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4999年3月22日 06:44
シルクス帝国首都シルクス、7番街、鮮魚市場東側の食堂街

 7番街の西端に位置していたシルクスの鮮魚市場は、毎朝午前4時から動き始めていた。前日から続けていた漁で釣り上げた新鮮な魚を持ち帰る漁師達と、彼らからより新鮮な魚を買い入れようとてぐすね引いて待っている魚屋達と、翌日の朝に売り捌く魚を釣り上げるべく出港の用意をする漁師達が、ランタンと松明で照らし出され、朝日が差し込み始めていた巨大な屋根の下を慌しく掛け回っていた。各所では既に魚の競りが始められており、市場は忙しさのピークを迎えていた。
 忙しいのは魚屋と漁師達だけでは無かった。鮮魚市場のすぐ東側に立てられている食堂街では、鮮魚市場で働く人々の胃袋を満足させるべく、店員達が午前7時の一斉開店時刻──一種のカルテルが成立していた──に向けて料理の準備に追われていた。彼らは他の魚屋よりも一足早く漁師達から魚を買い入れ、店に持ち帰るや否やすぐに、新鮮な魚料理を港で働く人々に食べさせるべく奮戦を開始していた。
 そんな食堂街の一角に位置していた食堂《大漁》で働くロディン・ファーラムは、店主からの指示で、仕込みの段階で出た多数の生ゴミを処分すべく、手押し車を押しながら7番街の一角に位置していた生ゴミ置き場へと向かった。主人の指示であるとはいえ、彼はこのゴミ運搬を嫌っていた。
 ──あそこは臭ぇからな……。
 公営のゴミ処理サイクルが存在していないエルドール大陸の各都市では、家庭などから出された生ゴミは、街の各所に配置された生ゴミ置き場に捨てられ、後になって農家がゴミを有償で引き取り肥料として再利用するシステムが確立していた。ロディン達が利用するゴミ捨て場は、7番街のすぐ隣に位置している小さな村が2日に1回、午前7時に生ゴミを回収するように決められており、彼がゴミを捨てに行く午前6時とは、ゴミが山積みにされ異臭を放ち始めている厄介な時間帯であった。服に染み込んだ異臭は簡単に落とせるものではなく、7番街のとある酒場で働く女性とのデートをこの日の正午に控えていた彼にとって、この異臭はデートの正否を左右しかねない大問題であった。
 ──こいつを捨てたら走って逃げよ……。
 心の中で愚痴をこぼしている彼の目に、目的地であるゴミ捨て場が入った。彼は目一杯走ってゴミ捨て場の正面に着くと、手馴れた手付きでゴミ捨て場のゴミの山に向かってゴミを投げ捨てようとした。だが、彼はゴミの山の中からいつもとは異なる異臭を感じ取ると、ゴミの入っていた籠の手を慌てて止めた。魚の発する独特の匂いとは全く異なる匂いであった。その正体が何であるかは分からなかったが、そのことは彼にとっては重要ではなかった。
 ──この異臭……魚の匂いじゃねえな……。何が捨ててあるんだ……?
 不審に感じたロディンは籠を地面に下ろすと、慎重な手付きでゴミ山の表面に触ろうとした。彼はゴミの山を慎重に手で探っていたが、問題の異臭の発生源はゴミの山の「裏側」であることに気が付いた。
 ──何があるんだ……?
 ロディンはゴミ山の縁を回って裏側に目を向けた。そこで見た光景に彼は驚愕し、目と口を大きく開いた。
「に、人間の死体だ!」

4999年3月22日 07:55
シルクス帝国首都シルクス、7番街、鮮魚市場東側、死体発見現場

 デニム・イングラス達3人が鮮魚市場での殺人現場に到着したのは、事件発覚後1時間が経過してからだった。本来ならば8番街に向かう予定であった3人であるが、捜査指揮官であるビューロー警視からの指示を受け、急遽7番街への現場へと向かわされたのである。
 3人が到着した時には、既に現場はシルクス警視庁の警官によって封鎖され、封鎖線の外には多数の野次馬が詰め掛けていた。デニム達は野次馬を掻き分けて封鎖線の内側に入ると、現場に先に到着していたニベル・カルナス警部補と簡単な敬礼を交わした。
「またもや敗北だ」カルナス警部補の声は沈んでいた。
「敗北って、どうしたんです?」セントラーザが訊ねた。
「今朝、ここで女性2人の死体が見つかった。正確なところは分からないが、我々が調べたところでは、この死体達はどうも連続女性失踪事件の被害者であるエレハイム・カッセルとソフィア・カッセルである可能性が極めて高いのだ」
「死体を見せてもらえるか?」サーレントが訊ねた。
「別に構わないが、酷い有様だぞ」
 3人はカルナスの誘導で死体が安置されている場所へと向かった。女性達の死体は毛布の麻布によって包まれていたが、カルナスは慎重な手付きでその顔の部分だけを捲り上げた。その顔は複数の殴打の跡が見られ、目の周囲など数カ所は内出血のためか黒く変色していた。しかし、血液の就下(死後に血液が重力に従って下へ移動する現象)のためか、その顔からは血の気が消えているように見えた。
「こいつが被害者だ」
「間違い無いですね」3人を代表してデニムが言った。「彼女はエレハイム・カッセルです」
「そうだろうと思っていたが、念の為に聞きたかったんだ」カルナスは麻布を元通りに戻して彼女の顔を隠した。「これで、連続女性失踪事件で初めての死者が出たことになる。警視庁の失点が増えたことになるわけだ」
「犯人が逮捕できれば挽回できるがね」サーレントが口を挟んだ。
「そういうことだ」カルナスは頷いた。
 セントラーザが口を挟んだ。「ところで、どういう状態で見つかったんです?」
「ロディン・ファーラムという男が第1発見者だ。近くにある《大漁》のアルバイトとして雇われていた彼が、主人の指示でここに生ゴミを捨てようとした時に、生ゴミの山から普段とは異なる異臭が漂っていたことに気付き、色々調べてみたら死体が見つかったらしい。で、今までずっと調べていたんだが、2人の死因は窒息死だ。首の辺りにロープで締めた跡が残されている。だが、その前に2人はかなり手酷く暴行を受けていたようだ。まず、彼女達からは着衣は全て剥ぎ取られていた」
「下着も無かったのか?」
「そうだ。それから、2人の体には無数の索縄痕と二重条痕が──」
「『索縄痕』? 『二重縄痕』? 何です、それ?」セントラーザが訊ねた。
「ロープで擦ったり圧迫したりした跡と、平行して走る2本の内出血のことだ」カルナスの代わりにサーレントが答えた。
「説明ありがとう」カルナスはサーレントのほうを向いて言った。「……で、話を元に戻すが、要するに2人がどういう状態にあったかというと、ロープで縛られた状態で幅の小さいロッドで何度も殴られていたわけだ。拷問を受けた後の罪人の状態とそっくりだな」
「……酷い……」セントラーザが呟くように言った。
「確かにな。だが、更に酷い事実が見つかっているぞ。2人の太股の内側には内出血の跡がいくつも見られた上に、体には何ヶ所も男性の精液が付着していたんだ。ロディンの感じた異臭の正体はこれだったのかもしれんが、それは分からん。それから、2人の股間も血と精液で汚されていた。子宮からも出血していたらしいんだ」
「それって……」デニムが恐る恐る訊ねた。
「はっきり言えば、2人はレイプされた後に殺されたわけだ」カルナスの言葉は淡々としていたが、心の中では犯人に対する激しい憎悪を燃え上がらせていた。「詳しいことは遺体をシルクス警視庁に持ち帰ってからでないと分からないが、恐らくは間違い無いだろう。子宮の中を調べることができたら、子宮内からは男性の精液も見つかるんじゃないだろうか」
「何てことなの……許せない……」
「その通り。犯人達は正真正銘の鬼畜だってことだ」セントラーザの言葉にカルナスは頷いた。
「犯行現場はここなのか?」サーレントが訊ねた。
「違うだろうな」カルナスは首を横に振った。「ここで何者かが争った形跡が無かった。それから、死体の索縄痕の具合から見るに、2人は天井かどこかから吊るされた状態になっていたようなんだが、このゴミ捨て場には2人を吊り下げるのに好都合な金具や木の柱、梁が見当たらない。それに、何者かが争った音を聞いたという住民に現れていない。別の場所でレイプされて殺されたと考えるほうが自然だな」
「そうですね」デニムは頷いた。「だとすると、彼女達が殺されたのは、連続女性失踪事件の犯人達が使っているアジトの1つになるわけですね?」
「そういうことなんだが、そのアジトは1つも見つかっていない」
「事件の解決には程遠いですね……」デニムは溜息を吐いた。
「いずれにせよ、やることがいくつもあるぞ」カルナスはそう言ってから手を振り警官達を集めた。「今から死体をシルクス警視庁に運ぶ。急げ」
 警官達が死体を手押し車に乗せる作業を眺めながら、サーレントは言った。「デニム、セントラーザ。俺達はここでの聞きこみに回るぞ」
「分かりました」デニムが答えた。その隣でセントラーザが頷く。
「そちらは任せたぞ」カルナスも同意した。「俺は警視庁での死体の検分に立ち会うからな」

4999年3月22日 10:01
シルクス帝国首都シルクス、1番街、大蔵省4階、大蔵大臣執務室前

「大蔵大臣はまだ現れていない?」
「はい……」ウィリアム・フローズンの質問に秘書は困惑した顔を見せながら答えた。
「休暇届は出されていないのだな?」
「はい。受け取っておりません」
「自宅のほうには連絡は?」
「既に3回行いました。ですが、御自宅からの返事は『執事とメイド1人と一緒に、午前8時に馬車に乗って出発された』というものだけでした。奥様も他の御家族の方も行方を掴んでおりません……」
「女性達に続いて、今度は大臣が失踪とは……」
 財務部長が秘書の言葉に頭を抱えていた時、廊下の奥からアーサー・フォン・ランベスの声が聞こえてきた。「フローズン財務部長、いかがされたのです?」
「大蔵大臣閣下の行方を御存知ありませんか?」ウィリアムの返答よりも早く秘書が質問を投げ掛けた。
「いいえ、全く存じ上げません」ランベスは首を横に振った。
「大臣が行方不明になっているのです」フローズン財務部長が説明した。
 ランベスの顔にも困惑の表情が現れた。「何てことだ……それは困りましたな」
「副大臣にも詳しく説明して下さい」ウィリアムは秘書に命じた。
「午後8時に、使用人2名と一緒に馬車で御自宅を御出発された後、行方が分からなくなっているのです。現在、御家族の方にも手分けして探してもらっているのですが、全く手掛かりがございません。今のところ、このことを御存知なのは御家族の方と私達3人だけでございます。警視庁や宰相閣下にはお知らせしておりませんが、いかがされますか?」
「そうですね、警視庁には一報を──」ランベス副大臣は言葉を中断すると大きく欠伸した。「(フア〜)……と、これは失礼。とにかく、シルクス警視庁には今すぐにでも連絡するべきでしょう。殺人犯として手配されている御子息のザール・シュレーダーの捜査にも影響することですしな」
「宰相閣下への御連絡は?」ウィリアムが訊ねた。
「警視庁経由でも良いのですが……、ここは我々から御連絡致しましょう。大蔵大臣が一時的にせよ不在となっていますから、その対応策を検討して頂かないといけませんしな」
「それは良いアイデアですね。まあ、大臣が早く見つかればそれに越したことは無いのですが」
「……その通りですな」ウィリアムの言葉に対する返答に、ランベスは少しだけ躊躇いを見せた。「では、私は仕事に戻らせて頂きます」
 大蔵副大臣はそう言うとウィリアム達に背中を向け、副大臣執務室のほうへ歩き始めた。その途中、彼は背伸びをしながら再度大きく欠伸した。その緊張感の無い態度に財務部長は嫌悪感を感じた。
 ──あの緊張感の無さ……、大臣の失踪を喜んでるようにさえ見えるな……。
「……嫌な方ですね」ランベスが副大臣室に消えたことを確認してから秘書が言った。
「そういうことは心の中だけで言うものだ」財務部長は秘書に警告した。「私も同感なのは言うまでもないがね」

4999年3月22日 19:30
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室

 聞き込み調査を終えたデニム達を待っていたのは、ニベル・カルナス警部補の姿だった。その手には繊維紙の書類が握られている。「ここにいたか」
「どうした?」サーレントが訊ねた。
「カッセル姉妹の死体検分の結果が出た」
「ああ。聞かせてもらおう」
 4人は手近にあった椅子に腰掛けた。
「新しいことが多く分かったわけではないが、手掛かりは増えた」カルナスは書類に目を走らせながら言った。「2人の死因は首をロープで締められたことによる窒息死だ。絞首台のような物を用いたわけではなく、ただ単純にロープで首を締めたらしい。死亡したのはここ1日の間のようだ。死体が腐敗しているわけではないしな。2人の外傷に関しては現場で説明した通りだったが、付け加えで説明すべきこともある。まず、彼女達の頭皮の一部が切り取られ、そこの頭蓋骨が露出していた」
「気味悪いことをしやがる……」サーレントが呟いた。
「見せしめの為なのでしょうか?」デニムは平静さを保った口調で言った。
「多分そうだろうな。それから、2人が属していた芸術神メルデューサ神殿の許可をもらって死体を詳しく検査したところ、子宮内からは、予想通り複数の傷跡と男性の精液が見つかった。かなりの量が残っていたところを見ると、複数の人間から犯されたようだ。それから、姉のエレハイムに関しては処女膜からの新しい出血も確認できた」
「許せないわね……」
「それは俺も同じだ」カルナスは頷いた。「検死から分かったのはこれだけだ。聞き込み調査のほうはどうだったんだ?」
「色々と分かりました」デニムは懐から繊維紙のメモを取り出した。「死体発見当日の午前3時頃、近くに住んでいた複数の人間が荷馬車の通過音を耳にしており、そのうちの1人は荷馬車が通過するところを実際に目撃しています。います。証言によりますと、荷馬車はシルクス港のほうから現れたということです」
「シルクス港から?」
「そうなんです」セントラーザが答えた。「で、シルクス港で話を聞いて回ってみたら、船乗りのうち何人かが、午前2時半頃にシルクス港に荷馬車が現れたのを聞いています。しばらく何かをしていた後、荷馬車が7番街のほうへ去って行ったそうです」
「何をしていた?」
「それは分からん」サーレントは首を横に振った。「深夜だったからな。それに、深夜に荷馬車が現れて荷物の積み下ろしを行うこと自体は、この港ではさほど珍しいことだというわけではないらしい」
「聞き込みは明日も続けましょう」
 デニムの言葉にカルナスは頷いた。「そうだな。明日からは我々のチームが担当しよう。……それともう1つ、知らせねばならんことがある。連続女性失踪事件と関係があるわけではないが、かなり重要な情報だぞ。特に、そのお嬢さんにとってはな」カルナスはそう言ってセントラーザを指差した。
「私ですか? ……どうしたんです?」
「バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣が失踪した。ザール・シュレーダーのことと関係していることは間違い無いだろう。……で、定例閣議での協議の結果、あのランベスの野郎が大臣代行に任命されたんだ」
 3人の顔に困惑と怒りの混じった表情が現れた。警視総監と宰相兼内務大臣が定例閣議の席上で受けた屈辱のことを、彼らはまだ覚えていたのである。
「嫌な話じゃない」セントラーザが3人の気持ちを代弁して言った。
「確かに」カルナスは頷くとおもむろに立ち上がった。「しかし、個人的に嫌な話がもう1つある」
「嫌な話……一体何のことでしょう?」デニムが訊ねた。
「カッセル姉妹の遺体引渡だ」

4999年3月22日 20:05
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階、霊安室

 ニベル・カルナス警部補が警察官としての仕事を過す中で、最も憂鬱な瞬間が訪れようとしていた。
「……こちらが被害者の方です」
 彼はそう言うと、長テーブルの上の物体に被せられていた白いカバーを捲った。その下からは、若くして何者かに命を断たれた若い美人姉妹の顔が現れる。遺体の周囲に集まっていた人々の間から、小さな悲鳴や溜息を漏らす音が聞こえてくる。
「……間違いありませんか?」
 長い沈黙の後、1人の男性が力無く頷いた。「………………はい。私の妹達です……」
 彼の言葉を合図にするかのように、50代の老いた男女──エレハイム・カッセル姉妹の両親が遺体の側に崩れ落ち、冷たくなった手を握りながら嗚咽を漏らし始めた。感情を押し殺していたエレハイム・カッセルの兄は、目尻を指で拭った後、深々と溜息を吐いた。
「本当に──」
 ニベル・カルナスは哀悼の言葉を述べようとしたが、エレハイムの兄は手でそれを制した。「……廊下に出ましょう。両親をそのままそっとしてやってくれませんか」
「はい」
 カルナス警部補と男は廊下に出ると、霊安室のドアを音を立てないように閉めた。ドアの奥からも、両親の悲嘆の声は廊下に響き渡ってきた。カルナス警部補は溜息を吐くと、やれ切れないという表情を浮かべ、憂鬱そうに首を左右に振った。「本当に申し訳無い……」
「……事件のあらましは捜査官達から聞きました。妹達の最期も聞いています」兄は感情を押し殺した声で言った。「……悔しい……非常に悔しいことです…………」
「はい……」カルナスは相槌を打つしかなかった。
「妹達の遺体ですが……もう引き取ってもよろしいでしょうか?」
「はい」
 シルクス警視庁では、遺体に対する検分は生物学・法医学と魔術という2種類の方法論を同時に実行し、両者のデータを突き合わせることによって最終的な結論を導き出していた。所要時間は約6時間であり、犯罪が確認されたその日のうちに遺体を遺族に引き渡すことが慣例となっていた。遺体の腐敗防止という合理的目的だけではなく、「故人と長い時間を共にしたい」という遺族の心情に配慮した措置でもあった。
「馬車を無料でお貸ししていますが……お使いになりますか?」
「ええ。お願いします」
 2人の間に長い沈黙が流れる。カルナス警部補はこの瞬間が最も嫌いだった。
「…………あの……警部さん」エレハイム・カッセルの兄は声を震わせながら言った。
「何でしようか?」
「今のままでは……妹達は浮かばれません。……どうか……どうか、犯人を見つけ出して下さい。妹達を酷い目に合わせた犯人達を……この手で殺したいんです! 連中の謝罪の言葉なんて要りません!」
「…………」カルナス警部補は何も言わなかった。掛けるべき言葉が見つからなかった。
「私も妹達の所に戻ります……」
「分かりました。犯人は我々の手で必ず見つけ出します」
 エレハイム・カッセルの兄は無言で頷くと、霊安室のドアを開け、おぼつかない足取りで中へ消えて行った。そして、ドアが閉まり、老夫婦の悲嘆の声に混じって、若い男性の号泣の声が聞こえ始めた。
 ──これだから殺人事件は嫌いなんだ……。
 カルナス警部は深々と溜息を吐いた。

4999年3月23日 06:07
シルクス帝国首都シルクス、6番街、倉庫街の某所、女性達の監禁場所

 脱走を企てて捕まったエレハイム・カッセルとソフィア・カッセルが戻って来ていないことに対し、ナターシャ・ノブゴロドは不安を抱き始めていた。最初は「別の場所に監禁されたのだろう」と楽観的に考えていたが、その希望的観測は時間が経つに従って、「ひょっとしたら殺されたのではないか」という絶望的予測へと置き換わっていった。犯人達は特に何も話さなかったが、彼らがしきりに「試用会」という単語を口にしていたことが、ナターシャの悲観的な予測を補強することになった。しかし、心の底では、未だに僅かながらの期待を抱いていたのである。
 ──まだ生きてればいいけど……。
 カッセル姉妹の行方が気になっていたため、前日の夜は眠ることができなかった。彼女は睡眠不足の目を擦りながら欠伸をすると、17人の女性達が眠る倉庫の中を見回した。
 ──死んでいるかもしれないけど……助かっていればいいわね……。
 ナターシャが溜息を吐いた時、監禁場所に髭面の男が現れた。「もう起きてたのか?」
「……あの2人はどうなったの?」ナターシャは意を決して質問した。
「エレハイム・カッセルとソフィア・カッセルのことか?」
 ナターシャは髭面の男の質問に対して無言で頷いた。
「『試用会』に使われた。それだけだ」
「……それじゃ回答になってないわ」
「確かにな。だから、このような物を用意した。聡明な君なら、この品物の持つ意味が十分に理解できるはずだ」髭面の男は懐から小さな麻袋を取り出すと、その中に入っていた金色の物体を2つ放り投げた。
 ナターシャは目の前に落下した物に手を伸ばそうとした瞬間、その物体の正体に気付き思わず息を飲んでいた。悲鳴を上げなかったのは彼女の持つ自制心の為せる技であった。「……この……鬼畜が…………」
「これが我々『シンジケート』からの回答だ」髭面の男は冷淡に言った。
 彼女の正面に落ちた物体2個の正体は、美しい金髪が残ったままの、エレハイム・カッセルとソフィア・カッセルの頭皮の一部であった。

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『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
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