さい。

4999年3月15日 「財の賢者」テュッティ・ナフカス


 追記 手紙の内容はできる限り秘密にして下さい。


 ──8人を無罪にするよう行動しろという命令か……。厄介な話だな……。
「何だったんです?」マンフレートがラプラスの表情を観察しながら訊ねた。
「公用の手紙だったぞ」書記室長はそれだけしか言わなかった。

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