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4999年3月31日 02:30
シルクス帝国領エブラーナ、ゾルトス神殿1階、神殿長の寝室

 クラム村から500km以上離れた港湾都市エブラーナでは、キャサリン・グリーノックが長い夜を迎えていた。盗賊ギルド地下で目撃した様々な拷問用具の姿が彼女の頭の中をよぎり、拷問吏ガロット・ユーディルの老人の言葉が幾度と無く反復して頭の中に響き渡っていた。
 ──「拷問以外で強情な被疑者から情報が聞き出す方法が存在しているとすれば、正直言って教えてもらいたい」……。
 キャサリンはベッドから起き上がると首を何度も振った。
 ──彼の言うことが正しいとは思えない……。確かに、取調室で被疑者と睨み合うだけでは捜査が進むとは思えない。でも、だからといって、拷問という過激な方法に頼って事件の解決を進めようとする意見にはとても賛成できない……。第1、拷問によって得られた情報が正しいものだという保証は何処にも無いし、被疑者達を不必要に苦しめることになるのに……。
 拷問によって自白を要求する捜査手法が抱えている根本的な問題に、被疑者の自白の信憑性という問題が挙げられる。犯罪捜査において、被疑者から自白を引き出す目的で拷問を使用した場合、被疑者が身体的(及び精神的)苦痛から逃れる為に、有りもしないことを口走る──本当は無実だったのに犯行を認めてしまう──ケースが多数見られたのである。その後、裁判所で自白を撤回しようとして認められず、そのまま絞首台へ送られてしまった不幸な被疑者の話もキャサリンは知っていた。
 ──冤罪の問題も重要だけど、もっと深刻な問題は密告のほうね……。
 異端審問においては、拷問による偽証は「密告の横行」という別の問題にも影を落としていた。逮捕された異端者から別の異端者の情報を聞き出す為に拷問を行なうことも多く、この時に、苦痛から逃れる目的で、被疑者が無実の人間を「こいつは異端者だった」として名指しすることも見られたのである。そして、逮捕された「2次的な」犠牲者がまた別の犠牲者の名前を挙げ、無実の人間が投獄されるという悲劇がエンドレスに発生するのである。「2次的な」犠牲者の中には、捜査や裁判の段階で嫌疑不十分であることが証明され、火刑台送りという最悪の事態だけは回避できた人物も存在するのだが、彼らが異端者の容疑で逮捕され拷問を受けたという事実を変えることはできず、その心に大きな傷を残すこととなった。
 ──真実を追い求める為に、拷問が本当に必要なのかしら……?
 キャサリンは再び横になり、シーツを肩まで引き寄せた。
 ──でも、呪文を使った事情聴取には、法廷での法的効力が無い。ラプラスさんは呪文の使用もやぶさかではないように話していたけど、私以外の6人の裁判官は全員反対していた……。どうにかならないものかしら……? 特例措置として、今回だけでも認められないのかしら?
 彼女の期待が絶望的なものであることは、彼女自身も承知していた。第1特別尋問室の視察を終えた後、キャサリンはラプラスを伴ってグレイブ・ゾーリア司教など裁判官6人と面会し、橙系統呪文の使用の是非を訊ねてみたのであるが、6人の聖職者達は異口同音に「No」と言い切ったのである。同様の要請は4人の調査官達──弁護人2人と告発人2人に対しても行なわれていたのであるが、ここでもタンカード神殿とバソリー神殿から派遣されていた司祭達が反対の態度を示していたのである。彼女の耳に話を傾けた残る2人の司祭は、シルクス帝国における最大宗派である2体の竜神には属しておらず、異端審問制度における彼らの影響力は微々たるものであると言わざるを得なかった。
 ──合計で3対8……これではどうしても無理だわ。だとすると、特別尋問を実施すべきかどうかという問題になる。しないほうがいいのは絶対間違い無いけど、本当にその通りなのだと言い切れるのかしら……? もしも、限り無くクロに近い人達だったのなら、もしかしたら特別尋問を行なうべきなのかも……。シルクス帝国の今の法律だったら、迷うこと無く特別尋問の実施に踏み切るのが普通らしいけど……。
 キャサリンは再びベッドの上で体を起こすと、今度は足を床に付けてゆっくりと立ち上がった。そして、月明りだけを頼りにして寝室内に置かれた執務机まで歩くと、神聖魔法を唱えて机の上のランタンに光を灯し、机の上に置かれていた8人の捜査資料に目を通し始めた。
 ──全員に対して何らかの形で有罪の嫌疑が掛けられている……。でも、その逆の証言も山ほど得られている。この矛盾、どう解釈すれば良いのかしら?
 《7番街の楽園》で逮捕された8人の審理に関して、唯一中立的な立場を保つことができたキャサリン・グリーノックにとって、この2種類の相反する証言をどのようにして解釈するかが最も重大な問題となっていた。タンカード神殿は彼らの有罪を信じて起訴に踏み切り、2人から自白を引き出すことに成功している。一方、バソリー神殿や帝国首都シルクスの改革派政治家の多くが8人の逮捕を冤罪であると考え、異端審問所に対して様々な形の圧力を掛けており、彼女の元恋人であるラプラス教授もこの混乱に巻き込まれていた。
 ──特別尋問をすることには絶対反対だけど、情報集めの為に手荒な方法を使わなければならないこともまた事実……。でも、何処から手を付ければ……?
 キャサリンは机の上の捜査資料を1ヶ所に寄せ集め、出勤時に持ち歩く革鞄の中に入れた。
 ──自分の良心に従って行動する……私にはこれだけしかできないわ。
 彼女は溜息をついてから指を鳴らし、ランタンに灯されていた光を消した。
 ──そして、私の良心は既に「答え」を出している……ただ一言言うだけでいいの……。

4999年3月31日 02:48
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド、地下2階、フォルティア・クロザックの牢獄

 眠れない長い夜を迎えていたのは、異端者の嫌疑を掛けられて収監されているフォルティア・クロザックも同じであった。
 ──特別尋問……何が起きるの……?
 フォルティアに対して特別尋問が実施される可能性があることについては、エブラーナに着いた直後、アテナ・オナシス司祭らから説明を受けていた。エブラーナへの移送が決定されてから、彼女は特別尋問を受ける覚悟を固めていたが、それがどの程度の苦痛になるのかがまるで分からず、自分が激しい肉体的・精神的苦痛に耐えられるのかどうか自信が持てなかった。そして、特別尋問を受ける前に罪──異端ではなくシルクスでの殺人事件──を告白すべきなのか、体がぼろ雑巾になってまで強情を張るべきなのか、彼女は迷い続けていた。無論、濡れ衣であるはずの異端の罪を認めることは選択肢に含まれていない。
 彼女が1人で悩み続けていたのは、彼女がシルクスで犯した殺人のことを、誰に対しても全く漏らしていなかったからである。本来ならば信頼すべき相手であるアテナ・オナシスとラム・キエフの2人の弁護人に対しても、彼女はこの秘密を隠していた。2人の弁護人が彼女の無実を信じて努力を重ねていることに、彼女は深い感謝の念を抱いていたが、彼らを完全に信頼することはできなかった。真摯な努力を続けているとはいえ、彼らは告発人や裁判官と同様に異端審問所の「職員」であり、そのことがフォルティアに不安──どこかで裏切るのではないかという疑心暗鬼でもある──を抱かせていた。
 ──このまま殺されるの……? それだけは嫌だわ!
 ふと、彼女の耳に、男性の呻き声が届いた。
「う…………あ……たす……て…………」
 地の底から響いてくるような男の声に、彼女は耳を塞いだ。
「あ……ああ…………いたい…………くる……レゼク……ま……」
 彼女の隣に収監されていた男性は、彼女がここに入れられる前から牢の中で暮らしていた。彼女に食事を届けていた看守から聞いた話や、男の寝言やうわ言などを聞いた限りでは、彼女の隣に監禁されているのは破壊神レゼクトスの助祭であった。年齢は16。4998年に発生したテンバーン王国の悪魔の軍隊によるリマリック帝国への侵攻──通称「ルテナエア事件」の当時、混乱が続くリマリック帝国で、戦局で優位に立っていた悪魔達に取り入る為、今まで信仰していた秩序神ウェリナスの教えを捨て、破壊神レゼクトスの導きに身を委ねたのである。その後、混乱の続くリマリック帝国北部で、彼とその仲間達は犯罪を繰り返し、本人が自供しただけでも7人の農民を殺し、11人の女性を強姦し、26件の強盗を働いていた。
 悪魔の軍隊が撤退してリマリック帝国が崩壊し、シルクス帝国が建国されてから、彼は仲間達と共に地下へ潜り、今までと同じ盗賊集団としての生活を続けていた。だが、4999年1月、帝国中部の森林地帯にあった彼らのアジトが帝国軍兵士に襲われ、数少ない生き残りであった彼は盗賊集団の頭目として逮捕された。最初はただの犯罪者であると思われていたが、懐から破壊神レゼクトスのホーリーシンボルが見つかったため、彼には異端者としての容疑も掛けられ、ここエブラーナへ送致されたのである。
 エブラーナで彼を待ち受けていたのは、事実上の即決裁判による死刑判決と、帝国軍兵士の包囲をかいくぐって逃げ出した仲間の居場所を吐かせる為の特別尋問の嵐であった。フォルティアが初めて牢内で男と声を交わした時、特別尋問を何回も受けていたにもかかわらず、彼の声には理性と若さが残されており、その口からはルテナエア事件当時の自分の武勇談さえ語られていた。だが、時間が経過し、特別尋問の回数が増えより激しくなると、男の声から理性と若さ、そして誇りが消えてしまった。今の彼女に届く男性の声は、理性の欠片も認められない老いた獣の声である。そんな男性の急激な変化に、フォルティアは恐れを抱いていた。「自分の隣の牢獄で鎖に繋がれている男性は、自分の近い将来の姿ではないか」──彼女はそのことを考えると、気が狂いそうになった。ここから逃げ出したかった。いざとなったら、自殺してこの苦痛から逃れてもいいとさえ思っていた。
 ──あんな姿なんて……絶対にさらしたくないわ……。
 彼女は固いベッドの上に寝転び、毛布を手元へ引き寄せた。右足首の足枷と鉄の鎖が乾いた金属音を立てる。
 ──せめて……あの人のようにはなりたくない……そして……外へ出たい…………。

4999年3月31日 07:30
シルクス帝国領クラム村、宿屋《シガレット》1階

 通産省タバコ部外国取引課長シルヴァイル・ブロスティンは、酒宴が行われた翌日も、いつもと同じように午前7時に目を覚ましていた。彼は素早く着替えを済ませると、隣でいびきを掻いているサーレントを無視して客室を後にした。彼が向かうのは《シガレット》1階の食堂である。クラム村に滞在している時には、彼は毎朝必ずこの宿屋で朝食を取り、同席しているタバコ商人達と最新の情報を交し合うのであった。偶然にも、この日はタバコ商人の宿泊が無かったため、《シガレット》1階の席は全て空いていた。
 ──珍しいこともあるものだ。
 ブロスティンはカウンターに腰掛けると、食器の整理を続けていた主人に言った。「いつものをお願いします」
「分かりました」
 主人は手に持っていた木のコップを戸棚に戻すと、小走りでカウンター奥の厨房へ消えて行った。ブロスティンは軽く背伸びをすると、酒宴が行われていた食堂の一角に目を向ける。
 ──スレイディー警部補……昨日は凄い飲みっぷりだったな……。
 3月30日の夜に行われた酒宴では、サーレントはジョッキ8杯のエール酒を飲み干すという宿屋史上最高の記録を打ち立てた。警視庁に戻ってからは連続女性失踪事件の捜査が待っていることも承知していたが、この日はザール・シュレーダーの逮捕を祝うという名目で盛大に羽目を外したのである。リデル・ベント巡査の殉職や警視庁内部でのスパイ摘発など、難問や課題を相次いで突き付けられた3人の捜査官にとっては、酒を飲んで休息を入れることによってストレスから解放され、心身ともに一新された状態で連続女性失踪事件の捜査に立ち向かうことが可能になったのである。
 一方のブロスティンは早々にエール酒を切り上げ、店主自慢の蒸留酒をあおりながら、束の間の休息を得て酒に酔いしれている3人の姿を微笑ましく眺めていた。サーレントを自室に引きずって戻してから、イングラス事務官とフローズン巡査の2人は階上の自室へと引き上げていった。別れ際の挨拶で、デニムは「彼女から話があるらしい」と語っており、ブロスティンには、階上で何が起きていたのか大体の見当がついていた。
 ──他の捜査官達のことも気になるが……彼らがザールを捕まえたのだし、昨日の酒宴は大目に見てやっても文句は言うまい。しかし、あの若い2人はあの後どうなったのだろう……?
 ブロスティンがカウンターに目を戻した時、2階へと通じる階段から足音が聞こえてきた。足音は大きくなり、やがて聞き慣れた男性の声がそれに重なった。「おはようございます」
「おはようございます」
 デニムとセントラーザの2人は手を繋いだまま1階に下りた。そして、ブロスティンの座る席の隣に並んで腰掛けた。座ってからは手を離していたが、誰の目のから見ても2人の関係が親密になっていたことだけは確かだった。
 ──ほぼ期待通りってところか。
「昨日は良く眠れたようですね?」ブロスティンが何気なく訊ねた。
「え? 昨日? ええ……まあ……そうでしたね」デニムが照れながら答えた。
「セントラーザさんのほうはどうです?」
「私ですか? まあ……色々ありましたけど、眠れましたよ」顔を赤くしたのはセントラーザも同じであった。
「それは良かった」ブロスティンは微笑みながら頷いた。
 ──やはり予想通りだったか。事件が解決したら、2人の結婚式が近いのかもな……。
「それはそうとして、一昨日と昨日は本当に御苦労様でした。こちらも、村のタバコ畑を荒らした無法者が逮捕されてほっとしています。私だけではなく、村人達も喜んでいますよ」
「そんなこと無いですよ」セントラーザが答えた。「お礼を言わなきゃならないのは私達のほうですよ。だって、私達の大切な仲間を殺して逃げていたザール・シュレーダーの逮捕に協力してくれたんですから」
「それでしたら、私ではなく狩人の皆さんのほうに言うべきですね。私はここで座って情報を集めていただけですし」
「そんな御謙遜を──」
 デニムの言葉が終わらないうちに、カウンターに宿屋の主人が現れた。「御注文は?」
「軽いやつをお願いできますか?」デニムは自分とセントラーザを指差しながら言った。
「承知致しました」
 主人が厨房に姿を消してから、デニムはブロスティン課長のほうを向いて訊ねた。「1つお訊ねしてもよろしいでしょうか?」
「ええ。何でしょうか?」
 デニムは声を落として訊ねた。「僕とセントラーザを相部屋にしたのは──」
「ああ、あれですか。スレイディー警部補のアイデアでした。皆さんが到着した時に空部屋が2人部屋1つしかなかったものですから、警部補があなた達2人を相部屋の形で空部屋に泊まらせるように手配したんです。『若いカップルの恋路は邪魔したくない』と仰っていましたよ」
 デニムとセントラーザは互いに顔を見合わせると、再度顔を赤らめた。

4999年3月31日 10:02(異端審問第5日目)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド地下1階、第1法廷

「裁判長、よろしいでしょうか?」告発人の1人であるブルーム・ライアン司祭が立ち上がりながら発言を求めた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。第5日目の審理に先立ちまして、我々告発人は8名の被告人に対する特別尋問の実施を要請します」
「要請の理由──」
 ゾーリア裁判長の言葉が終わらないうちに、弁護人席からアテナ・オナシス司祭の甲高い声が聞こえてきた。「異議あり! 告発人の──」
「反論は後にして下さい」ゾーリア司教はオナシス司祭の言葉を中断させた。「要請の理由を説明して頂けますか?」
「承知致しました。今までの裁判の過程で証明されましたように、8名の被告人のうち2名は起訴事実を全面的に認めました。ところが、残る6名は起訴事実を否認し続けております。彼らの有罪を裏付ける資料は山ほど出揃っているのにもかかわらずです。よって、特別尋問を実施して事実を究明することは必要不可欠な情勢となったのです。たとえ、彼らの言う通り、冤罪の人間が混ざっていたとしても、事実を究明する為には実行可能なあらゆる手段を試みるべきであります。……以上が、告発人側からの申請理由です」
「分かりました」暗闇の中でゾーリア司教は首を動かした。「それではお待たせしました。告発人の要請に対する異議の根拠を説明して頂けますか?」
「はい」オナシス司祭は立ち上がった。「8名の被告人のうち2名は罪を認める供述を行ないましたが、残り6名は未だに起訴事実を否認したままです。帝都シルクスから届けられた資料によりますと、彼らは──」
 ラプラスは書記席で羽根ペンを動かしながら、アテナ・オナシスの言葉を必死に書き留めていた。一字一句を正確に書き留めるのに苦労を要していたが、彼女の言葉そのものは今まで行なわれていた審理で幾度と無く耳にしていたものが繰り返されているだけであった。起訴事実と相反する無数の証言、被告人達の黙秘と起訴事実の否定、タンカード神殿の訴追手続きの瑕疵、そして同神殿による冤罪の疑惑……。
 ──ここまではいつも通りだ。問題はここからだな。この問題に対してキャシーがどういう解答を出すつもりなんだろうか? キャシーの意思1つで8人の運命が決まってしまうからな……。
「──以上です」
「分かりました。ありがとうございました」告発人と弁護人が席に腰を下ろしたのを確認してから、ゾーリア裁判長は木槌を鳴らした。「では、採決を行います。私から見て右から順番に、口頭で賛否をお願いします」
「分かりました。私は賛成です」タンカード神殿司教が言った。
「反対ですな」隣に座っていたバソリー神殿司教が後に続く。
「私も反対です」
「裁判長である私は賛成します」ゾーリアは自分が裁判長であることを強調して言った。棄権者が発生して賛否が同数となった場合は、規定に従い、彼の意見が裁判官7名の総意となるのだ。
「賛成します」
 5人目の裁判官の言葉が終わり、全員の視線と注意が裁判官席に座っていたキャサリン・グリーノック司教に注がれた。書記席で筆を動かしてたラプラス達は、机から顔を上げないまま彼女の言葉を待っていた。
 ──さあ……どうするんだ?
 キャサリンは溜息を吐いて精神を落ち着けた後、法廷内に良く通る声で言った。「私は反対に票を投じます。聖職者として、特別尋問という不道徳的な行為で不確実な情報を追い求める姿勢には賛同しかねます」
 彼女の言葉を聞き法庭内にざわめきの声が上がる。
 ──キャシーらしい意見だな……。
 ラプラスは彼女の言葉を書き留めながら安堵の溜息を漏らしていた。幼い頃に付き合っていた当時の優しい彼女の言動と心の内側を十分に知っていた彼には、法律よりも良心を優先させた彼女の判断はごく自然なものに思えたからだ。真実究明への戦いが少なからず困難になったことは確かであるが、聖職者としてあるまじき行為に手を染めることよりも、聖職者と人間の良心と道徳を守る道を選んだわけである。
 ゾーリア司教は木槌を繰り返し叩いて法廷内に静寂を回復させてから、冷静な声で言った。「最後の方は?」
 7番目に発言を求められたバソリー司教は、暗闇の中で誰の耳にも聞こえるほどの大きな溜息を吐いた後、法廷全体に響き渡るほどの大声で言った。「私は投票を棄権します」
 この次に法廷内に上がった騒ぎ声を、ゾーリア司教は止めることはできなかった。

4999年3月31日 18:20(異端審問第5日目)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、食堂

「あの男に何があったって言うの?」
 キャサリン・グリーノックは、この日の審理で決定された特別尋問の実施には今でも反対の態度を示していた。そして、そのやりきれない気持ち──怒りは、特別尋問の実施を決定付けることとなった、棄権票を投じたバソリー司教に向けられていた。自分の決断で被告人8名が悲惨な運命から救われたと思っていた矢先の出来事であり、彼女にとっては敵前での裏切りに等しい行為に写っていた。
「さあ……全く分からない」ラプラスは首を横に振った。
「マンフレートさんはどうなの?」彼女は元恋人の部下に訊ねた。
「私も予想外でした」マンフレートはナイフとフォークを置いてから答えた。「ですけど、後から考えてみれば予想できないことは無かったと思います。棄権票を投じた人物にとっては、特別尋問も6人の無実を証明する為の1手段だという認識があったのでしょう。どっちの意見が正しいのかは、今の私には判断しかねるところです」
「ただ、今回の事件では、彼の意見はバソリー神殿での共通認識には至っていなかったわけだ」ラプラスが口を挟んだ。「オナシス司祭から聞き出した話だけど、他の司教2名が棄権票を投じた司教の更迭を求め、【召喚魔法ペガサス】を利用してシルクスへ緊急の連絡を送っているらしい。まだ波瀾続きになりそうだ」
「本当に混乱しているわね」キャサリンが溜息混じりに言った。
「確かにな」ラプラスはそう言うと、木製のコップに入っていたコーンスープで口を湿らせた。「だが、審理に影響が出るわけではなさそうだ。更迭が認められたとしても、この事件までは彼が裁判官を務めるわけだからな」
「特別尋問はいつなの?」
「明日から早速開始されます」マンフレートが答えた。「書記室からも人員を派遣することになっています。被告人からの調書を取る為と、特別尋問の中立性と公平性を確保──」
「そんなものあるのかしら?」キャサリンが険しい声で訊ねた。
「違います。拷問吏と告発人が被告人の証言をでっちあげるのを防ぐ為の措置なんです。書記室の人間が立ち会うお陰で、拷問吏と告発人の暴走が阻止され、被告人が完全なやられ損にならずに済むんです。無いよりかはましなはずです」
「そんなものなの?」キャサリンはマンフレートの説明には納得していなかった。
「ええ。そんなものです」マンフレートはきっぱりと言った。「善悪とは関係無い話です。これが異端審問のルールなんですから、そうだと考えて割り切るしかありません」

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『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
-本編(27) / -本編(29)


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