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4999年3月17日 07:30
シルクス帝国首都シルクス、北西大通り

 7番街での聞き込み調査を担当していたニベル・カルナス警部補は、部下2人を引き連れて、荷馬車と人で溢れかえっている北西大通り(7番街と8番街を分割する通り)を、北西の端──帝城から離れる方向──に向かって歩いていた。その服装は道を歩いている人々と全く変わるところは無かったが、腰にはシルクス警視庁の紋章が刻まれたブロードソードを下げており、そのことに気付いた通行人のうち数人は警部補達に朝の挨拶を送っていた。3人も微笑みながら挨拶を返していたのだが、彼らの実際の心境はとても微笑むことはできない状態であった。
 ──「迷宮入り」するのか……?
 カルナス警部補の頭の中には、事件が一向に解決しないことへの焦りと苛立ちと不安が募っていた。連続女性失踪事件の聞き込み調査を始めてから既に1ヶ月が経過し、3人は7番街のありとあらゆるところで聞き込み調査を一通り行った。しかし、事件を決定的に動かすような情報は得られていなかったのである。倉庫街の某所に女性達が監禁されていることはほぼ確実となっていたが、どの倉庫に捕まっているのかは全く特定できていなかった。また、7番街のアパート4階に存在が噂された犯人グループの集合場所を監視していた捜査官達からは、「何も起きていない」という返事だけが届く日々であった。事件の突破口の1つになると思われていた喘息の特効薬フェールスマイゼンの調査も、フラマリス・ソロン博士のもとに怪しい中年男性が現れなくなったため、完全に行き詰まってしまったのである。
 ──犯人を捕まえたいのは山々だが、情報が足りんな……。
 警部補が小さく溜息を吐いた時、隣を歩いていたリデル・ベント巡査が彼の肩を突ついた。「見て下さい」
「何をだ?」カルナス警部補は立ち止まって後ろを振り向いた。
「あの人物です」ベントは人込みの中を右に横断している男性を指差した。コートの襟を立てているため上唇から下の顔は完全に隠されていたが、警部補の見た感じでは20歳代後半だろうと思われた。
「寒がりの男に見えるが……そいつがどうした?」
「ザール・シュレーダーじゃありませんか? 今失踪中の」
「大蔵大臣の次男か?」カルナスは目を細めながら男性を観察した。「話は聞いていたが、顔までは詳しく覚えなかったからな。今の俺には本物かとどうか──」
 警部補の言葉が終わらないうちに、問題の若い男性が警視庁の捜査官達の存在に気付き3人を一瞥した。そして、また正面を向き直ると、気付く前よりも速い足取りで8番街のほうへ歩き始めた。
「気付かれたか」カルナスは小声で毒づいた。
「どうします?」ザールを発見しなかった捜査官が訊ねた。
「事情聴取は後回しだ」カルナスは質問者に顔を向けた。「お前は警視庁に戻って報告しろ。俺達はザールと思われる男の後を追うぞ。本物じゃなくても、挙動不審でしょっ引いてやるからな」

4999年3月17日 08:04
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監秘書室

 キロス・ラマン秘書官の警視庁での仕事は、彼の直属の上司であるナヴィレント・ティヴェンスが警視庁に到着する時間──午前9時の1時間前から始められていた。彼が最初に取りかかる仕事は、警視総監執務室の隣に設けられている彼のオフィスで、警視総監の退庁中に発生した事件や、既に発生した事件の捜査で判明した新事実などを再整理し、午前9時に登庁する警視総監に対して報告するための準備をすることであった。この報告書には、シルクス帝国やエルドール大陸各地で発生している重大な事件も添えられることがあったが、内容の大半は帝都シルクスの中で発生した事件とその続報・捜査状況が占めていた。
 ラマンは机の上に並べられた繊維紙に目を通しながら、重大な事件が起きていないことと、捜査中の事件に進展が無いことを確認していた。3月17日の朝は何事も無く平和に始まろうとしていた。
 ──今日は特に情報は無しか……。それは良いことだ。
 ラマンが繊維紙の書類を一所にまとめようとした時、秘書室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」秘書室のドアを開けて部屋に現れたのは、宿直の男性事務官であった。「報告があります。7番街で連続女性失踪事件の聞き込み調査を行っていた捜査官達が、行方不明となっていたザール・シュレーダーを発見しました」
 ラマンの体に緊張が走った。「現在の状況は?」
「聞き込みを行っていた捜査官3名のうち2名が追跡を続けています。現場からの報告によりますと、ザールは警視庁の捜査官達を避けて8番街の中に入ったため身柄確保には時間が掛かる模様、ということです」
「ありがとう。新しい情報が入ったら知らせてくれ」
「分かりました。では」
 宿直が秘書室から退出したのを確認してから、ラマンは机から通信用クリスタルを取り出し、早口でコマンドワードを唱え起動させた。透明なクリスタルの中にティヴェンス邸のダイニングルームの様子が映し出される。数秒後、クリスタルの景色が動き、朝食中のティヴェンスの姿が現れた。
「急用だな?」警視総監は不機嫌そうな表情で訊ねた。
「はい。ザール・シュレーダーの生存を確認しました」
「本当か?」警視総監の声が大きくなる。
「現在の居場所は8番街の模様です。ザールの姿を発見した捜査官2名が彼を追跡していますが、ザールのほうは我々に保護を求めずに移動を続けています。……何か指示を出されますか?」
「8番街で聞き込み捜査を行っている捜査官達に指示は出せるか?」
「それは難しいと思います。彼らの大半は既に現地で聞き込み活動を開始しており、午後になるまで警視庁には戻って来ないことになっています。ですから、今すぐに彼らをザールの追跡に参加させることは無理でしょう。警視庁に残っている者で対処させましょうか?」
 ティヴェンスは数秒間沈黙した後に首を横に振った。「いや。しばらくは現地の捜査官に任せよう」
「承知致しました」
「私も今すぐ警視庁に向かう」
 ティヴェンスが椅子から立ち上がった次の瞬間、通信用クリスタルに映し出されていたティヴェンス邸の映像が消えた。

4999年3月17日 08:12
シルクス帝国首都シルクス、8番街

 8番街の路地を歩いていたデニム達は、前方から早足で移動してくる若い男性の姿に気が付いた。男性は薄手のコートの襟を立て、しきりに辺りを何度も見回していた。手は両方ともコートのポケットの中に突っ込まれたままとなっている。
「誰でしょう?」デニムが男性の様子を眺めながら小声で言った。
「挙動不審の人間には違いないな」サーレントも小声で応じた。
「ええ。取り合えず質問してみましょう」
「任せたわよ」
 背中にセントラーザからの声援を受け、デニムは問題の若い男性のほうに近寄った。デニムの姿を認めた男性はその場で立ち止まり、不信感を隠さない表情をデニムに向けていた。ポケットの中から手を出す様子も無い。
 ──今日は結構暖かいのに、なぜこんな格好をしているんだ?
「どうされました?」デニムは内心の疑問と不信感を悟られないように注意しながら声を掛けた。「捜し物ですか?」
「……ええ、まあ」男は躊躇いがちに頷いた。
「せっかくでしたら、手伝って差し上げてもよろしいのですが?」デニムはそう言いながら男性の顔を覗き込んだ。
 ──この顔……どこかで見たことがある……。
「いいえ、結構です」男はそう言ってデニムの脇を通り抜けようとした。
 ──そうだ! 思い出した! こいつは行方不明になっていた大蔵大臣の次男だ!
「ちょっと待って」デニムは左手を伸ばして男の動きを制した。「あなたはザール・シュレーダーさんでは?」
「……御用件は?」言い草は丁寧だった男の声には明白な敵意がこめられていた。
「シルクス警視庁があなたのことを探しています」
「それで? 私をどうするんです?」
「『それで』って……」デニムは一瞬だけ返答に窮した。「そりゃあ、私と一緒に──」
 デニムの言葉が終わらないうちに、離れて様子を観察していたサーレントが唐突に大声を上げた。「デニム、離れろ!」
「え──」突然の指示に驚いたデニムはサーレントのほうを向いた。
 だが、この一瞬の隙が事態を悪化させてしまう。デニムが背後を向いた隙を突いて、ザール(と思われている男性)の左手がポケットの外に現れ、デニムの体を目掛けて素早く動いた。次の瞬間、デニムの右脇腹に激しい痛みが走る。
「ぐ……」デニムは痛みにあえぎながら目を下に下ろした。ザール(仮)の左手には、柄までがデニムの血で赤く染まった刃渡り10cmほどの小型ナイフが握られていた。「どうして……僕を……」
「邪魔だ」
 ザール(仮)はそれだけ言うと、痛みのあまり抵抗力が失われているデニムを跳ね除けて、サーレントとセントラーザとは反対側の方角へ駆け出した。突然の出来事に一瞬だけ我を忘れて硬直していた2人も、ザール(仮)が逃げ出したと知るや慌てて動き始めた。サーレントは腰から下げている官給品のブロードソードを走りながら抜き、セントラーザのほうは痛みに喘ぐデニムのもとへ駆け寄った。
「大丈夫!?」セントラーザはポケットからハンカチを取り出し、デニムの右脇腹に押し当てようとした。
 デニムは右手で傷口を抑えながら呪文を唱えた。「……傷よ……癒えよ!」
 彼のズボンのポケットから淡い緑色の光が漏れ出す。やがて、緑色の光は音も無く静かに全身を包み込み、右脇腹の傷口は10秒ほどの時間で癒された。服は破けた上に血で汚されていたが、血の染みが広がる様子は見られなかった。
「これで大丈夫……だと思う」デニムはゆっくりと立ち上がりながら言った。
「本当にそうなの?」セントラーザは心配そうに訊ねる。
「傷は深くなかったし、毒も塗られてなかった。彼が使ったナイフもとても小さかったからね。……多分、僕を怯ませるために刺したんだろう。殺す気はさらさら無かったと思うよ」
「良かった、デニムが無事で……。でも、彼は逃げた──あ! そうよ!」セントラーザは路地の先を指差した。「サーレントさんを追わなきゃ!」
「頼む。僕は少し遅れるから」デニムの左脇腹には少し痛みが残っていた。
「じゃあ、ここで待っててね!」セントラーザはレイピアを抜くと、サーレントの後を追って走り始めた。

4999年3月17日 08:14
シルクス帝国首都シルクス、8番街

 北西大通りからザール(仮)の追跡を続けていたニベル・カルナス警部補とリデル・ベント巡査は、8番街の中を闇雲に走り回っていた。ザール(仮)は8番街に入った直後に全速力で走り出し、対応が遅れた2人を完全に振り切ったのである。追う側にとって具合が悪かったのは、ザール(仮)が逃げ込んだ先は貧民街に位置し、路地が迷路のように複雑に入り組んでいたのである。ザール(仮)にとっては無限に近い逃げ場を確保できたことになる。
「どこに消えた……」カルナスと部下は交差点で立ち止まり、辺りを見回した。
「(ハアハア)……5択ですよ……」ベント巡査が息を切らしながら応えた。
「道が6本交差するなんて……ふざけてる……」カルナス警部補はこの街を作り上げた人間を恨みたくなった。「……もっと計画的に作れなかったのか……」
「そんなことより、どれにします?」
 カルナス警部補は無言で交差点から伸びる6本の道を見渡した。その時、彼らが入ってきた方角から見て左前方に伸びていた路地に2人の人影が現れた。そのうちの1人はコートを羽織り、残る1人は武器を振り上げてその後を追いかけている。警部補はコートの男を見て勝利への確信を得た。
 ──挟み撃ちにできるな。
「こっちだ!」カルナスは叫ぶと、左前方への路地へ駆け込んだ。
 進路上に邪魔が現れたことを知ったザール(仮)は、僅かばかり前屈みになった姿勢を取ると、速度を落とさずに警部補へ近付いてきた。その姿を目にした警部補の脳裏に一抹の不安がよぎる。
 ──武器を構えているのか?
 カルナスは腰に下げていたブロードソードを抜いた。その様子を見たリデル・ベントは懐に手を突っ込んで銀系統呪文の魔法発動体を握り締めた。その様子を確認したザール(仮)は慌てて立ち止まり、前方の警部補と後方からの追跡者──サーレントを交互に見遣った。
「どうして逃げたんです!?」ブロードソードを構えたニベル・カルナスが訊ねる。「やましいこと──」
「やましい!?」サーレントが彼の言葉を遮った。「奴は俺の大切な部下を刺したんだぞ! 立派な犯罪者じゃないか! ここで逮捕してやる!」
「しかし、手荒な真似はしないほうが──」ベント巡査が言った。
「相手が大蔵大臣の息子だからか!? そんなこと知ったことか!」サーレントは一喝した。「誰だろうと遠慮するな! 犯罪者の身分など一切構うな!」
 サーレントの説教が続いている間に、彼の隣にセントラーザが現れた。「彼は無事です」
「それは良かった」サーレントは頷いた。「とりあえず、こいつを傷害と公務執行妨害で逮捕するぞ」
「さあ、とっとと降伏するんだ!」カルナスが叫んだ。
 ザール(仮)は首を横に振ると、コートの下から抜き身のシミターを取り出した。そして、叫び声を上げながらカルナス警部補のほうへ駆け出した。それを見たカルナスも叫び声を上げると、駆け寄ってくるザール(仮)に向かって走り出した。そして、勢い良くブロードソードをザール(仮)の頭上に振り下ろそうとした。だが、ザール(仮)はカルナスが近付くのを見て速度を落とすと、彼の一撃を左側にステップして回避し、再び前へ駆け出した。剣の振り下ろしの動作が大き過ぎたため、カルナス警部補はザール(仮)の突進を食い止めることができなかった。
「まずい!」危険を悟ったサーレントが大急ぎで走り出した。しかし、彼が事態を変えることは距離的に不可能であった。
 ザール(仮)の接近を知ったベントは慌てて呪文の詠唱を開始した。「氷の──」
 その様子を見たセントラーザは絶叫に近い声を上げた。「逃げて!」
 ベント巡査はサーレントの忠告に従わなかった。「──覇者よ、汝の力で敵をつらぬ──」
 呪文が完成する直前──おそらくはゼロコンマ数秒の差──に、ザール(仮)は右手に握られたシミターの刃で、無防備だったリデル・ベントの胸を大きく切り裂いた。ザール(仮)は事態の進行を見守っていた野次馬の市民の間に飛び込むと、血塗られた小型ナイフ──デニムに怪我を負わせた物──とシミター、そして返り血を浴びたコートを走りながら投げ捨て、路地の1つへ逃げ去った。
「待て!」
「貴様! 許さん!」
 サーレントとカルナス警部補は集まりつつあった野次馬を掻き分けて、ザール(仮)の後を追って行った。残されたセントラーザは倒れたベントの側に座り、彼の傷口を止血しようとした。だが、ザール(仮)のシミターの一撃は彼の右心室と右心房、右肺に致命傷を与えていた。
「しっかりして!」彼女はリデル・ベントの手を握った。
「あ……セン……ラー……か…………」
「大丈夫! しゃべらないで!」彼女は手に持っていたハンカチで傷口を押さえた。だが、血圧の低下に対処しようとして心臓が鼓動するたびに、より多くの血が胸から溢れ出て、生命維持に必要な血液が更に失われていく。セントラーザの持っていたハンカチと彼女の手は真っ赤に染まっていた。
「……妻……こど…………たの……む…………」次の瞬間、セントラーザが握っていた男の手から力が抜け、頭が大きく傾いた。
「ねえ……しっかりして! まだ寝るのには早過ぎるのよ! 起きて……ねえ…………」
 彼女は心臓が停止したベント巡査の体を揺すった。だが、反応は無い。やがて、目の前で起きた現実を理解したセントラーザは、開いたままだった男の目に手を添え、静かに優しくまぶたを下ろしてあげた。
 デニムが痛みから回復し、殺人事件の現場となった交差点に表れたのはこの時であった。
「道を開けてくれ!」デニムは集まりつつあった野次馬の間を抜け、セントラーザとその側で倒れている男性に駆け寄った。「大丈夫──」
 セントラーザは故人となった男の顔を見つめた後、無言で首を横に振った。その虚ろな顔からは一切の感情が消えていた──デニムの目にはそう写っていた。

4999年3月17日 10:15
シルクス帝国領エブラーナ、ゾルトス神殿、神殿長執務室前の廊下

 マンフレート・セルシュ・ブレーメンは、ゾルトス神殿に到着してからのラプラスの態度がおかしいことに気付いた。常に冷静沈着であり、口では弱音を吐いたとしてもそれを身振りとして外に出さない普段の態度とは異なり、ラプラスは明らかに落ち着きを失いそわそわしていた。
「どうしたんです?」マンフレートは意を決して訊ねた。
「……ん? ああ……別に何も無いが」
「あなたの態度、いつもとは全然違います。まるで、子供が産まれるのを待つ父親のようですよ」
「まあな……」ラプラスは渋々認めた。「久し振りだからな……」
「何がです?」
「それは──」
 ラプラスが答えようとした時、執務室の扉が内側から開かれた。「どうぞお入り下さい」
 若い司祭の案内に従って2人が通された部屋では、ラプラスとほぼ同年代の女性が立っていた。ラプラスは彼女の姿を見て思わず声を上げていた。「あっ……」
 キャサリン・グリーノック司教もラプラスのことに気付いた。「ひょっとして……ラプラスさん?」
「ええ。あなたは……子供の頃、レミーゼ村に住んでいましたね?」
「そう!」キャサリンの顔に笑みが広がった。「今でも覚えてるわよ、昔のこと」
「懐かしいな!」ラプラスの顔にも笑みが広がった。そして、室内に足を踏み入れると、キャシーの手を堅く握り締めた。「久し振りだな、キャシー」
「本当だわ。……ねえ、昔みたいに思い切り抱いてもいいのよ」
「『観客』がいない所でなら構わないけどな」ラプラスはそう言って、部屋の端のほうで微笑みながら2人の再会を眺めているマンフレートとプロヴァンヌ司祭を見遣った。「それに、残念だけど、昔話は別の時間にしたいんだ。今日はレミーゼ村に住んでいた1人の少年としてではなく、異端審問所書記室長としてここを訪れたから、もうそろそろ仕事の話を始めたいけど……いいかな?」
「ええ、いいわよ」
 2人は握っていた手を離すと、残りの2人と共に、執務室に置かれていた応接用のソファに向かい合うようにして腰を下ろした。「では、始めてもいいけど……用件って何なの?」
「単刀直入に話そう。君の力が必要なんだ。助けてくれないか」
「私の力……って、異端審問所の裁判官になってくれってことなの?」
「はい、その通りです」ラプラスの隣に座っていたマンフレートが頷いた。
「その話は以前に断ったはずだわ。ゾルトス神殿の伝統ということで、異端審問制度には介入しないことになっているの。あなた達の邪魔はしないけど協力もしない──これが私達の神殿のスタイルなの。他の裁判ならともかく、起訴する側と裁く側が完全に重なっていることが問題だと、私が司教になった時もそう説明したはずだわ」
「その話は理解している」ラプラスは頷いた。「でも、今回ばかりはそうも言ってられなくなった。8人の人間を助けることができるかもしれないんだ。そのためには、キャシー、君の助力が不可欠なんだ」
「『8人の人間を助ける』って言ったけど、何があったの?」
 ラプラスは《7番街の楽園》で逮捕された8人に関する一連の騒動を説明した。15分掛かったラプラスの説明には、テュッティ・ナフカス通産大臣から送られてきた手紙の情報も含まれていた。話を聞き終わると、キャサリンは男達だけに聞こえるほどの小さな声で言った。「嫌な話ね」
「不愉快なのは我々も一緒だ」ラプラスが言った隣でマンフレートが頷いた。「だから、キャシーに改めてお願いしてるんだ。異端審問所の裁判官として、今回の事件の審理に加わって欲しい。タンカード神殿とバソリー神殿の無用な対立を避けるためにも、政治的に最も中立的であるゾルトス神殿の協力が欠かせないんだ。今回の事件だけでもいいから、やってくれないか?」
「もし私がやらなかったらどうなるの?」
「君が協力しなかったら? 悲惨なことになる」ラプラスは一旦間を置いてから言葉を続けた。「今のままだと、あの8人は牢屋の中で飢え死にを待つか、街中に作られた火刑台で消し炭になる運命しか残されていない。どちらにしても、彼らは社会に復帰できないまま死んでしまう。彼らに冤罪の可能性が強く存在する以上、彼らにはできる限りのことをしてやらねばならない。……それに、タンカード神殿とバソリー神殿の間に発生した亀裂が深くなってしまい、最悪の場合、建国早々のシルクス帝国が分裂しかねない事態にもなる」
 ラプラスの言葉を聞き、キャサリンとプロヴァンヌの顔からは血の気が引いていった。
「ちょっと」マンフレートがラプラスのほうを向いた。「『分裂する』は言い過ぎじゃないですか?」
「私の言い過ぎで済めば良いけどな。だが、今のまま事件と裁判が進むのを放置したら、8人がゾーリア裁判長の判断で死刑にされてしまい、8人の冤罪を叫びんでいたバソリー神殿と改革派が大きく面目を潰されるか、エブラーナで発生した対立がシルクスに飛び火して政界が大混乱に陥り、判決が下されるのが大幅に遅れてしまうかのどちらかになってしまう。このような政治的混乱に、建国1年目の我が国が耐えられると思うか? 皇帝陛下とその御兄弟の御威光で事件が解決できると希望を抱くことも今回は無理だ。今回の事件に限って言えば、皇帝陛下は政治的中立性を捨ててタンカード神殿側に参加される可能性がある。始めから、皇帝御一家の中でさえ御意見が対立しているような事案なのだぞ」
「他の神殿には頼れなかったの?」
 ラプラスの代わりにマンフレートが答えた。「バディル勅令の規定で禁止されています。たとえ、勅令を変えて他神殿からの登用を認めたところで、タンカード神殿とバソリー神殿のどちらかが口実を作って反対してしまいます」
 プロヴァンヌが溜息交じりに言った。「そして、残るのが我々ゾルトス神殿だけだったのですか……」
「そう。だから、キャシーの力が必要なんだ。限りなく政治的に中立的で、6人と同等の宗教的権威を持つ人間が、自らの良心と法と真実のみに従って判断を下すこと。最も小さな被害で事態を解決できる方法はこれだけだ。仕事で分からないところがある場合は、私が教えるから心配無いし、異端審問所の裁判官である6人の司教と4人の司祭達も、ゾルトス神殿に属するキャシーが来ることには賛成している」
 10人の賛同が得られたことは奇跡に近いことであったが、ラプラスはそれには触れなかった。だが、彼らを説得する時には、いずれも「あなたがシルクス帝国に害を為していると考えられても良いのですか?」という言葉が殺し文句となり、ラプラスの提案は無事に受け入れられたのである。
「でも、神殿の伝統は無視することになるわね……」
「そう。だから、今回は特別に無理を言って頼んでいるんだ。それに、今回は特殊なケースだし、求められているのは完全な政治的中立性だから問題無いはずだ。君が自分の良心に従い、自分の感じるように発言し行動すれば大丈夫だ。サロニアの総本山も今回ばかりは納得してくれるだろう。……とにかく、8人の命と帝国の平和が掛かっているんだ。無理難題を無理に押し付けることになったことは承知しているけど、君に頼るしかなかったんだ。人助けだと思って手伝ってくれ、頼む!」ラプラスは両手をテーブルについて頭を下げた。
「……分かったわ」
「受け入れてくれるかい?」ラプラスは顔を上げて訊ねた。
「頭と口では勝てないのは30年前と一緒だわ」キャサリンは微笑むと、隣に座る若い司祭のほうに顔を向けた。「じゃあ、明日からは鐘の管理の一部をあなたに任せることになるけど、いいかしら? 私は『丘の上』で仕事だから」
「分かりました」プロヴァンヌ司祭は頷いた。

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