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4999年4月3日 22:42
シルクス帝国首都シルクス、帝城、タンカード神殿総本山、最高司祭執務室

 シルクス帝国の影の実力者の1人であるタンカード神殿最高司祭ジョン・フォルト・テンペスタは、午後10時から行われた最後の儀式を終えると、儀式用の法衣を纏ったまま自分の執務室へと戻った。彼の部屋の隣には寝室も用意されており、この空間は現在の彼の住居となっている。ジョンは法衣を脱いでハンガーに掛け、執務室の一角に置かれていたクローゼットに収納すると、外に聞こえるほどの大きな欠伸をした。
 ──儀式は全て終わったが……これからまだ仕事が残っとるとは……。
 ジョンは面倒臭そうな表情を顔に浮かべると、木製の椅子に腰を下ろした。そして、指を鳴らして机の上のマジックアイテムのランタンに火を灯すと、執務机の上に置かれていた書類に目を向けた。《7番街の楽園》関係者8人を異端者として告発する文書であり、現在のシルクス帝国の政界と宗教界を大混乱の渦中に叩き込んだ「災いの中心」とも言うべき品物であった。約1ヶ月前、ジョンは一連の文書に承認のサインを書き加え、シルクス警視庁に提出する決定を出したのであるが、今となっては、その判断があまりに軽率なものだったのではないかと後悔する時さえあった。政治の表舞台では改革派政治家に対して強気の姿勢を見せている彼も、心の奥底では、自分の決断が間違いではなかったかという恐れも感じていた。
 ──わしは彼らを異端者と認定したのだが……それは誤りだったのだろうか?
 リマリック帝国末期の混乱の最中、没落しかかっていたテンペスタ家とタンカード神殿を4980年に相続したジョンは、卓越した演説の才能とカリスマ性、幼少期から培ってきた若い封建領主との人脈、そして同じ竜神を信仰するルディス家との協力を得て、僅か数年でテンペスタ家をリマリック帝国随一の有力貴族に復活させることに成功した。4985年にリマリック帝国の分割統治が開始されてからは、ジョンは西リマリック帝国──現在のシルクス帝国の前身──の宰相として辣腕を振るい、テンペスタ家の名声と竜神タンカードの威光をエルドール大陸全土に知らしめた。息子のゲイリー・フォルト・テンペスタがシルクス帝国の初代皇帝に即位してからは、彼は政治の第1線からは退いたものの、西リマリック帝国時代に獲得した政治力とタンカード神殿のネットワークを活用し、シルクス帝国の政界で大きな勢力を誇っていた。
 ここまでの道程で、ジョンは大きな政治的失策を犯すことも無く、強運と実力と他人のミスに恵まれていた。だが、今まで順調に力を伸ばしつつあったジョンにとって、今回の《7番街の楽園》の冤罪疑惑は、自分の失策が招いた危機としては生まれて初めてのものになるかもしれなかったのである。
 ──全てはこの書類に真実が書かれていれば良いことだ。冤罪疑惑も払拭できるはずだ。
 机の上に置かれていた書類は、3月4日の朝、彼の秘書から届けられた22ページの繊維紙の冊子で、中身をしっかりと検討せず──異端者を摘発すべきか否かを実際に審議するのは大司教と枢機卿達である──ルーチンワークの一環として何気なく彼自身がサインを書き加えた書類である。《7番街の楽園》の従業員とその他計8人を逮捕させ、エブラーナに移送させることとなったこの冊子は、昨日まではシルクス警視庁の地下書庫で眠っていたが、警視庁の了承を得た上で返却してもらったのである。
 ジョンは時間を掛け、用意されていた繊維紙に丹念に目を通した。8人を告発する根拠となった証言そのものだけではなく、証言と共に併記されていた告発者及び証言者計14人の身元や経歴にも注意を向けていた。
 ──被告発者の大半が7番街の住人……そして、8人を告発したのが我が神殿の構成員……。これでは、改革派政治家達が冤罪だと叫びたくなる気持ちも理解できる。告発人と証言者の分布がこうも偏っているのでは、偶然ではなく故意を疑いたくなってしまうものだ。無論、連中の指摘は的外れだがな……。しかし、可愛い我が息子の頼みだ。念には念を入れて調べておいても損は無いだろう。証言の真偽と、14人の身辺調査……この両方を進めねばならんな。
 ジョンは22ページ目を読み終えると、手を2回叩いてランタンの火を消した。
 ──明日の朝、秘書に調査命令を出そう。

4999年4月4日 00:10
シルクス帝国首都シルクス、6番街、ナターシャ・ノブゴロド達の監禁場所

 監禁場所からの脱出計画を頭の中で考えていたナターシャであったが、「これだ」と納得できるアイデアが得られることは無かった。様々な脱出計画の素案が頭の中で浮かんだものの、彼女達が現在置かれている環境と、敵対する「シンジケート」の人的資源などを考慮すると、あらゆるアイデアはどこかで困難に直面することになった。そして、ナターシャはこれらの困難を克服する奇策を発見することができず、せっかくのアイデアを放棄せねばならなかった。
 ──私1人だけ脱出するのだけでも困難なのに、18人が同行するなんて……。
 ナターシャのアイデアが全て「ゴミ箱行き」となっていた最大の理由は、彼女以外に監禁されている18人の戦闘能力が全くの未知数であり、ナターシャの脱出計画を助けるどころか逆に足手纏いになる可能性のほうが高かったからである。ナターシャと同等の戦闘能力を持っていると思われていた女性達のうち、エレハイム・カッセルとソフィア・カッセルは杜撰な脱出計画を実行に移して失敗に終わり、既に犯人達の手によって殺害された。また、彼女の隣に座っている元犯人グループの女性は、手首に木製の手枷がはめられている──後ろ手にはめられていない辺りに犯人達の慈悲の欠片が感じられた──ため、戦力からは除外しても全く問題無かった。この他には、15番目に誘拐された(と話している)女性が呪歌を使えることも判明していたが、監禁場所には楽器が1個も置かれていないために、彼女も戦力外であった。ナターシャ自身も、素手の格闘術は基本中の基本を少しだけ勉強しただけである。彼女の戦闘術はレイピアなど突刺型の片手剣に特化しており、レイピアが無いと満足に戦えないことは身を以って知らされていた。
 ──だとすると、ここから自力で脱出しようとするのは無理な相談だわ。警視庁の手を借りないと無理だけど、私達がここに監禁されていることを彼らは知っているのかしら? 知らなかったとしたら、どうやってそのことを教えなきゃならないけど……?
 作戦目的を「脱出」から「通報」に切り換えた彼女は、監禁場所となった倉庫の内部構造を思い起こした。ナターシャ・ノブゴロドが監禁されている倉庫は、木箱の山と木板、そしてカーテンによって大きく4つのブロックに分割されていた。
 正面出入り口に接するブロックは、犯人達がシルクスでの潜伏生活を送る為の場所として用意されていた。食料庫や水瓶、更には犯人達の寝床もこのブロックに位置しており、この面積は倉庫全体の約半分を占めていた。24時間、常に明かりが灯されている場所でもある。
 その次のブロックが、ナターシャ達が監禁されている場所である。毛布と安物のカーペットが敷かれたこの場所に、19人の女性達が集められていた。犯人達の居住区との境界には、常に1人以上の見張りが立っており、ナターシャ達が不穏な動きを起こさないよう常に警戒を続けていた。
 第3のブロックは仮設トイレと水浴び場。倉庫の中でも最も奥まった場所に位置し、普段から人気の全く無い場所である。ナターシャ達や犯人達がトイレを利用し、水浴びをする時にだけ人が行き来する場所であった。そして、ナターシャ達の監禁場所とトイレ・水浴び場を結ぶ廊下が、第4のブロックとして数えられた。高さ3mの「木製の壁」──木箱を積み重ねて作り上げた──に挟まれた幅2m以下の狭い回廊で、仮設トイレと水浴び場に移動する時以外には、誰も使わない場所であった。この2ブロックには、他の場所と比較し、置かれている燭台や松明の数が少なくなっており、「事」を起こす側にとっては、暗闇という絶好の優位性をもたらしていた。だが、ナターシャは回廊で「事」を起こす予定は毛頭無かった。カッセル姉妹が脱出計画の実行地点に選んだのがこの回廊部分であったため、犯人達も回廊移動中には人質達に対する警戒を強めていたのである。
 ──犯人達の寝床から脱出するのは問題外だし、この空間には他の人質達と見張りが立っている。だとすると、作戦の舞台となるのは水浴び場かトイレになる……。でも、あそこからどうやれば外に助けを求められるのかしら?
 次に、彼女は水浴び場と仮設トイレの詳しい構造を頭の中に思い浮かべた。水浴び場は完全な密室となっており、窓は1つも取り付けられていなかった。だが、水浴び場よりも小さい仮設トイレのほうには、60cm四方の窓が空いており、淀んだ空気を入れ換える為に常に少しだけ開け放たれることもあった。窓の高さは床から2m。身長165cmのナターシャには、手を伸ばせば届く場所でもあった。
 ──使える突破口はここだけね。次は、助けを呼ぶ方法だけど……。声を使うのでは犯人達にすぐばれてしまう。だから、手紙を使うのが最も現実的かもしれないわ。でも、どうやって手紙を書けばいいのかしら? 犯人達から紙をもらうことは絶対に無理だし、インクだってもらえそうにない。だからったって、血文字という手は使えない──
 彼女は右手の甲に残された傷跡に目を向けた。傷は想像以上に深かったのか、まだ完治しておらず、甲には暗褐色のかさぶたが多く残されている。最初は、このかさぶたを剥がすことによって溢れ出る血を使ってハンカチに手紙を書き、そのハンカチだけを窓から外に投げ捨てるというアイデアが思い浮かんでいた。しかし、かさぶたを無理に剥がしたことが逆に不審がられる可能性も高く、このアイデアも企画倒れとなってしまったのである。
 ──手紙を書くという方法は現実的じゃない……。だとすると、やはり声でしか伝えられないのかしら……。しかし、どうすれば……?
 ナターシャは溜息を吐いて、隣で安らかな寝息を立てているセリス・キーシングに目を向けた。犯人達によってダルザムールへ連行される時、体力的に最も不安が残されているのが彼女であった。
 ──そうだわ……セリスちゃんの為にも、どうにかして事態を打開しないと……。喘息持ちの人間が、ダルザムール大陸の厳しい気候で耐えられる……喘息?
 ナターシャはセリスの肩から落ちそうになっていた毛布を掛け直すと、セリスの耳元で誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。「あなたが最後の望みなの」

4999年4月4日 02:58
シルクス帝国領エブラーナ、レマ・ドーストン・グロリアス邸前の路上

 エブラーナで産婆業を営んでいるレマ・ドーストン・グロリアスの自宅は、中央市場から僅か50mも離れていない中流住宅街の一角にあった。2階建ての石造りの建物で、1階部分が診察所、そして2階部分が彼女自身の生活の場となっていた。中流住宅街にある一戸建て住宅としては小振りであったが、今は亡き夫レーウンダ・グロリアスとの間には子供が1人も生まれなかったため、レマにとってはこの程度の大きさでも十分なのであろう。
 だが、現在、この建物の周囲には、エブラーナ盗賊ギルド構成員9人と、彼らを指揮するレイ・ジスラン、そしてデスリム・フォン・ラプラスの姿があった。彼らが目標としているのは、この建物の主であるレマ・ドーストン・グロリアス。彼女を公文書偽造の容疑で逮捕する為の秘密作戦が現在進められていた。
「しかし、私達がこんなことをしても大丈夫なのですか? 私達は本物の警察じゃないのに」建物の影からレマの自宅を観察しながら、ラプラスが隣のジスランに訊ねた。
「大丈夫です。俺達には、エブラーナ市内に限定して、警察権の行使が認められてるんです。それに、今日のような作戦には、隠密行動の訓練を積んできた、俺達盗賊のほうが役に立つことが多いんです。知ってて損はしないですよ」
「確かにそうですね」
「逆に聞きますけど、逮捕状は持ってますね?」
「それはもう、大丈夫です」ラプラスは懐から逮捕状を取り出して見せた。
「なら大丈夫です。しかし、どうしてあなたがここに来たんです? 異端審問所の実質的なトップが、たかが1人を逮捕する為だけの作戦に付き合うなんて。しかも、徹夜開けですよ」
「まあ、確かにそうなんですけど」ラプラスは眠たそうに目を擦ってから答えた。「作戦の話を聞いて、冒険者時代のことを思い出したんですよ。何て言うんですか、机に向かってただ漫然と文字を書くだけでは得られない、緊張感に満ちた一種独特の興奮がありましたからね。この年齢になって、社会的にも責任ある地位になってしまった以上、冒険者に戻りたくても戻れませんから。せっかくの機会ですし、御同行させて頂くことにしたんです」
「その気持ち、分かります」元冒険者でもあったジスランは微笑んで応えた。
「そういうジスランさんのほうこそ大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよ。昼夜反転の生活には慣れてますし」ジスランは自信ありげに答えた。
「さて、そろそろ時間じゃないですか?」
「そうですね。では、準備しましょう」
 ジスランは腰に下げていたショートソードに手を伸ばし、ラプラスは懐に忍ばせていた青系統呪文の魔法発動態を握り締めた。
「捕まえろ!」
 ジスランが小さく叫ぶと同時に、ショートソードを右手に構えた盗賊達がレマ邸の2ヶ所ある木製の扉を蹴破り、静かな住宅街に怒声と騒音を響かせながら、建物内の制圧を開始した。本来ならば、被疑者となっている人物に対して自発的同行を求めるのが礼儀であるのだが、相手が異端者である点を考慮して、敵に迎撃態勢を整えさせるだけの時間を与えない方針を選択したのである。
「そろそろ行きましょうか?」ジスランがラプラスに訊ねた。
「ええ」
 2人は立ち上がると、小走りで破壊されたレマ邸の玄関へと近付く。だが、その途中で、建物内から盗賊の悲鳴が聞こえてきた。
「何があった!?」
 ジスランは全速力で走り建物内に入る。そこで彼が目にしたのは、呪文によって右肩に深手を負った若い男性盗賊の姿であった。その周囲では、盗賊達が台所に集まり、2階へと上がる階段の先を伺っていた。
「どうした!? なぜ上に行かない!?」ジスランは盗賊の1人の肩を叩いて訊ねた。
「レマが魔法で応戦するんです! おそらく、赤系統呪文です!」
「ちっ! 魔法か!」ジスランは舌打ちした。
「2系統以上の魔術を使えるのですか。それはなかなかの使い手ですな」魔術の専門家であるラプラスは冷静に応えた。「とりあえずは、呪文で黙らせ──」
「てめぇ! いい加減にしやがれ!」
 ラプラスの言葉を無視して盗賊の1人が叫び、階段を駆け上がろうとした。だが、7段目に足を掛けた瞬間、上の階から赤色の光を帯びた矢が高速で放たれ、彼の右胸に突き刺さった。赤色の矢の餌食となった盗賊は叫び声を上げて階段から転げ落ち、そのまま意識を失った。
「大丈夫か! 今治すぞ!」
 盗賊の1人が懐から緑系統呪文の魔法発動態を取り出し、治癒呪文の詠唱を開始した。
「くっ、こいつは手強い!」盗賊の1人が叫ぶ。
「どうしたらいい?」ジスランがラプラスのほうを向いて訊ねた。
 ──階段を上がろうとしているところに必ず【エナジーアロー】が射ち込まれるのなら──
「階段から行けないのなら、裏から挟み撃ちにしましょう」
「挟み撃ち? どうやってするんです?」
 ラプラスはジスランの質問には答えずに、小声で呪文を詠唱した。「風の精霊よ、かの者に空飛ぶ翼を与え給え」
 異端審問所書記室長の懐から青色の光が発せられる。次の瞬間、レイ・ジスランの背中に青白く輝く光の翼が出現した。彼は背中に現れた翼を見て、ラプラスが考えた作戦のアイデアを理解した。「窓からですね?」
「ええ。急いで下さい。レマが窓から逃げる可能性があります」
 ジスランは無言で頷くと、小走りで建物の外に出た。そして、翼を動かしてエブラーナの早朝の空へと飛び立った。それを見届けたラプラスは、懐の中で手を動かして紫系統呪文の魔法発動体を握り締めた。そして、上の階の住人に気付かれないように小声で呪文を完成させた。
「時の守護者よ、我に魔力を識別する瞳を与えよ」
 ラプラスの視界の中に色鮮やかな古代語の文字が浮かび上がった。その文字は階段の7段目のみに魔力が付与されていることを示していた。

トラップ:【エナジーアロー】発射
強度:324
発動条件:接触/5秒以上接触が継続
魔力付与者:レマ・ドーストン・グロリアス


「7段目は踏まずに上に行け!」ラプラスは盗賊達に指示を出した。
「どうしたんです!?」盗賊の1人が訊ねる。
「呪文で調べた! とにかく指示に従え!」ラプラスの声が大きくなる。
「りょ、了解!」
 盗賊達はラプラスの指示に従い、2階へと続く階段の7段目を避けて2階へと駆け上がった。盗賊達が2階への突入を開始してから2秒後、2階から中年女性の叫び声が聞こえてくる。「ちょ、ちょっと! どうしてあんたがここにいるのよ!」

4999年4月4日 03:02
シルクス帝国領エブラーナ、レマ・ドーストン・グロリアス邸2階

 ラプラスの呪文によって飛行能力を得たジスランは、ラプラスの指示通りに建物裏手へと周り、飛び上がって建物2階からの侵入を試みようとした。丁度その時、2階の窓から寝巻き姿のまま地面に飛び降りて逃走しようとしたレマ・ドーストン・グロリアスと真正面から出会ったのである。予想外の方向から予想外の客が現れたことに驚愕した建物の主は、目と口を大きく見開いてジスランの姿を眺めるしかなかった。
「呪文のおかげさ」唖然としているレマに、ジスランは淡々とした口調で話し掛けた。「さあ、ここで降伏するんだ。今なら、盗賊達を傷つけたことだけは大目に見てやる」
「そ、そんなの嫌よ! ここで捕まるなんて絶対に嫌よ!」
「『ここで捕まる』だと? まるで、どこかで罪を犯した人間の言い草じゃないか」
「あ……う……と、とにかく!」レマは動揺を隠そうとして更に声を大きくした。「降伏なんて絶対にしないからね!」
「なるほどね。……じゃ、仕方無いか」
 ジスランは2階の窓からレマ・グロリアスの寝室へと侵入した。身の危険を感じたレマは右手に持っていたロングソードを振り上げジスランに駆け寄る。だが、盗賊ギルド長はロングソードを巧みに交わすと、レマの背後に回り込み、無防備となった彼女の背中にショートソードの柄で峰打ちの一撃を加えた。レマ・ドーストン・グロリアスの意識が突然消失し、彼女の体が毛織物の絨毯の上に崩れ落ちる。
 ジスランは足でレマの手からロングソードを払い除けると、盗賊達が姿を見せ始めていた1階へと続く階段に向かって叫んだ。「ラプラス書記室長! 2階の制圧は完了!」
「被疑者はどうなりました!?」ラプラスが聞き返した。
「気絶しています! 抵抗は全て排除しました!」
「了解!」
 約10秒後、1階へと続く階段からラプラスが現れた。「御苦労様でした。どうでしたか?」
「動揺していました。2階から来るなんて想像してなかったんでしょう」ジスランはレマを指差しながら答えた。「とりあえず、任務は達成されたわけです。今からギルドに戻りましょう」
「ええ。今からが本番ですからね」

4999年4月4日 09:55
シルクス帝国首都シルクス、帝城、タンカード神殿総本山、最高司祭執務室

 朝の礼拝を終え、参拝客との歓談を終えたジョン・フォルト・テンペスタは、遅い朝食と帝都シルクスのタンカード神殿から届けられた報告書の閲覧の為に、最高司祭執務室へと戻っていた。午前5時の礼拝前に、ジョンは帝都シルクスの全神殿に対して、《7番街の楽園》で逮捕された8人に対して告発と証言を行った14人の再調査を指示し、手始めに彼らの戸籍謄本の写しを午前10時までに提出するよう命令していた。今頃は、温められた紅茶とパンとサラダの脇に、8つの報告書がそろえられているはずである。
 ──この指示が守られていれば、これから先の調査も楽になるが……。
 ジョンは最高司祭執務室に入ると、最初に執務机の上を観察した。彼の期待通り、机の上にはパンと温野菜のサラダと紅茶、そして繊維紙でできた8通の封筒が置かれていた。封筒の表には「最高司祭のみ黙読可」と赤字で注意が書かれており、裏面の蝋の封印も破られた形跡は全く見られなかった。
「仕事熱心なのは良いことだ」
 ジョンは小声で呟くと、執務机の引出しからペーパーナイフを取り出し、8つの蝋の封印を次々と外していった。そして、慎重な手付きで封筒の中から繊維紙の書類を取り出し、食事の左側に重ねて置いた。
 ──「食事をしながら物を読むのは行儀が悪い」と、昔親父から怒られていたぞ。確かにそうかもしれんが、今はそんな流暢なことを言ってられる身分ではなくなった。……まあ、そんなことはどうでもよろしい。
 ジョンはティーカップを右手で握りながら、左手で1枚目の書類を手に持った。8人全員を異端者として告発した男性の戸籍謄本の写しである。生まれも育ちもシルクスという21歳の男性で、7番街の外れに住居を持っている。仕事はシルクスの北1kmにある畑で農作業に従事している。そして、タンカード神殿の中では、ソレイル・ギスティムが会長を務めていたバイロイト修道会に参加し、臨時雇いの形で同修道会の経理業務にも関与していた。タンカード神殿の管理する戸籍謄本では、住民がタンカード神殿の外郭団体などに加盟した場合、その情報も同時に記載されることになっていたのである。
 ──ギスティム大司教とランベス枢機卿の信奉者か……。
 ジョンは1枚目を脇に退けて、続いて2枚目の繊維紙を手に取った。7番街に住む32歳の男性で、彼もやはりシルクス生まれである。助祭の資格を持つ人物で、現在は帝都シルクスで文学の私塾を開いているが、かつてはバイロイト修道会に参加していた。彼は被告人1番フォルティア・クロザックが異端者であることを証言していた。
 ──ほう……彼もバイロイト修道会か。こいつは珍しい。
 だが、ジョン・フォルト・テンペスタの好奇心は、3枚目の書類を手に取った瞬間に疑惑へと変化した。被告人4番をナディール教徒として訴え出た53歳の女性であるが、彼女はバイロイト修道会で働いていたことがある。4枚目の人物は被告人2番に関する証言を行った21歳の女性で、彼女はバイロイト修道会とは無関係であったが、続く5人目──被告人7番に関する証言を行った40歳の男性は弟がバイロイト修道会の幹部であった。そして、被告人5番に関する証言を行った6人目の人物──24歳の男性は、バイロイト修道会の会長を務めていたソレイル・ギスティム司教が開催していた、農業に関する勉強会に参加していた……。
 ──どういうことだ? バイロイト修道会の関係者だらけではないか!
 ジョンはティーカップを机に置くと、残り8枚の書類を鷲掴みにした。そして、大急ぎで彼らの外郭団体加盟歴の項目に目を通した。その結果判明した事実に、タンカード神殿最高司祭は慄然とした。8人に対する告発や証言を行った人物のうち、冤罪疑惑が未だに消えていない6名の被告人に対して証言を行った人物は、その全員がバイロイト修道会の参加者か、もしくは親戚縁者にバイロイト修道会の関係者がいるか、ソレイル・ギスティムと親しい間柄にある人物ばかりであった。
 火竜タンカードの教えを世界各地に布教する目的で、ソレイル・ギスティムによって4992年10月に設立され、4998年10月まで活動を続けていたバイロイト修道会。その元会長であるソレイル・ギスティム大司教が何をしようとしていたのかは定かではなかったが、彼が一連の冤罪疑惑を仕組み、それにかつてのバイロイト修道会の組織を利用していたことは明白であった。そのことを悟ったジョンは右手を固めると机を力一杯叩いた。ティーカップと磁器の食器が音を立てる。冤罪疑惑を仕組んだソレイル・ギスティムに対する怒りだけではない。彼の暗躍を見過ごしてしまい、結果的にシルクス帝国の政界に大混乱を引き起こし、可愛い息子であるゲイリー・フォルト・テンペスタに多大な迷惑を掛けてしまった自分自身に腹が立って仕方なかった。
 ──バイロイト修道会とソレイル・ギスティムが仕組んだのか!
 だが、ジョンは激昂する老人から冷徹な政治家に戻ると、今まで獲得してきた情報を繋ぎ合わせて、ソレイル・ギスティム達が何を企んでいるのかを推測することにした。
 ──しかし、奴らは何の為に今回の一件を仕組んだんだ? 異端審問制度をここまで悪用するからには、大層な目的があったはずだが、一体何を狙っていた? 財産? 宝物? タンカード神殿の名声?
 ジョンは首を強く横に振った。
 ──いずれも動機としては不十分だ。ギスティム大司教には立派な財産も名声もあったはずだ。それに、タンカード神殿とタンカード様の御威光を高める目的で今回の事件を起こしたとも考えにくい。もしそうだとしたら、結果は正反対になってしまったのだからな……。ならば、ギスティム大司教が狙っていたのは、冤罪疑惑の対象となっていた6人の誰かの命ということになる。6人の誰かを消す方法にしては非効率的だるが、我がタンカード様の教えでは、暗殺者の雇用や暗殺への加担は堅く禁じられている。だから、あの6人のうち誰かを殺す為に異端審問制度に訴えたとしても、不思議な話じゃない。改革派の連中から見れば、あまりに非効率的に映るがな……。
 脳細胞を刺激するため、ジョンはまだ冷めていない紅茶を一口飲んだ。
 ──あの6人の中でタンカード神殿とソレイル・ギスティムにとって最も邪魔に映った奴……おそらくは、格闘家の娘……そう、フォルティア・クロザックになるはず。後の5人に、タンカード神殿とのトラブルが起きていたなんて話は聞いてないからな。確か、あの娘は連続女性失踪事件の犯人を見たとか話していたが、その時に神聖魔法の使い手が混ざっていた……だとすると…………?
 ジョンの頭が導き出した結論──それは、彼が最も恐れていたものであった。
 ──戯言かと思っていたあのバソリー司教の発言……実は正しかったのか?

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