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4999年4月4日 10:44
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド2階、異端審問所書記室

「今朝は御苦労様でした」仮眠室から戻って来たラプラスの姿を見て、マンフレートが労いの言葉を掛けた。
「まだ調子が狂っている。帝国大学時代には何度も徹夜をしていたのに、今となっては、たった1日の徹夜で調子が狂ったままになってしまう。それだけ老いたのだろうか?」
「生活環境の違いですよ。気にすることはありません」
「そうだと良いのだか」ラプラスは自分の椅子に腰を下ろした。「仕事を始めよう」
「ええ。最初に、そのレマ・ドーストン・グロリアス逮捕作戦の事後報告があります」マンフレートはそう言って懐から繊維紙のメモを取り出した。「ラプラスさんと盗賊ギルド長が御用意なさった逮捕状でしたが、結果的には無駄に終わってしまったようですね」
「どういう意味だ?」
「レマを盗賊ギルドに連行した後、ラプラスさんが眠ってる最中に家宅捜索をしたんですが、彼女の家の台所から隠し金庫が見つかったんです。で、その中から色々な物が見つかりました。ナディール教団の『ホーリーシンボル』や教典、関連文献、そして建物の図面が数枚見つかりましたが、その他にも色々と興味深い品物が見つかっています。まずはこれを御覧下さい」マンフレートはそう言いながら、懐から長さ10cmの木製のパイプを取り出し、ラプラスの机の上に置いた。
「何だこれは?」ラプラスはパイプを手に取りながら訊ねた。
「吹き矢です」
 ラプラスは軽く口笛を鳴らした。「素晴らしい」
「こんな吹き矢の筒が、隠し金庫から7本見つかってるんです。他にも、変装用具一式はもちろんのこと、暗号で書かれた文書や暗殺用武器、魔法製の猛毒の瓶など怪しすぎる品物が多数揃っています」
「まるでスパイかアサシンの集団じゃないか」
「ええ」マンフレートもラプラスと同意見であった。「ナディール教団関係者の自宅の家宅捜索を行ったことは何度もあるのですが、こういった品物が出てくるのは初めて見ましたね。盗賊ギルドの皆さんも驚いていますよ」
「暗号文の解読はできそうか?」
「何とかなりそうです。暗号を読み解く為に必要となる『鍵』も、同じ隠し金庫の中から見つかました。ラフディアスさんや盗賊ギルドの暗号の専門家達が解読作業に当たっています。多分、明後日には結論が出ると思いますよ」
「そちらは専門家に任せよう」ラプラスは書記室の中を見回した。「ところで、何人か席を外しているようだが、どうしたんだ?」
「レマ・グロリアスの事情聴取に立ち会っています。今、盗賊ギルド長とキャサリンさんが、地下3階で彼女から油を絞り取っている最中だと思いますよ」

4999年4月4日 11:07
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、副ギルド長執務室

 レマ・ドーストン・グロリアスに対する事情聴取を上司達に任せたヨルド・ラフディアスは、レマの自宅に保管されていた暗号文の解読作業を進めていた。当初は難航すると思われていた作業であるが、暗号文が保管されていた金庫の中に、暗号を解読する為の「鍵」が保管されていたため、その作業は拍子抜けするほど淡々と進んでいた。
 ──「鍵」が無ければ、今頃頭を抱えていたことだろうな……。
 レマが保有していた暗号文には、数字の「0」と「1」だけが書かれていた。一見すると、2種類の文字だけが延々と並べられた奇怪な文書に過ぎないのであるが、実際には、この数字の羅列は、ある文章を2進法の原理に従って「0」と「1」という2種類の文字に変換することによって作られていたのだ。金庫から見つかった「鍵」とは、「0」と「1」のみで表現された7桁の列を、エルドール大陸で一般に使われている大陸交易語の文字に相互変換する為の一覧表であった。
 2進法の原理がエルドール大陸で発見されたのは、今から僅か25年前のことである。第1魔法文明期の遺跡を捜索していたサロニア市立図書館の調査隊が、第1魔法文明期の数学書を発見したことがきっかけとなった。現在では世界的に知られているこの数学書『マテマチカ』には、現在のエルドール大陸では使用されなくなっていた5進法や20進法の記録と、これらを利用した数学の問題が記されていたのである。
 『マテマチカ』には2進法の記録は残されていなかった。だが、この『マテマチカ』を呼んだ学者達が、「これならば何進法でも実現可能ではないか」と気付くのにはさほど時間が掛からなかった。そして、4974年10月にサロニア市立図書館が公表した『マテマチカ』の公式注釈本の中で、x進法──2進法も当然含まれる──に関する学術的解説が掲載され、2進法の原理がエルドール大陸全体に広がることとなった。ヨルド・ラフディアス自身も、『マテマチカ』公式注釈本に目を通したことがあり、2進法の存在は既知のものであった。しかし、それを暗号に応用することには思い至らなかったのである。
 ──ナディール教徒も馬鹿ではないってことか。この方法は後で応用できそうだな。
 ラフディアスはナディール教徒の悪知恵に感心しながらも、「0」と「1」の数字の列を大陸交易語の文章へ戻す作業を続けていた。だが、変換後の文章を改めて読み返した副ギルド長の背中には冷や汗が流れ始めていた。
 ──通信文……まるでスパイじゃないか……。

行動作戦指令
[金持ち農夫]より[ディベートの達人]へ

1. 情報を受理。[黄色の魔術師]も内容を確認した。
2. [龍]の[剣]の近況を[金持ち農夫]へ報告せよ。
3. 今回も偉大なる成果を求める。

以上。
4999年2月1日 発信──[金持ち農夫] メッセージ認証──[コック]


 ──括弧付きの単語が多過ぎる……。何のことだ?
 ラフディアスは疑問の解決を後回しにして、解読済みの別のスクロールに目を通した。

行動作戦指令
[金持ち農夫]より[ディベートの達人]へ

1. 情報を受理。[黄色の魔術師]も内容を確認した。
2. [白き目を持った盗賊]の動向を調べよ。
3. [老師]からの要望。[龍]の[剣士]についても調べよ。大至急。
4. 今回も偉大なる戦果を求める。

以上。
4999年4月4日 発信──[金持ち農夫] メッセージ認証──[コック]


 ──何者かが[ディベートの達人]に、我が国の軍事情報とエブラーナ盗賊ギルドの動向を調べさせているは確かなようだ。しかし、誰が調べさせているのか、これだけでは手掛かりにならない……。
 ラフディアスは首を振った。
 ──ナディール教団の総本山はイオ=テード同君王国の中に設置されていたはず。よって、この文書は同君王国政府から発信されたものと考えるのが最も自然なのだが……。もし、この推理が正しいとすると、この文章は……まさか!?
 副ギルド長は慌てて立ち上がると、解読済みのスクロールを手で掴み、大股で執務室を後にした。廊下を行き来していた人々は、副ギルド長が険しい表情を浮かべて小走りで廊下を抜けて行く姿を見て、盗賊ギルドを震撼させる一大事が発生したのではないかと囁き合った。

4999年4月4日 11:50
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド1階、応接室

「入ってもよろしいですか?」ラプラスは応接室のドアをノックした。
「どうぞ」中からラフディアスの声が返ってくる。
「では、失礼します」
 扉を開けたラプラスとマンフレートを待っていたのは、驚愕と困惑の入り混じった表情を顔に浮かべているレイ・ジスランとキャサリン・グリーノック、そして2人と向かい合って腰を下ろしていたヨルド・ラフディアスの姿であった。
「レマに対する事情聴取は終わったんですか?」マンフレートが困惑顔の2人に訊ねた。
「そうじゃないの」キャサリンは首を横に振った。「今は司祭達に任せているわ。何しろ、ラフディアスさんが『国家危急の一大事』とか叫んで、このスクロールを持って取調室に駆け込んで来たものだから……。最初は何事か訝っていたけど、今、話を聞いて……私もぞっとしたわ」
「それほどの一大事だったんですか?」
「ええ」ラフディアスは頷いた。「とりあえず、簡単に状況説明しましょう。レマ・ドーストン・グロリアスが隠し持っていた暗号文の解読に成功しました。で、その結果をお知らせしたところなのです」
「して、その中身は?」ラプラスがソファに腰を下ろしながら訊ねた。
「まずは実物を御覧下さい」
 ラプラスはラフディアスから手渡された羊皮紙のスクロールに素早く目を通した。
 ──何だこれは!?
 単なる政治結社か新興宗教団体として思われて否かったナディール教団が、宗教団体とは似ても似つかぬ性格の顔を持っていた──過去これまでの宗教学の常識や定説では考えられない事実を突き付けられたラプラスの頭は2つに割れていた。頭の一部分では宗教学者としてこの事実を否定したいと願う一方、残る部分では、シルクス帝国の高級官僚としてこの新しい事実を受け入れる為に冷静な分析が開始されていた。
 ──たかが一介の宗教団体に、そこまでできるのか? しかし、レマ・グロリアスの自宅から見つかった秘密工作用の道具や隠し金庫……それらを考え合わせると、この手紙は捜査を混乱させる為の模造品だとは考えにくい。模造品だとしたら、余りに手が込み過ぎている。やはり、事実なのか……?
「どうですか?」隣からマンフレートんが訊ねた。
「厄介な代物だ」ラプラスはそう言ってスクロールを手渡した。「ふう……よりによって、ナディール教団に諜報機関としての顔があったとは、思いもよりませんでしたよ」
「予想外でしたか?」ジスランが訊ねる。
「ええ。彼らの総本山がイオ=テード同君王国内にあったということから見て、彼らの活動が同君王国政府と関係していた疑いあがあるとは思っていましたが、ここまでその繋がりが密接なものであったとは思いませんでした。この手紙によれば、我が帝国内に潜伏している[ディベートの達人]に対して、[金持ち農夫]が[龍]──我が国の軍事情報を集めるように指示していた、ということですから。そして、[コック]と名乗る人物がその活動に了解を与えている──私にはそのように感じられましたね」
「[金持ち農夫]とか[ディベートの達人]とかが誰なのか分かりますか?」スクロールに目を通していたマンフレートが訊ねた。
「いいえ。現時点でははっきりと分かりません」ラフディアスが答えた。「調べるには時間が掛かるでしょうから、誰が誰なのかを現時点で答えることは不可能でしょう。しかし、おそらくはイオ=テード同君王国の政府高官の誰かが[金持ち農夫]や[コック]になっていることだけは確かなようですね」
「だとすると、残りの人間も同君王国の……?」
「かもしれません。どの呼び名が誰に対応しているのかは分かりませんが、彼らが同君王国政府かその同盟国の関係者であることはほぼ間違いないでしょう。とにかく、これは一大事です」
「ええ」ラプラスは同意した。「どうやら、《7番街の楽園》のことは棚上げにせざるを得なくなりそうですな。ナディール教団にこのような一面があると発覚した以上、連中の組織を先に潰さないと何が起こるか分かりません。少なくても、我がシルクス帝国の防諜及び諜報の中枢であるここエブラーナで、彼らの暗躍を許すわけにはいきません。我が国のあらゆる機密情報が筒抜けになるのを放置するわけにはいかないのです。実際には、もっと厄介な事態になりそうなのですが──」
「どういう意味です?」ラフディアスが訊ねた。
「後で説明します。とりあえず、今は帝都への連絡を優先させましょう」ラプラスは盗賊ギルド長のほうを向いた。「帝都への連絡はどうなっていますか?」
「いいえ、まずは書記室長へ──」盗賊ギルド長が答えた。
「分かりました」ラプラスは立ち上がると、大股で室内を横切り応接室のドアを開けた。そして、盗賊達が行き交う廊下に向かって呼びかけた。「誰かいないか?」
 女性盗賊の1人がラプラスのほうを向いて訊ねた。「どうしたんです?」
「帝都シルクスへ繋がる緊急通信用のクリスタルを持って来てくれ。今すぐにだ」
 ラプラスの言葉を聞き、女性盗賊の顔色が変わる。「ちょっと待って下さい! 『緊急通信用』って、一体何が──」
「大至急、陛下の御耳に入れねばならない情報が見つかった。今はそれ以上言えないが、とにかくクリスタルを大急ぎで頼む」
「は、はい!」

4999年4月4日 12:09
シルクス帝国首都シルクス、帝城、皇帝ゲイリー1世の居間

「陛下」
 食卓の上に乗せられていたロールパンに手を伸ばそうとしたゲイリーは、侍女の声を聞きその手を止めた。「どうした?」
「エブラーナ盗賊ギルドから通信用クリスタル経由で緊急の連絡が届いています。緊急通信用回線を使ったものですが、いかがなされますか?」
「分かった。クリスタルをここに持ってきてくれ」
「御意」
 侍女の姿が消えてから、ゲイリーの反対側に座っていたリュミアが口を開いた。「緊急通信用回線を使った連絡……かなりの大事になりそうだわ。何なのかしら?」
「さあ、私には──と、もう届いたようだ」
 先程の侍女が再び居間に現れ、食卓の中央に通信用クリスタルを置いた。一般に使われている無職透明のクリスタルとは異なり、緊急時専用の通信用クリスタルには、赤く着色された半透明のガラス球が使用されていた。その赤い球体の中に、エブラーナ盗賊ギルド長の見慣れた姿と、初めて顔を見た中年男性の姿が映し出されていた。
「こちらの準備は大丈夫だ」ゲイリーはクリスタルの中に向かって話し掛けた。
「食事を邪魔してしまって申し訳ない、陛下」ジスランが応えた。「今し方、エブラーナで逮捕されたナディール教徒からとんでもない物が見つかった。連中とイオ=テード同君王国との関係を示す重要書類だ」
「重要書類?」ゲイリーは眉をひそめた。「具体的内容は?」
「同君王国の政府高官から彼らに対して出された作戦命令書で、我が国の軍事情報とエブラーナ盗賊ギルドの動向を調べるように命令する内容だった。彼らの情報収集活動のターゲットには、俺や陛下も含まれていたぞ」
「……ナディール教団は同君王国政府のスパイ組織だったわけか?」
「ある意味では正解だ」ジスランは頷いた。「我が国におけるナディール教団の組織のうち、どの程度の人間がスパイ活動に従事しているのかは全く分からない。でも、彼らの一部分──少なくても問題の書類を持っていたレマ・ドーストン・グロリアスという女性が、我が国で諜報活動に従事していたことだけはほぼ確実だ」
「諜報活動か……だとすると、最高機密漏洩もしくは仮想敵国への利敵行為になる。どちらも死刑は免れない重罪だな」
「そこで、連中の摘発に関して、陛下に対して相談があるんだが……」
「相談?」皇帝は盗賊ギルド長の言葉を聞き体を前に乗り出した。
「ここから先は私が御説明します」ジスランの隣に立っていた男性が口を開いた。
「異端審問所か?」
「御意。書記室長のデスリム・フォン・ラプラスです」
「早速用件に入ろう。して、何かね?」
 ラプラスは大きく深呼吸してから言った。「2つございます。まずは、我々エブラーナ盗賊ギルドと異端審問所に対して、ある超法規的措置を行う権限を認めて頂きたいのです」
「超法規的措置?」耳慣れない言葉にゲイリーは首を傾げた。
「はい。ナディール教徒──強いて言えばレマ・ドーストン・グロリアスに対する、橙系統呪文を使用した事情聴取及び記憶走査の御許可を出して頂きたいのです」
「橙系統呪文……なるほど、確かに超法規的措置だな」ゲイリーは顔色を変えず応えた。「して、その理由は?」
「拷問及び通常の事情聴取による情報収集がおそらく不可能になるからです。現在逮捕されているレマ・ドーストン・グロリアスは、エブラーナに潜伏中と思われるナディール教団の大物ザナッグ・ドーストンの妹で、同教団の中でもトップクラスの地位にある人物と思われます。そのような人物を逮捕して情報を聞き出すのに、拷問のように不確実性の伴う方法や、通常の事情聴取のように時間の掛かる方法を採ることはできません。彼女が逮捕されたことを知ったその他のナディール教徒達が、脱出や証拠隠滅に動いている可能性が否定できない以上、彼女からの情報収集も短時間──遅くても一両日中に達成されねばならないのです。それに、これ以上彼女を拘禁したままですと──」
「自殺する可能性があるわけだな?」
「御意。せっかく確保した情報源を失う事態だけは避けたいのです。それに、これから彼らに対して行う事情聴取では、正確な情報の入手が何よりも優先されます。拷問によって彼らを転向させることよりも先に、スパイ組織としての顔を持っている可能性のある、ナディール教団の全容解明を進めることのほうが優先課題だと存じ上げますが?」
「俺からもお願いする」ラプラスの隣でジスランが頭を下げた。「橙系統呪文の使用が認められれば、俺達の仕事も大分楽になるんだ。何とかできないだろうか?」
 ゲイリーはクリスタルから顔を上げてリュミアに訊ねた。「どうする?」
「今回に限っては認めても問題無さそうだわ。将来的にどうするかは、リマリック帝国大学と内務省の専門家から話を聞かないとどうしようもなさそうだけど」
「分かった。では、今回に限り認めよう」
「ありがとうございます」皇帝の言葉を聞き、ラプラスは深々と頭を下げた。「それからもう1つ、お願いがございます。こちらのほうは、外務省及び軍務省を交えて御検討して頂きたいことなのですが」
「何だね?」
「帝国内にある同君王国及びテンバーン王国の施設に対する監視を強化して頂きたい」
 ラプラスの言葉を聞いた人々の視線が彼に注がれる。同君王国だけではなくテンバーン王国の名前が持ち出されたことが意外でならなかったのである。
「どうしてテンバーンが?」リュミアが赤いガラス球に映るラプラスに訊ねた。
「皇后陛下、お忘れなのですか? イオ=テード同君王国とテンバーン王国は、今年の初めに、ルテナエア事件によって消滅していた軍事同盟を復活させたのです。両国がナディール教団経由で得られた軍事機密情報を共有していても、何ら不思議ではないはずです。それに、ナディール教徒が多数存在しているのはテンバーン王国とて同じです。彼らが同君王国に対してだけではなく、テンバーン王国に軍事機密情報を漏らしている可能性は高いと言わざるを得ません。我がシルクス帝国と国境を接していない同君王国に情報が漏れ出すのならばともかく、我が国と500km以上の長さにわたって国境を接し、リマリック帝国時代から不倶戴天の敵同士の関係にあるテンバーン王国に対し、我が国の軍事機密と情報機関の内部情報が筒抜けになる──これほど危険なことは無いはずですぞ」
 ゲイリーはラプラスの言葉を聞きながらミルクティーを口に運んだ。だが、つい5分前に注がれたはずのミルクティーは、室温と同じ温度までに冷めてしまったのではないかと思われた。
「証拠はあるんですか?」クリスタルの中でジスランが訊ねた。
「いいえ、確証はありません。私の疑念の真偽を確認し、テンバーン王国に対して無言の圧力をかける為にも、陛下に対して、橙系統呪文による尋問の許可と、予防措置としてのテンバーン王国大使館及び領事館に対する監視強化をお願いしているのです。同じ過ちを犯すのならば、注意し忘れという過ちではなく、注意し過ぎという過ちのほうを犯すべきです。そちらのほうが被害が少なくて済みます」
「これが事実だとすると……とんでもないことだな」
「御意」ラプラスは頷いた。「ですから、可能な限り早く手を打ち、今日か明日のうちにでも、エブラーナで活動中のナディール教徒を根絶やしにしておきたいのです。これは宗教やイデオロギーとは全く関係無い、純粋な外交問題であり軍事問題です。我が国の諜報活動に対する大きな脅威へ発展する可能性がある以上、その芽は可及的速やかに摘み取って──」
「教授の意見は分かった」ゲイリーは手を上げてラプラスの言葉を遮った。「テンバーン王国大使館への監視については、今から外務大臣を呼んで協議しよう。エブラーナにおけるナディール教団摘発については、エブラーナ盗賊ギルドと異端審問所の共同作戦でやってもらいたい。この場で、エブラーナのナディール教徒に対する『狩猟許可証』を発行する」
 「狩猟許可証」の発行──無制限の交戦許可、という皇帝の言葉を聞き、ジスランとラプラスの顔がこわばった。
「ラプラス教授とは、今後の異端審問制度について色々と話したいことがあるのだが……それは別の機会にしよう。まずは、レマ・グロリアスとかいう女性に対する調査から取り掛かってくれ」
 ゲイリーはそう言い渡してから通信用クリスタルの映像を消した。続いて、手を2回叩いて、通信用クリスタルを運んできた侍女を再び呼び出した。
「陛下、御用件は?」
「参謀総長と外務大臣に対し、午後1時までに登城するように伝えてくれ」

4999年4月4日 12:51
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド、地下2階、フォルティア・クロザックの牢獄

 4月1日の特別尋問で発生した乱闘騒ぎの後、彼女は盗賊ギルド内の医務室で背中の傷の手当てを受け、引き裂かれた半袖シャツの代わりとなる麻製の長袖シャツをもらってから牢へ戻された。牢へ戻る途中、異端審問所の職員からは「明日も特別尋問が実施されるかもしれない」という警告を受けていたが、実際には、彼女は更なる拷問に晒されることなく、薄暗い牢獄のベッドに寝転がりながら、不安だが退屈な日々を過していた。異端審問所の上層部で大混乱が発生したことや、フォルティアに対する異端信仰の容疑が晴れる目処が立ったことは一切伝えられていない。
 ──痛い……まだ背中が痛む……。
 現在、彼女はベッドにうつ伏せに横たわっていた。ガロット・ユーディルが振った鞭は彼女の背中に傷を残しており、医務室で手当てを受けた後でも痛みが残っていた。仰向けになると、傷口がこすれてしまい痛みが強まるのである。
 しかし、彼女の周囲では、少しずつ変化の兆しが現れていた。まず、今まで彼女の右足首を拘束していた足枷が取り外され、牢内を自由に動き回れるようになっていた。そして、彼女に対して出される食事の量が増え、パンとスープの他にサラダや肉料理などが入ったおかず用の皿が付くようになっていた。看守に頼み込めば、替えの下着を借りることもできるようになった。また、特別尋問の実施を巡る論議で、キャサリン・グリーノックという新人の裁判官が、フォルティアの味方になってくれたという話も弁護人から聞かされていた。
 しかし、身の回りで発生した変化全てが歓迎すべきものだったわけではない。4月2日深夜、彼女の隣の牢に入れられていた破壊神レゼクトスの若い聖職者が、突然狂ったように大声を上げ、牢の石壁や鉄格子に頭を連続して殴打するという騒ぎが発生したのである。フォルティアの悲鳴を聞きつけて看守達が駆け寄り、問題の囚人を牢から引きずり出して医務室へ連れ去っていったのだが、それ以来、彼が彼女の隣の部屋に戻って来ることは無かった。4日の朝食時、男の行方が気になった彼女は食事を運んで来た看守に聞いたところ、「頭蓋骨陥没で死亡した」という返答が戻って来た。
 ──狂い死にって奴だったのね……。今の私にはその心配は無さそうだけど……でも、ここから出られるのかしら……?
 彼女はうつ伏せになったまま目を閉じた。瞼の裏に、シルクスでの彼女の生活を支えてくれた人々の顔が浮かんでは消えていく。彼らのうち何人かは、彼女と同じように、ここエブラーナ盗賊ギルドの地下牢に幽閉されたままになっているはずだった。彼女には、ここに連れて来られるだけの「理由」を持っていたが、残りの友人や恩人達は、そのような事情は持っていないはず──そう考えると、フォルティアの心は締め付けられた。もしその通りだとすると、彼女のせいで、彼らは悲惨な境遇に追い込まれたことになるのだから……。
 ──ごめんなさい……私のせいで…………。

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