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(29)
4999年3月31日 22:17
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第4尋問室
クラム村で逮捕されたザール・ボジェット・フォン・シュレーダーの身柄は、デニム・イングラスをはじめとするザール捜索隊の面々と、ザール逮捕に協力したシルヴァイル・ブロスティンに連れられて、3月31日のうちに首都シルクスへ移送された。そして、移送完了当日のうちに早速事情聴取が開始された。
四方を石壁に囲まれ、天井から吊り下げられたランタンだけが光を放っていた5m四方の薄暗く陰鬱な部屋が、警視庁とザール・シュレーダー容疑者との対決の舞台となった。ザールは部屋中央に置かれた椅子に鎖で固定され、その姿をキロス・ラマン秘書官、サーレント・スレイディー警部補、セントラーザ・フローズン巡査の3人が眺めていた。デニム・イングラス事務官の仕事は、第4尋問室の端に置かれた椅子に座り、ザールに対する尋問によって得られた情報を紙に書き写すことであった。
「……有名人だな」ラマンがザールを見下ろして言った。
「どういうことだ?」ザールは顔を上げて訊ねた。その眼差しには敵意がこめられていた。
「連続女性失踪事件の重要参考人、3月1日に7番街で発生した殺人事件の被害者達の親友、そしてリデル・ベント巡査を死に至らしめた警官殺しの大悪党。お前の父親はレイゴーステムで自殺未遂を図り意識不明の重態に陥っているが、その原因を作ったのはお前だ。……今、シルクスを騒がせている事件の多くに名前と顔を出しているじゃないか。有名人じゃなかったら、一体何になるというんだ?」
「…………」ザールは何も言わなかった。
「そんなことはどうでも良い。早速事情聴取を開始しよう。今から言うことを良く聞くんだ」
「……説教か?」
「茶化すな!」サーレントが大声を上げた。
ラマン秘書官は説明を開始した。「被疑者の立場に関する注意だ。まず、ここで発言し調書に記録された事柄は全て裁判に使用される。その有利・不利は一切関係無しだ。それから、君が黙秘ばかり続けるのならば、我々は特別尋問の実施に踏み切らざるを得ない。今日付で内務大臣からの許可が得られたしな」
「…………」
「最後に、お前が現行犯で犯した警官殺しに関しては、一切弁明の余地は無い。だから、特別尋問が実施される時は遠慮・手加減は一切無しになるぞ。仲間の復讐の為だけに、お前を拷問部屋送りにしようと考える仲間もいるからな」ラマンの言葉に反応して、セントラーザの首が微かに縦に振られた。
「脅しているのか?」
「さあ」サーレントが肩をすくめた。「私の上司は事実を述べたまでだ。とにかく、黙秘していることはお前の得にはならないと思うぞ。それだけは繰り返して言っておく」
「……どういう意味だ?」
「裏表抜きの、文字通りの意味だ。お前なら分からんか?」
「…………」ザールは何も言わなかった。
「では、早速始めよう。まずは、お前が何者であるかを再確認したい。……名前は?」
「ザール・ボジェット・フォン・シュレーダー」ザールは小さな声で答えた。「シルクス生まれの27歳。職業は……」
「どうした? 言えないのか?」
ラマン秘書官に促されて、ザールは渋々と答えた。「……戦士。冒険者だ」
彼の言葉を聞き、部屋の端で待機していたデニムは羽根ペンを手に持ち、机の上に広げられていた羊皮紙の上にザールの言葉を書き留めた。
「仲間はいないようね。あんただけで仕事してたの?」セントラーザが訊ねた。
「いや」ザールは首を横に振る。「ダルクレント・パロスとエドバルト・ゼルス・ガートゥーンという仲間がいた。2人とも戦士だったが、ついこの間殺されてしまった……」
「それは知っている。現在捜査中だ」ラマンが応えた。
「あいつらを殺した奴は見つかったのか?」
ラマンは首を横に振った。「まだ見つかっていない。だから、お前には後でそのことも質問しようと思っている。被疑者としてではなく、被害者と親しかった証人としてだ。だが、それは後回しだ。今は8番街でお前が犯した罪を論じるのが先だ。では、早速聞くが」ラマンは顔をザールに近付けて訊ねた。「どうしてあの場所から逃げ出したんだ?」
「あの場所?」ザールはラマン秘書官に聞き返した。
「8番街。お前が警視庁の捜査官と会い、リデル・ベント巡査を殺した場所だ」
「…………」ザールはラマンから顔をそむけて沈黙した。
「逃げ出さねばならない理由でもあったのか? あの時点では、お前はただの行方不明の人間に過ぎず、警視庁はお前を保護しようとして必至に探し回っていた時期なんだぞ。お前を罪人として認識したことは全く無かった。それなのに逃げ出した……。どうしてなんだ? 我々警視庁の人間から逃げ出さねばならない立派な理由でもあったのか?」
「…………」
「別の犯罪に手を染めていたの?」セントラーザが口を挟んだ。「例えば、今シルクスを騒がせている連続女性失踪事件にあんたが関わっていた──」
「違う! 絶対違う!」ザールが突如大声を上げた。彼に顔を近付けていたラマン秘書官は慌てて耳を塞ぐ。「俺はあんな人さらい達とは違うんだ! タンカード様に誓ってもいい! 俺はあいつらとは関係無い!」
「本当か?」サーレントが訊ねた。彼はザールの言葉を信じていなかった。
「そうだ! 本当だ!」
「しかし、事実は全く逆のことを説明しているのよ」セントラーザが言った。「あんたが連続女性失踪事件の被害者達と会っているという証言があるのよ。《ブールエルフ》から得られた話だけど、心当たりは無いの?」
《ブルーエルフ》の名前が挙がった瞬間、ザールの表情が凍り付いた。そして、気を取り直すと穏やかな声で言った。「ああ、確かに《ブルーエルフ》で食事をしたことはあるさ。女の子達と会って楽しく過ごしたこともある。でも、そのことが罪になるとでも言うのか?」
「それだけなら違うな。だかな──」ラマン秘書官がザールの鼻を指を突きつけながら言った。「10歳から30歳までの女性だったという事実と、彼女達が全員シルクスに住んでいたという事実以外に、20人の被害者達を結び付ける物は何1つ存在しなかった。その唯一の例外が、お前達3人が《ブルーエルフ》でカッセル姉妹とナターシャ・ノブゴロドと会っていたという事実なんだ。知人から聞いた話だと、カッセル姉妹とナターシャ・ノブゴロドの間に面識は全く無かったそうじゃないか」
「だからどうしたって言うんだ?」ザールは鋭く聞き返した。
「そこから先は我々が決める」ラマンはあっさりと言った。「それはともかく、もう一度だけ聞くぞ。なぜ我々から逃げ出したんだ? それに、2人が殺された時点で保護を求める為に政府機関に出頭しなかったのはなぜだ? 逃げ出さずに、出頭して保護を求めていれば、お前が殺人を犯す必要も無かったはずだぞ。その逃げ出した理由を教えろ。ここで言わなかったならば、お前に対して特別尋問を行わざるを得なくなる」
「…………」ザールはラマン秘書官から顔をそむけた。
「あくまでも黙秘か? 特別尋問──」
「そんなことどうでもいいじゃないか!」ザールが再度大声を上げた。「どこで何をしようと人の勝手だろう!? ひょっとしたら、俺が何かしたとでも思ってるのか? え!?」
──何かしたと思ってるからこそ質問しているんじゃないか……。
デニムは心の中で毒づいた。
ラマンはザールから顔を離すと、残念そうに首を振った。「……話題を変えよう。お前達の仲間が殺された時の話を聞かせて欲しい。最初に訊ねるが、3月1日の夜、お前はどこで何をしていたんだ?」
「……7番街だ」ザールは小さな声で答えた。「前の日の夜から酒を飲んだ後だったと思う」
「誰かと一緒だったのか?」サーレントが訊ねた。
「ダルクレント・パロスとエドバルト・ゼルス・ガートゥーン。2人とも死んじまったがな……」
「どこの酒場だったか、覚えているか?」ラマンが訊ねた。
「《ブルーエルフ》だ。店主に聞いてもらえれば証言がもらえると思う」
「後で問い合わせておこう」ラマンが応えた。「で、飲んだ後のことは覚えているのか?」
ザールは深い溜め息を吐いた後、今までと変わらぬ小さな声で言った。「ほとんど覚えてない。で、店を出た後……7番街のどこかを歩いてたら……そう、突然、変な女に襲われたんだ。酔いはそこで冷めて、慌てて逃げ出したんだが、途中でばらばらになってしまった。気が付いた時には、1人だけで帝都の外にいたな」
「2人とどこで別れたか、覚えているの?」セントラーザが質問した。
ザールは無言で首を横に振った。
「その変な女性というのがどういう人物だったのか、顔は覚えているの?」
「髪が長かったことだけは覚えている。それと、グラマーな体付きだったな……。絵を見せられたら思い出すかもしれないが、今は思い出せない……」
「襲われたこと関して、心当たりは?」サーレントが訊ねた。
「…………いや、全く無い」ザールは長い沈黙を開けてから答えた。
その言葉を部屋の端で聞いたデニムは僅かに眉を動かした。
──これは嘘だな。やましいことは1つか2つは持っているはずだ。それがなくても、「《ブルーエルフ》で酒を飲んだ」という証言自体が信用できない……。
ラマン秘書官は深く追求せずに次の質問へ移った。「ここからは、1日に発生した殺人事件とも、お前が犯した警官殺しの事件とも全く関係無い単なる質問だ。《7番街の楽園》という酒場でナディール教徒と思われる人間8名が逮捕された話しは聞いているかね?」
「……いや、初耳だった」
「そうだろうとは思ったがな」ラマンはそう言って、懐から8人の逮捕者の似顔絵を取り出し、ザールに広げて見せた。「彼らが異端者として逮捕された人々だ。この中に知っている人間はいるかね?」
ザールは注意深く8枚の絵を見つめていたが、残念そうに首を横に振った。「……いや、誰も知らないな、残念ながら」
4999年3月31日 23:29
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室
事情聴取の続きをカルナス警部補とその部下に任せたデニム達3人とラマン秘書官は、連続女性失踪事件捜査本部の置かれている第2会議室の椅子に座り、ラマン秘書官の同僚が用意してくれた紅茶をすすりながら、今後の捜査と事情聴取の方針を協議していた。
「彼の言うこと、信じるかね?」
「ザールの言葉ですか?」サーレントは首を横に振った。「額面通りには到底受け取れませんな。警視庁の人間から逃げ出した理由は黙秘し、連続女性失踪事件との関与も否定……。納得してくれと言われてもこればかりは無理ですな」
「どうしてかね?」
「フローズン巡査が連続女性失踪事件との関与を匂わせた時の彼の反応、あれはどう見ても尋常じゃなかったでしょう? 黙秘する時や証言を述べる時は淡々としていたのに、あの時だけ過剰反応を見せた。……絶対、何かあります」
「それに」セントラーザが続けて言った。「《ブールエルフ》の名前が挙がった時、ザールの顔色が急に変わったんですよ。凍り付いたようになったと言うべきかもしれませんけど、あれも変ですね」
「イングラス事務官の意見は?」
デニムは繊維紙に目を落としながら答えた。「僕としては、彼が3月1日の行動を説明する時に《ブルーエルフ》の名前を挙げたことが気になります。ザール達3人があの店の常連客だったのですから、ごく自然な話であるような気もするんですが、《ブルーエルフ》の名前が挙がった時に彼が見せたリアクションも併せて考えると不自然に見えるんです。常連客として訪れている店の名前が出て、自分がその店に関連してやましいこと──例えば犯罪とかを何も犯していなかったとしたら、あんなリアクションが出るはずが無いと思います」
ラマンは黙って頷いた後、おもむろに口を開いた。「特別尋問の用意だ」
「実施はいつにします?」デニムが訊ねた。
「明後日の午前中だ。明日の事情聴取では、特別尋問のことを話題にして脅しをかける」
「賛成ですな」サーレントは頷いて賛意を示した。
「では、その方針でいこう」ラマン秘書官はそう言って3人の顔を見回した。「他に、今日の事情聴取で気付いたことは無かったか? 私はザールと話をするのに神経を使っていたので、細かいことまでは分からない」
「……1つ、あるんですが」セントラーザが口を開いた。
「何かね?」
「ザールに《7番街の楽園》で逮捕された8人の似顔絵を見せた時のことなんですが、彼は8人の中で左端のイラストにずっと目を向けていたような気がするんです。私の気のせいに過ぎないのかもしれませんけど……」
「左端?」ラマンは懐から似顔絵を取り出した。
「ええ。確か女性だったと思うんですが──そう、この人」セントラーザは女性──フォルティア・クロザックのイラストを指差した。「彼はこの女性のイラストをずっと見つめていましたよ」
「誰なんだ?」サーレントは首を傾げた。「ザールの親戚なのか?」
「さあ……」デニムは首を横に振った。「それよりも、ラマン秘書官にお訊ねしたいことがあります」
「ん? 何かね?」
「僕達3人がシルクスを離れている間、どれだけ情報が手に入ったのでしょうか? そのブリーフィングがまだだったと思います」
ラマンは一瞬だけ呆気に取られたが、ふと気付いたように手を叩くジェスチャーを見せた。「すまん、すっかり忘れていた。ザール逮捕の知らせを聞いて興奮していたからな。では、簡潔に説明するぞ」
「ええ。お願いします」サーレントが応えた。
「まずは、警視庁内部の『スパイ』狩りの結果報告だ。レイモンド・フォン・ビューローを含む8人全員が、捜査妨害に関与していたことを認めたぞ。元締めはビューロー自身で、彼が犯人グループとの連絡に当たり、捜査情報のほぼ全てを伝えていたらしい。だから、犯人グループが不自然なまでに合理的で狡猾な反応を示すことができたんだろう。しかし、それよりも奇妙な事実がある」
「何でしょう?」デニムが顔を近付けた。
「君達がビューローを逮捕した時、彼の持っていた武器が神聖魔法によって作られた武器だったことは覚えているな?」3人の首が縦に振られたことを確認してラマンは言葉を続けた。「実は、ビューローが持っていたホーリーシンボルに【アナライズ・マジック】の呪文を使ってみたところ、ホーリーシンボルの魔力付与者が判明した」
「誰?」セントラーザが訊ねる。
「ひょっとして……」デニムが躊躇いがちに言った。「……ソレイル・ギスティム?」
「その通りだ」ラマン秘書官は頷いた。「ザールのホーリーシンボルを作った人間と同一人物。タンカード神殿の大司教で、かつてはバイロイト修道会会長として、海外布教にも力を注いでいたという大物聖職者だ。タンカード神殿内の分派の中では、最も過激な分派を率いており、重農主義者と守旧派の最先鋭と言われている。彼の弟はダリル・ギスティム……《ブルーエルフ》のオーナーだ。そして、彼の背後にはアーサー・フォン・ランベス枢機卿が控えている」
「また、あいつなんですか?」サーレントが不快そうに訊ねた。
警視総監付秘書官は無言で頷いた。
「ランベスって奴、まるで疫病神じゃないの」
このセントラーザのコメントに異論を挟む者は誰もいなかった。
4999年4月1日 01:07
シルクス帝国首都シルクス、6番街、ナターシャ・ノブゴロド達の監禁場所
「何すんだよ! 放せよ!」
31日目の監禁生活を終えて眠りに就こうとしていたナターシャ・ノブゴロドの耳に、聞き覚えのある女性の声──悲鳴が届いた。
──誰なのかしら……確か、あれは私達を監視していた女性じゃ……?
隣で寝息を立てているセリス・キーシングを起こさないように注意しながら、彼女はゆっくりと上体を起こし、明かりが置かれている区画のほうに目を向けた。テーブルの上に置かれているランタンの光が眩しいために目を細めて見るしかなかったが、それでも現在進行中の事態の内容を把握することはできた。これまで犯人達の一味としてナターシャ達の監視に当たっていた女性が、数人の男性──犯人達の一味に引きずられるようにして、ナターシャ達人質が生活する区画へと連行されて来たのである。
──彼女に何があったのかしら?
「今日からはここがお前の生活場所だ!」
男達は元監視役の女性を乱暴に突き放した。彼女はナターシャの隣に倒れ込むと、口から血を流しながら大声で叫んだ。「仲間を売り飛ばすなんざ、最低だね!」
「何とでも言うがいい! こっちは商売なんでね!」男達の1人が言い返した。
「お前も知ってるだろうから1回しか言わんぞ」別の男の声が聞こえた。「大声は出すな。出したらその場で喉を掻き切ってやる」
「ふん! あたしゃ知らんね!」
男達は元監視役の言葉を無視すると、ランタンが置かれていたテーブルの周囲に腰を下ろし、ランタンの脇に置かれていたトランプの山に手を伸ばし始めた。その様子を見ていたナターシャは男達から目を離し、隣に倒れていた元監視役の女性に顔を向け、男達に聞こえないように小声で訊ねた。「大丈夫?」
「……ああ、あんたが心配するには及ばんよ」彼女は右手で口から流れ出ていた血を拭った。だが、手枷がはめられているために左手も同時に顔の辺りまで持ち上がる。「くそっ……なんて不便だ……、それに奥歯が……」
「殴られたの?」
暗闇の中で元監視役の首が上下に動いた。
「どうして……あなたって、私達をここに閉じ込めてる連中の仲間じゃ……?」
元監視役は男達がカードゲームに熱中しているのを確認してから口を開いた。「ああ、そうだったよ。でもだな、エレハイム・カッセルとソフィア・カッセルが死んで『商品』が足りなくなったから、その代わりに女の子を2人見つけなきゃならなくなったんだ。それで、シルクスで雇われたあたしに白羽の矢が立ったってわけさ。雇われた時には『それだけは絶対に無い』とか言っておきながら、酷いもんじゃないの、ええ?」
「あなただって同類じゃない──」ナターシャはしまったと思い慌てて口をつぐんだ。
「そうさ、あたいはどうせ所詮は犯罪者さ」元監視役は自嘲するかのように苦笑いした。「いつかはこうやって手枷をはめられることになるんじゃないかって思ってたけど、こんなに早くなるとは思わなかったさ。それも、あたしを雇った連中によって捕まって売り飛ばされるんだよ。やな話だよ、ったく」
「売り飛ばされる? あたし達もそうなの?」
「ああ、そうさ」元監視役は頷いた。「どうせもうすぐ連中が話すことになってたがな」
「……でも、どこに? テンバーン王国? ウル帝国? それとも海洋都市連合?」
元監視役は薄ら笑みを浮かべたまま首を横に振り続けた。「全然違うよ」
「それじゃあ、どこなの?」
「遠い海の向こう」元監視役は間を置いて言葉を続けた。「ダルザムール帝国なんだよ」
「ダルザムール帝国……」ナターシャは彼女の言葉を繰り返した。
「そ。エルドール大陸の北西に浮かぶ大陸にある帝国で、最近力を付けてきているって話さ。それで、あの国には人身売買のシンジケートがあって、あたしはその組織に雇われてたってわけなの」
「そんなに遠いところだなんて……」ナターシャは言葉を失った。
──エルドール大陸やそのすぐ近くの国に売られるんだったら、脱出してシルクスへ逃げ帰るチャンスも十分あるはずなのに、よりによってダルザムール大陸に売られるなんて……これじゃあ絶対に帰れない……。それなら、船に乗せられる前に脱出するか、警視庁に助けを呼ばなければ……。
「ここでのあたしの仕事は、あんた達人質の監視。シンジケートからもらった報酬分だけはちゃんと働いたつもりなんだけど……やっぱり、あいつらは信用しちゃ駄目だったんだよ。気付くのが遅過ぎたね」
「私達がシルクスを出るのはいつなの?」ナターシャは元監視役の左腕を掴んだ。「ねえ、教えて」
「連中の話では、4月10日の朝にシルクスを出港するとか話してたな。ダルザムールに着くのは22日か23日になるらしいけど、それがどうかしたんだい?」
ナターシャは更に声を落とした。「9日間残されてるわね。その間に何とかするのよ」
4999年4月1日 09:07
シルクス帝国首都シルクス、5番街、内務省4階、内務大臣執務室
イシュタル・ナフカスの耳に、執務室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「何ですか?」
「バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣の秘書と名乗る人物から、お手紙が届きました。いかがなされますか?」
「ここに持って来て」
イシュタルが命令すると、執務室のドアが開き、若い男性事務官が室内に現れた。その手には羊皮紙のスクロールが握られている。「失礼致します。つい5分程前、バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣の秘書と名乗る人物から、『宰相閣下に御渡ししたい品物がある』と言われ、このスクロールを頂きました」
「秘書と名乗る人物はどうなったの?」
「シュレーダー邸に戻ると仰っていました。応接間にお通ししようとしたのですが、お断りになられました」事務官はそう言いながらスクロールを手渡した。「シュレーダー邸のほうで火急の用事があるそうで、『宰相閣下がシュレーダー家に御用がある場合は、シュレーダー邸のほうに連絡されるようお願いする』との言伝も頂きました」
「なるほどね……」イシュタルはシュレーダー家の紋章が入った蝋の封印をペーパーナイフで切り落とし、執務机の上にスクロールを広げた。
宰相イシュタル・ナフカス様
この度、一身上の都合により、新太陽歴4999年3月28日付で大蔵大臣の職を辞任致します。
新太陽歴4999年3月28日 バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー
──バーゼルスタッド卿の字じゃない……。自殺未遂事件の一報を聞いた奥様が書いたものだわ。でも、私の手で無理に罷免させるのに比べれば、辞表を受け入れるほうがまだ名誉ある引き際になるのじゃないかしら……。
「何でしたか?」事務官が訊ねた。
「普通、そういうことは聞いてはいけません」イシュタルは男性事務官に優しい声で忠告した。
「そ、それは……申し訳ありませんでした」
「でも、教えても構わないでしょう。すぐに公表することでしたし」彼女はスクロールを丸めながら言った。「これはシュレーダー大蔵大臣の辞表です」
「ということは……?」
イシュタルは男性事務官の質問には答えずに、机の上の鐘を鳴らした。10秒ほど経過してから、隣の部屋に待機していたイシュタルの秘書が内務大臣執務室に現れる。「御用件は?」
「全閣僚を帝城へ召集させる命令を出して。大蔵大臣の交代を閣議決定するから」
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