-

-本編(20) / -本編(22)

-

(21)

-

4999年3月25日 12:20
シルクス帝国首都シルクス、8番街、喫茶店《Little Sweet Cafe》

「さあ、どういうことか説明してもらおうか?」サーレント・スレイディー警部補は、眼前に座るニベル・カルナス警部補を睨み付けながら訊ねた。
「何が『どういうこと』だ?」突然の詰問にカルナス警部補は動揺していた。
「昨日、《ブルーエルフ》のアルザス・フォーリー料理長からエレハイム達のことを色々と聞いたんだが、姉妹がザール・シュレーダー達3人組と会っていたなんて初めて聞いたぞ。詳しい話を聞いたところじゃ、それだけじゃなくて、最後に失踪したナターシャ・ノブゴロドも3人組と会っていた──」
「ちょっと待て」カルナス警部補は慌ててサーレントの言葉を遮った。「それは初めて聞いたぞ。そちらの情報こそ何かの間違いじゃないのか?」
「どういうことです?」サーレントの隣に座っていたセントラーザが訊ねる。
「こっちは店主のダリル・ギスティムから情報をもらったんだ。実際に、彼から来店者の記録を見せてもらった。あの記録では、確かにカッセル姉妹もナターシャ・ノブゴロドもあの店を訪れていたぞ。しかし、ザール・シュレーダー達が来店した日には現れていなかった」
「日付が違うってわけですか?」セントラーザが訊ねた。
「そうだった。俺が受け取った記録では、ナターシャ・ノブゴロドは1月18日、カッセル姉妹は12月14日、1月16日、そして2月5日に現れている。ところが、ザール・シュレーダー達はこの日付には1回も顔を出していないことになっているんだ。12月28日と1月23日と2月7日には来店しているようだが」
「そいつはおかしい」サーレントが言った。「アルザス・フォーリーの説明では、1月18日と2月5日に、ザール達3人は彼女達と相部屋になっているはずなんだが……」
「いや、少なくても俺の見た資料ではそうなっていた。これは俺が信仰する秩序神ウェリナス様に誓ってもいいし、【センス・ライ】や【フェイスフルマウス】の呪文を受けたっていい。俺の見た資料ではそうなっていたんだ。これは絶対間違い無いんだ」
 嘘を発見するにの絶大なる効果を持つ2つの呪文の名前を挙げ、「これらの呪文を掛けられても良い」と発言することは、自分の身の潔白を宣言する方法としては最も重大なものである。このことを承知しているデニム達3人は、ニベル・カルナスの言葉が真実であると信じることにした。こうなると、4人が得られる結論は1つだけとなる。
「……だとすると、アルザスとダリルの一方が嘘を言ったのでしょうか?」デニムが訊ねる。
「だと思うな」サーレントが頷いて賛意を示した。「しかも、一方の来店記録は完全に偽装されたものだ。ここまで巧妙に作られた嘘は久し振りに見たぞ。まあ、どちらの来店記録が偽装された物なのかは分からんが……」
「ダリル・ギスティムのほうが嘘をついているのでしょうか?」デニムが呟いた。
「それは断言できんな」カルナスは首を横に振った。「……ただ、何にせよ、もう1回《ブルーエルフ》に立ち寄る必要性が出てきたことだけは確かだろうな」

4999年3月25日 14:00
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室

「──で、その結果はどうだったんだ?」
「定休日でした」ビューロー警視の質問にサーレントが答えた。「下1桁が5の日は定休日に指定されていたようです。仕方が無かったので、残っていた住み込み従業員からアルザス・フォーリーとダリル・ギスティムの住所を聞き出してから戻って来たところです。警視からの御指示があれば伺いますが」
「それより先に、君達はこの事態をどう解釈しているのかを聞きたいのだが?」
 デニムが答えた。「フォーリー料理長とギスティム店主のどちらか──場合によっては両方が嘘をついています。偽の来客記録をでっち上げるほど手の込んだ嘘です。どっちかが嘘をついていたにせよ、その目的はろくな物じゃないはずです。連続女性失踪事件との関連も考慮しなければ──」
 ビューローは手を上げてデニムの意見を止めた。「それは早計じゃないかね?」
「しかし、偶然にしては性質(たち)が悪過ぎます」サーレントが警視に反論した。「連続女性失踪事件に巻き込まれた女性達のうち3人が利用したことのある店で、店の来店記録という重大な資料が改竄されており、その改竄記録が全てその女性達3人に関係するものばかりであり、更に改竄データには常に同じ男性達3人のデータが併記され、この男性達3人のうち2人が死亡し、残る1人が警視庁の職務質問に対して殺人という最も過激な方法を用いて抵抗した……。これらの動きを全て偶然の一致として片付るとでも仰るのですか?」
「つまり、『ザール達3人は連続女性失踪事件の重要参考人だ』とでも言いたいのかね?」
「はい」デニムは頷いた。「犯人であるかどうかは分かりません。しかし、彼らが何らかの手掛かりを握っていることだけは確かだと思います」
 ビューロー警視は数秒間無言で考えた後、おもむろに頷いた。「話は分かった。この話はラマン秘書官に報告しておこう」
「ありがとうございます」デニムが感謝の言葉を述べて頭を下げた。
「……しかし、アルザス・フォーリーとダリル・ギスティムに対してはどう対応すれば良いのだ? 連続女性失踪事件の重要参考人として警視庁に引っ張るわけにもいかないだろうに」
「思い切って2人とも捕まえませんか?」セントラーザが訊ねた。
「悪くはない手ですな」カルナス警部補が同意する。「ただ、捕まえる時には例の来客名簿が必要不可欠です。だとすると、何か言い掛かりをつけて2人を現行犯逮捕するだけでは駄目で、併せて《ブルーエルフ》の捜査礼状も欲しいところですね」
「今から捜査礼状を請求したら、出来上がるのはいつになります?」サーレントが訊ねる。
「明後日の朝だ」ビューロー警視は答えた。
「では、早速お願いできませんか?」カルナス警部補が言った。
「容疑は何にする?」
「有印私文書偽造しかありません」デニムは間髪入れずに即答した。「犯罪が行われたという確固とした情報が判明しているのはこれだけですからね。警視庁のお偉方の皆様も文句は仰らないでしょう」彼の意見に、残る3人は無言で頷いていた。
「分かった」ビューロー警視は頷いた。「では、早速話してくる」
「それから、もう1つ」サーレントが付け加える。「この件は絶対に内密にお願いします。秘書官と警視総監以外には漏らさないよう、是非お願いします」
「それは心得た」ビューローは再度頷いた。

4999年3月26日 12:30(休廷日)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、食堂

「バソリー神殿も嘘を言ってたってわけ?」キャサリン・グリーノック司教がチキンサラダにフォークを突き刺しながら訊ねた。
「結果的にはそういうことになる」ラプラスは頷いた。
 前日に行われた異端審問の審理第1日目では、バソリー神殿側の予想に反して、8人の被告人のうち2番と8番──いずれも《7番街の楽園》の常連客である──があっさりと起訴事実を認め、「私はナディール教徒です」と裁判官達の前で宣言してしまったのである。法廷にいたタンカードの聖職者達は特に反応を示さなかったが、バソリーの聖職者達の反応は特筆に価するものがあった。特に目立った反応を示していたのは司祭アテナ・オナシスで、被告人8番が罪状認否の場で自らが異端者であることを説明した時、椅子から立ち上がって「今の証言は嘘です!」と大声で叫んだのである。
「裁判終了後も大変でしたね」マンフレートがロールパンを千切りながら言った。「アテナ・オナシス司祭が大急ぎでバソリー神殿の裁判官達に駆けよって、『何がどうなっているんです』と問い詰めていましたからね。あの方にしてみれば、シルクスからの指示で動いたことが結果的に裏目に出てしまったわけですから」
「面目丸潰れだな」
「(バリバリゴクッ)……ところで、弁護人と告発人は何をしてるのかしら?」キャサリンはチキンサラダを喉に送り込んでから訊ねた。
「明日に向けての戦略会議です」マンフレートが答えた。「起訴状の中身は、8人がエブラーナに移送された3月16日の時点で、弁護人と告発人に教えられています。その後、彼らは通信用クリスタルや【召喚魔法ペガサス】を駆使して、帝国の全土に捜査への協力と証拠の提出を要請して回るんです。で、その結果が出揃うのが今日です。今頃、明日の裁判に向けて既に打ち合わせが始められているはずですよ。まあ、今回はどちらの神殿も証人と情報はしっかりと揃えてくるはすですから、彼らの仕事も大変なものになるんじゃないでしょうか」
「じゃあ、明日からも1日おきになっているのはどうしてなの?」
「裁判戦略の練り直しが必要になるからだ」ラプラスはそう言ってミルクティーを口に運んだ。
「なるほどね……」キャサリンはそう言いながらチキンサラダにドレッシングを掛けた。出された時点でドレッシングは掛けられていたのだが、塩辛い物が好きである彼女には物足りなく感じられたのである。
「キャシー、裁判の感覚には慣れたかい?」
「まだまだね」ゾルトス神殿司教は首を横に振った。「裁判はまだ2回だけだし、それに裁判の本番は明日からだったでしょ? だから『慣れた』と言えるほど経験を積んだわけじゃないのよ。それに、この国の異端審問制度については知らないことが多過ぎるの。……だって、『ナディール教団って何?』って他の裁判官に聞かなきゃならないんだから」
「そういうことだったら、ラプラスさんに聞けば大丈夫ですよ。だって、エルドール大陸では宗教史と宗教学の権威として有名ですからね、教授?」
「私としては否定したいところなんだが、そういうことになってるらしい」ラプラスは照れながら頷いた。「とにかく、私が知ってることだったら可能な限り教えてあげられるが」
 キャサリンは微笑んだ。「それならお願いするわ、ラプラス教授」
「ああ」ラプラスは背筋を伸ばし真顔に戻った。「ナディール・ラント・インダールという人物は知っているな?」
「その程度は知ってるわ。かつての神々の大戦の末期に現れた大地の民で、大戦が終了する直前に、同じ大地の民の裏切りに遭い処刑されたそうね。可哀想な人だわ」
「しかし、問題のナディール教団に属している人間達は、ナディール・ラント・インダールは処刑されずに生き延びたと主張しているんだ。旧太陽歴時代に処刑されたのは彼女が用意した影武者であり、本人はどこかに逃げ延びた後に転生を繰り返している……そういう話なんだが、これは聞いたことはあるかい?」
「その異説も知ってるわよ。デフルノール王国文部尚書のジェノア・サーゲイトとか、テンバーン王国大蔵大臣のレイオット・バルギザとか、有名な学者さんの多くがそう考えてるそうね。どういう根拠でその説を信じてるのかは全然分からないけど、その人達は転生の呪文を使って彼女が現代まで生き延び続けたって話してるのよ」
「良く御存知ですね」マンフレートが感心して言った。
「一応ね。ゾルトス神殿は魔術師ギルドと同様に、サロニア協約で禁呪とされた時間操作の呪文書を封印する仕事を与えられてるのよ。転生の呪文書は禁呪には指定されてないけど、時間操作の呪文書と併記されてることが多いの。だから、仕事柄、この話も耳に入ってるのよ」キャサリンはハーブティーの入ったコップを手に取った。
「そうですか。これは失礼致しました」マンフレートは軽く頭を下げた。
「……で、話を元に戻そう。……実は、ナディール教団の司教や司祭達の多くが『実際にナディールに会った』と話してるんだ」
 キャサリンは危うくコップを落としそうになった。「ちょっと待ってよ。本当なの?」
「私は会ったことが無いから分からないがね。しかし、異端審問に掛けられた司祭や司教の中には『この目でナディール様のお姿をはっきりと拝見させて頂いた』と話す者が多いんだ」
「信じられないわ……幻影でも見たんじゃないかしら?」キャサリンはまだ半信半疑である。
「実際の彼女の生死はともかく、ナディール教の信者達は彼女の生存を信じている。これが教団の教義の根本にあるんだ」
 キャサリンは無言で頷いた。
「そして、彼らはナディールが掲げた理想の社会を建設することを最終目的として掲げている。そして、その社会の象徴的なリーダーとしてナディールを迎えようと──」
「ちょっと待って」キャサリンがラプラスの言葉を止めた。「彼らの『理想の社会』って何なのかしら?」
「端的に言えば、彼らの最終目的は身分制度の完全な破壊にある」
「身分制度の完全な破壊……」キャサリンはラプラスの言葉を繰り返した。
「そうだ。ありとあらゆる制度上・社会上の差別を廃止し、全ての人々が平等な地位を得る社会。そして、全ての人々が対等の立場で政治運営に関与できるシステムを持った社会だ。無論、何百万の人間が同時に政治に参加することは無理だ。そこで彼らは、全住民の中から代議士を選び、彼らによる話合いを通じて政治を行わせようと考えている。そして、代議士は2年で必ず全員が辞めさせられ、新しく住民達によって選ばれた代議士達と交代する……」
「実現可能なの?」キャサリンが訊ねた。
「実例が無いわけではない。今から1900年ほど前に、今はウル帝国の支配化に入ってしまったウルクの街で、似たような制度が実際に行われていたことがあるんだ。政治学者達は『民主制』と呼んでいたが、それはどうでも良い。この時には、全ての成年男子が一堂に会し──」
「女性は参加できなかったの?」法的には女性であるキャサリンが訊ねた。
「駄目だったらしい。『女性の仕事は家庭を守ること』という道徳観が支配的だったからな。それはそうとして、ウルクの街の人々は合議と多数決によって政治を全てを決めていたのだ。宣戦布告の決定から下水道工事の順番まで全てだ。しかし、ウルクで実験的に行われた民主制は、政治への無関心が広がるにしたがって腐敗し、最終的にはリマリック帝国の建国者エディオス・アリム・リマリックによって民主制のウルクは滅ぼされた。ウルクの街はこの後も生き残り都市には自治が認めらたが、民主制の存続だけは許されなかった。今のテンバーン王国では、似たような制度が全国規模で展開されてるらしいが、これが上手く機能してるかどうかはあまり知らない。その辺の話は副ギルド長のラフディアス氏のほうが詳しいだろう」
「機会があったら聞いてみるわ」
「もう1回話を戻すけど」ラプラスはミルクティーを一口飲んでから言葉を続けた。「ナディール教団の目的は身分制度の破壊された理想の社会の実現。そして、ナディールはその社会のシンボル的存在として人々に迎えられる。全ての人々の完全なる平等を実現させた者、平等なる人々によって動かされる政治の中立かつ孤高なる監視役として」
「『神ナディールの名の元に全ての人は完全に平等である』」マンフレートが言葉を挟んだ。「これが彼らの教義なんです」
「……でも、この教義はナディールによる世界征服を容認するのと同じことじゃないのかしら? シンボルとなるナディールって『存命中の』人物でしょ? それって単なる個人崇拝と変わらないんじゃないかしら?」
「よくぞ気付いた」ラプラスはそう言って軽く拍手した。「宗教学のテストでAがもらえるぞ」
「ありがとう、教授さん」
 マンフレートがラプラスによる説明を続けた。「まあ、実情が何にしろ、ゲイリー陛下をはじめとする今のシルクス帝国政府にとっては、この教団は危険極まりないものでしょう。身分制度の崩壊でもナディールによる世界征服でも、現体制とは相容れない存在であることには違いありませんからね」
「それで異端に指定されてるわけね」
「ああ」ラプラスは頷いた。
「話は大体分かったわ」キャサリンは声を落とした。「でも、どうしてわざわざ『異端審問』というものを作ったのかしら? 政府にとって害になるものを取り除くだけだったら、普通の裁判でも十分に対処できるはずなのに……」
「こればかりは私も分からない」ラプラスは首を横に振った。「バディル勅令が公布された時期の文献や資料が散逸しているから、異端審問制度を作った人間達が何を考えていたのか全く分からないんだ。ついこの間まで、私が帝国大学で研究してたのもこれだったんだが、資料が無いから全てが推測になってしまう」
「でも、『異端』というレッテルを貼ることによって、他の犯罪と邪教崇拝が明確に区別されていることは事実です。そうした区別をつけることによって、邪教崇拝に対する恐怖心と嫌悪感を煽る効果は十分にあると思いますよ。多分、バディル勅令が公布された時期に、為政者達が邪教や新興宗教団体に苦しめられていて、その腹いせにあの勅令を出したんじゃないですか?」
 マンフレートの指摘を聞き、ラプラスとキャサリンは顔を見合わせ頷き合った。そして、ラプラスは微笑みながらマンフレートに言った。「君も成績はAだな」
「ありがとうございます、教授」マンフレートは微笑みながら答えた。

4999年3月26日 14:39
シルクス帝国首都シルクス、帝城、バソリー神殿総本山、応接室

 ステファナ・ルディス・テンペスタは、エブラーナから届けられていた最新の報告書を、イシュタル・ナフカスとスーザ・ルディス・テンペスタに見せた。「2名の方が罪を認めたそうです」
「強制されたのでしょうか?」イシュタルが訊ねた。
「それは無いと思われます。25日までは特別尋問は1回たりとも実施されておりませんから、2番と8番の方々は自白なさったのでしょうね。正直に申し上げますと、これは予想外の展開になってしまいました」
「それは私も同じでございます」イシュタルはそう言ってスーザに繊維紙の報告書を手渡した。「警視総監の申されていた予測が的中してしまった形になりました。……これからどうされますか?」
「今更手を引いて8人を見捨てるわけには参りません」ステファナは断固とした口調で言った。「8人全員は無理かもしれませんが、その他に冤罪になられた方は必ずおられるはずです。その方達を助け出しましょう」
「しかし、お母様。どうされるんです?」スーザは報告書から顔を上げて訊ねた。
「恐れながら申し上げますが、エブラーナへの介入は無理でございます」スーザの質問にはイシュタルが返答した。「今ここで、エブラーナの異端審問に口を出してしまったならば、タンカード神殿から『司法介入だ』との非難を浴びる口実を与えてしまうことになります。そもそも、キャサリン・グリーノック司教の登用によって異端審問所の中立性と機能が確保され、正当な手続きに基いた正当な裁判が行われること自体が大きな収穫なのでございます。今の状態で満足すべきなのであり、これ以上の物を求めるべきではありません」
 イシュタルのこの返事には部分的な嘘が混じっていた。グリーノック司教の登用によって異端審問所の中立性を確保したこと自体は喜ぶべきことであったが、このことはより露骨な異端審問への介入を不可能にさせてしまったのである。無理を押して、空白となっている裁判官の席に、親バソリー派と言われている道徳神ラミアや農業神ファルーザの司教を登用することも不可能ではなかったのである。だが、帝国首都シルクスで政治的工作を始めようとした矢先に、裁判官の空席が現地の司教達や書記室の合意によって勝手に埋められてしまい、シルクスに居並ぶ高官達はそれを黙認せざるを得なくなったのである。その中心となって活躍した──中には「暗躍」という表現を用いた者もいた──のは、デスリム・フォン・ラプラスというリマリック帝国大学の教授であった。
 ──ラプラス教授の実力を過小評価してたわね……。
 キャサリン・グリーノック司教の登用に中心的な役割を果たしたデスリム・フォン・ラプラスを、異端審問所書記室長に任命したのは、他ならぬイシュタル・ナフカスである。彼女はラプラス教授が宗教史の専門家であり速記の達人であるという事実だけを見て人選を行い、その政治的センスは「皆無に等しい」と判断していた。政治的な無能さが異端審問所の中立性に寄与する──イシュタルはこう判断してラプラスを書記室長に任命したのである。しかし、実際には、イシュタルはバソリー神殿を通じて異端審問所に介入しようと試みる羽目に陥り、実は政治的センスにも優れていたラプラスの機転によって異端審問所は中立的な存在となったのである。あまりに皮肉な状況と言わざるを得なかった。
「では、できることは何も無いのですか?」スーザが訊ねた。
「はい」イシュタルは頷いた。「私達にできることは、8人が無罪であるという証拠を出来る限り集めることだけです」

4999年3月27日 01:24
シルクス帝国首都シルクス、7番街、サーレント・スレイディーのアパート

 北西大通りに面したアパートに住んでいるサーレント・スレイディーは、この日はいつもとは異なり眠ることができなかった。3月26日から訪れていた寒波に耐えかねていたのではなく、未解決のまま今日まで放置されている連続女性失踪事件のことを考え、寝付くことができなかったのである。
 ──あれだけ多数の被害者が出てしまっているのに、誰も助けられないとは……。
 1月5日に第1人目の被害者──ルザミア・ヴィンセンスが失踪して以来、既に20人の女性が失踪してしまっていた。彼女達の年齢層は10代から20代に固まっており、今すぐ失踪するに足るような事情を持っている者は皆無であった。捜査官達による調査を通じて集められた情報により、被害者達が倉庫街の某所に連れ去られたことが判明し、犯人のアジトの疑いのある場所が発見されていたが、捜査はその段階で完全に行き詰まってしまった。そして、3月に入って、エレハイム・カッセルとソフィア・カッセルがレイプを受けた後に絞殺されていたのが発見された。警視庁の失点だけが増え続ける「ゲーム」であり、サーレントも事件の解決には不安を抱き始めていた。
 ──何が間違っていたのだろう……? 今まで俺とデニムとセントラーザの3人で追って来た手掛かりや、捜査官達が血眼になって集めていた情報は間違っていたのだろうか……?
 サーレントは寝返りを打った。
 ──そんなはずはない……。倉庫街やシルクス港で目撃者か現れたのは間違い無い事実だし、その他の場所での目撃者も、その全員が「被害者はシルクス港のほうへ向かっていた」と主張している。だから、港とか倉庫街に連中のアジトがあるのは間違い無いはずなんだ。それに、あの喘息の治療薬……名前が出てこない……まあいい、あの薬を買っていたという謎の人物が犯人の一味だということも間違い無い。7番街のアパートだって怪し過ぎる……。手掛かりは色々と転がっているのに、なぜ捜査が進まんのだ……?
 サーレントは再度寝返りを打った。
 ──情報……続報が入らないのが原因だ……。くそっ……他の情報は色々と入ってるのに、肝心の問題に関する情報だけは全然集まらん……。どうしてだ……? それに、いつから情報が入らなくなったんだ……? ……確か、港と倉庫街の情報は、ビューロー警視が人員強化を発表した直後だ。あれから情報がすっかり途絶えてしまった。しかし、なぜ情報の数が突然ゼロになったんだ? 港の連中が全員口を閉ざしたわけではないし……だとすると……まさか……港に回された捜査官達が──?
 次の瞬間、サーレントの頭が猛烈に回転を開始し始めた。そして、その結果導き出された答えにサーレントは慄いた。
 ──まさか……我ながら信じられない答えだ。だが、こう考えたら他のことはどうなるんだ? 7番街のアジト……「奴」に報告した後、捜査官の派遣が決まった……そして情報が途絶えた。フェールスマイゼン……これも「奴」に報告が送られてから足取りが途絶えた。全て「奴」に情報を提示し、「奴」が捜査官達に命令を発した直後から、情報が途絶え追跡調査が不可能になった。偶然か?
 サーレントは微かに首を横に振った。
 ──そんなはずは無い。だとすると、「奴」は疫病神なのか……それとも──?
 サーレントの頭が再び猛回転する。彼自身が立てた信じ難い仮設を確かめる為である。
 ──認めたくはなかったが……考えた通りだ。これで筋が通る。だとすると、明日……いや今日だな、今日の朝から行われる3ヵ所の家宅捜索の情報も「奴」が漏らしている可能性があるし、それに合わせて何らかの工作を働いている可能性がある。しかし、何をするつもりだろう? 捜査官達は混成チームになっている上に、皇帝直属軍からの兵士も混ざっているから、「奴」が家宅捜索に入る人間相手に小細工を弄することはできないはず……ならば、「奴」の仲間は別の行動を起こすはずだ。目的を達成する為には情報を持っている人間と、記録されている情報そのものを消せば良い──
 サーレントは自分の考えに驚いた。そして、毛布を跳ね除けるようにして起き上がる。
 ──アルザス・フォーリーの家はすぐ近くの場所だったはずだ!
 サーレントは側に置かれていた官給品のブロードソートに手を伸ばした。そして、窓辺に駆け寄ると、木窓を勢い良く開け放ち、アルザス・フォーリーの住んでいたアパートの方角に目を向けた。小望月が夜空を照らす中、北西大通りに面したアパートはいつもと変わらぬ佇まいを見せていた。フォーリー邸のある場所の窓からは僅かに光が漏れ出している。そして、眼下の北西大通りは無人──
 ──誰だ!?
 サーレントの目は、アルザス・フォーリーのアパートから全速力で逃げ出している男性の姿を捉えた。目を凝らしてみると、その背後に、ローブを被った別の男性が後を追って走っているようにも見えた。
 ──手に何かを持っている……書類?
 サーレントはドアを勢い良く開け、ブロードソードを持ったまま1階まで駆け下りると、アルザス・フォーリー邸のあるアパートへ全速力で掛けつけた。彼は階段を音を立てながら駆け上ると、ドアが半開きのままになっているドアの真正面へ辿り着いた。表札には「フォーリー,アルザス」と書かれている。ドアの隙間からは、光は漏れ出していなかった。
 サーレントは僅かな月明かりと奥の部屋に灯されていた照明、そして闇に慣らされた目だけを頼りに、土足のままフォーリー邸へ足を踏み入れた。
「大丈夫ですか?」
 サーレントの叫びに対しては何の返答も無かった。それから、サーレントは床に転がる小物に足をとられながら、照明のある奥の部屋へ入っていったが、やがて、彼の鼻に嗅ぎ慣れた──しかしいつまで経っても好きになれない異臭が漂ってきた。
 ──血の臭い……!
 サーレントは臭いの出所となる場所へ進んで行った。血の臭いが一番強く漂っていたのは、フォーリー一家の寝室と思われる場所であった。部屋には火の灯されたランタンが置かれ、橙色の炎が発する光によって、鮮血で赤く染まったダブルベッドと床と壁が照らし出されていた。机の引出しや小物入れの中身は床に散らばり、その一部には赤い血が付着していた。
「くそっ!」
 ダブルベッドの上では、アルザス・フォーリーとその妻が物言わぬ死体に成り果てていた。

-

『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
-本編(20) / -本編(22)


-

-玄関(トップページ)   -開架書庫・入口(小説一覧)