本編(36)
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本編(38)
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4999年4月5日 20:58
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街、第14号倉庫、正面玄関
港湾都市エブラーナの町は、元々はエブラーナ湾沿いの漁港から出発した。そして、今から1015年前、アップルガス・クライドと名乗る貿易商人が、エブラーナの漁港に併設して私設の避難港と倉庫を作ったのを皮切りにして、多数の商人がエブラーナ湾に立ち寄るようになり、やがてごく小さな漁港は貿易港へと変化したのである。盗賊ギルドの力が伸びた今でも、この街が貿易の要衝であることは全く変わりなく、港の周辺には多数の倉庫が並んでいる。エブラーナ盗賊ギルドの攻撃対象となったナディール教団エブラーナ支部は、港湾地帯に並ぶ倉庫の1つを改装して作られていた。
レマ・ドーストン・グロリアスから得た情報では、礼拝は午後8時30分から1時間にわたって行われる予定になっていた。エブラーナ盗賊ギルドはその情報を信用し、礼拝中の午後9時を狙って内部に突入する作戦計画を立てていた。この作戦で動員される盗賊は合計70人。正面玄関から突入するのは40人で、残りは倉庫の裏口から突入する算段となっていた。
「何かありますか?」隣の倉庫の物陰に隠れながらジスランが訊ねた。
ラプラスは【アナライズ・マジック】の呪文を掛けた状態で今回の作戦に臨んでいた。彼の視界には、古代語で書かれた色鮮やかな文字が何ヶ所も浮かび上がっている。彼はその古代語を目で追いながら答えた。「アラーム系の呪文が随所に掛けられています。それから、扉には【ロック】(施錠)の呪文も付与されています」
「解除は可能ですか?」司祭達の中で唯一作戦に加わっていたライアン司祭が訊ねる。
「強度280……少し強い魔力ですが、何とかなります」
「やって下さい」盗賊ギルド長は穏やかな声で命令した。
ラプラスは頷くと、紫系統呪文の発動体を手に持ち、呪文を唱えた。
「……大いなる時の守護者よ、魔力を消し去れ!」
次の瞬間、ラプラスの視界内に古代語で「解除」という文字が次々と現れた。これらの文字は数秒後に消滅し、視界からは古代後の文字が全て無くなっていた。全ての魔力の中和が完了したのである。
「ふう……」ラプラスは安堵の溜息を吐いた。「解除に成功しました」
「分かりました」ジスランは頷いた。
「……ねえ、もうすぐよね」ラプラスのすぐ後ろでキャサリンが口を開いた。ラプラスには、彼女の声が震えているようにも感じられた。
「……不安なのか?」
「ええ。ちょっとね……」キャサリンはラプラスの袖を握り締めた。
「いいか、私から離れるな」
「……うん、分かったわ」
キャサリンが頷いたと同時に、午後9時の時報がエブラーナの街並みに鳴り響いた。
「攻撃開始!」
盗賊ギルド長の叫び声と共に、盗賊ギルドの精鋭達がアジトへ雪崩れ込んで行く。彼らは正面玄関の木製のドアを蹴破ると、予め照明呪文が付与されていたダガーやショートソードを鞘から抜き、倉庫内を明るく照らしながら奥へと進んで行った。
「行きますよ!」
盗賊ギルド長の言葉を合図に、ラプラス達4人は物陰から飛び出し、剣戟と悲鳴が聞こえ始めていた第14号倉庫へ駆け出した。
4999年4月5日 21:00
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街、第14号倉庫、裏口
「突入!」
午後9時の時報を耳にしたマンフレートは、呪文によって光り輝くレイピアを振り上げて号令を発した。そして、盗賊達を引き連れて裏口へと駆け寄ると、渾身の力で裏口の扉を蹴破った。
「全員逮捕しろ!」
マンフレートは扉の脇に退いて盗賊達を先行して突入させた。裏口部隊に属している盗賊達の持つ武器にも照明呪文は付与されており、暗闇に閉ざされていた第14号倉庫の中が次々と明るく照らし出される。
「マンフレートさん、我々も行きましょう」ラフディアスが扉の側に立ち止まって言った。
「魔法性トラップは大丈夫ですか?」
「突入前に解除したアラームだけです。他にはありません」
「分かりました」マンフレートは頷いた。
「では、入りますよ!」
4999年4月5日 21:01
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街、第14号倉庫、礼拝堂
この日の礼拝には、エブラーナ在住のナディール教徒のほぼ全員が集まっていた。総勢50人となる彼らは、第14号倉庫の中心部に作られていた礼拝堂に集まり、ナディール教団の教典に従った方法で祈りを捧げていた。彼らは起立と正座を繰り返し、正座する度に頭を床に擦り付けていた。宗教的には「ナディールへの敬意を表する為」という位置付けが為されていたが、実際には、自らの独自性を殊更に強調する為に慣習的に続けられていたに過ぎなかったのである。
エブラーナ盗賊ギルトによる攻撃は、この独特の礼拝の真最中となった。普段は片身離さず武器を携帯しているナディール教徒達であったが、礼拝中の時だけは、武器を礼拝堂の壁際に作られていた棚に預けなければならなかった。「神への敬意を表すのに武器は邪魔である」──信者達はこの教えを忠実に守っていたのであるが、このことがナディール教徒達の対応能力を大幅に弱めてしまった。彼らが慌てて武器棚へ着いた時には、盗賊ギルドの精鋭達が礼拝堂に殺到し始めていたのである。
「戦え! 邪教の手先共を殺すのだ!」
礼拝堂の奥で大声を上げていた初老の男性──ザナッグ・ドーストンの体には冷や汗が流れ出していた。正面玄関と裏口に多数設置しておいたはずの魔法性の警報が何1つ反応を示さず、盗賊ギルドの精鋭達の侵入を許してしまったのである。
──連中に強力な魔術師が加わったわけか……。
ザナッグは辺りを見回した。そして、彼のすぐ隣に立っていたフォルティア・クロザックの妹を見つけると、一般信者達に分からないように、古代語で命令を下した。
「逃げるぞ。レスフェルトも一緒だ」
「了解」
その女性はグレートソードを棚から取り出していた初老の男性の背中を叩いた。
「ねえ、『父さん』」
「どうした、セリア?」
「脱出するわよ」
4999年4月5日 21:03
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街、第14号倉庫、礼拝堂
ザナッグ・ドーストンが礼拝堂から姿を消してから2分後、突入部隊の最主力であるジスラン達が礼拝堂に到着した。だが、既に礼拝堂でのジスラン達の出番は存在しなかった。ナディール教団の一般信徒達は、礼拝堂の内外で血を流して倒れるか武器を捨てて投降しており、盗賊ギルド長達が対決すべき相手であったザナッグ・ドーストンやフォルティア・クロザックの妹は礼拝堂から姿を消していたのである。
「ザナッグはどこだ!?」ジスランは大声を上げた。
「逃げられやした!」盗賊達の1人が答えた。「どこに行ったか見当もつきません!」
「くっ……隠し扉か!? 平信徒を確保したら、礼拝堂を隈なく捜索しろ!」
──構造が建設当時から変わったのか?
ジスランが目を細めて礼拝堂の中を観察している時、後方からラプラスの声が聞こえてきた。「どうなりました!?」
「逃げられました!」
「くそっ。相手のほうが上手──」
ラプラスは礼拝堂の壁を見て言葉を止めた。礼拝堂の壁のうち1方向には、ナディール教団のシンボルマークであった巨大なピラミッドが彫られたレリーフが立て掛けられていたのであるが、そのレリーフの表面に古代語の文字が浮かび上がったのである。
トラップ:幻覚(視覚・聴覚・触覚)及び魔力隠匿(強度266以下全て/無効)
強度:267
発動条件:永久付与
魔力付与者:レスフェルト・ヴィルヌーヴ
「──ではなかったか」
「ラプラス教授、行方が掴めたんですか?」
「幻影呪文です。この強度なら何とかなりそうです」
ラプラスは紫系統呪文の魔法発動体を握り締めた。
「……大いなる時の守護者よ、魔力を消し去れ!」
次の瞬間、巨大な円形のレリーフが紫色の光を発して消え去った。後に残されたのは半径120cmの黒々とした穴と、穴の先に続く幅1mの下り階段であった。ラプラスは下り階段に目を向けたが、古代語の文字は何1つ浮かび上がらなかった。
──さすがに、自分達の逃走経路にトラップを仕掛けていくような真似はしてないか。
「これは一体……?」裏口から突入したマンフレートは礼拝堂に現れるなり、壁の一面に大きく開いた黒い穴を見て驚愕の声を上げていた。
「連中の逃走経路だ。今から追跡する」
4999年4月5日 21:08
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街地下、下水道
エブラーナ盗賊ギルドの攻撃から逃れる為に下水道へ入ったザナッグ・ドーストン達は、レスフェルト・ヴィルヌーヴの持つグレートソードから発せられる光──このグレートソードはマジックアイテムであった──と、頭の中に暗記した下水道の地図だけを頼りに、腐敗臭の漂う漆黒の道を先へと進んでいた。だが、エブラーナの下水道に潜入したのは実は初めてのことであり、彼らは追跡者の影に怯えながら、あやふやな記憶のみを頼りにして進まなければならなかった。
「どこに出る?」ザナックは大陸交易語でレスフェルトに訊ねた。
「さてな」グレートソードを持つ男は首を横に振った。「まずは、適当なマンホールを見つけ、そこから地上に脱出せねばならん。盗賊ギルドの主力達があの倉庫に集まっている現在ならば、ここから脱出することも不可能ではないだろう」
「しかし、倉庫に残してしまった資料は──」
「ああ。あれは全て諦めるしかない。我々のエブラーナにおける組織も、1から再編し直しだ。テードのお偉方は怒るかもしれんが、これは仕方の無いことだ」
「せめて、レマが逮捕されたのをもっと早く掴めていれば良かったがな」
「そういうことだ」ザナッグの言葉にレスフェルトは頷いた。
「……ところで、どこに向かっているの?」ザナッグの隣でセリア・ヴィルヌーヴが声を上げた。フォルティア・クロザックに酷似したその顔には、生まれて初めて味わう恐怖が広がっていた。
「全く分からない」ザナッグが答えた。「とりあえず、マンホールを──」
「ちょっと待った!」レスフェルトが大声を出して立ち止まった。
「どうしたの?」
「畜生! 行き止まりの道だったか!」
レスフェルトは目の前を塞ぐ鉄格子を蹴った。だが、鉄格子は僅かに軋むだけで、3人の通行を頑として拒んでいた。鉄格子に使われていた鉄パイプの太さは直径2cm。レスフェルトの持つマジックアイテムのグレートソードで切り刻むことすら不可能であった。
「ねえ……どうすればいいの?」セリアが怯えた声で訊ねる。
──前には鉄格子、後ろには盗賊ギルドの精鋭達……。1対1ならば戦いに勝てる自信はあるが、敵の数があまりにも多過ぎる。それに、レスフェルトの仕掛けていた警報装置をいともたやすく解除してしまう魔術の使い手が控えている……。降伏することなぞ私にはできないし、生きて敵に捕まるわけにもいかない。だとすれば、残された選択肢は……
「『あれ』を使うのか?」レスフェルトが淡々とした口調で訊ねた。
「そうだな。不本意だが止むを得ない。これも我々の宿命だ」
ザナッグがズボンのポケットから取り出したのは、灰色をした米粒大の固体であった。一見すると、灰の固まりにしか見えない物体であるが、その正体はイオ=テード同君王国の魔術師ギルドで魔法的手段によって精製された猛毒であった。ザナッグが猛毒を持ち歩いていた理由は単純明快である。彼はイオ=テード同君王国軍務省にも籍を置く軍人であり、情報収集活動とナディール教団の組織拡大という密命を帯びてリマリック帝国──そしてシルクス帝国に潜伏していたのである。そして、自らの任務遂行が不可能になった時には、この錠剤を喉の奥に流し込んでその身を「処断」し、帝国政府に追跡の手掛かりを与えないように命令されていたのである。
ザナッグにとって、この自殺命令は強迫観念に等しい力を持っており、それに逆らおうとすることは1度たりとも存在しなかった。また、リマリック帝国で見つけた2人の同志──レスフェルトとセリア──も、この自殺命令の存在は承知しており、非常時にはザナッグと運命を共にする覚悟を固めていた。
「私の人生も終わるのね……」セリアはそう言って錠剤を受け取った。
「歴史の闇だけを走り続けた人生だったな」レスフェルトは錠剤を握り締めた。「後悔は無いが……せめて、死んだ後には日の光が当たる場所に私の名前が記されれば良いのだが」
「心配なさるな。全ては神ナディール様のお導きなのだ」ザナッグは真顔で応えた。「ここで我々が果てようとも、ナディール様の御理想は必ず成就される。その時には、我々の名前も再び語られることだろう」
「最後の晩餐が毒薬だったことも紹介されるのか」レスフェルトはそう言って苦笑いした。
「間抜けな話だが、それも一興だろう」ザナッグは微笑むと、死を間近に控えた2人の顔を見つめた。覚悟が固まっているのか感情が抑制されてしまったのか、彼らの心は不思議なことに穏やかであった。「では、参るぞ」
3人は頷き合うと、手に握られていた灰色の錠剤を口の中へ放り込んだ。
4999年4月5日 21:13
シルクス帝国領エブラーナ、倉庫街地下、下水道
呪文によって光を発している武器を片手に握り締めながら、ラプラス達は慎重に下水道を進んでいた。エブラーナ盗賊ギルドに管理権が属しているエブラーナの下水道は、本来ならばラプラス達一行の「庭」と呼ぶべき場所である。しかし、下水道の保守・点検を担当する盗賊の数は極めて少なく、エルドール大陸屈指の規模を誇るエブラーナの下水道の管理は行き届いていないのが実情であった。この無秩序性を良いことに、盗賊ギルドが関知しない犯罪者が下水道内に住み付くことも発生しており、それが下水道の保守・点検を更に難航させていた。
「ゆっくり過ぎじゃないのですか?」ラプラスが小声でジスラン達に訊ねた。
「そんなことはありません」ジスランは首を横に振った。「エブラーナの下水道には犯罪者やモンスターが住み付くことも多いんです。ですから、彼らからの攻撃を回避する為にも、ゆっくりと進まざるを得ないんです。それに、この道の先は行き止まりでした」
「間違いありませんね?」
「ええ」一行の最後尾を歩いていたラフディアスが頷いた。「下水道の地図は私が隅々まで暗記しています。間違い無く、この道は袋小路になっています。マンホールも設置されていません。連中はこの不正解の道に足を踏み入れてしまったわけです」
「だとすると、この道の先には敵が控えてるってわけ?」キャサリンが訊ねた。
「そういうことに──」ジスランは言葉を止めた。
「ギルド長、何か?」最後尾からラフディアスが質問する。
「目の前に誰かが倒れている……調べてみよう」
ジスランは光を発するダガーを手に持ったまま、下水道の側道に倒れている3人の男女の元へ駆け寄り、まず最初に脈を調べた。3人のうち初老の男性と思われる人物は完全に息絶えていたが、残る2人にはまだ弱々しい脈が残されていた。
「まだ生きている」
盗賊ギルド長は若い女性を抱きかかえ、その顔を持っていたダガーで照らし出した。その顔を見た瞬間、ジスランの顔が凍り付く。その顔は紛れも無くフォルティア・クロザックと全く同じものであったからだ。肩で短く切り揃えられていた髪と、長袖長ズボンの出で立ちが、フォルティアと眼前の女性を厳然と区別していたが、他のあらゆる身体的特徴はフォルティアのものと一致しており、その類似性がジスランの背筋を寒くさせた。
──だとすると、隣の男性は……?
ジスランは既に脈拍が停止した男性を起こし、その顔に目を向けた。そして、その顔を見て思わず叫び声を上げていた。「ザナッグ・ドーストンだ!」
4999年4月5日 22:39
シルクス帝国首都シルクス、3番街、セントラーザ・フローズン邸前の路上
「……なあ」男が相方に向かって言った。
「どうした?」
「動きが全く無いぞ。どうしたってんだ?」
「そうだな……」もう1人が答える。彼の目はフローズン邸のあるアパートの出入り口に向けられたままであった。「娘はおろか、父親すら帰宅してないじゃないか。残業でもあったのか?」
「そいつは知らねえな。何にしても、このままじゃとんだ無駄足だぜ」
セントラーザ・フローズンの監視(状況が許せば誘拐)を「シンジケート」のボスから命令されていた2人は、セントラーザ・フローズン邸のあるアパートが見える路地に身を潜め、午後6時から、アパートの唯一の出入り口の動きをずっと監視し続けていた。しかし、アパートに出入りするのはフローズン家とは縁も所縁も無い人々ばかりである。母親のリディア・ミントス・フローズンは自宅から外へ出ようとはせず──この日は料理学校が開かれていなかった──家にこもったままであり、残る家族の2人が出勤先から帰る気配は無かった。
「なあ……どうする?」
「深夜や朝に帰って来るってことだってありうる。このまま待とう」
「そうだな……。しかし、退屈な仕事だな……」男は溜息混じりに言った。
「全く」
4999年4月6日 09:19
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド2階、異端審問所書記室
エブラーナ盗賊ギルドへ帰還後、ラプラスは逮捕したナディール教徒の事情聴取を盗賊ギルドの人間に任せ、自分はひとまず仮眠を取ることにした。レマ・ドーストン・グロリアスの自宅を襲撃したり、盗賊ギルドの模擬戦闘に参加したり、ナディール教徒摘発作戦に参加したりと、彼の体は戦闘の連続で疲労の極致にあった。冒険者時代の頃は、このような戦いの日々を送ったとしても大した負担にはならなかったのであるが、昔と今では事情が異なるようであった。
「……教授?」
「…………んあ?」
ラプラスが応接用の長椅子の上で目を覚ます。視界の中にはマンフレートとキャサリンの姿があった。
「いびきを掻いて寝てたわよ」
「……そうか…………自覚が無いからな……」ラプラスは上体を起こした。「今何時だ?」
「午前9時を過ぎています」マンフレートが答えた。
「8時間も眠っていたわけか……私も老いたか……」
「御心配無く。ラプラスさんはこれから忙しくなりそうですから、今のうちに眠っていてもらわないと困るんです。事情聴取のほうは多少進みました」
「そうか──」ラプラスは言いかけて、2人の目の下の隈に気付いた。「──今度は君達が仮眠を取ったらどうだ?」
「そうかもしれないわね」キャサリンは頷いた。「でも、報告は済ませておくわ」
「ああ、すまない。……まず、幹部は全員逮捕できたのか?」
「残念ながら」マンフレートは首を横に振った。「エブラーナのナディール教徒の大元締めだったザナッグ・ドーストンは死亡しました。服毒自殺です。常日頃から毒を持ち歩いていたようでして、脱出が不可能と悟り、毒を煽ったわけです。残る2人の幹部のうち、若い女性のほうも今日の午前4時に死亡が確認されました。残る1人は一命を取りとめました。まだ危険な状態ですが、会話ができる状態まで回復しました。現在、ベッドで横になった状態のまま、事情聴取が行われています」
「自殺する心配は無いのか?」
「心配は無い……というよりも、自殺するだけの気力を無くしている、というのが実情のようです」マンフレートは懐から繊維紙のメモを取り出した。「2人の名前はレスフェルト・ヴィルヌーヴとセリア・ヴィルヌーヴ──厳密にはセリア・クロザックです。彼らが偽者のフォルティア・クロザックとその父親を演じていたわけです。本物の父親が死亡した後は、別人の親子──こちらは完全に偽名ですが──に成りすましていました」
「正体はイオ=テード同君王国の秘密工作員だったわけか」
「そうです。ナディール教団には、単なる宗教団体とは別の顔──イオ−テード同君王国の情報機関としての顔も持っていました。で、ナディール教徒の地下組織は大陸西部を中心に世界中に広がっており、このネットワークで集められた情報は、同君王国宰相メディーラ・ムルワーラと、参謀総長フェルディナント・オーブドュスのもとに集められ、軍事・外交計画の決定に役立てられていたようです。また、同盟国であるテンバーン王国に対しては、有料でこの情報を提供していたと話しています」
「セリアの役割は何だったんだ?」
この質問にはキャサリンが答えた。「シルクス帝国内での情報収集と暗殺などの秘密工作。そのテクニックは全てザナッグとレスフェルトから伝授されたものらしいわ」
「しかし、どうしてわざわざこんな面倒な真似をしていたのでしょう?」
「……多分、リマリック帝国生まれのナディール教徒が必要だったのだろう」起きてからすぐにも関わらず、ラプラスの頭は明晰に活動していた。「リマリック帝国やシルクス帝国では、移民に対する公職就任は一切認められていない。一兵卒を含む公職への就任は、移民の孫からしか認められていないんだ。従って、彼らが情報収集の為に、政府機関の中へ浸透を図ろうとしても、ザナッグのような移民2世代目には不可能な話になる。そこで、セリアのような生粋のリマリック人が必要になるわけだ。……それに、赤ん坊の頃からナディール教徒として育てる──洗脳することによって、ナディール教団と同君王国政府に対して盲目的に従う人間が作れるわけだ。おまけに、双子のうち片方を死産に見せかけ、死んだはずの赤ん坊を別人として育てるという手法を使うことにより、いざという時に、『生き残っている』双子の片割れに刑事責任を負わせることも可能になる。……実際には、双子の片割れが逮捕されたことがきっかけになって、自分達もお縄を頂戴してしまうことになるのだがな」
「……悪辣だわ」
「そう言えば、同君王国政府の幹部もナディール教徒なのか?」
「レスフェルトの話によりますと、はっきりとは分からなかったようです。ただ、軍参謀総長のフェルディナント・オーブドュスはナディール教徒ではないようですね。時々、オーブドュス将軍の認証が全く無い指示が出ることがあったそうです」
「なるほどな……」
「それから、レスフェルトの素性についてですが……お聞きになりますか?」
「ああ、頼む」ラプラスは首を縦に振った。
「彼は4960年にリマリックで生まれました。親は靴屋を経営していて、本人の腕前もなかなかのものでした。しかし、両親が早死にしたために靴屋をやめて冒険者になったそうです。その後、4980年に奥さんと結婚しています。ザナッグの話によると、2人がナディール教団に入ったのは4977年のことだそうです」
「4977年? ザナッグが移住してからすぐのことだな」
「ええ」マンフレートは頷いた後、声を落とした。「実は、レスフェルトの奥さんは諸々の事情により子供を産めなかったんだそうです。それが、レスフェルト──そして奥さんのナディール教への参加の理由だったそうです」
「何があった?」
次の説明はキャサリンが行った。「レスフェルトと奥さんは、4974年頃からずっとペアで冒険者稼業をしていたそうよ。で、76年の秋に、リマリック帝国のある公爵家の護衛に参加することになったんだけど、奥さんがそこで当時の公爵から肉体関係を強要されたらしいの。彼女のほうは平民出身だから、断ることもできないかったわ」
「これだけだと、どこにでもある不倫話と変わらないじゃないか」
平民の女性と貴族の男性の恋愛物語──これは、古今東西の吟遊詩人たちが頻繁に取り上げる話であり、捜せばどこからでも見つかるものである。男性のほうが妻子持ちならば、これは不倫になるが、こちらも珍しいわけではない。
マンフレートは首を横に振った。「『肉体関係』にも色々あります。実は、ここで強要された『肉体関係』とは、不特定多数の貴族達との乱交パーティーだったんですよ。正確には加虐趣味の貴族達が集まる乱交パーティーです。彼女は複数の貴族から性交渉を要求された上に、性的な虐待・拷問まで受けていたようです」
「ここの拷問施設よりも酷い仕打ちを受けていたらしいわ」
ラプラスは拷問吏ガロット・ユーディルの言葉を思い出していた。
「端的に言えば、貴族による集団レイプだったようです。相手が貴族なので、合法的な手段では彼らに報復できない。それならば、ナディール教団に参加して貴族社会全体を破壊してしまえ──」
「なるほどな……」ラプラスは溜息混じりに呟いた。
「付け加えですが」マンフレートはさらに声を落とした。「国家機密級の秘密なんですけどね、私が言った公爵家の名前、実は『ロストファーム』っていう名前なんです」
名前を聞いた瞬間、ラプラスの背中に悪寒が走った。「まさか──」
「そう、そのまさかなの。現在のウル皇室のロストファーム家の先代当主……現ウル皇帝の父親にあたる人物がパーティーの首謀者だったのよ」
「そうか……」
「で、元の話の続きだけど、結局のところは子供が産まれないということで、ヴィルヌーヴ夫妻がセリアの養父母役を引き受けることになったわけなの」
「そうです」マンフレートは頷いた。「戸籍上は、ティーラが生まれてから10日後に出生届を出しています」
「奥さんは何をしている?」
「去年の10月上旬、リマリックの市場で焼身自殺しました。自分をレイプした男の息子が皇帝になったことに、大変ショックを受けていたようだ、とレスフェルトは話していました」
「哀れなものだな……」
4999年4月6日 12:37
シルクス帝国首都シルクス、帝城、タンカード神殿総本山、最高司祭執務室
「以上で報告を終ります」
通信用クリスタルの中で、エブラーナ異端審問所に派遣されているガーラル・シモンズ司祭が報告を終えた。報告の相手はタンカード神殿の最高司祭ジョン・フォルト・テンペスタ。そして、その報告内容は、つい10時間前にエブラーナで判明した新たな事実であった。
「つまり、フォルティア・クロザックとの別の異端者がエブラーナで見つかったわけだな?」ジョンは指で机を叩きながら通信用クリスタルを見つめていた。
「はい。残念ながら、被疑者のほうは死亡してしまいましたため、本人の口から直接事実関係を聞き出すことはできませんでしたが、一緒に逮捕された幹部の証言により、ナディール教団に関わり続けていたのは偽者のフォルティアであることが確認されました」
──これで、エブラーナ時代におけるフォルティア・クロザックの不可解な行動の謎が全て解けたわけか。結論は冤罪……
「あの……ジョン様?」シモンズが躊躇いがちに声を掛けた。
「ん? ああ」最高司祭は我に返った。「とりあえず、報告は御苦労だった。今後の指示は後で出すので、それに従うように」
「はっ、承知致しました」
ジョンは指を鳴らし、シモンズ司祭が恭しく頭を下げている映像を消した。
──結論は冤罪、か……。
《7番街の楽園》で逮捕された8人に対する冤罪疑惑。その最大の焦点であったフォルティア・クロザックに対する冤罪疑惑について、結論が導き出されたことになる。冤罪疑惑が持たれている残り5人については再調査の必要性に迫られているが、揃えられた状況証拠から見て冤罪であるという見通しが強まっていた。全てはソレイル・ギスティムをはじめとするバイロイト修道会が仕組んだことであったのだ。そして、彼らが冤罪騒動を起こさざるを得なくなった原因が、帝都シルクスを震撼させている連続女性失踪事件であることも、今のジョンには「明白な事実」として提示されていた。
──犯人達を全て検挙して誘拐された女性達を全員救い出せば、これで事件はめでたく解決する。だが……
タンカード神殿のトップに立つジョンにとっては、誘拐された女性達が全員解放されたとしても、頭の痛い問題が残されていた。まず、逮捕されることになるバイロイト修道会関係者の処遇である。法律を曲げて異端審問所に冤罪の人物を送った事実や、連続女性失踪事件に関与していたことが許し難い犯罪であることは論議するまでも無いことであり、ジョンは彼らが火刑台や絞首台送りになっても良心の呵責は一切覚えないであろうと確信していた。しかし、「彼らが連続女性失踪事件に関与していた」ということを世間一般に公表した場合、テンペスタ家やタンカード神殿に対する威信は大きく揺らぐことになる。建国間も無いシルクス帝国で、このような大規模な政治疑獄が発生するようなことは、順調な滑り出しを見せた新国家の運営を危機に陥れてしまう危険性があった。
次に、冤罪となったフォルティア・クロザックの処遇である。彼女を除く5人については、特に論議せずに解決できるであろうと思っていた。しかし、フォルティアの場合、彼女が連続女性失踪事件の犯行現場を目撃していた、という厄介な事情が存在していたのである。バイロイト修道会の事件への関与を公に認めた場合は、問題無く解決できる事柄であるが、バイロイト修道会の犯行を「隠匿」する──彼らを別の罪状で処刑する場合には、フォルティアの口を「封じる」必要が存在したのである。
──全てを公開することに、今の我が国は耐えられまい。ならば、連続女性失踪事件と訴権乱用を別事件として扱わねばならん。その場合は、バイロイト修道会に入っていない人間だけを失踪事件の犯人──
ジョンは頭の中に浮かんだ考えを振り落とすかのように、頭を大きく左右に振った。
──駄目だ。フォルティア・クロザックは犯人達の顔を見ている。だから、誤魔化すことも不可能。ならば、どのようにすれば良いのか……。
ジョンは再度頭を左右に振った。
──フォルティア・クロザックの存在さえ消してしまえば、全ては丸く解決でする。バイロイト修道会の連中に対しては訴権乱用の罪のみを負わせ、失踪事件とタンカード神殿の関連を消すことができる……どうすべきものか……。フォルティアだけを消せば……しかし、どうやって消せば──?
ジョンの頭の中で、何者かが囁いた。政治家としての彼の「分身」の提言だったのか、悪魔による背徳の囁きだったのかは分からない。だが、ジョンには、この囁きが窮地を脱する唯一の策に感じられてならなかった。
──暗殺?
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