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4999年3月29日 08:20
シルクス帝国領クラム村、村外れの森林地帯

 デニムとセントラーザ、そして2人に同行していた猟師の男性は、猟師の飼い犬であった黒い猟犬の歩みに従って、クラム村の外れに広がる森の中を歩き続けていた。デニムの手にはクラム村の略地図が握られていたが、森の中に入った直後から、その地図は全く用を成さなくなっていた。彼が方向音痴だったからではない。猟犬が指し示した進路とは、ザールが逃走時に「切り開いた」新たな道であり、彼の手に握られていた地図には全く書かれていなかったのである。
「どこに向かっているんです?」デニムは胸の高さまで伸びていた草を掻き分けながら、先頭を歩く猟師に訊ねた。
「……何て言った?」猟師が聞き返した。「もっと大きい声で言ってくれ!」
「どこに向かっているんです!?」デニムは一語一語に力を入れて言った。
「北に伸びている細い山道だ。その山道の近くに、昨日ザールとかいう野郎が立ち寄って、猟師から食い物を分けてもらったらしいぞ」
「しかし、何でこんなところを進んだのかしら?」最後尾を歩くセントラーザが訊ねた。
「逃げてる奴に聞け。どうせ、大した理由は考えてないだろうがね」猟師は口をつぐんだが、すぐに再び開いた。「おっと、そろそろ道に出るぞ」
 猟師の言う通り、1分も経たないうちに、3人と1匹は細い山道へと辿り着いた。昨日の捜索では、ここまで辿り着いたところで夕暮れのために捜索が打ち切られていた。猟師は木の陰に位置している山小屋を見つけると、デニムとセントラーザの肩を叩いた。「おい、あれだよ」
「あれって……」デニムは猟師が指差した方角を向いた。「……ああ、ザールに保存食を提供したとかいう猟師の家でしたね」
「そうだ。あそこに奴が来たことは分かってる。今日はその先を捜索するぞ。……よし、ジェフ。こいつの匂いを嗅ぐんだ。いいな?」彼は懐からザールが持っていたハンカチを取り出し、彼の飼い犬の鼻に近付けた。黒い猟犬はしばらく匂いを嗅いでいたが、やがて短く吠えると山道を東の方角へ歩き始めた。
「賢いんですね〜」セントラーザは感心していた。
「まあな」猟師はセントラーザの言葉を軽く受け流した。「もとから賢い犬だったな。まあ、俺の使い魔になってるから、賢いのも当然かもしれんが」
「金系統呪文も使えるわけですか」デニムが応えた。
「まあ、そういうことだな」
 10系統に細分化されている魔術の中で、自然の動物を操り大地に地殻変動を引き起こさせる金系統呪文には、【ファミリア】と呼ばれる呪文が存在する。術者の飼っている動物のうち1体のみに掛けることによって、その動物を使い魔として術者の支配下に置くことが可能になるのである。そして、使い魔には人間並みの知性が一時的に付与され、術者と使い魔は精神的に「結合」された存在となることにより、術者は使い魔の目や耳、鼻を通して遠く離れた場所を観察することが可能になるし、また使い魔に対して高度な命令を与えることもできたのである。無論、精神を「共有」としていることにより、使い魔の感じた痛みは術者に伝わってしまうというデメリットも存在したが、これは他のメリットと比較すれば些細な問題でしかなく、使い魔を得る為だけに金系統呪文を習得する者は多数見られた。
「他に呪文は使えるんですか?」犬の後を追いながらセントラーザが訊ねた。
「全然」猟師は首を横に振った。「猟の手助けにと思って、必死になって勉強したんだが……他の呪文は全く覚えてないな。普通の猟師ってこんなものだろう? 魔法の勉強をするくらいなら、その時間を他のことに使ってるしな」
「そうですね」デニムが相槌を打った。「僕も似たようなものですよ。魔法や学問に没頭するあまり、あなたの持っておられるような狩の知識や技術は何1つ知りませんし」
「時間は少ないということだな」
 猟師がデニムの言葉に頷いた時、前方を歩いていた猟犬ジェフが立ち止まり、3人のほうに向かって激しく吠え出した。
「おや? どうしたんでしょう?」デニムの言葉を合図に、3人が猟犬に駆け寄った。
「何か見つかったらしい……ふむふむ」猟師は猟犬に顔を近付けていた。「なるほど……こいつは厄介だな」
「どうしたんです?」セントラーザが訊ねた。
 猟師は猟犬から顔を離してから言った。「奴は森の中に逃げた。本当に山狩りになるぞ」
「どうして分かるんです?」デニムが訊ねる。
 猟師が無言で指差した森の中の山道には、新しい足跡が残されていた。

4999年3月29日 20:20(異端審問第4日目)
シルクス帝国領エブラーナ、内務省エブラーナ局長官舎、ダイニングルーム

 風邪は伝染する。
 古今東西から当然のように知られているこの真理を、デスリム・フォン・ラプラスは身をもって体験することとなった。3月28日、風邪が完治していないマンフレート・セルシュ・ブレーメンは午後から書記室に現れ、ラプラスの側で前日の異端審問の書類整理を手伝っていた。この日の夕方頃には、マンフレートの体調は元通りになり、2人は翌日の朝の再会を誓い合いエブラーナ盗賊ギルドを後にしたのである。
 ところが、官舎に辿り着いた頃からラプラスの体調に異変が発生した。高熱と頭痛に悩まされた彼はベッドで横になると、次の日の昼まで身動きが取れなくなったのである。異端審問への欠席は、彼を毎日送り迎えしている馬車の御者に伝えたため、彼は心置きなく風邪の治療に専念できた。昼過ぎには熱も下がり、頭痛だけが残る状態となったラプラスはベッドから出ると、獲得した休暇を有効に活用して、未整理のまま放置されていた書籍を本棚に並べる作業に取り掛かった。異端審問所の仕事が忙しいため、自分のことに使う時間を十分に確保できていなかったのである。本棚の整理が完了したのは午後5時半。気が付けば、前日の夜から24時間、水以外の物を何1つ口にしていない。空っぽの胃は音と空腹感でラプラスに警告を出し続けていた。
 何か食べようとして台所へ向かったラプラスは唖然とした。台所に残されていたのは酒のつまみとワインとウィスキーだけ。病み上がりの人間の食事としてはあまりに不適格な品物である。ラプラスが自宅の「惨状」に溜息をつき、買い物に出掛けるか何も食わずに眠るか悩み始めた時、内務省エブラーナ局長官舎に「救世主」達が現れた。
「──というわけなんだ。本当に助かった」
 ラプラスは眼前に並べられた空の食器──夕食を平らげた跡──を眺めて感謝の言葉を述べた。この日の夕食の献立は、エルドール大陸東南部から輸入されていた米を柔らかく煮た「雑炊」という名前の食べ物に、鶏肉のミンチボールと白菜を使ったコンソメスープ、ヨーグルトサラダ、そしてミルクティーであった。これらの食事は全て「救世主」達が用意した品であり、その間、ラプラスはダイニングルームとリビングの掃除に追われていた。
「しかし、呆れたわね」キャサリン・グリーノックが言った。「まともな食料を全然買ってないなんて……。まあ、男の台所ってこんな物じゃないかと思ってたけど、想像通りだったわ」
「ええ」マンフレートも同意した。「私もまだ独身ですけどね、パンやチーズなど最低限必要な物はちゃんと買い揃えているんですよ。そのくらいはあるだろうとは期待してたんですが……何も無いとは思いませんでしたね」
「悪かったな」ラプラスは悪態をついた。「それにしても美味しかった。特に『雑炊』とかいうの、あれが美味しかったな。私の為にわざわざあっさりとした味付けにしてくれてたし。本当にありがとう」
「そんなことないわよ。でも、米を買ったかいがあって良かったわ。サロニアのほうだと、これが冬の主食なのよ」
「そうなんですか?」マンフレートが訊ねた。
「ええ。ゾルトス神殿で食べる食事の多くって、総本山のあるサロニアの食習慣に合わせられてるの。だから、エブラーナでもこれを食べることが多いのよ」
「そうなのか……」
「幼い頃はパンで育ってたから、米という食材には最初は戸惑ったわね。似るのとも焼くのとも蒸すのとも違う、『炊く』という独特の調理方法が難しくて、ゾルトス神殿の賄いで何度も失敗してたわ」キャサリンは微笑んだ。「あの時の司教様には色々と怒られてたわね。今じゃ大分慣れたから、私が助祭達に文句を言うようになったけど」
「結構大変ですね」マンフレートが率直な感想を漏らした。
「ええ。だから、時々『ゾルトス様の神殿に弟子が来ないのは料理のせいかもしれない』って、本気で考えたくなることがあるの。実際はそんなことはないけどね。あの神殿に来るのって、私みたいなのばかりだから」
 ラプラスは頷いた。「…………なるほどな」
「今の間、何か微妙だったけど……」
「いや、こちらも『理解』したということだけだ」
 ──「性別無し」というやつだったのか……。
 キャサリンの言葉を聞き、ラプラスは彼女がゾルトス神殿に参加した理由をほぼ正確に推測することができた。ここで彼女に直接問い質すこともできたが、彼はそこまで無神経な人物ではなかった。そして、キャサリンのほうも、ラプラスのこの返答によって、彼が彼女の性的な問題を理解できたことを悟り、また、彼がこの問題について敢えて言及を避けたことを心の中で感謝したのである。
「それはそうと、マンフレート」ラプラスは隣を向いた。「今日の仕事のほうはどうなったか聞かせてくれないか?」
「……ああ、異端審問のほうですね」マンフレートはミルクティーで口を湿らせてから言った。「今日は4日目でした。異端審問のほうは相変わらずですね。2人目と8人目だけが罪状を認めたという現状は変わっていません。残りの6人は相変わらずナディール教団への関与を否定しています。今日はその6人に対する弁護人側の証人達が証言に立ちました」
「どうだったの?」キャサリンがスープをすくいながら訊ねた。
「ほとんど全部の証言が、『この人はどこそこの神をしっかりと信仰していた』というものでしたね。例えば、被告人1番──フォルティア・クロザックの場合、彼女がエブラーナに住んでいた時のマレバス神殿の司祭達とか、シルクスに住んでいた時の彼女の友人とかが、『彼女は敬虔なマレバス信者だった』とか『彼女がナディール教団を公然と批判していたところを見たことがある』とか話していました」
「驚いたな。彼女のシルクス時代にそんな話があったのか?」
「そう」キャサリンが頷いた。「証言に立った男の話だと、彼女、酒に酔った状態で、布教活動中のナディール教徒に向かって『現実を見つめない馬鹿な奴等ね』って言ったらしいのよ」
「酒に酔った状態でそんなことを言えますかね?」マンフレートの言葉は反語形であった。
「証言のほうは大体分かった。証拠品のほうはどうだったんだ?」
「色々なものが提出されていました。フォルティア・クロザックの場合、当時のエブラーナ司教からもらったホーリーシンボルのレプリカが証拠品として提出されていました」
「レプリカ? どういうことだ?」ラプラスは眉間に皺を寄せた。
「フォルティアという人物は極端に魔力との親和性が低い体質らしいんです。ですから、マレバス神殿に助祭(駆け出しの聖職者)として加盟したいと申し出た時も、ホーリーシンボルを使いこなせないことが分かり、神殿入りを断念したらしいんです。で、その代わりにレプリカをもらった……というわけです。この話を聞いた告発人のブルーム・ライアン司祭は渋い顔をしていましたね。自分の神殿の話ですから」
「好みのタイプの女性のことだと記憶力が良くなるのね」キャサリンはそう言って微笑んだ。
「ええ……まあ……」マンフレートは顔を赤くした。10歳下の部下が見せる恥じらいがおかしいのか、ラプラスも微笑み出していた。
「他の5人の被告人達も証拠品は出ていたんだろうな?」
「はい。証拠品が揃えられているのは他の5人の被告達とて同じです。バソリー神殿やシルクスのお偉方は必死になって動き回ってるということでしょうか。そのおかげで、今日は午前10時から午後5時まで裁判が続けられていましたよ。タンカード神殿やバソリー神殿のお年寄りの方々はへとへとに疲れていました」
「昼休みも無かったわね」キャサリンが応じた。「今も、盗賊ギルドの2階では書記室の皆さんが汗水流して働いているんじゃないかしら? 私達はゾーリア裁判長の命令で、見舞いに行くよう公休を取らされたけど」
「あの人の命令か……味なことをするものだな」ラプラスはミルクティーの残りを口に入れた。
「これで裁判は一通り進んだわけです。告発人と弁護人からの証拠提出が一通り終了し、今からが審問の本番になります。3月31日の裁判では、既に有罪を認めている2人の被告に対する判決と、告発人が8人の被告に対する特別尋問の是非が決められることになります」
「特別尋問……」キャサリンの表情が曇った。「どうして有罪だと分かってる2人に──」
「有罪判決が確定したとしても、共犯者──ナディール教徒や彼らへの協力者の名前を聞き出す作業が残っています。それから、彼らに棄教または転向を迫る為に特別尋問が行われることもあります。有罪が確定した後でも、被告が棄教すると法廷で宣誓した場合は減刑されていますからね。ただ、過去の実績から見て、ナディール教徒から同志の名前を聞き出すことは非常に困難な作業ですから、棄教させるのが関の山になりそうですが」
「それに」ラプラスがマンフレートの言葉を続けた。「棄教して減刑され、釈放された人間が再びナディール教徒として逮捕されることがある。……だから、特別尋問そのものの有効性には、疑問符を付けざるを得ない部分もある。……まあ、何にせよ、特別尋問の件に関しては、私とマンフレートは口を挟めない。この問題は裁判官であるキャシー自身が考えるべきことだ。君自身の良心に照らして恥じない選択だったら、それをそのまま実行に移したらいいんじゃないかな? 私が言えるのはそれだけだ」
 キャサリン・グリーノックはしばし無言で空の食器を見つめていたが、やがて顔を上げると、小さな声で言った。「ねえ」
「どうしたんだい?」
「特別尋問がどういうものなのか、この目で確かめてみたいの」
「見たことのある人間からの忠告ですが……見ても気持ちの良いものじゃありませんよ」マンフレートが警告した。
「しかし、実際に見なければ判断できないでしょ?」
 ラプラスは数秒の間を開けてから言った。「裁判長に相談してみよう」

4999年3月29日 21:15
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》1階

 ザール・シュレーダー捜索本部が置かれている《シガレット》の1階では、村から派遣された猟師達のチームとサーレントを交えた合同会議が行われていた。参加者達は食堂のテーブルを繋げて作られた長テーブルの周囲に腰を下ろし、その上に広げられたクラム村の地図を眺めながら、ザール・シュレーダーを追い詰める方策を考えていた。
「どうなりましたか?」シルヴァイル・ブロスティンが猟師達に訊ねた。
「ここまでは追跡できた」デニム達に同行していた猟師がそう言うと、地図上の1点を指差した。「ここに小川が流れているんだが、すぐ対岸には奴の匂いが無かった。その周りも調べたんだが……匂いがここで消えてしまった」
「幅2mくらいの川でした」セントラーザが両端の言葉を継いだ。「両岸200mの範囲を調べてみたのですが、そこには彼の匂いはもちろんのこと、足跡や遺留品は見当たりませんでした」
「小川の中を移動してるんでしょうな」サーレントが言った。「あの中を歩けば自分の匂いは誤魔化すこともできるし、足跡は水の流れで消される……。思っていたよりもザールは賢そうですな」
「そうとも言えない」猟師は首を横に振った。「俺達は川沿いを移動することだけは絶対にしない。それは『沢伝い』と呼ばれている極めて危険な行為なんだぞ」
「どうしてなんです?」サーレントが訊ねた。
「理由? 色々ある。熊などの大型肉食獣と出くわす可能性が高いとか、滝などによって道が分断されることがあるとか、突然の増水のために流される危険があるとか、岩が濡れているために足場が不安定で滑りやすいとか、足を水に浸しているために体力の消耗が激しいとか……。まあ、猟師にとっては一般常識なんだが、逃げてる奴はそんなことは全然知らんらしい。典型的な都会育ちのお坊ちゃまだ」
「ザールの手掛かりは残されているのかしら?」猟師による講義が終わってからセントラーザが訊ねた。
 別の猟師が地図上の1点を指差す。その場所は問題の小川から100mと離れていなかった。「ここに小さな洞窟があるんだが、その出入り口付近に保存食の食いかけが残っていた。乾パンの湿り具合から見ると、これを食ったのはどうも今日の朝のことらしい」
「本当ですか?」ブロスティンが訊ねた。
「ああ。犬に嗅がせてみたところ、ここにしっかりと奴の匂いが残っていやがったし、洞窟の外に続く足跡まで御丁寧に残されてやがった。それで、この匂いと足跡を追跡させてみたところだな──」彼はそう言いながら指を動かし、問題の小川に到達した所で止めた。「──ここ、この場所で2つとも消えてしまった」
「また小川か……」村長が呟いた。
「私も見けたぞ」別の猟師が口を開いた。
「どこで見つかったんですか?」ブロスティンが訊ねる。
「小川の上流だ」男が指差した場所は、2人目の猟師が匂いと足跡を見失った場所から1kmほど上流の場所であった。
「川沿いに移動しているのでしょうか?」デニムが口を開いた。「川の中を移動し、所々で川の外に出て休憩を取る……この行動を繰り返しているように見えるのです。無論、これは僕の推論に過ぎませんが」
「悪くない推論ですね」最初に賛成したのはブロスティン課長だった。「もしそうだとすると、イングラス事務官は、この後のザール・シュレーダーの行動をどのように御推察されますか?」
「ちょっと考えさせて下さい」デニムは腕を組み目を閉じた。疲労のために眠りそうな状態であったが、彼は最後の精神力を振り絞ってザールの逃走経路を推理することにした。
 ──ザールが逃げているのは川沿い……、ここは彼にとっては見知らぬ土地だから、目立つ物に沿って移動していると考えるのも頷ける話……。休息を取っていたのが川に近い洞窟だったのも、自分がどこにいるのか分からなくなるのを防ぐ為……。だとすると……こういうことになるはずだが……。
「……僕の推測ですが、構いませんか?」デニムは目を開いて全員に訊ねた。そして、ブロスティンが無言で頷くのを確認してから説明を開始した。「ザールの匂いが発見されたのは川沿いに限られています。ですから……今夜彼がどこかで休息を取る時は、この辺りのどこかの洞窟になるんじゃないでしょうか?」
「同じことを繰り返す、と言うのかね?」村長が訊ねた。
「多分そうだと思います」デニムは頷いた。「彼が昨日と今日の行動パターンを踏襲したとしたら、多分そうなるはずです。ザールの経歴については詳しい話を知らないのでどうにも言えませんが、彼はこのクラム村に始めてきた人間だったとしたら、彼はこの村の地理を全く知らないことになります。ですから、彼は山道や川などの目印となるものを利用して移動するわけです。道無き道に足を踏み入れたら、方向感覚に狂いが生じて森のどこかで迷い始め、あっという間に猟師達によって発見されるのではないか……彼はこれを恐れ、目印を頼りに行動することにしたのでしょう。まあ、一番最初に気が動転してここから逃げ出した時は、慌てていたためか畑や藪の中を横切ることも見られましたが」
「それと」セントラーザが横から口を出した。「彼が川沿い移動しているのは、飲み水が欲しいからじゃないかと思うんです。彼が最後に立ち寄った猟師の家では、彼は水をもらっていませんし、彼は水筒を持ってないはずですからね」
「ありがとう」デニムはセントラーザに軽く頭を下げた。「ですから、ザールが今夜足を休めている場所も、比較的川に近い場所になるはずです。それも、最後の方が足跡を発見された場所から上流のほうの場所に」
「だとすると、この4つの洞窟が怪しいな」猟師の1人はそう言いながら洞窟の記号を指差した。「奴がお前の言った話通りに動いてるとすれば、この4つの洞窟のどこかに入ってるはずだ。秋だったら落ち葉の中に隠れたりすることもできたが、今じゃそれは無理だしな」
「もっと上流に移動してたり、川から離れた場所で休んでる可能性はあるのですか?」サーレントが訊ねた。
「無いわけではないが、それはまず無いと思うぞ」
「どうしてです?」ブロスティンが猟師に訊ねた。
「奴の移動方法がその根拠だ。彼は膝から下をずっと水に浸した状態で移動している。これは実に疲れることでな、特に川の水がまだ冷たい今の季節だと、君達が想像してる以上の体温と体力が奪われてしまう。それに、課長さんや村長、ここで昨日昼飯を食っていた人達の話じゃあ、奴の靴は安物の革靴だったそうじゃないか」
「……つまり?」サーレントが先を促した。
「奴は長く移動できんってことだ。これ以上長く移動したら、川の水のせいで靴か体のどっちかが先にいかれてしまい、次の日から大して動けなくなる。それを気にしたら大した距離は移動できんはずだ。それを気にしなかったら靴か体のどっちかが駄目になって足止めを食らい、そのまま俺達に捕まってシルクスへ戻される……。まあ、奴が体か足を痛めてたら、それはそれでやりやすくはなるがな」
「明日の朝、洞窟から彼を逃がしてしまったらどうなるかね?」村長が訊ねた。
 この質問にはデニムが答えた。「ザールは更に北へ逃げ続けるでしょう。そうなりましたら、クラム村ではなくその北側の村の方に助力を請うことになります。クラム村の皆さんの手でザールを捕まえたいのでしたら、今日の朝が山場になります」
「ラストチャンスか……」村長が呟いた。
「それでは、どうしますか?」ブロスティンが訊ねた。
「今日は徹夜ですな」サーレントが言った。「午前1時まで休息を取った後に出発し、4つの洞窟を遠巻きに監視しましょう。それと同時に、街道沿いに待機させている兵士達を北に動かします」彼は一旦言葉を切った後室内を見回した。「強行軍になりますがそれでよろしいでしょうか?」
 出席者全員の首が縦に振られた。

4999年3月29日 22:20
シルクス帝国領クラム村の北7.2km、洞窟

 ザール・ボジェット・フォン・シュレーダーは激しい疲労感と筋肉痛に襲われていた。
 ──くそっ……水の中を移動したのが間違いだった……。
 山小屋で保存食の提供を受けた彼は、その後山道と小川を交互に歩き北へ逃走を続けた。彼は猟犬による追跡を振り切る為に、川の中での移動を考え付いたのであるが、それが結果的に裏目に出てしまった。膝まで水に浸かった彼の長ズボンからは容赦無く体温が奪われ、長時間水中に没していた彼の革靴は底が破けて使い物にならなくなっていた。洞窟に辿り着く直前の300mは裸足で移動する羽目になった。足の裏は傷口──木の破片が突き刺さった──から流れ出た血と腐葉土で汚れていた。彼の身分を隠していた変装も全て解けてしまい、彼はその素顔を空気に晒していた。
 ──いや、そもそもシルクスを離れたのが全ての間違いだった……あの男の話なんか無視してれば良かった……。
 彼は大きく欠伸した。突然睡魔が襲いかかってきた。
 ──それよりも、明日の朝、ここから何事も無く脱出できるだろうか……。外に見張りが立っていなければいいが……。それよりも、足の傷を癒して疲れを治すことのほうが先だな。いずれにせよ……今は……眠たい……。
 ザールは洞窟の壁に寄り掛かると、瞼を下ろして束の間の休息へと入った。

4999年3月30日 04:38
シルクス帝国領クラム村の北7.2km、ザール・シュレーダーの潜伏する洞窟

 ザールが目を覚ました時、辺りはまだ薄暗かった。洞窟の出入り口から太陽の光は差し込んでいない。彼の意識が回復すると同時に、足の裏が苦痛を訴え始めた。昨日に木の破片によって蒙った傷がまだ回復していないのである。筋肉痛が緩和されていたのが幸いであった。
 ──足の傷だけはどうにかせねば……。
 ザールは上着を脱ぐとそれを洞窟の床に広げると、側に置かれていたロングソードを鞘から抜き、その先端で麻の布地を切断しようと試みた。だが、上手く進むはずもなく、彼は1分足らずでこの方法を断念した。そして、ザールはロングソードを鞘に戻すと、麻の上着を手で掴み、渾身の力で右袖を一気に引き破ってしまった。
 ──こんなことで体力を減らしては……いや、足の傷のほうが大事だ。
 続いて、彼は左袖を引き破った。そして、2枚の麻布をそれぞれ別の足の裏に当てると、足全体を堅めに巻き上げた。
 ──これで大丈夫だろう。
 ザールはよろよろと立ち上がると、乾パンの袋を左手に持ち、慎重な足取りで洞窟の外へ出た。そして、暗闇に順応していた目で辺りをゆっくりと見回した。
 ──敵はいない。これなら大丈夫だ。
 だが、不幸にも、彼はホーリーシンボルがズボンの右ポケットからはみ出していることに全く気付いていなかった。

4999年3月30日 04:40
シルクス帝国領クラム村の北7.2km、ザール・シュレーダーの潜伏する洞窟脇

 ザールにとってもっと不幸だったのは、彼が敵の存在を見落としていたことである。
 ──洞窟の中から物音が聞こえているが……ザールはここにいたのだろうか……?
 デニムは藪の中に潜み、洞窟が存在すると思われる暗闇の方角を見つめていた。洞窟の方角から何者かの足音が聞こえた次の瞬間、漆黒の闇だけを捉えていたデニムの視界に、突如として古代語の色鮮やかな文字が浮かび上がった。彼が洞窟監視開始時から自分に対して掛けておいた呪文【アナライズ・マジック】──紫系統呪文に属する──が機能したのである。

魔法発動体(神聖魔法/タンカード)
魔力付与者:ソレイル・ギスティム
使用者限定:ザール・ボジェット・フォン・シュレーダー


 ──よし、間違い無い。
 デニムは隣で待機していたセントラーザの肩を指で叩いた。彼女は中腰の体勢から素早く立ち上がり、手に持っていたランタンのシャッターを開いた。洞窟とその前に立っていたザールの姿が明るく照らし出される。突如として出現した光源にザールは目が眩み、両手で顔を覆っていた。セントラーザが立ち上がってから10秒以内に、別の茂みに待機していた猟師2名が素早く立ち上がり、矢が装填されたクロスボウをザールに向けた。もしも、デニムの唱えた【アナライズ・マジック】に反応が見られなかったとしても、猟師達2人が自分に対して掛けていた金系統呪文の1つ【ディテクト・ヒューマノイド】に反応が現れていたので、ザールが洞窟から秘密裏に脱出することは不可能であった。
 ザール逮捕劇は順調に進んでいた。全てがデニム達の打ち合わせ通りである。
 最後にデニムが立ち上がった。「逃走劇はこれで終わりだ!」
「く……」ザールは目を細めてデニム達を見つめた。そして、2人のことを思い出すと、怒りを押さえられずに大声で口走った。「くそ……貴様ら……警視庁の犬だな!」
「犬で悪かったな!」
 デニムの隣で口を閉じていたセントラーザが叫んだ。「降伏しなさい! あんたのような人間のクズには、逃げ場なんて立派な物は存在しないのよ! 逃げ出そうとしたら、クロスボウで串刺しにされちゃうわよ!」
 ザールは左右を見回し、セントラーザの言葉が事実であることを確認した。
「もう1回言うけど、降伏しなさい! あんたの為に言ってるのよ!」
 ザールはその場にへたり込んだ。それを確認した4人が一斉にザールのもとへ駆け寄り、彼の体を地べたに寝かせる。
「ザール・ボジェット・フォン・シュレーダー、リデル・ベント殺害の罪により逮捕する!」セントラーザは懐からロープを取り出し、猟師達によって背中側に回されていた彼の腕を縛り上げた。「ベントさんを殺したこと……しっかりと後悔させてやるわよ!」
 ──仇討ちは達成されたか……。
 セントラーザの瞳に涙が浮かんでいることをデニムは見逃さなかった。

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