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4999年4月1日 14:29(異端審問第6日目)
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド地下3階、第1特別尋問室

 デスリム・フォン・ラプラスは、室内の淀んだ空気と異臭に耐えながら、第1特別尋問室で実施されていた特別尋問──拷問を見守っていた。20m四方の薄暗い室内には、彼の他にも6人の裁判官(キャサリン・グリーノックは特別尋問への出席をボイコットした)、各2人ずつの告発人と弁護人、そしてラプラス達に拷問の予備知識を披露した拷問吏ガロット・ユーディルとその助手4人が集まり、《7番街の楽園》で逮捕された8人の被告人に対する特別尋問に立会い、血と汗と体液を流しながら悲鳴を上げる被告人達から、より多くの知識を得ようと努力を続けていた。
 しかし、これまでに拷問に掛けられた2人の男性──ナディール教団への参加を認めた信者達への拷問は不調に終わっていた。彼らに対する特別尋問は、ナディール教団への追加の参加者を捜し求める為に実施されたものであったが、既に死を覚悟していたのか、2人はいかなる拷問を受けたとしても頑として口を割らなかった。徒歩でこの部屋に足を踏み入れた彼らは、拷問が終了して地下牢に戻される時には、盗賊ギルドの職員によって両脇を抱えられたまま、引きずられて部屋から出て行った。拷問によって体力が激しく消耗し、気絶してしまったためだけではない。「履くことを拒否するブーツ」と鉄製の楔によって、彼らの両足の脛の骨は粉々に砕け散っていたのである。この後、彼らの足は緑系統呪文によって癒されるのであるが、回復した後には似たような拷問が何度も繰り返される予定になっていた。
「次からが罪状を否認した被告人達ですな」ラプラスの隣に立っていたグレイブ・ゾーリア司教が言った 「彼らは異端者であることを認めるでしょうか?」
「さあ……こればかりは何とも」ラプラスは首を横に振った。「拷問吏の腕前と被告人達の神経の太さによって変わるでしょう。彼らが苦しさから逃れる為に、嘘の自白を行う可能性も十分考慮せねばなりませんが」
「そして、橙系統呪文による尋問を擁護するのですか?」ゾーリアが訊ねた。
「裁判長がそうお考えになるならばそれで結構です」ラプラスは鋭く言い返した。「真実を追究する為の方策として拷問を用いるのは、私はあまり好きではありません。無論、橙系統呪文だけを使って捜査を進めることにも私は反対ですがね」
「『中間の策がよろしい』と仰るのですか?」弁護人のラム・キエフ司祭が訊ねた。
「私には分かりかねますな」ラプラスは首を横に振った。「犯罪捜査における拷問と橙系統呪文の有効性に関する論議は、全て法律家に任せてしまいたいですね。私は法律の専門家じゃありませんし。……ただ、彼らに転向を迫る目的で行うのならば、話は多少異なりますが」
「どういう意味です?」キエフ司祭が訊ねた。
「拷問としての性格が全然違うんです。異端者に転向を迫る目的で行う拷問は、被疑者に二者択一を迫るもののはずです。『転向せよ、さもなくば死あるのみ』とね。拷問の被害者は転向することを表明すれば、たとえその転向が表面的なものだけだったとしても、拷問による苦痛から解放されるんです。被疑者から自白を引き出す為の拷問が、被疑者を袋小路に追い詰めて嘘の自白と有りもしない共犯者を生み出すのに比べれば、その有効性は格段に高いはずです」
「ラプラスさんの御友人であるグリーノック司教は、そのようにお考えではないようですな」ゾーリア司教が言った。
「ええ。キャシーはどのような形であれ、拷問という存在その物を嫌っています。合理的な理由付けが為される前の、いわゆる生理的嫌悪に近い感情を抱いています。昨日の夕方も、特別尋問の実施の是非を問う投票で棄権に回ったバソリー神殿の司教に対して、散々文句を言っていましたよ」ラプラスはそう言って、部屋の中で1人だけ孤立しているバソリー司教の男性を指差した。
「そう、私達4人の間でもその話題が出てましたよ」キエフが応えた。「何があったんです?」
「裁判終了後、私が質問しました」ゾーリア司教が答える。
「返答は何だったんです?」
「ただ一言、『特別尋問によって6人の無実が立証されるのなら、それを行うことも仕方無い』とだけ答えました。その後は、無言を守ったまま自宅へ帰ってしまいましたがな」
 ラプラス達が拷問を巡る様々な論議を戦わせている間に、拷問吏の弟子達は血と汗で汚れた第1特別尋問室の床をモップで拭き、3人目の特別尋問を実施する為の準備を整えていた。やがて、助手達がガロット・ユーディルに報告を済ませると、ガロットは会話中だったラプラス達のところに歩み寄ってきた。「裁判長、準備は終わったぞい」
「了解した」ゾーリア裁判長は頷くと、手を2回叩いた。「被告人1番への特別尋問を開始して下さい!」
 第1特別尋問室に1ヶ所だけ作られたドアが開き、盗賊ギルド職員に両脇を固められた状態で、被告人1番フォルティア・クロザックが第1特別尋問室に姿を現した。半袖シャツに黒のミニスカートという出で立ちの彼女には、既に幾重にも縄が掛けられている。
「御苦労じゃった。合図があるまで待機しておれ」
 盗賊ギルド職員はガロットの言葉に従い、第1特別尋問室から退出した。ドアが完全に閉まるのを待って、ゾーリア司教がフォルティア・クロザックに向かって言った。「被告人1番。現在、あなたが置かれている状況が分かりますか?」
「これってどういうこと?」彼女は裁判長を睨みつけながら言った。「無実の私を拷問に──」
「特別尋問です」ゾーリアはフォルティアの言葉を訂正した。
「まあ、状況は理解しておるようじゃな。それならば、これ以上の説明も不要であろう。わしらの苦労と手間を取らせない為、そして、そなたのような美貌の持ち主を苦しめない為にも、ここで本当のことを話すのじゃ。今ならば、まだ止められるぞ。さあ、どうじゃな?」
「だから、私は本当のことを話してるのよ。私は無実だって、何度も繰り返して──」
「本当かのう? 嘘は身の為にはならんぞ」
 ガロットは壁に掛けられていた皮製の鞭を手に取った。そして、ゆっくりと、しかし力強く、フォルティアの眼前に鞭を振り下ろした。空気を切り裂くような大きな音に、被告人だけではなく傍観者達の多くが怯んだ。先の2人の拷問を見ていたラプラスは、既に慣れてしまったのか、顔色1つ変えないで、怯えの色を露にした被告人の顔を観察していた。
 ──この手の脅しには慣れていないようだ。思っていたよりも早く終わるかな……?
「もう1回だけ聞くぞ」ガロットはそう言って再度鞭を振るった。鞭の乾いた音が第1尋問室内に響き渡る。「……本当に異端者とは関わりは無いのかね? 実際には、シルクスかエブラーナでナディール教団に参加しているのではないのかね?」
「それだけは違うわ! 絶対に違う!」フォルティアは声を荒げて否定した。だが、その声が微かに震えていることにラプラスは気付いていた。
「分かったぞい」拷問吏は頷くと、助手達のほうを向き、無感情な声で命令した。「『逆に』吊るすのじゃ」
 助手達は頷くと、天井の滑車から吊り下がっていた縄の1本を手に取ると、フォルティアの両足に縛り付けた。そして、彼らはフォルティアが喚いて懇願するのを無視して、慣れた手付きで彼女の体を天井から逆さに吊るした。その手際の良さにはラプラスも舌を巻く思いをした。
「くっ……」重力に従って溜まり始めた血液のため、フォルティアの肌白かった顔が赤く染まる。
「さあ、話すのじゃ、本当のことをな。何も話さないのならば、そなたの体はこのまま逆さに吊るされたままになるぞい。どうなのじゃ? 本当は異端者とは関わっていたのじゃないのかね?」
「ち……違う……私は知らないわ……」フォルティアは息苦しそうにして答えた。
「ならば──」
 ガロットは鞭を振り上げると、無抵抗となった被告人1番の背中に鞭を振り下ろした。突然襲い掛かった鋭い痛みに、フォルティアは甲高い悲鳴を上げた。彼女の白い着衣は鞭によって引き裂かれ、赤く腫れた背中の皮膚が露出する。
「これでもまだ言う気は無いかね?」ガロットは無表情を保ったまま崩さずに訊ねた。「あいにく、わしは遠慮というものを知らない人間でな、背中だけではなく胸にも鞭を振り下ろすことになるかもしれんぞ」
 ガロットの言葉を聞いたラプラスは室内を見回し、聖職者達の表情を観察した。だが、拷問吏の言葉に反応して、冷厳で威圧感に満ちた厳しい表情を崩す者は皆無であった。好色で邪な発想が心の中に生まれたとしても、それを覆い隠すだけの自制心を持ち合わせているのか、それとも拷問の見過ぎで無感情になっているのかは、彼には判じかねた。彼自身も表情を変えることは無かったが、それは専ら前者の理由によるところが大きかった。そして、そのことに気付いたラプラスは、淫らな発想を頭から退けようとして頭を横に振った。
 ──こういう不埒な考えを抱く人間がいるからこそ、拷問が無くならないのかもしれんな。
「さあ、どうなのかね?」老人の声によってラプラスは現実に引き戻された。
「う……それは……」フォルティアの顔は苦痛で歪んでいた。
「もう1回、鞭で叩かれたいのかね?」ガロットは鞭の先端を左手で握り、鞭を振り下ろそうとする姿勢を見せた。
「……い、嫌よ! ……頼むから、これ以上は……」
「話す気になったのかね?」
 フォルティアは首を縦に振った。「異端じゃないけど……別のことなの」
 拷問吏は固く口を結んだままフォルティアを見つめていた。
「異端じゃないけど……別の悪いことを……」彼女は息を切らしながら言った。
「別の悪事?」室内にいた16人を代表してラプラスが訊ねた。「どういう意味だ?」
「だから……言ったでしょ? 私は……異端者じゃないけど……別の罪を……」
「それは初耳だ。具体的内容を──」
「その必要は無い!」タンカード司教の1人が大声を上げてラプラスの言葉を止めた。「現在、被告人が受けている拷問は、バディル勅令違反の容疑を調べる為のものだ! 関係無い犯罪に関して情報を聞き出すだけの余裕は無い! これこそ、苦痛から逃れる為に嘘を付いていることの証だ!」彼の言葉に、別のタンカード司教の首が縦に振られた。
「しかし、聞くだけの価値ならあると思いますよ」同じタンカード神殿に属しているガーラル・シモンズ司祭が言った。
「本当にそう思うのか?」
「はい」シモンズ司祭は頷いた。「せっかく、被告人が私達に情報を教えようとしているんです。その『善意』を無駄にすることはできないはずですよ」
 彼の言葉に室内の多数の人間が同意した。裁判長であるグレイブ・ゾーリア司教も首を縦に振っていた。少数派となったタンカード司教の2人は、憮然とした表情を顔に浮かべる。
「では、君がシルクスで何をしたのか説明してくれ」
「分かったわ。……でも、その前に、ここから……下ろして……」
「……もう終わりか。つまらんのう」
 ガロットは不満げに漏らすと、待機していた助手達に目配せした。助手達は無言で頷くと、彼女を吊るした時と同じように慣れた手付きで彼女を天井から下ろし、天井の滑車から縄尻を取り外した。そして、彼女の呼吸が落ち着くのを待ってから、ガロットが訊ねた。「どこで何をしたのじゃ?」
「シルクスで……人殺しをね」
 フォルティアの言葉を聞き、室内にいた男達は驚きを露にして互いに顔を見合わせた。
「誰を殺したのかね?」
「シルクスで発生していた連続女性失踪事件……その実行犯達を見たの。で、彼らから逃げている途中に袋小路に追い込まれ……そこから脱出しなきゃならないから、しょうがなく戦ったのよ」
「正当防衛?」シモンズ司祭が呟くように言った。
「それが認められればいいけどね。戦った結果、彼らのうち2人が死んだことを知ったのは、次の夜だったわ。怖くなって自首しようと思ったけど、結局はできなかったわ」
「どうして自首しなかったの?」アテナ・オナシス司祭が訊ねる。
「彼らが実際に女の子を誘拐してるところを目撃したんだけど、犯行時に犯人達が呪文を使った時に、水色の光が出ていたのよ。あれは神聖魔法に属する呪文だったはずだわ。そのことに気付いたから、誰にも言えなくなってしまったのよ。『犯人が聖職者だった』なんて言い出して、誰が信用すると思う?」
「なるほど」ラプラスは頷いていた。「自首して『連続女性失踪事件の犯人に聖職者が混ざっていた』と言っても、警視庁の人間がそれを真面目に取り上げることは無く、逆に変人扱いされて刑務所に放りこまれるかもしれない、と恐れたわけだな?」
「そうよ」フォルティアは頷いた。「それに、私が2人を殺した場所と、連続女性失踪事件の犯行現場を目撃した場所って、そんなに離れてなかったの。だから、私が殺人の事を隠して警視庁に目撃情報を提供したとしても──」
 ラプラスがフォルティアの言葉を継いだ。「君の目撃情報は信用されず、逆に君が2人を殺したと疑う。そして、犯行現場とそこで使われた神聖魔法については『言い逃れの為の嘘だった』と誤解される。そして、裁判を経た上で、君は殺人犯として絞首台の露に消える……」
 フォルティアは無言で頷いた。
「君の言い分は分かった。しかし、それはあまりに政府機関を信用していないんじゃないのかね? 警視庁の中にも、君の言葉を信用する人間がいるのかもしれないというのに。それに、シルクスのマレバス神殿かゾルトス神殿を訪れて、聖職者からどうすれば良いかアドバイスを乞うこともできたはずだぞ。彼らには職務上の守秘義務があるから、君の告白が外部に漏れることも無いはずだが」
「そうね、それは認めるわ。でも──」
 フォルティアが言葉を続けようとした時、部屋の奥からバソリー司教の声が上がった。「そういうことだったか!」
「何がどういうことなんです?」ライアン司祭が訊ねる。
「今回の異端審問のことだ! 審問開始前の手続きから、タンカード神殿が色々と無理難題を押し付けていたことだよ! 今の話で全て分かったんだ!」
「どのように分かったんです?」ゾーリア司教が穏やかな声で訊ねた。
「被告人の言う神聖魔法の使い手が、タンカード神殿の聖職者だったとしたら?」
 バソリー司教の言葉を聞き、第1特別尋問室は異様な静寂に包まれる。この沈黙の中、ラプラスは腕を組み、バソリー司教の発言の正否を判断すべく頭を全力で働かせていた。
 ──これが事実だったとしたら、とんでもない話になるぞ。シルクス帝国宗教界の最大勢力が、シルクス帝国建国直後の大規模な刑事事件に深く関わっていたことになるからな……。俄かには信じられん話だが、司教の言葉通りだったとしたら、動機という観点では筋が通ったものになる。しかし、筋が通っていたとしても、この情報を外部に漏らして益があるのだろうか……?
 室内の沈黙を破ったのはタンカード司教の怒声だった。「何を言うか! 我々の神の名前を愚弄する──」
 彼の隣に立っていたバソリー司教が、右手で彼の動きを制した。「しかし、これが事実だという──」
「そのようなことは絶対に無いはずだ!」別のタンカード司教が大声を上げた。「聖職者がそんなことをするとでも思うのか!? いや、絶対に無いはずだ! こいつの情報はでまかせに決まっている!」
「真実はともかく、調査すべきでは?」別のバソリー司教が言った。
「必要は無い」最初に怒鳴ったタンカード司教が答えた。
「なぜだ?」
「お前達バソリー神殿が立ち入る必要の無いことだ」
「あなた方は、自分達の神殿の悪事を隠すつもりか!」前日に棄権票を投じたバソリー司教が叫んだ。
「口論はこの程度に──」喧嘩をなだめようとしたラプラスの声は罵声にかき消された。
「この野郎! これ以上、我が神殿のことを非難したら、ただでは済まさないぞ!」
「非難ではない! 私は事実から得られる論理的演繹を述べたまでだ!」
「いい加減にしなさい!」ゾーリア裁判官が叫ぶ。しかし効果は無い。
「言い掛かりもいい加減にしろ! とにかく!」タンカード司教は爆弾発言の主を向いて言った。「貴様の今の発言は取り消せ! 根拠も無いのに我がタンカード神殿の聖職者を犯罪者呼ばわりするなど言語道断だ! 土下座して謝罪するんだ!」
「土下座だと!? 死んでも断る!」
 タンカード司教は無言でバソリー司教に近付くと、渾身の力で彼を殴り倒した。
「貴様! 許さん!」
 殴られたバソリー司教は立ち上がると、両手でタンカード司教に掴み掛かった。近くに待機していた司教達も彼らのもとに駆け寄り、2人の喧嘩を止めるのではなく相手側の聖職者に拳で攻撃を加え始めた。乱闘の開始である。
「何をやっているんじゃ!」ガロットが大声を上げた。「喧嘩を止めるぞ!」
 我に帰ったラプラスと4人の司祭、そして拷問吏の助手達は乱闘を続ける5人へ走り寄った。ただ1人、縛られたまま床に座っていたフォルティア・クロザックだけが、唖然とした表情を浮かべながら乱闘の行方を見守っていた。

4999年4月1日 16:00
シルクス帝国首都シルクス、1番街、大蔵省4階、官房長執務室

 バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー大蔵大臣の辞任に伴い、大蔵省の上層部ではスライド式に人事移動が行われた。副大臣を務めていたアーサー・フォン・ランベスは正式な大蔵大臣に就任し、彼の腹心であったフェロヴィッチ・カリーニン官房長は副大臣に昇格した。そして、官房長の下で大蔵省の各部署を統括していた部長達の1人である財務部長ウィリアム・フローズンは、カリーニンの昇格に伴い空席となった官房長の椅子に座ることとなった。彼の勤務場所も、今までの大蔵省3階から1つ上のフロアに移動した。給料も今までよりも10%増額され、平屋一戸建ての家をシルクスに持つという長年の夢も、実現不可能ではないところまで来ていたのである。
 ──出世と言えば聞こえが良いが、こんな出世、誰が喜ぶというのだ?
 だが、官房長執務室の椅子に座るウィリアムには、今回の出世を歓迎する気持ちにはなれなかった。今回の出世の原因となったのが、「辞任した」バーゼルスタッド・フォン・シュレーダーの自殺未遂事件だったからであり、彼の次男ザール・ボシェット・フォン・シュレーダーがシルクス警視庁の警官を殺したことが、バーゼルスタッドの自殺未遂事件の動機とされていたためである。2人の人間に振りかかった不幸による出世であり、そのことがウィリアムの気持ちを暗澹とさせていた。
 無論、シルクス帝国の政界の中には、今回の出世を喜んでいる人間が存在していることをウィリアムは知っていた。大蔵大臣となったアーサー・フォン・ランベスは、表向きはシュレーダー家の悲劇に対して同情の念を示していたが、心の底の本音を隠すことはできなかった。ランベス枢機卿の腹心であるフェロヴィッチ・カリーニンが、心からシュレーダー家での悲劇を悲しんでいた──少なくてもウィリアムにはそう見えた──のと比べたら、雲泥の差と呼ぶべきほどの好対照を見せていた。両者の好対照は大蔵省の職員達の間でも話題となり、中立派や改革派の官僚達からは、「カリーニン氏の大臣就任ならば許せるけど、ランベス枢機卿が大臣になるのは絶対に許せない」と叫ぶ声が早速上がっていた。大蔵省官房長ウィリアム・フローズンは、こういった官僚達からの不満の声をなだめる役回りを「押し付けられた」のである──バーゼルスタッド・フォン・シュレーダーによって。
 ──こんなところで座っているのもなんだし、外に出てみるか。
 ウィリアムは椅子から立ち上がり大きく背伸びした。そして、机の上に機密書類が乗っていないことを確認した上で、木製のドアを開けて大蔵省4階の廊下へ出た。
 ──まずは、新任の財務部長に会って職務の説明を行うことにしよう。
 ウィリアムが下の階へと続く階段に辿り着いた時、階段の踊り場から男性の声が聞こえてきた。「官房長」
「どうした──」質問しようとしたウィリアムは、彼に声をかけた事務官の沈痛な表情に気付き、顔を曇らせた。「まさか……」
「はい。その『まさか』です。……先程、レイゴーステムのナランド神殿から通信用クリスタル経由で連絡が入りました。バーゼルスタッド・フォン・シュレーダー前大蔵大臣が、今日の午後2時24分に亡くなられました」
「意識は回復しないままだったのか?」
「いいえ」事務官は首を横に振った。「連絡役を務めた助祭の話によりますと、亡くなられる直前、シュレーダー氏の意識が一瞬だけ回復したそうです。その時に、うわ言の様に『ザール……』と呟き、そのまま息を引き取られたそうだとか……」
「分かった。連絡御苦労だった」
 ウィリアム・フローズンは事務官が視界外に消えた後、深い溜息を吐いた。

4999年4月1日 16:37
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、応接室

 デスリム・フォン・ラプラスは、異端審問所の裁判官達が起こした乱闘騒ぎを処理する為の会合を開いた。この緊急の会合には、異端審問所が入っている建物のオーナーであるエブラーナ盗賊ギルド長と、彼の側近中の側近である副ギルド長も顔を覗かせていた。
 最初に、ラプラスが正副ギルド長に対して、第1特別尋問室で発生した乱闘騒ぎと、それに至るまでの経緯について簡単な説明を行った。「──これが今までの状況です」
「5人の裁判官達はどうしています?」副ギルド長ヨルド・ラフディアスが訊ねた。
「私の権限で地下牢に拘禁しました。また、乱闘には参加しなかったグレイブ・ゾーリア裁判長からは、『自分の管理責任に落ち度がある』ということで、既に私宛てに辞表が届けられています。実物を御覧になりますか?」
「いや、それはいいでしょう」ラフディアスは首を横に振った。
「それにしても、大変なことになったわね」第1特別尋問室に姿を見せていなかったキャサリンが言った。「何かとトラブルの絶えない職場だと思ってたけど、ここまでひどいことが起こるとは思わなかったわ」
「異端審問所始まって以来の不祥事じゃな」拷問吏のガロットが言った。「ここで何十年も働いてきたが、裁判官達の乱闘騒ぎは始めてみたぞい。それだけ、この事件は特殊で厄介ということなのじゃろうな……」
「拘禁中の5人はどうなるんです?」ギルド長レイ・ジスランがラプラスに質問した。
「ほとぼりが冷めた頃を見計らって釈放するつもりです。ですが、5人には、ゾーリア司教と同様、辞表を書いて頂くしかないでしょう。理由が何であれ、異端審問中に乱闘騒ぎを起こし、裁判を中断させてしまったのは、裁判官としてあるまじき行為ですからね。それから、6人の後任人事は棚上げにするよう、両神殿に要請を出すつもりです」
「どうしてなの?」
「フォルティア・クロザックの証言や冤罪疑惑など、タンカード神殿に対して様々な疑惑が浮上している以上、この事件の解決を彼らに任せるわけにはいかないだろう? それに、バソリー神殿には、裁判所で乱闘騒ぎを起こした責任を取ってもらう」
「喧嘩両成敗」ラフディアスは思いついた言葉をそのまま口に出した。
「ええ。そういうことです。とりあえずは、エブラーナからの要請を帝都シルクスに送りましょう。今の私の権限ではこれだけしかできません」
「いえ、十分だと思います」ラフディアスは頷いた。
「しかし……本当なのだろうか?」ジスランは腕を組んで呟いた。
「何がですか?」ラプラスが訊ねた。
「フォルティア・クロザックの言ったことですよ。彼女がシルクスでの連続女性失踪事件の犯人を見たこと、彼らの中に神聖魔法が使える奴が混ざっていたこと、彼女が逃走中に失踪事件のほうの犯人を殺したこと、そして、タンカード神殿が彼女を破滅させる為に一連の事件を仕組んだこと……。正直言って、俺には信じられんのですが」
「私だってそうですよ」ラプラスが頷いた。「彼女が連続女性失踪事件の犯人の一部を殺したことだけは、言った通り認めても良いとは思います。ただ、その他の情報の正否については、シルクス警視庁に調査を任せるしかなさそうです。それに、彼女がナディール教団に所属していたのかどうについては、今日の彼女の自白によって白黒が明確にされたわけではありません」
「待って下さい」ジスランが反論した。「タンカード神殿が異端者をでっち上げたと仮定するのなら、彼女は無実だということには──」
「ならないんですよ、残念ながら。フォルティア・クロザックと非常に良く似た人物が、エブラーナでナディール教徒として活動していたという目撃情報が多数存在するんです。その謎も解かないとならないんです。それに、まだ自白を行っていない他の5人の被告人が、本当に無実なのかどうかも全然分かりません。タンカード神殿が連続女性失踪事件に関与していたことと、フォルティア・クロザック他8人が異端者だったということが、共に真実であるという可能性も十分にありうるのですよ。私の橙系統呪文が証拠として認められるのなら、今すぐにでも調べられるんですが……」
「そう、証拠能力は否定されておるからのう」ガロットは相槌を打った。
「……だとすると、どうなるのかしら?」
 マンフレートが言った。「何にせよ、シルクス警視庁への連絡は不可欠ですね」

4999年4月1日 19:58
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁4階、警視総監執務室

 何者かが執務室のドアをノックする音がティヴェンスの耳に届いた。
「警視総監閣下、よろしいでしょうか?」ドアの向こうから女性の声が聞こえてきた。
「ああ」
「失礼致します」そう言って執務室内に入った女性の右手には羊皮紙のスクロールが握られていた。蝋による封印にはリマリック帝国大学の印象が刻まれている。
「どうした? 手紙なのか?」
「はい」女性職員はスクロールをティヴェンスに手渡した。「エブラーナから【召喚魔法ペガサス】で送られた品物です。差出人は異端審問所書記室長デスリム・フォン・ラプラスとなっております」
「異端審問所? 一体何の用があるんだ?」
「さあ、私には分かりかねます」彼女は首を横に振った。
 ──まあ、読めば分かるか。
 ティヴェンスはペーパーナイフで封印を外した。

シルクス警視庁警視総監 ナヴィレント・ティヴェンス様

 初めて御手紙を差し上げます。本日は、時間が無いので要件だけ伝えさせて下さい。
 現在、我々異端審問所で審問が行われている《7番街の楽園》の従業員その他8名の裁判についてですが、本日になって、極めて興味深い証言が得られました。被告人の1人であるフォルティア・クロザックが、帝都シルクスの7番街で発生した殺人事件の犯行を自供したのです。犯行の動機については、殺害された2人が帝都シルクスでの連続女性失踪事件の実行犯達であり、彼女が犯行現場を目撃したがために狙われ、正当防衛としてやむなく相手を攻撃したところ2人が死亡したと説明しているのです。また、この彼女の証言の信憑性を巡り、異端審問所の裁判官達が乱闘騒ぎを起こし、現在、《7番街の楽園》で逮捕された8人に対する異端審問は事実上開廷できない状態となっております(この件については内務省と両竜神の総本山に通報済みです)。
 そこで、このフォルティア・クロザックの供述の信憑性や、《7番街の楽園》で逮捕された8人に関する情報を検討する為に、両機関による合同の会議を開きたいと考えていますが、警視庁側の御都合や会議の開催日時、参加する機関(異端審問所としては両竜神神殿にも参加して頂きたいのですが)などについて、閣下の御意見を拝聴致したいということで、御手紙を差し上げました。可及的速やかに御返答をお願い致します。
 それでは、警視庁の皆様の益々の御活躍を祈念しつつ筆を置きたいと思います。
新太陽歴4999年4月1日
リマリック帝国大学教授/異端審問所書記室長 デスリム・フォン・ラプラス


「こいつは……大変なことになったぞ」ティヴェンスの全身に衝撃が走り抜ける。
「どうされましたか?」
「ラマン秘書官と連続女性失踪事件の捜査官達を呼べ! 大至急だ!」

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