-

-本編(18) / -本編(20)

-

(19)

-

4999年3月23日 09:59(異端審問第1日目)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド地下1階、第1法廷

 《7番街の楽園》で逮捕された8人に対する異端審問は、様々な混乱が存在したものの、3月23日に予定通り開始された。今まで空席だった7番目の裁判官の椅子にゾルトス神殿から派遣されたキャサリン・グリーノック司教が座り、告発人席に座るはずであったバソリー神殿司祭のアテナ・オナシスが弁護人席に座っている──マレバス神殿司祭のブルーム・ライアンがその代わりに告発人席に座った──ことが今までと異なっていたが、裁判の進行に実質的な支障は見られなかった。
 デスリム・フォン・ラプラスは書記達の座席から暗闇に包まれた裁判官達の席を見上げていた。ここに居並ぶ7人──特にキャサリンの理性的な判断のみが、政治的謀略の最中に叩き込まれた異端審問を正常に進行させることに可能にし、彼はそれに大きな期待を託していた。キャサリンを含む裁判官達が理性的な判断を下すことが、被告となった8人の真の姿を照らし出し、本当は冤罪であった者を死の淵から助け出すことに繋がるのである。
 ──キャシー、君だけが頼りなんだ。頼むよ……。
 ラプラスは心の中で呟いた。それを知ったのかどうかは分からなかったが、キャサリン・グリーノックも僅かに首を縦に動かした。
「では、異端審問第1回審理を開始します」グレイブ・ゾーリア裁判長が裁判長席から言った。「被告人1番を入廷させなさい」
 法廷の扉が開き、後ろ手に縛られた被告人と警護の兵士が2人現れた。被告人1番は8人の中での唯一の女性であり、ラプラスの基準から見れば「肉体派の」──スポーツマンタイプの美人である。90cmか1mはあるのではないかと思わせる長くて奇麗な黒髪、大きく開いた茶色の瞳、そして全ての男性を振り向かせるのに十分なプローポションと、それを際立たせている露出度の高い服がラプラスには印象的であった。
 ──格闘家なのだろうか……。
 警護の兵士達が彼女を法廷中央の椅子に座らせ、椅子に備え付けてあった鎖で彼女を椅子に固定した。その様子を見たラプラスは女性の観察をひとまず中断し、本来の仕事である書記の仕事へと戻ることにした。
「今から審理を開始します」ゾーリア司教が言った。「本日は被告人1番に対し審理に入る前の予備的──」
「その前に」被告人1番が裁判長の言葉を遮った。「この鎖を解いてくれないの?」
「それは無理じゃな」別の裁判官が答えた。「被疑者の逃亡を防ぐ為の措置じゃ。あなたにその気がないとしても、これが異端審問所のルールなのでな」
「駄目なの?」
「おあいにく様じゃが、無理じゃ」
 被告人1番は軽い溜息を吐いてから言った。「それなら別にいいわよ」
「本題に戻ります」グレイブ・ゾーリアが言った。「本日は被告人1番に対し審理に入る前の予備的な審理を行います。これは2日目以降の審理の進行と判決の有罪・無罪には無関係ですので、正直に答えて下さい。名前は?」
「フォルティア・クロザックよ」
「性別は女性ですね。では、もし知っているのならば、新太陽暦で生年月日を教えて下さい」
 都市部の住民は正確な暦を知っているが、農村部では太陰暦や地元の暦を運用していることもある。そのため「新太陽暦で」という言葉が付け加えられたのだ。もっとも、本当に新太陽暦を知らない人物が存在していたのは異端審問所設立直後のことだけであり、この言葉は現在では完全に形骸化している。
「新太陽暦4979年5月3日生まれ。19歳ね」
「現在の住所は? 大まかでよろしいですよ」
「帝国首都シルクスの7番街よ」
「戸籍はどの神殿に登録してありますか?」
「戦争神マレバス様の神殿だったと思うわ。シルクスにあったはずよ」
 その後、審理終了までフォルティア・クロザックの素性に関する情報の聞き出し作業が行われた。だが、そのいずれも告発人達の提出した資料に載っている情報の再確認であり、ラプラス達が彼女の言葉を一字一句正確に聞き出す必要性は存在しなかった。書記達にとっては楽な1日である。
 フォルティアはエブラーナ生まれだった。双子で産まれたそうだが、双子の片割れの赤子は死産だった。両親の職業は宿屋の経営者で、特に父親のコックの腕前はリマリック中に知られていた。母親は彼女が7歳の時に病死、その後は父親とその友人のザナッグ・ドーストンという格闘家によって育てられた。その後はしばらく平和な日々か続いたが、5年前のエブラーナの大火に巻き込まれ父親が死亡、それを契機に帝都シルクスの7番街に移り住み、その後は現在まで《7番街の楽園》でコックとして働いていた。
 審理の最後になり、グレイブ・ゾーリアが訊ねた。「この法廷は、あなたがバディル勅令に抵触する行為をしたのか否か、ということを調査し、違反したことが確定した時に量刑を決定する為に開かれているものです。今なぜここにいるのか、そしてどういう罪状で起訴されているのか、理解していますか?」
「ええ。……でも、私は無実だわ。早く解放してよ」
「それは今からの審理で決定されることです」ゾーリアはそれだけしか言わなかった。「では、被告人1番に対する第1日目の審理を終了します」
 裁判長席で木槌が鳴らされる。それを合図にして、2人の兵士達がフォルティア・クロザックを拘束していた鎖を解き、彼女を法廷の外へ連れ出した。法廷のドアが閉められる。ラプラスは一息入れると、隣に座っていたマンフレートのほうを向いて訊ねた。「今日は楽そうだ……って、どうした?」
 マンフレートは閉じられた法廷のドアを見続けていた。
「おい、どうした?」ラプラスはマンフレートの肩を叩いた。
「……ああ、すみません」マンフレートはラプラスの存在にようやく気付いた。
「もうすぐ2人目が入廷するぞ」
「そうですね、分かりました」
 マンフレートとラプラスが再び机に向かった時、グレイブ・ゾーリア司教の言葉が法廷内に響き渡った。「それでは、続きまして、被告人2番に対する第1日目の審理を開始します。被告人2番を入廷させなさい」

4999年3月23日 11:27
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

 ナヴィレント・ティヴェンスは頭痛に悩まされていた。この日の朝が冷え込んでいたために風邪をひいたこともあるが、何よりも、3月22日に相次いで発生した事件──カッセル姉妹の死体発見とシュレーダー大蔵大臣の失踪──が彼の頭を悩ませ、更なる精神的負担を掛けていたのである。
「大蔵大臣とザールの行方は見つかっていないのか?」
「手掛かりならばあります」ラマン秘書官は左手の繊維紙に目を落とした。「ザールに関しては、帝都シルクスの北に逃走したと思われます。帝都シルクスの北から入って来た旅行者の複数が、道中でザールを目撃したと証言しているのです。彼らの証言から計算すれば、ザールはシルクスの北100km以内のどこかにいるはずです」
「100km? それはかなり広いな」
「はい。しかし、そうとしか答えられません。それに、あの辺りは人口も少ないので、人目に付くことも少なくなるはずですから、逃げる側にとっては好都合だと彼は思ったのでしょう」
「愚かなことだな」
 実際には、過疎地域を逃げ回るよりも人口過密地域に逃げたほうが見つかりにくいのである。付け眉毛や付け髭を使い、髪形を大きく変え、着ている服装の雰囲気を大きく変える──港湾労働者が魔術師のローブを羽織るなど──ことによって別人に成り済ますことも可能なのであり、その状態で都会で生活すれば発見される可能性は極限まで低く抑えられるのである。下手に過疎地域に逃げ込んだ場合は、どれだけ変装を施していたとしても、見慣れない人物が村落に出現したことや、人気の無い所に人が現れたこと自体が有力な手掛かりとなる。ティヴェンス達は幾度と無く、過疎地域へ逃走した愚か者達を逮捕しており、この「鬼ごっこ」のルールと必勝法を熟知していたのである。
 帝都シルクスの北側は、エルドール大陸の唯一の活火山である火山ファリスから巻き上がる火山灰の影響で、農作物の栽培には適さない環境であった。タバコなど火山灰にも強いと言われている作物は栽培されているが、帝都の南側に広がる穀倉地帯と比較したら農村の数は少ないのである。また、火山ファリスとその北西側はタンカード神殿の聖域に指定されており、海岸沿いに設置されている農村や刑務所、流刑地などを除いたら、文字通り無人の荒野が広がっていたのである。まさに、追う者にとって好都合な地形であった。
「現在、タンカード神殿にもザールの逮捕を要請しております。《7番街の楽園》の件では我々に文句を言っていたタンカード神殿ですけど、今回の件では我々に積極的に協力してくれるそうです」
「どこまで信用できるやら」ティヴェンスは鼻を鳴らした。
「今の言葉は聞かなかったことにします」ラマン秘書官はそう言って繊維紙の書類をめくった。「シュレーダー大蔵大臣の捜索ですが、こちらのほうはもっと多くの情報が集められています。大蔵大臣が乗っていたと思われる馬車が帝都シルクスの南通りから外へ出て行ったところが目撃されています。レイゴーステムの街には大蔵大臣の別荘が建てられていますから、そこに向かっているものと思われます」
「自宅療養ということなのだろうか?」
「好意的に解釈すれば、そういうことだと思います」ラマンは頷いた。「大蔵省では、『大蔵大臣は心労を癒す為にレイゴーステムの別荘に向かわれた、療養中の職務はアーサー・フォン・ランベス副大臣が代行する』という声明を用意しています。ただ、守旧派や中立派の政治家の間からは、『ザールの犯した殺人の責任を取って事実上更迭され、レイゴーステムで謹慎させられた』と言われています。まあ、どちらの解釈を選ぶにせよ、大蔵省の実質的な支配者の座が守旧派の手に渡ったことだけは間違い無いと思われます」
「ランベス枢機卿か……」ティヴェンスの顔が怒りのためか歪んだ。「あの野郎……」
「大蔵大臣代行に怒りを爆発させたいお気持ちは分かりますが、どうか気をお鎮め下さい。私だっていい気はしておりませんが、ランベス枢機卿が警視庁に対する予算額を決定できる人物であることだけは忘れないで頂きたいですね」
「まるで守旧派の肩を持つような言い方だな」ティヴェンスは辛辣な言葉を口にしてしまった。
 ──警視総監閣下もかなりお疲れのようだな……。
 ラマン秘書官はティヴェンスの言葉には微動たりせずに応えた。「私は政治的には中立な立場から事実を述べたまでです。それに、不用意に怒りを爆発させることが害悪に過ぎないことぐらい、閣下とて御存知でしょう?」
「そうだったな……さっきは済まない」
「いいえ、別に構いません。それよりも、2人に対してはどうされますか?」
 警視総監は冷静さを取り戻した──少なくても表面上は。「ザールの追跡は警視庁の管轄外だからな、手配書を配るだけに留めよう。内務大臣の許可が頂ければ、タンカード神殿と共同で山狩りも出来るが、これは内務大臣と後で相談することにしよう。それから、大蔵大臣のほうはレイゴーステムの自警団に全て任せよう。それで良いだろうか?」
「よろしいと思います」ラマンは頷いた。
「分かった。その他に何か新しい情報はあるか? 殺されたカッセル姉妹に関する情報や、《7番街の楽園》で逮捕された8人に関する情報、誘拐された女性達の行方、どれでも良いから新しい情報は無いのか?」
「いいえ、今のところは……」ラマンは首を横に振った。
「そうか……。では、今から今日の午後に内務大臣と会う約束を取り付けてくれ。それから、レイゴーステムの自警団にも連絡しておいてくれ。指示はこれだけだ」
「承知致しました」
 キロス・ラマンが退出した後、ティヴェンスは抑えていた怒りを爆発させ、右手の拳で机を叩いた。「くそっ! なぜどの事件も解決せんのだ!」

4999年3月23日 18:30(異端審問第1日目)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、食堂

「なあ、マンフレート」ラプラスがドレッシングをサラダに掛けながら訊ねた。
「どうしました?」マンフレートはバターをロールパンに塗りながら応えた。
「被告人1番──フォルティア・クロザックの審理が終わった時、ボーっとしていたじゃないか。何があったんだ?」
「え? あれですか……実は……」
「好みのタイプの女性だったのか?」
 ラプラスの言葉にマンフレートは硬直してしまった。「ええ……まあそうですが……」
「なるほど、そうだったのか」ラプラスはレタスを口に入れた。「(バリバリゴクッ)……実は彼女がマンフレートの親戚か知人じゃなかったのかと思ってしまったぞ」
「それは無いですよ」マンフレートは首を横に振った。「そう言うラプラスさんはどうなんです?」
「何が?」
「とぼけないで下さいよ」マンフレートは微笑んだ。「あなたの好みの女性です」
「私か? 好みを聞かれてもなあ……25年以上まともな恋愛をしたことが無いから──」ラプラスはキャサリン・グリーノック司教の姿を見つけた。「──そう、彼女みたいな女性が好みだな。初恋の相手だったし」
「簡単な回答ですね」
 キャサリンはラプラス達の姿に気付くと、手に夕食を載せたトレーを持ち2人のところへ現れた。そして、彼らの許可をもらわずに開いている椅子へ腰を下ろした。「お邪魔するわ」
「別に構わないよ」
「ありがとう」キャサリンは微笑んでいたがすぐに真顔に戻った。「最初の仕事だったけど、今日は楽だったわね。いつもはこんな感じなの?」
「いいえ」マンフレートが答えた。「御存知だと思いますが、本日は予備的な審理しか行われませんでした。明日は弁護人と告発人がそれぞれ戦略を練る為の会議を行い、必要に応じて被告人達に対する尋問と特別尋問を──」
「『特別尋問』?」キャサリンが訊ねた。
「『拷問』の隠語です」マンフレートの回答を聞きキャサリンの表情が暗くなったが、彼はそれを無視して説明を続けた。「そして、明後日に審理が行われます。以降、審理と戦略検討を交互に繰り返し、約20日前後を目処にして判決を下します。判決は多数決制であり、7人の裁判官が投票を行うことによって決められます。今回のケースでは、判決は4月10日頃になるのではないでしょうか?」
「有罪になったら?」
 この質問にはラプラスが答えた。「有罪に票を投じた裁判官が合議して量刑を確定させる。その時の判断材料になるのは、異端審問所の法的地位を定めたバディル勅令と過去の異端審問の記録だ。ただ、多くの場合には、死刑や終身刑は免れないだろう。有期懲役刑になったり釈放されたりするケースは少ないからな」
「どういうケース?」
「異端者達が改悛の情を見せた上で、被害者達が厳罰を望まなかった場合に限られる。邪悪神を信仰していた場合にはそんなことは絶対に起こらないが、新興宗教団体の参加者を捕まえた時は、時々そういうことが起こる」
「なるほどね」キャサリンはそう言ってからポタージュスープを口に運んだ。
「他の裁判官達の様子はどうだい?」ラプラスはキャサリンに聞き返した。
「(ゴクッ)……良い雰囲気じゃないわね。いつもは違うのかもしれないけど、今回は2つの神殿がそれぞれ派閥を作ってしまってるようだわ。裁判後に行われた会合でも、言葉を交わすことは少なかったし、会合が終わってからは離れ離れになっていたの。完全に仲違いしているわね、見事なくらい」
「予想が当たってしまいましたね」
「ああ」マンフレートの言葉にラプラスは頷いた。「キャシー、だから君の力が必要だったんだ。この分裂状態を引きずったまま、正常な裁判の進行を期待するのは無理だろう?」
「確かにその通りだわ」
「君だけが頼りなんだ。頼むよ」

4999年3月24日 10:35
シルクス帝国首都シルクス、7番街、レストラン《ブルーエルフ》

 ビューロー警視の命令により、殺害されたカッセル姉妹に関する聞き込みを任されたデニム達3人は、エレハイム・カッセルと妹ソフィアが足繁く通っていたという料理店を訪れていた。
「どういう店なんだ?」玄関を眺めながらサーレントが訊ねた。
 デニムは懐から繊維紙のメモを取り出し2人に見せた。捜査への出発前に、デニムが『シルクスの名店ガイド』から書き写した内容である。「こういう店だそうです」

《ブルーエルフ》
 7番街の中央広場から路地裏に20mほど踏み込んだ場所にある料理店。4964年にエルフの老人がチーズ料理の店として開いたのが始まり。4997年に店主が代わってからは料理店としてリニューアルオープンする。チーズ料理専門店時代からの伝統らしく、乳製品に対しては高い拘りを見せており、また店に揃えられているワインの品質も優れていることから、食通の間での評価が極めて高い店である。
 予算は25リラから40リラだが、100リラ以上の豪華フルコースも揃えられている。
 予約は不要であるが、個室の貸切の為には予約が必要となる。

 料理:★★★★★ 価格:★★★ 雰囲気:★★★★ 総合評価:★★★★


「デニム……暇だったの?」セントラーザが呆れたという顔をして訊ねた。
「あの本を持って歩くわけにはいかないし、かといってページを破るわけにもいかないだろう? だから書き写したんだけど……それがどうしたんだい?」
「……ううん、何でもないの」セントラーザは溜息を吐いた。
「おーい、話は終わったか? そろそろ入るぞ」サーレントはそう言うと、「準備中」の札が掛けられていた木製のドアをノックした。「すみません、こちらはシルクス警視庁です。お伺いしたいことがあったので参りましたが、どなたかおりませんか?」
 10秒ほどの間を置いてから、ドアが内側からゆっくりと開かれ、コックの男がドアの隙間から顔を覗かせた。「どうされましたか?」
「シルクス警視庁の者です。実は、昨日亡くなられたエレハイム・カッセルさんとソフィア・カッセルさんのことで、お話を伺いに参りました。少し時間を取らせてしもい申し訳ありませんが、よろしいでしょうか?」
「分かりました。どうぞお入り下さい」
 店のドアが大きく開かれる。デニム達はコックに会釈してから店の中へ足を踏み入れた。開店前ということもあってか、店の中は無人であった。客が座る為の椅子は全て机の上に乗せられ、床は店員達の掃除によって磨き上げられていた。壁にはシルクス帝国の名士達がこの店を訪れたことを示す多数の記録が残されていたが、デニム達の目を引いたのは、その中にランベス枢機卿の色紙が混ざっていたことである。
「これって……あのランベス副大臣じゃない?」セントラーザがランベス枢機卿のサインの入った色紙を指差して言った。
「その通りでございます」コックの男性は頷いた。「あの方がまだ司教でございました4990年頃から御愛顧にして頂いております。最後に御利用されたのは3月10日のことでございました。今度、大蔵大臣代行に就任されるそうですね」
「……はい」サーレントは罵詈雑言をかろうじて飲み込んだ。
「シュレーダーさんのお宅も災難続きですからねえ……。あまり喜んではいけないのかもしれません。それはそうと」コックはそう言ってカウンターを手で示した。「あちらでしばらくお待ち下さい」
「分かりました」
 コックが調理場の中に消えてから、デニム達はカウンターに腰掛けて店内を観察した。店の内装は茶色に塗られた木をベースとした落ち着いた作りとなっており、豪華な装飾とは無縁な雰囲気となっていた。照明は全てランタンであり、窓にもガラスは使われていない。食器棚に陳列されている食器の大半は防水加工を施した木材や石、ガラスによって作られており、輸入品である陶磁器の姿は見られなかった。
「結構いい感じの店ね」セントラーザが店を見回しながら言った。
「創業者の趣味だと思うよ」デニムが相槌を打った。
「しかし、値段は高そうね」セントラーザの目は値段表に向けられていた。
「そうだね。その分だけ料理の質は良いんだろうな。だからこそ、あんなに沢山の名士が店を訪れているわけだよ。あのランベス枢機卿も御利用されているそうだし。事件が解決したら、みんな一緒になってここで食事を取りたいね」
「あ、それ面白そうだわ」セントラーザは微笑んだ。「父さんも喜んでくれるはずよ」
「サーレントさんもどうです?」
「ん?」サーレントはデニム達のほうを慌てて向いた。「ああ、そうだな……」
「値段が気になってたんですか?」セントラーザが訊ねた。
「いや、そうじゃない。あそこだ」
 サーレントは店の奥へ続く廊下を指差した。コックが消えて行った厨房とは明らかに別方向である。暗がりになっていてデニム達には良く見えなかったが、廊下の奥は広い空間になっているように見えた。また、廊下には分岐点が1ヶ所存在していたが、分岐の先に何が存在するのかは全く分からなかった。「さっきからあそこが何なのか気になっていたんだ」
「宴会場なのでしょうか?」デニムが思い付いたことをそのまま口にした。
「そうかもしれんが、後でコックにでも聞かないとな」
 サーレントがそう言った時、3人の待つカウンターに先ほどのコックが現れた。その手には盆が乗せられており、その上では3個のティーカップが湯気を立てていた。「申し訳ありません。この程度しか用意できませんで」
「いえいえ、お気になさらないで下さい」サーレントはそう言いながらティーカップを受け取った。「お礼を言うべきは我々のほうです。無理にここまでして頂いて──」
「いえ、お気遣いなさらずとも良いですよ」コックは微笑んだ。
「そうですか。ではありがたく頂戴します」
 ティーカップの中身はミルクティーだった。乳製品が自慢である店なのか、ミルクやクリームを使うのが標準なのだろう。デニムはスプーンで軽く紅茶を掻き混ぜた後、出来立てのミルクティーを口に運んだ。程好い甘さとミルクの持つコク、そして紅茶そのものの風味が絶妙に混ざり合っていた。ストレートティーが好みであったデニムも納得できる味であった。レモンティー派であるサーレントは無言だったが、彼の隣で飲んでいたセントラーザは満面の笑みを湛えていた。「美味しい!」
「ありがとうございます」コックは深々と頭を下げた。
「さて、そろそろ本題に入りたいのですが、よろしいですかな?」サーレントが訊ねた。
「はい。何なりと」コックはカウンターの向かい側にある椅子に腰を下ろした。
「この店の店主はどちらに?」
「ダリル・ギスティムですか。店主は急用の為午前11時までこちらには参りません。その間は、料理長である私アルザス・フォーリーが店主代行として務めております」
「だとすると、この店のことは何でも御存知ですね? 例えばお客さんのこととか」
「はい。仰る通りでございます」
「では話が早いですな」サーレントはカウンターに体を乗り出した。「亡くなられたカッセル姉妹に関して、あなたが御存知のことをお話して頂けませんか?」
「分かりました。エレハイム様がこの店を御利用になられたのは……いつでしたか……」アルザスは店内を眺めながら記憶の糸を辿っていた。「……そう、思い出しました。今年の1月だったと思います。その後、失踪されるまで2回ほど御利用になられていました。以前、他の警視庁の方に御説明したことだと思いますが……」
「もう少し詳しい話をして頂けませんか?」
「そうですか……。では……」アルザスもカウンターに身を乗り出した。デニムとセントラーザも耳を近付ける。「昨年12月の御利用の時は御2人だけでの御来店でした。ですが、1月中頃の2回目の御来店の時に、席が足りずにやむを得ず相席をして頂いたことがあるのです。御客様には申し訳ないことをしたと思ったのですが、3回目の御来店の時に、同じ相席となった方々と御一緒になって楽しそうにお話されていました。結果的にはあの相席には御満足して頂けたのでしょうか……」
「相席の御相手の方はどなたですか?」デニムが訊ねた。
「少々お待ち下さい」アルザスはそう言うとカウンターを離れ厨房の中へ消えて行った。約1分後に現れた彼の手には繊維紙の書類の束が握られていた。
「それは何ですか?」サーレントが質問した。
「本店にお越しになられた御客様のリストでございます。店からの招待状をお送りする時に、この御客様のリストが役立てられております」アルザスは椅子に腰掛けると、ページを素早く捲っていった。そして、目的のページを見つけ出すと、3人に指差して示した。「これが相席となった方でございます」
 アルザスが指差した記録を見た3人の目は驚愕のあまり大きく見開かれた。

個室4番
4999年2月5日 19:20〜21:50
 カッセル,エレハイム  カッセル,ソフィア  パロス,ダルクレント
 ガートゥーン,エドバルト・ゼルス  シュレーダー卿,ザール・ボジェット
Sコース5人前、4994年産白ワイン、4997年産ロゼワイン(S)、505リラ


「ちょっと待て……」サーレントが信じられないといった表情を浮かべながら言った。「ザール達3人組はカッセル姉妹と会っていたのか……? 本当なのか……?」
「はい」アルザスは表情を崩さずに頷いた。
「なるほど……。それでは──」
「ちょっと待って!」サーレントが質問しようとした声は、セントラーザの叫び声によって中断された。「これもよ!」

個室3番
4999年1月18日 19:05〜21:00
 ノブゴロド,ナターシャ  パロス,ダルクレント
 ガートゥーン,エドバルト・ゼルス  シュレーダー卿,ザール・ボジェット
Sコース4人前、4990年産赤ワイン、4995年産ウィスキー(S)、422リラ


「ノブゴロド、ナターシャ……」デニムが文字に指を当てて言った。「間違い無い、20人目に失踪した女性だ。彼女もこの店に現れていたのか……」
「……ええと、亡くなられたエドバルト・ガートゥーンさんをはじめとする3人の方は、この店ではどういう方でしたか?」サーレントが訊ねた。
「若いのに気前の良い方々でした。お話を伺ったところでは、3人とも冒険者をしておられたそうで、まとまった金をもらった後にここへ現れていたそうですね。個室ばかりをお使いになっている方々でしたが、マナーはしっかりとお守りになっていましたし、他のお客様との間にも目立ったトラブルは起こされていませんでした」
「その個室を見せて頂けますか?」
「分かりました」アルザスは立ち上がった。「では、こちらへどうぞ」
 デニム達3人がアルザス・フォーリーに案内された先は、サーレントが気にしていた通路の先であった。壁で仕切られたそれぞれの個室は8m四方の大きさを持ち、その中央に丸テーブルが置かれていた。個室内の装飾は素朴さを追及したものであり、カウンターの置かれていた大部屋とは大差なかったが、ランタンの装飾が豪華になっていた点が大きく異なっていた。部屋と廊下を繋げている幅1mの出入り口にはカーテンが取り付けられており、これが個室の内部のプライバシーを(不完全ながらも)保護する役割を担っていた。
「私共の店では、御予約をして頂いたお客様や常連の御客様を対象と致しまして、50リラでこちらの個室の貸切サービスを行っております。個室を御利用になられたお客様には、サービスと致しましてワインまたはウィスキーを1本無料でサービスさせて頂いておりまして、大変な御好評を頂いています」
「見たところ、個室は4つだけですね」デニムが室内を見回しながら言った。
「いいえ。こことは別に、ワイナリーを改造して建てました5番目の個室も御用意しております」アルザスはそう言って、3人が通って来た通路の途中に存在した分岐点を示した。「階段を下りました所にございますが、こちらのほうは料金が100リラとなっております。また、こちらの個室を御利用になられる方に関しましては、残念ながらお話することは出来ません。追加料金の中に、完全なプライバシーの保護というものが含まれております故……」
「もし、捜査に必要となった時には、お話して頂けますか?」サーレントが訊ねた。
「店主のダリス・ギスティムの許可が必要です」アルザスは回答を保留した。
「そうですか……分かりました」サーレントは頷くと、一足先に個室の並ぶ通路を抜けて大部屋へと戻って行った。

-

『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
-本編(18) / -本編(20)


-

-玄関(トップページ)   -開架書庫・入口(小説一覧)