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4999年3月28日 18:30
シルクス帝国領レイゴーステム、新市街、シュレーダー家の別荘

 今から19年前にレイゴーステムで発生した大規模な貴族の反乱で、「白の回廊」と呼ばれていたレイゴーステムの美しい街並みは廃墟と化してしまった。その後、反乱を恐れて近くの農村や山林に避難していた人々が、「白の回廊」と呼ばれていた頃のレイゴーステムの美しい姿を取り戻そうと努力を重ね、白く壮麗な街並みが再建された。そして、反乱による戦火を免れたスラム街の雑然とした街並みを「旧市街」と呼び、自分達が再建した清潔な街並みを「新市街」と呼ぶようになった。
 シュレーダー家がレイゴーステムに持つ別荘は、レイゴーステムの街では新市街に位置していた。白一色で統一された街並みと調和を保つ為、壁や塀は全て漆喰や石灰岩、更には白色のペンキも使い白く仕上げられていた。そして、白色に統一された壁と庭に敷き詰められた新緑の芝生が、見る者を唸らせるほどの鮮やかな色彩の対比を作り出していた。
 赤く輝く太陽の発する西日が文字通りの白亜の豪邸を赤く染め上げる中、バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣を乗せた馬車が、無人となっている別荘の横に滑り込んだ。御者の手によって馬車の扉が外側からゆっくりと開かれ、大蔵大臣が危なげな足取りで石畳の道路に降り立った。1ヶ月前までは、シルクス帝国の財政を取り仕切る敏腕官僚として若々しい姿を保っていた彼であるが、次男ザールの失踪とそれに続く彼の犯罪──警官殺し──が、シュレーダー大蔵大臣の心に重く圧し掛かり、彼を一気に20年以上も老けさせてしまったのである。顔には深い皺が刻まれ、黒々としていた頭髪は真っ白になり、綺麗なS字型を保っていた背筋は老人のように丸く曲がり、「全てを見通す瞳」と大蔵省の職員──特に守旧派の支持者から恐れられていた瞳からは精気が失われていた。
 御者は門の鍵を開け、大蔵大臣の為に道を作った。大蔵大臣は同行していたメイドと執事に手を添えられながら、ゆっくりとした足取りで玄関へと続く石畳を歩いて行った。
 ──思い出の家……そう、愛しいザールとの思い出の家……。
 4982年の春に別荘が完成した時、彼の側には当時10歳だったザールの姿もあった。思想上の問題から鋭い対立関係を迎える以前のことであり、2人の中は誰の目から見ても親密なものに写っており、当時12歳だった長男や5歳だった三男も嫉妬を覚えるほどであった。シュレーダー一家は夏になると避暑の為にこの別荘を訪れ、美しい緑色の芝生で遊び、街外れの川辺で水浴びに興じ、近所の友人達を集めて庭でパーティーを開いた。冬になってこの別荘を訪れる時は、リビングに作られた暖炉の周りに集まり、温められた紅茶を飲みながら楽しい一家団欒の一時を送っていた。
 ──そう……あの頃は良かった……あの頃は……。
 父バーゼルスタッドと次男ザールの関係が悪化したのは、ザールが16歳になった頃からであった。大蔵省の高官として仕事に忙殺されるようになったバーゼルスタッドは、以前のように毎年2回の別荘訪問を楽しむだけの余暇を確保できなくなったのである。シルクスに住んでいる時も、その生活は全て仕事を中心に回転し、妻や子供達に構う時間は次々と削られていった。そのような父の姿を見て、ザールがその生き方に疑問を呈したのである。技術神ナランドの教えに従い自らの持つ専門技能を遺憾無く発揮する──父親がそのように信じて仕事に明け暮れる姿を見たザールは、仕事の代償として家庭をなおざりにしてしまう父の姿に反感を覚え、子供と肌で親密に触れ合う「良き家庭人」としての父親像を掲げるタンカード教団の考えを信奉するようになった。この動きに対しても、父親であるバーゼルスタッドは無関心に等しい状態であったのだ。
 当初は単に共鳴していた程度であったザールの竜神タンカードへの傾倒は、彼が過激な竜神至上主義を掲げるソレイル・ギスティム司教──現在は大司教──と接してから急激に深まっていった。それに伴い、彼の政治思想は父親の考える改革主義的なものから極端な守旧主義に変化した。大蔵省の高官であったバーゼルスタッドが息子の異変に気付いたのは、ザールが父親の政治姿勢を強烈且つ過激な言葉で非難してからのことであった。それ以降、父と次男の交わす言葉は全て口論となった。そして、ザールが18歳の誕生日を迎えた翌日──新太陽歴4990年1月3日、ザールは前触れも無くシュレーダー邸を家出した。
 ──そう……ザールはいなくなった……。でも、思い出はそのままのはずだ……。
 シュレーダー大蔵大臣は玄関の扉を開けた。約2年間掃除されないままであった別荘内にはうっすらと埃が積もっていたが、老人となった彼はそれでも構わずに中へ入っていった。4987年4月に訪れてから、バーゼルスタッド自身は1回も訪れることの無かったこの別荘の中には、12年前の懐かしい日々の記憶がそのまま封印されていた。壁に掛けられている絵、戸棚の収納されているダルザムール帝国産の陶磁器の皿、画家に頼んで描いてもらった4985年当時の家族の肖像画……。その1つ1つを見るたびに、父親の脳裏の中に家族との楽しい日々の記憶が蘇ってきたのである。
 ──なぜいなくなったんだ……私のことが信じられなかったか……。
 皺が深く刻まれた顔に一筋の涙が流れ落ちた。
 ──あの頃に戻りたい……しかし……ザールは犯罪者……もはや取り返しがつかない……どうすれば良いのだ……。
 バーゼルスタッドは静かな足取りでリビングへと向かった。大きく開かれたガラスの窓から暖かい西日が差し込み、窓際に置かれたまま放置されていたおもちゃ箱を赤く照らし出していた。三男が大好きだったおもちゃ箱であり、次男と父親も一緒になって、時間が経つのも忘れて遊び続けていた。
 ──懐かしい……中には何が入ってたんだ……?
 大蔵大臣は埃が舞い上がるのも気にせずに、おもちゃ箱の蓋を外した。様々な玩具が小奇麗に整理されている中、彼の目に最初に飛び込んだのはチェスのボードであった。彼はボードを静かに取り出すと、埃の積もった絨毯の上に置いた。そして、再びおもちゃ箱の中に目を戻し、中からチェスのこまが入れられた袋を取り出し、埃と羊毛の絨毯の上に広げた。手垢のついたチェスの駒が、彼の懐かしい記憶を再び呼び起こした。
 ──そうだ……ザールはこれが得意だったんだな……私も何度泣かされたことか……。
 シュレーダー大蔵大臣はゆっくりチェスの駒を並べ終わると、無言のまま1人でチェスの駒を動かし始めた。対戦相手は誰もいない寂しいゲームであるが、今の彼はこれの他にすることが思い付かなかった。
 彼を別荘まで送った執事とメイドは、主人の寂しい背中に掛けるべき言葉を見出すことができず、無言のまま彼の姿を見守るほかなかった。1人での寂しいチェスが果たして彼の心を癒すことができるのか執事達には推測しかねたが、要らぬ言葉が彼を更に傷付けてしまうのではないか……2人はそのような恐れも抱いていた。突然、メイドが自分の羽織っていた紺色のカーディガンを脱ぐと、沈みゆく夕日だけが見守るチェスを続けていた主人の背中に、静かに、そして優しくガウンを掛けてやった。
「……ああ、ありがとう……」シュレーダー大蔵大臣はこの日初めて口を開いた。

4999年3月28日 22:49
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》前

 追跡に失敗した村人達は一旦クラム村に集まり、課長と村長に事実関係を報告した。逃走中の男を取り逃がしたことに対しては全員が失望と不満を抱いていた。しかし、全員の顔に濃い落胆の表情が現れているわけではないし、大声を上げて地団駄を踏んでいる者がいるわけでもなかった。追う側の準備があまりに不十分であることは誰もが承知していたし、ザールそのものの姿は捉えられなかったものの、彼を目撃したという証言は複数得られており、収穫は皆無ではなかったのである。
 サーレント率いる総勢25人のザール追跡隊と、警視庁に第1報を届けた女性軽戦士がクラム村に現れた時には、村人や商人の大半が自宅や宿屋へ戻り、宿屋前には村長と通産省タバコ部外国取引課長だけが残されていた。
「どうなっています?」挨拶を済ませた後サーレントが訊ねた。
「範囲は特定できています」ブロスティン課長が答えた。「クラム村の北北東に広がる森林地帯のどこかに隠れていると思われます。事情を知らないまま彼に保存食を提供した猟師や、彼が森の中を走っているところを目撃した樵達の証言も得られています」
「北北東だとすると……ミーダントへ行くつもりですね」デニムが言った。
「おそらく」ブロスティンは頷いた。「ですから、街道の監視も重要な仕事になるでしょう。街道の東側に逃げられたら、間違い無くそのまま見失ってしまいますね」
「それだけは避けたいわね」セントラーザが言った。
「村のほうではどれだけの用意ができているのですか?」サーレントが村長に質問した。
「人手は15人が限度ですな。ザールに踏み荒らされた畑を元に戻す仕事も残されていますし……。猟師や樵達が主力となるでしょう。猟師やタバコ商人には、犬を提供してくれるように頼んでおります。幸運なことに、ザールは多数の遺留品を残していきましたから、その匂いを覚えさせれば何とかなるかもしれません」
「訓練は大丈夫なのでしょうか?」デニムが訊ねる。
「大丈夫よ」女性軽戦士が請合った。「その為に訓練してきたワンちゃん達なんだから」
「では、明日の作戦はどうなさいます?」ブロスティンが訊ねる。
 サーレントは右手の人差し指と中指を立てた。「当面は2部隊用意しましょう。1つ目の部隊は街道の封鎖に回ります。こちらはシルクスから派遣された兵士達と私が受け持ちましょう。で、もう1つの部隊は村人達が参加します。イングラス事務官とフローズン巡査はこちらの部隊に加えましょう」サーレントの言葉に合わせ、デニムとセントラーザが軽く頭を下げた。「そして、ブロスティン課長と村長にはここに残って頂きたいのです。ここが作戦本部ということになりますから、誰か重要な人間が残っていなければなりません。……よろしいでしょうか?」
「了解しました」ブロスティンが答えた。その隣では村長が無言で頷いている。
「明日になったら、ベントさんの敵討ちがやっとできるのね」
「そういうことだ」サーレントはセントラーザの言葉に応えた後、最後の指示を与えた。「作戦決行は明日の午前6時です。今日はできる限りゆっくりと休んで下さい」

4999年3月29日 02:07
シルクス帝国領レイゴーステム、新市街、シュレーダー家の別荘1階、リビング

 10年以上前の思い出にふけりながら、シュレーダー大蔵大臣はチェスの駒を動かしていた。既に日は沈んでおり、彼とチェスのボードを明るく照らし出していたのは、室内に置かれていたマジックアイテムの照明だけであった。この明かりも彼のメイドが点けてくれたものである。彼は窓際に腰を下ろしてから全く動かなかった。
 既に試合は6回行われていた。「白」──バーゼルスタッドが座っていた側が全て勝利を収めていた。駒の動かし方はどの試合でも異なっていたが、その結果は常に「白」の勝ちであった。それは、友人がいない子供が、架空の人間──あるいは縫いぐるみを相手に、独り言を言いながら延々と遊ぶ様にそっくりであった。駒を動かし続ける間、彼の頭の中には古き良き日々の思い出がエンドレスに繰り返されていた。ザールや子供達との明るく楽しい日々、妻との楽しい語らい、4990年に亡くなった母への親孝行──その多くが大蔵省での仕事によって失われていた。その代わりに彼が得た物は、西リマリック帝国とシルクス帝国における不動の政治的名声と彼に力を尽くしてくれる多数の同志達、シルクス帝国の貴族の中でも屈指の資産、そして多くの敵であった。
 ──仕事での名声と家庭……釣り合う物だったのだろうか……?
 バーゼルスタッドの手が止まり、彼は思い出だけが繰り返される「牢獄」から解放された。そして、僅かながらも残っていた冷静な観察眼で、自分自身の人生を振り返った。リマリック帝国の皇室に直接仕える騎士の家に生を受け、若くして政治を志し大蔵省へ入った。妻と3人の子供を得て、大蔵省の危険で急な出世の階段を立ち止まることなく昇り続けた。そして、53歳で大蔵大臣の椅子を射止め、優秀な政治家としてその名声を不動のものにした。だが、出世の階段を昇る途中で、彼は様々な重荷を置き去りにしてきたことになる。家族との時間も置き去りにされた存在であった。バーゼルスタッド自身は家族をこよなく愛していたが、それが行動に全く結び付かなかったのである。そして、ザールは父親の行動を「愛情の欠落」と解釈し、過激な思想に身を投じることになってしまった。今や、ザールは殺人鬼として帝国政府の官憲に追われる身である。
 ──失った物が大き過ぎないか……?
 彼の思考は更に続いた。ザールが殺人を犯してしまったことを秘書から聞いた時、シュレーダー大蔵大臣は内臓をえぐり出されるほどの苦痛を感じた。息子達に対して行っていた教育で、彼はナランド神殿の教義を教えるだけではなく、「人殺しだけはするな」という基礎的な道徳を教えたつもりであった。ところが、息子はそれを破り、シルクス帝国の法律を破り、大衆の面前で、よりにもよって警視庁の職員を殺してしまったのである。父親としては明らかに失格であった。
 ──このような父親だと知ったら、世間の人々はどう思うだろうか……「自分の子供を『統治』できないような人間に政治家なんて無理だ」と激しく非難され、私は志し半ばにして失脚することになる──
「失脚……?」バーゼルスタッドは7時間半ぶりに口を開いた。
 官僚と政治家として人生の大半を捧げてきた彼にとって、失脚とは破滅を意味していた。そして、その破滅がまさに訪れようとしていたのである。どのような事情があろうと、自分の国の中で殺人を犯した息子を持つ父親を、何事も無かったかのようにそのまま大蔵大臣の椅子に座らせ続けるほど、現皇帝ゲイリー・フォルト・テンペスタは甘い人間ではないだろう。そして、彼の失脚には改革派の政治家達──テュッティ・ナフカス通産大臣や皇后リュミア・グラディア・テンペスタも反対できないだろうし、守旧派の政治家達はこれを好機にして大蔵省の乗っ取りを進めるだろう。彼の後釜に座るアーサー・フォン・ランベス枢機卿は守旧派の大物政治家の1人で、大蔵副大臣に就任するフェロヴィッチ・カリーニンはランベス枢機卿の懐刀とも言われている。彼が必死の思いで登用した中立派の敏腕官僚ウィリアム・フローズンも、様々な難癖をつけられて早々に退官させられることは目に見えていた。シュレーダーが迎えるのは自身の失脚だけではない。大蔵省内部での守旧派の帝国に対し、彼が必死になって築き上げてきた中立派と改革派の王国が失われることであった。彼が35年間の滅私奉公の末に築き上げた全てが、一瞬にして消滅してしまうのである。彼が祖先から受け継いだ土地すらも、「被害者救済」の名目で皇室に召し上げられるかもしれなかった。
 バーゼルスタッド・フォン・シュレーダーが迎えるのは「完全な破滅」であった。
「……何と……いうことだ」彼の口の中は乾燥しきっていた。「私が……家族を捨ててまで得た物が……全て……全て失われるなんて……。私は……全てを……全てを失うのか……?」
 絶望的な状況が悲観論を作り出し、その悲観論が自らの被害妄想を肥大させ、そして膨らんだ被害妄想が新たな悲観的予測の根拠となる──バーゼルスタッド・フォン・シュレーダーはこの危険なサイクルに囚われ、脱出することができなくなっていた。彼にとっては希望の光であったはずの妻と長男・三男の存在も、今の彼の視界からは全く外されていた。また、大蔵省内部のパワーゲームの結末についても、改革派と中立派はシュレーダー抜きでも揺るがないほどの勢力と地歩を獲得していたのにもかかわらず、聡明であるはずの彼の頭脳はこの事実を想起できなかった。また、「被害者救済」でシルクス帝国に取り上げられることが予想された領地も、実際にはシュレーダー自身が持っていた土地の10%に過ぎないのであるが、彼はこのことにも気が付けなかったのである。
 ──私は全ての富と名声と地位を失った上に……胴体から切り離されたザールの首を……ザールの首を……! それだけは嫌だ……絶対見たくない……ザールが処刑されるなんて聞きたくも見たくもない……。
 バーゼルスタッドの頭の中に言葉が響き渡った。
 ──見たくない聞きたくない見たくない聞きたくない……
 そして、彼の被害妄想と悲観論は頂点に達し、ある結論を導き出した。
 ──見たくない聞きたくない見たくない聞きたくない……見たくなかったら……聞きたくなかったら……やるべことは…………あれしかない……。
 彼は突如として立ち上がると、暖炉の上に掛けられていた一家の肖像画を取り外し、絨毯の上に投げ捨てた。肖像画の裏側は金庫になっており、シュレーダーは血走った目で金庫のダイヤルを回していた。
 ──ザールが……死ぬところなぞ……見たくないし……聞きたくない……
 彼は金庫の扉を開くと、金庫の中に唯一収納されていた陶器の瓶を取り出した。そして、蓋を開け、中に詰められていた橙色の小さな固体を手のひら一杯に乗せた。
 ──全てを失った上に……ザールが処刑………………それだけは嫌だ!
 バーゼルスタッドは、左手のひらに乗せられていた橙色の粒を口に入れ、あたかも砂糖菓子を食べているかのように一気に喉へ送り込んだ。橙色の粒にはオレンジのような甘味と酸っぱさがあり、口の中ではその味の余韻が残っていた。彼は橙色の粒が想像以上に美味だったことに驚きすら感じていたが、彼が思考を続けられる時間は残りごく僅かとなっていた。
 ──これで良い……良いんだ……これで…………
 彼の頭の中に睡魔が忍び寄る。意識を失う直前、彼の脳裏には家族が微笑みかける姿が映し出された。彼の口が僅かに動き、誰も聞き取れないほどの微かな言葉が口から漏れた。「……先に…………逝く………………」

4999年3月29日 02:19
シルクス帝国領レイゴーステム、新市街、シュレーダー家の別荘2階、寝室

 バーゼルスタッド・フォン・シュレーダーに仕えていた執事とメイドも眠れなかった。彼らは主人の身のことを案じていたのである。長年連れ添ってきた執事にも口を開かず、暖炉のあるリビングでただ1人で静かに家族との思い出に耽っている……ならば、そっとしておいてやるべきではないか……2人の下した結論はこの通りであった。しかし、主人の身のことを案じていることは2人とも同じであり、眠ることができないのも同じであった。
 執事が寝室に置かれていたネジ巻き式の時計を見て溜息を吐いた時、1階から物音が聞こえてきた。
「何かしら?」メイドはベッドの脇に置かれていたランタンを手に持つと、ゆっくりとした足取りで真っ暗な廊下を進み、階段を下りて行った。
 ──御主人様が御無事ならば良いのだけれど……。
 1階に到着したメイドは、リビングから漏れる光を目指して歩いた。「御主人様?」
 メイドは壁の後ろからそっとリビングの中を覗き込んだ。そこで目にした光景を見て、彼女は思わず息を飲んだ。
 そして、深夜の住宅街に女性の悲鳴が響き渡った。

4999年3月29日 05:31
シルクス帝国首都シルクス、3番街、アパート2階、セントラーザ・フローズン邸

 大蔵省財務部長ウィリアム・フローズンは、何者かが自宅のドアを繰り返して叩く音で目を覚ました。彼はベッドからゆっくりと置き上がると、ベッドの外がまだ薄暗いことに悪態をついた。そして、娘のセントラーザは既に起きている時間帯であることを思い出した。
 ──昨日から……クラム村に出張とか言ってたな……。大丈夫かな……。
 財務部長は眠気を振り払うかのように頭を大きく振ると、ゆっくりとベッドから降り立った。そして、指で白髪混じりの髪を整えて寝癖を直すと、何者かがドアを繰り返し叩いている玄関のドアへと向かった。
「誰だね? 早朝から」ウィリアムはドアを開ける前に訊ねた。
 ドアを叩く音が止み、男性の声が戻って来た。「大蔵省の事務官です。緊急事態が発生しておりますため、部長には今すぐに大蔵省までお越し頂きたいのです」
 ウィリアムはドアを開けた。目の前に立っている男性事務官の表情は困惑と焦りに満ちていた。彼はその表情を見て、ただならぬ事態が進行中ではないかと感じた。「近所迷惑というものを少しは考えたらどうなのかね?」
「申し訳ありません」男性事務官は頭を下げた。「しかし、そんな悠長なことを話している暇はありません。下には馬車を待たせてあります。着替えを済ませ次第すぐに大蔵省に来させるよう宰相閣下から御命令が下っているのです」
「宰相閣下が? 何があった?」
 大蔵省事務官は一息ついてから言った。「シュレーダー大蔵大臣がレイゴーステムの別荘で服毒自殺を図りました。現在、意識不明の重態です」

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