本編(26)
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4999年3月30日 09:50
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》前
デニム達がザールを連れてクラム村に到着したのは、逮捕劇が行われてから5時間後のことであった。縛り上げられたザールとそれを連行するデニム達には、村人達から暖かい歓迎の言葉が掛けられた。しかし、徹夜と山歩きのため極度に疲労していた4人の追跡者達は微笑むこともできず、手を上げて声援に応えることしかできなかった。
宿屋《シガレット》前では、徹夜でザール逮捕作戦を指揮していたシルヴァイル・ブロスティン課長が4人を出迎えた。彼の目の下には隈ができている。
「作戦達成です」デニムはそう言ってザールをブロスティンに突き出した。
「痛っ! 何をするんだ!」ザールが悲鳴を上げる。
「この声に間違いありません。宿から逃げ出したのはこいつでした」ブロスティンはザールの顔を見ながら言った。
「貴様が……なぜ俺が……」ザールはブロスティンを恨みがましい目で見つめていた。
「どうせ嘘をつくならもっと上手な嘘にするべきでしたな。私と会った時にあなたが『雇い主のタバコ商人だ』と言って指差した人物、実はクラム村の村長なんです」ブロスティンの言葉を聞きザールの顔に驚愕の表情が広がった。「私の質問を聞いた直後に逃げ出したのも失敗ですね。それから、あなたがザール・シュレーダーということも分かっています。あなたの名前が書かれた2年前の領収書が、あなたがタバコ畑の中に落としたバックパックの底から見つかっているんです。残念でしたな」
「く……くそっ!」ザールは歯軋りした。
「では、警視庁への連絡と彼の監禁をお願いできますか?」デニムが訊ねた。
「私のほうで取り計らいましょう」ブロスティンは頷いた。「それはそうと……皆さんは今からどうされますか?」
「とにかくベッドが欲しいの……30時間寝てないし……」セントラーザはそう言うと、大きな欠伸をしながら宿屋の中へ入って行った。
4999年3月30日 10:04
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド地下3階
廊下に並べられた松明の光が廊下を照らし出し、廊下の両側に位置する鉄格子の向こう側から囚人達の呻き声が聞こえてくる。エブラーナ盗賊ギルドの地下3階と地下4階には、同ギルドが保有する施設の中で最も汚く、薄暗く、陰惨な空間が広がっていた。2層上の法廷で行われる異端審問の被告人と、判決が確定した囚人達を収容し、そして彼らを尋問し、場合によっては「特別尋問」──拷問を行う場所であった。
キャサリン・グリーノック司教は、グレイブ・ゾーリア裁判長の許可を得た上で、ラプラスとマンフレートと一緒に地下3階を訪問していた。翌日の審理で提案されることが必至であった「特別尋問」実施の要請に対する答えの参考とする為、彼女は特別尋問の姿をこの目で確認することにしたのである。3人は兵士の案内で薄暗く異臭の漂う廊下を進んでいたが、いつもとは異なり3人とも口を閉ざしていた。ラプラスとキャサリンにとっては初めて訪れる場所であり、そのことが彼らを緊張させていた。そして、マンフレートも緊張していた2人に遠慮して言葉を掛けることを遠慮していた。
廊下の突き当たりで立ち止まった兵士は、正面のドアを指し示した。「この部屋でお待ち下さい。2分ほどで係官の者が参ります」
ラプラスは手を振って兵士を下がらせると、ノブを回してゆっくりとドアを押し開けた。10m四方の部屋は今までの空間とは異なって清潔感の漂っていた。正方形の机と向かい合うように配置されていた木製の椅子2脚だけが置かれ、壁の四隅にはマジックアイテムのランタンが取り付けられていた。ラプラス達が室内に足を踏み入れた瞬間、彼らの鼻を執拗に襲っていた排泄物などの異臭が消えて無くなると同時に、ランタンが自動的に点灯し、尋問の為だけに建築された部屋を明るく照らし出した。
「匂いが消えたわね……」キャサリンが地下3階に入ってから初めて口を開いた。
「あのランタンは脱臭用のマジックアイテムも兼ねているんです」マンフレートが部屋の四隅を指差しながら言った。「相当強力な品物でして、人間の死体が発する腐敗臭ですらも消すことができるんです」
「あまり試したくはないわね」
「私も同感です。それに、隣の部屋から異臭が漂うことがありますので、それを消す為にもこのマジックアイテムは必要不可欠なんです」マンフレートはそう言って出入り口の真正面に作られていたもう1つのドアを指差した。「ここから先が特別尋問室。これから、御二人を御案内する場所です」
「君が案内するのか?」ラプラスが訊ねた。
「私は門外漢です」マンフレートは首を横に振った。「ですから、実際に特別尋問の専門家の方を呼んでもらいました。幸いなことに、今日は誰もこの部屋を使いませんからね」
「どういう人物なの?」キャサリンが訊ねる。
「リマリック帝国時代から特別尋問の仕事に携わっていたという60歳の大ベテランの方で、名前はガロット・ユーディル。副業として処刑執行人のお仕事も……っと、現れたようですね」
マンフレートの言葉が終わった次の瞬間、尋問室のドアが大きく開き、完全に禿げ上がった頭髪と白く染め上がった髭の持ち主が顔を出した。「この方がガロットさんです」
「邪魔するぞい」一般市民の普段着に身を包んだガロット・ユーディルは尋問室のドアを閉めると、ラプラスとキャサリンに言った。「君達かね、わしの芸術的な仕事のことを聞きたいとゾーリア司教にお願いしたのは?」
「芸術……的?」キャサリンが呆気にとられながら訊ねた。
「その通り。わしの仕事は芸術そのものじゃ!」老人は自画自賛した。「人間の被っておる理性の仮面が剥がされ生まれながらの本能がぶつかり合う世界、生と死の狭間にある極限の世界で展開される人間達の真剣勝負、そして責め抜かれた人間の肢体が放つ極限の美と神秘的な魅力! これを芸術と言わずして──」
「ちょっとちょっと」マンフレートはガロットの肩を叩いた。
「──と、何じゃい? 人がいい気分で演説しとった時に」ガロットは不満げに言った。
「自己陶酔に浸るのはこの辺で終わりにして頂けませんか?」マンフレートはそう言って、拷問吏の言葉に呆然としているラプラス達を指差した。「この御二人、あなたの世界について行けないようですよ」
「……おお、これはすまなかった」ガロットは軽い口調で言った。「仕事のことになると、つい言葉に熱が入ってしもうて……」
「リマリック帝国時代から特別尋問に携わってきたと聞いたが?」ラプラスが訊ねた。
「その通りじゃ」老人は頷いた。「40年以上もこの仕事を続けてきたからな。わしに聞けば大抵のことには答えられるぞ。まあ、副業で死刑執行人の仕事も任されとるが、本職といえばやはりこっちのほうじゃな。遠慮せずにどんどん質問しても構わんぞい」
「早速だけど、『仕事場』を拝見できるかしら?」
「もちろんじゃ。ついて来い」
ガロット・ユーディルは懐から鍵を取り出すと、特別尋問室に続くドアの鍵穴に差し込んだ。微かな金属音が尋問室の中に響き渡る。そして、蝶番が軋む音と異臭と共に扉が開かれた。老人は出入り口の側に置かれていたマジックアイテムのランタンに火を灯した。明るく照らし出された部屋を一瞥して、キャサリンは思わず声を出していた。「何これ……」
扉の先に広がっていたのは、尋問室よりもはるかに大きい広さの薄暗い部屋であった。室内の壁には何十本のロープ(1本10m前後)や、数十個の手枷・足枷・首輪、頑丈そうな鉄製の鎖、武器としても使える大型の鞭などがぶら下がっている。また、磔用の十字架や水槽、背中部分が尖っている木製の馬の模型、そして水車までが置かれている。室内の一角に置かれている戸棚の中には、医薬品に混じって、融点が低温に設定されている蝋燭が用意されている。
「これが第1特別尋問室じゃ」
「『第1』?」ラプラスが聞き返した。
「その通り。エブラーナの盗賊ギルドにはな、ここの他にもいくつかの特別尋問室が作られとる。まあ、『特別尋問室』なんて言い回しを使いよるのは官僚だけで、盗賊ギルドの人間とかは単純に『拷問部屋』と呼んでおるがな」
「具体的にどういうことをするのかしら?」キャサリンが訊ねた。
「わしの仕事かね?」
「そう。あなたをお呼びしたのはその為なの」
「ふむ……。まあ、本当は仕事の様子を見て頂くのが早道だったのじゃがな」ガロットは拷問部屋の中をゆっくりと歩き始めた。「今日は口だけの説明じゃな。まずは、拷問の対象となる人物がここに呼ばれるところから始まる。そして、この部屋を見せながら最後の質問が行なわれることになっとる。『この部屋の道具を使われたくなかったら本当のことを話せ』とな」
「効き目は?」ラプラスが訊ねた。
「無いわけではないぞ。10人のうち2人か3人は怖じ気ついてしまい、わしの出番が来ないうちに隣の部屋に戻されとる。そして、残りの8人か7人に対しては、実際にわしがこの部屋の道具を使うことになるわけじゃな。……とはいっても、すぐに道具を使うわけではない。最初は尋問の対象となる者を縛り上げ、天井から吊るすところから始まる。で、そのままの格好で放置したり、尻やら背中やらを鞭で叩くことになる」
「道具は使わないのか?」ラプラスはそう言って室内に並ぶ鉄製の道具を手で示した。
「それでは面白くあるまい。ここの『駆け引き』が楽しみの1つなのでな」ガロットはニヤリと微笑んだ。「それに、最初から拷問道具を使って相手に怪我させてはまずかろう? 拷問の目的は被疑者から生きたまま情報を引き出すことであって、相手を痛めつけて殺すことではないのだからな」
「相手を殺さないことが重要なのですね」マンフレートが言った。
「そういうことじゃ」拷問の大ベテランは頷いた。「相手を死なすようでは拷問吏としては失格じゃ。わしが先代の師匠から最初に言われたのもそのことじゃった」
「とりあえず、先を続けてくれ」ラプラスが言った。
「どこまで進んだっけ……って、そうじゃった、まだほとんど説明してなかったな」ガロットは天井の梁を指差しながら言った。「天井から吊るされて鞭で叩かれるのも相当な苦痛でな、多くの者はそこでまた音を上げることになる。全体重が胸や腰のロープに掛かってしまうわけだから、息が苦しくなってどうしようもないわけじゃな。この苦痛は実際に経験した者ならば分かる。……で、鞭で叩かれても平気な顔をしとる連中を相手にする時には、ここに並ぶ道具達の出番が来るわけじゃ」
「たくさんあるわね……」キャサリンは道具を眺めながら言った。
「そう。まずはどれから説明しようかのう……そう、この『履くことを拒否するブーツ』から始めるぞい」
ガロットが指差したのは鉄製のブーツだった。ふくらはぎの部分にある止め金を使って足に装着する構造となっており、止め金を引っかける位置を変更させることによって、ブーツの太さを変えることも可能であった。幾度と無く使用されていたのか、ブーツに使われていた鉄板は、様々な場所で歪みを呈していた。
「どう使うんだ?」ラプラスが訊ねた。
「まず、こいつを相手の両足に無理矢理履かせる。ブーツだからそういう使い方をするのも当然じゃ。で、次に止め金を使ってブーツと皮膚を密着させる。足の甲の辺りには少しながらの遊びが発生するが、それは一向に問題無い。すねとブーツの隙間が無くすことが大事なのでな」彼は部屋の片隅に並べられていた松明を指差してから言葉を続けた。「その状態で、ブーツの下からこいつを使って熱を与えるのじゃ。これだけでも十分に苦しいのじゃが、苦痛を増させる為に、ブーツの鉄板とすねの隙間にくさびを打ち込むのじゃ」
「ちょっと待ってよ。くさびってあの──」
「普通のくさびじゃ」ガロットの首が縦に振られた。「冒険者達が冒険に使う時に愛用しとるごく普通の金属製のくさびじゃよ」
拷問の専門家の言葉を聞き、自分が拷問の被害者になっているところを想像したキャサリンは、その尋常ならざる痛みのことに思い至り、その顔に痛々しそうな表情を露にした。すねを破壊される時に発生する激痛を想像していたのはラプラスも同様であったが、彼は自制心を働かせて表情を崩さなかった。
「死なずに済むのか?」ラプラスはいつもと変わらぬ落ち着いた声で訊ねた。
「大丈夫じゃよ。普通の人間ならば激痛と火傷で気絶してしまうが、死ぬことは滅多に無いぞい。それに、死にそうになった時には拷問が中断され、部屋に待機しとる魔術師や神官が回復呪文を掛ける手筈になっておる。かく言うわしも緑系統呪文はしっかりと勉強しとるしな。だから、この拷問で死ぬことは無いはずじゃ。このすねを痛め付けるという拷問は有名なものでな、エルドール大陸の東の果ての国では、でこぼこした石の床の上に罪人を正座させ、太股の上に石の板を乗せていく方法を採っているそうじゃ。向こうの国では『石抱き』と呼ばれとるそうじゃが。この他にも、骨を砕くことを目的とした拷問はいくつかあるぞい。例えば──」ガロットは棚に置かれている道具を指差してから言葉を続けた。「あそこに並んどる道具は指の骨を砕く為の道具じゃ。それから、その隣に置かれている鉄の輪は頭を締め付ける為の道具で、被害者は激しい頭痛に襲われる。場合によっては頭蓋骨が割れてしまうこともある」
「本当に大丈夫なのか?」ラプラスが訊ねた。
「未熟者ならば危険なこともある。実際、わしの弟子の1人が間違って頭蓋骨を締めすぎて相手を殺してしまったことがある。わしはベテランだし、その辺の扱いには慣れとるのじゃが、若い者は遠慮というものを知らんから、こういう拷問ではしばしば失敗を犯してしまうことがある。……さて、そろそろ別の道具を説明しようかのう……」
ガロットはそう言って木で出来た馬型の人形を指し示した。だが、その背中は鋭く切り立っており、先端には「く」の字型に折り曲げられた金属の板が取り付けられていた。何度も使用された形跡なのだろうか、胴体部分には変色した染みや血痕も見られた。
「これは知ってる」ラプラスが言った。「確か『三角木馬』という名前だったな。リマリック帝国時代の異端審問の資料で見たことがある」
「仰る通りじゃ」拷問吏の老人は頷いた。「リマリック帝国の異端審問で初めて登場した。見ての通り、人間の股間に対してダメージを与える為に作られた品物でな、被害者を背にまたがらせることによって使用する。時には、足に鉄の重りを付けたり、わしらが手で引っ張ったりすることもあるし、別の種類の拷問と組み合わせることも全然珍しくないのじゃ」
「女の人も……この上に乗せられるの?」キャサリンが躊躇いがちに訊ねた。
「今では禁止されておる。シルクス帝国では外生殖器に対する拷問は禁止されておるから、その延長線上の解釈として、外生殖器に対して損傷を与える可能性の存在する三角木馬の使用も、男女の別無く禁止されておるのじゃ。もっとも、リマリック帝国時代には禁止規定の類は1個も作られておらんかったから、女性に対しても三角木馬を使うことはしょっちゅうあったのじゃ。わしが駆け出しだった頃、若い女性がこの上に座らされて悲鳴を上げてたこともある。彼女は無実の罪だと分かって釈放されたし、呪文で怪我のほうは治療させたのじゃが、あの拷問を受けた後では、心に傷が残って子供を産めなくなったのではないかと思うぞ」
「何てことなの……。これでは一方的な『やられ損』だわ」
「一方的というわけではありません」マンフレートが口を挟んだ。「その女性の場合、拷問実行による身体的負担に対する保証金として、5000リラか6000リラが支払われているはずです。拷問の結果無実だと判明した場合には、真犯人の家族と地元領主が折半して保証金を出す規定が存在しているんです。まあ、金をもらったから被害者の傷が癒えるとは思えないのですが、何もしないのに比べたらましだとは思いますけど」
マンフレートの言葉に対してキャサリンは反応を示さなかった。
「ところで、道具を使わない拷問も存在するのか?」ラプラスが訊ねた。
「一応はある。道具を使わない拷問としては、大量の水を飲ませる方法とか睡眠を無理矢理断たせる方法などが挙げられる。道具が無い分だけ穏やかに見えるが、実際にはこれがとても効果的でな。……実を言うと、拷問の方法としてわしが最も好きなのも、こういった単純なやつなのじゃよ」
「どうしてこんなこと続けるの? あまりにも酷くないかしら?」キャサリンが非難がましくガロットを見つめながら言った。
「拷問がか? 酷いと言えばその通りかもしれんな。だがらこそ、拷問を始める前に何度も警告を与えることにしておる。ただ──」
「どうしたの?」キャサリンが先を促した。
「拷問以外で強情な被疑者から情報が聞き出す方法が存在しているとすれば、正直言って教えてもらいたいものじゃ。この国の刑法では、被疑者からの情報集めで拷問に頼らざるを得ない部分というものがどうしても存在するからのう……」
「『頼らざるを得ない』ってどういうことなの?」
「これは私が説明しましょう」マンフレートが口を開いた。「シルクス帝国の刑事事件の捜査──異端審問も含めて全ての捜査では、被疑者となった人物の証言が証拠品と同じ位に重要視されているんですが、その証言は被疑者の口から自発的に出されたものでなければならないんです」
「つまり、どういうことなの?」キャサリンが聞き返した。
「呪文による事情聴取に法的効力は認められていない、ということだ」ラプラスが答えた。「私が習得しているような橙系統呪文を使って被疑者の心の中を直接覗いたり記憶の中を走査したり、黒系統呪文を使って被疑者に対して『本当のことしか話せなくなる』呪いを掛けることが全て禁止されているんだ。捜査や事情聴取に立ち会う人間が自分自身に嘘発見能力を付与する呪文を使用したとしても、その呪文は事情聴取の手助けになるだけで、法廷での証拠としては採用することができないんだ。そういった呪文に頼る方法が認められていない以上、犯罪捜査は全て証拠と証言、そして自白に頼らざるを得なくなっている。そして、被疑者から自白を引き出すのに最も頻繁に使われるのが、捜査官と専門家による拷問なのだよ」
「どうしてそんな不便なことになってるのかしら?」
「悪用の防止だ。嘘発見能力を付与する呪文とか被疑者の精神の中を覗いたりその記憶を走査する呪文を使ったりした時でも、その結果を報告するのは全て呪文を使った人間──術者なんだ。もしも、術者が呪文で調べたこととは全く別のことを周囲に話したとしたらどうなる? 無実の人間を有罪にして、真犯人を無罪にすることぐらい造作もないことだろう? ついでに言えば、そのことをチェックする時にも、同じく呪文に頼らなければならないんだ。呪文を使う限り、術者の善意というものを信用しなければならないという本質的な問題は常に残ってしまう。詳しいことは知らないが、かつてのリマリック帝国では、橙系統呪文の使い手達が詐欺を働いて、無実の人間が絞首台に送られたことが何度も発生していたらしい。それが嫌になって、41世紀頃に橙系統呪文の証拠能力が否定されるようになったんだ」
「……考えてみれば奇妙な話じゃな」ガロットが呟くように言った。「魔法文明の先進国として知られていたリマリック帝国で魔法文明の力が否定されるとはな。噂で聞いたところでは、魔法文明ではわしらよりも劣っている北のテンバーン王国では、嘘発見能力を兼ね備えた魔剣を持った人間が、警察官僚のトップとして活躍しておるそうじゃないかね?」
「確かにそうだ」ラプラスは頷いた。「あの人物の場合は、親戚を拷問で殺されたせいで拷問が大嫌いになったそうだ。その代わりに、橙系統呪文の使用が解禁されているそうだが」
「どっちがいいのかしら?」
「正直言って分からん」キャサリンの質問にラプラスは首を横に振った。「帝国大学の同僚達から聞いた話なんだが、リマリック帝国末期やシルクス帝国の法曹界では、拷問による自白の是非を巡る論争が続いているが、拷問容認派の主張の背景にあるのが、この橙系統呪文の使用を嫌悪する主張なんだ。彼らが言うには、『拷問以外の方法で効率的な情報収集の方法は橙系統呪文を積極的に利用することのみであるが、捜査機関に対して提示される情報は橙系統呪文の術者が自由に決定できる上に、被疑者が呪文に対して抵抗できる場合が多いため、その有効性には皆無に等しい。被疑者自身の言葉が採用される拷問のほうがまだ有効性や信憑性が高いのではないか』と……。まあ、私に言わせれば、被疑者から無理矢理情報を引き出すのは拷問も呪文も一緒だから、それならば手間と身体的負担の少ない呪文に頼る方法も認められて然るべきだと思うんだが……」
「そうかもしれません」マンフレートは慎重な言い回しで応えた。「しかし、現行法では拷問による証言の法的効力は認められています。その逆に、被疑者の頭の中を呪文で直接覗いて情報を収集する方法は、補助的なものとしか認定されていません。呪文単独だけでは、法廷での証拠能力は認められていませんよ」
「そういうことじゃ」老人は頷いた。「だから、情報を得たいと願うのなら、拷問に頼るのか、それとも被疑者との長い長い睨めっこと頭脳ゲームを続けるのしか方法は無いのじゃ」
キャサリンは無言で特別尋問室を眺めていたが、やがて口を開いた。その声はいつになく重々しいものであった。「……話は分かったわ」
「もうよろしいかね?」拷問吏の老人が訊ねた。
「……そうね、分かったわ。今日はありがとうね」
キャサリン・グリーノックはそれだけ言うと、3人を残して先に第1特別尋問室を後にした。
4999年3月30日 20:15
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》
徹夜と山道での重労働という過酷な経験をしたデニムとセントラーザは2階の寝室へ上がると、相手のことはお構い無しに、文字通りベッドの上に倒れ、そのまま深い眠りについた。宿泊客の人数の問題があったのか、はたまた村人達が変な気を利かせたのかは定かではないが、2人は相部屋となっていたが、疲労困憊していた2人にはそのようなことを考慮するだけの余裕は無かったのである。
デニム・イングラスがベッドで目を覚ました時には、既に窓の外は闇に覆われ、照明が灯されていなかった室内には、ドアの隙間から漏れ出してくる光が薄暗い室内に射しこんでいた。彼の着衣は10時間前に気絶するように眠りについた時と全く同じである。彼が隣のベッドに目を向けると、既にセントラーザはいなくなっていた。
──彼女が先に起きたというわけか……。
ベッドから起き上がったデニムは、ベッドに腰掛けた状態で身形を整えると、筋肉痛の痛みが残る足をゆっくりと動かしながら、寝室を出て1階へと向かった。木の階段を慎重に下りて行くと、1階の食堂ではサーレント、セントラーザ、クラム村村長、そしてシルヴァイル・ブロスティンの4人がテーブル1個を占拠していた。テーブルの上には食事が並べられ、サーレントと村長の目の前にはエール酒が注がれた陶器のジョッキが置かれていた。
──そういえば……昨日の深夜から何も食べていない……。
「おお、ザール逮捕の立役者その2のお出ましだ」デニムの姿に気付いたサーレントが声を掛けた。「体のほうは大丈夫か?」
「筋肉痛がまだ残っています。それ以外は大丈夫ですよ」
「それは良かった」サーレントは頷くと丸テーブルの空席を手で示した。「まずは食事だ」
デニムは言われるままに5つ目の席──セントラーザと村長に挟まれている──に腰を──下ろし、すぐにセントラーザのほうを向いて訊ねた。「大丈夫なのか?」
「うん。私はあなたよりも体が丈夫にできてるらしいの。筋肉痛も無いし」
「午後6時頃にはもう起きてたしな」サーレントが言った。
「それで……ああ、どうも」デニムはウェイターからエールの入ったジョッキを受け取った。「僕達が逮捕したザールはどうしてますか?」
「村の留置所です」ブロスティンが答えた。「今まで、スレイディー警部補が事情聴取を行っていましたが、大したことは分からなかったそうですね」
「ええ」サーレントは頷いた。「彼が我々に教えてくれたのは名前と住所だけ。リベル・ベント巡査殺害に関しては事実関係を認めていましたが、それ以外のことは一切黙秘。かなりてこずりそうですな。昼頃に届いたバーゼルスタッド卿の自殺未遂のことを教えても、無言を守り──」
「ちょっと待って下さい」デニムはサーレントの言葉を遮った。「今、何と?」
「イングラス事務官は寝ていましたから分からないでしょうな」ブロスティンが答えた。「3月29日にバーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣が、レイゴーステムの別荘で睡眠薬の過剰摂取による自殺を図ったんです。動機はおそらく殺人犯として指名手配されたザールのことでしょう。レイゴーステムのナランド神殿で懸命の看護が続けられていますが意識不明の状態はまだ続いており、仕事への復帰は絶望的だということです。辞令は発令されていませんが、ここ一両日中に大蔵省のトップが交代するでしょう」
「アーサー・フォン・ランベス枢機卿ですか……」デニムが言った。
「そういうこと。よりにもよって、あいつが次の大蔵大臣なのよ」セントラーザが応えた。その声には嫌悪感が滲み出ていた。
「相当な嫌われ者ですな。何があったんです?」セントラーザの反応を見た村長が興味深そうに訊ねた。
「僕達の上司が彼に侮辱されたんです」デニムはエール酒を喉に流し、村長に対して3月4日の定例閣議の席上で発生した事件の顛末を説明した。「──そういうことなんです。上司が悪口を言われることに過剰反応する人達が、ここ警視庁には結構多いものなんです。そういう僕もその1人でして……」
「私もそう」セントラーザが頷いた。
「なるほど……そういうことがあったんですか……」村長は腕を組んだ。「こんなにあのお方を嫌う方って初めて聞いた……」
その言葉を聞き、警視庁出身の3人の目が村長に向けられた。そして、3人を代表してデニムが質問した。「あの……それはどういうことでしょうか? ひょっとして、僕があなたの気に障るようなことを──」
「いや、そういうわけではありません」村長は首を横に振った。「私は仕事でよくミーダントの街を訪れるのですが、あの近くはランベス様の御領地でして、村人からの猊下の評判はかなりよろしいんです。猊下が皇室の一員であることも理由の一部なのでしょうが、『農民達のことを最も大切にしてくれる政治家だ』と評判になっております」
「守旧派の政治家の見本ですね」ブロスティンが村長の言葉を継いだ。「以前、外国でのタバコ宣伝費を請求する為にシルクスの大蔵省で枢機卿とお会いしたことがあります。その時、彼の座右の銘の1つとして『農民は国の宝なり』という言葉が壁に掛けられていました。あれが枢機卿の政治的信条の全てを言い表しているのかもしれません。だからこそ、改革派の言うような商業重視政策を嫌っているのでしょうが……」
サーレントが口を開いた。「ええ。政治家としてランベス枢機卿が有能だという話は我々も聞いていましたが、やはりあの発言は……」
「ああいう性格の方らしいですからな」村長が言った。「自分とタンカード神殿の為すことに楯突く者には容赦無く攻撃を加えるのです。御自身が枢機卿という要職にあり、『国父』ジョン様の義理の従兄ですから、なおさらそのお考えなのでしょう。……そうそう、あの方の評判がよろしいのにはもう1つ理由がございます」
「何ですか?」デニムがつまみのピーナッツを齧りながら訊ねた。
「あの方はバイロイト修道会の後援者なのです」
村長の言葉を聞き、デニム達3人は顔を見合わせた。
「御存知ではないようですな。タンカード神殿の司教であられたソレイル・ギスティム様が設立された団体でして、火竜タンカードの教えを世界各地に広めることを目的として活動しておりました。昨年に解散しましたが、ランベス様はそれまでずっとあの団体の活動を支援していらしたんです」
「それはとても熱心なことですな」サーレントが感心したように言った。
「ええ。男性だけではなく女性も──」
──ソレイル・ギスティム?
デニムは突如として登場した人物の名前に心を奪われていた。
──ソレイル・ギスティム……どこかで聞いたことがあるような無いような……でも最近聞いたような気がする……どこでだ……?
「──解散したんです?」セントラーザが訊ねた。
「詳しいことはさっぱり」村長は首を横に振る。「修道会に入られる方が少なくな──」
──あそこでもないしそこでもない……後はザールを捕まえる時……ホーリーシンボル?
「ああ、なるほど……」デニムは声に出して呟いた。
「ん? どうしたんだ?」サーレントが訊ねる。
「ソレイル・ギスティムという人物のこと、思い出したんです。あの人物がザール・シュレーダーにホーリーシンボルを与えた人物なんです。【アナライズ・マジック】の呪文を使った時に、古代語で彼の名前が出てきたんですよ」
「それがどうかしたの?」セントラーザが訊ねる。「ザールがタンカード神殿に傾倒していた話は知られているから、彼が同じタンカード神殿の司教からホーリーシンボルをもらうこと自体は不思議でもなんでもないんじゃない?」
「いや、まあ……ただそれだけなんだけど──」
「……デニム、それは違うんじゃないか?」サーレントはデニムの言葉を遮った。「ザール・シュレーダーが足繁く通い、失踪した3人の女性達と接触を重ねていた《ブルーエルフ》の店主の名前、もう忘れたのか?」
「《ブルーエルフ》の店主……あ、そういえば!」デニムの声が大きくなる。
「ダリル・ギスティム。同じ名字だ。『ギスティム』なんて珍しい名字、そう頻繁に登場するもんじゃないだろう? こんなところで彼らは繋がってたんだぞ」
「偶然にしては……話が出来過ぎですよねぇ……」
デニムが溜息を吐いた時、村長が恐る恐る訊ねた。「あの……何の話でしょうか?」
「別の仕事の話です」サーレントは微笑みながら答えた。「それはそうとして……、仕事の話はそろそろ止めにしましょう。宿敵だったザールが無事に逮捕できたことですし、今日は酒でも飲んで気分を晴らしませんかね? 警視庁にとっては久々の勝利ですし」
「それがよろしいですな」ブロスティンが答えた。デニムとセントラーザも首を縦に振る。
「では酒を持って来させましょう」村長は手を2回叩いた。「おーい、ジョッキを4つ頼む!」
4999年3月30日 22:48
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》2階、デニム達の部屋
ザールの逮捕を祝うささやかな酒宴が終わった。村長は自宅へ帰り、ブロスティン課長は泥酔したサーレントを抱えて1階の部屋──サーレントと課長が相部屋だった──へ向かい、そしてほろ酔い加減だったデニムとセントラーザは2階の部屋へ戻った。
「これで1つ目の山は越したね」デニムはベッドに寝転がって言った。
「そうね」セントラーザはそう言いながら窓のカーテンを閉めた。「これでベントさんの仇討ちが終わった……。何か、喉に引っ掛かった物が取れてすっとした気分よ。彼が戻って来るわけじゃないけど」
「確かにそうだな……」デニムは天井を見つめていた。
「でも、これで、いなくなった女の子達を探すのに専念できるのよね。私達が戻った時に手掛かりが増えてれば助かるんだけど……」
「期待していいんじゃないかな。警視庁の中にいたスパイ達の摘発が片付けば、捜査を邪魔する者はいなくなることだし、今まで隠されてた証言が入手できるようになるわけだし……。解決の糸口も多く見つかってるんだし、そんなに難しい事件じゃなくなったと思うよ」
「これでやっと先に進める……」
「確かにね。4月中には解決できる──」
「それもあるけどね」セントラーザはそう言って、デニムが横になっていたベッドに腰を下ろした。「私達のこともあるじゃない」
「僕達のこと?」デニムは聞き返した。
「そう。デニムのこと、もっと知ってもいい時期に来てると思ってるけど、どうなの?」
──ちょっと待った……これは……。
「『もっと』って……どういうことだい?」デニムは動揺を隠そうとしたが失敗した。セントラーザと相部屋になることが分かった時、心の片隅に一瞬だけよぎった不謹慎な考えが、再び頭の中に蘇っていた。「それって……」
「うん……多分当たってると思う」セントラーザは微笑むとベッドに横たわり、顔だけをデニムに向けて微笑んだ。「酒、飲み過ぎちゃったのかな……?」
「どうだろう? でも、本当は酒のせいだとは思いたくないんじゃ……」
「そうかもね」セントラーザはデニムに体を寄せた。「……ねえ」
「何だい?」
「デニムが側にいてくれて……本当に良かった。あなたのおかげで色々と助けられた……。本当にありがとうね……」セントラーザの目には涙が浮かんでいた。
──ああ……どうしよう……ここまできたら、余計なことを考えるのは止めよう。さあ……後戻りできないぞ。
デニムは大きく息をしてから言った。「気にしなくてもいいよ。僕のほうは……いつでも大丈夫だから。これからもずっとだよ」
「……ありがとう」
セントラーザは頷くと体を乗り出し、デニムの肩に両腕を回した。デニムは彼女の体を優しく受け止める。
2人の長い夜は始まったばかりであった。
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