本編(38)
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4999年4月7日 04:18
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫から150m離れた路上
連続女性誘拐事件の被害者である女性達を救出す為に編成された警視庁と各ギルドの合同部隊は総勢28人になっていた。彼らは倉庫街の近くまで馬車で移動し、倉庫街の中は細心の注意を払い忍び足で移動していた。作戦を成功させる為、倉庫街での移動ルートには路地など人気が少ない道のみが選ばれていたが、それでも酔っ払い数人とすれ違い、彼らを救出作戦終了まで拘禁せざるを得なかった。
救出作戦を成功させる為、警視庁はこの他にも細心の注意を払っていた。彼らの着衣は全て黒や紺色など暗色系の服に統一され、鎧や盾も黒色に塗られていた。また、彼らの靴は全て布製であり、移動時にも足音が立ちにくいようにと配慮がなれさていたのである。しかし、これだけの注意を払ったとしても、今回の作戦が上手くいくとは限らないことを彼らは承知しており、チームの緊張感は否応にも高まっていた。
「遅いな」倉庫の影に身を潜めながらティヴェンスが呟いた。
「見取り図が違っていたのでしょうか?」隣でセントラーザが小声で応えた。
「いや、それはあるまい。念には念を入れて、官房長に記憶走査をして頂いたのだから、見取り図が違ってるなんてことはよもやあるまい。今日の真夜中のうちに改装工事をやっていたのなら話は別だが」
「……どうなん──」
セントラーザが隣に座っている男性魔術師に訊ねようとした。だが、魔術師は左手でセントラーザの言葉を制し、目を閉じたままその姿勢で待ち続けた。現在、彼の使い魔であるネズミはウィリアムの呪文によって透明化されており、幻覚呪文によって足音を消した状態で北列2番倉庫の偵察を行っていたのである。
そして、長く感じられた時間──実際には10秒程度だったのだか──が過ぎた後、魔術師はセントラーザや警視総監のほうを向いて答えた。「結果が出ました。建物内の構造はブリーフィングのままでした。魔法によるトラップもありません」
魔法性トラップ無し──この言葉を聞き兵士達から安堵の溜息が漏れていた。
「別の呪文で隠匿されている可能性は?」セントラーザの後ろで控えていたデニムが訊ねる。
「それもありません」魔術師は首を横に振った。
「あの2人の証言通りだ」警視総監は頷いた。「……しかし、どうしてこんなに時間が掛かったのかね?」
「建物内の敵兵士の数が、当初の想定よりも10人ほど多いようです。私が見た限りでは、敵の数は22人確認できました。上級船員と思われる人間もこちらに来ているようです。それから、バルディオス・グレディアは鍵が掛かった別室にいるようです。使い魔の目からはその姿は確認できませんでした」
「分かった。では、監視の続きを頼む」
男性魔術師は警視総監の命令に頷くと、再び目を閉じた。
「計画は変更しますか?」デニムの隣からウィリアムが訊ねる。
「いいえ。その必要は無いでしょう。それに時間がありません」ティヴェンスは立ち上がった。「では、今から作戦行動を開始します。私は第1部隊を率いて倉庫正門へ近付きます。官房長は『裏口』からの突入をお願いします。時間は早いですが、行動に取り掛かって下さい」
「了解しました」ウィリアムは頷いた。「御武運をお祈りしますよ」
警視総監は無言で頷くと、後方で待機していた捜査官達に手を振って合図を送った。捜査官達はランタンのシャッターを下ろし、足音を立てないように小走りで北列2番倉庫へ向けて動き始めた。警視総監は一行の最後尾につき、後ろを幾度と無く繰り返し振り返っていたが、その姿も夜の闇に紛れて見えなくなった。
「では、我々も出発するぞ」
ウィリアムはそう言って静かに立ち上がった。
4999年4月7日 04:20
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫、バルディオス・グレディアの寝室
《偏西風ライダー》号船長バルディオス・グレディアはベッドに横たわったままぼんやりと天井を眺めていた。帝都シルクスに来てから、彼の生活リズムは完全に狂わされ、朝に寝て昼過ぎに起きるという不健康な日々が続いていた。正常な健康リズムを取り戻すべく、真夜中にはベッドに横になっていたものの、彼の頭は覚醒したままである。ベッド脇のテーブルにはブランデーの入った陶器の瓶が置かれているが、アルコールの力を借りても彼は眠ることができなかった。別の夜には、彼はシルクスの闇市で部下に買わせた睡眠薬を飲み、またある時は「試用会」と称して2人の女性をなぐさみものにしたが、それでも彼の精神的ストレスが完全に解消されることは無く、不規則な生活リズムが回復することも無かった。
──今回の仕事は厄介だったな……。
表向きはタバコ商人として知られているバルディオスであったが、彼はダルザムール帝国首都ダルザムールにある盗賊ギルドの一員でもあった。ダルザムール帝国では盗賊ギルドは完全に非合法化されており、彼らの実態は完全な犯罪結社である。バルディオスはギルドの中で人身売買部門に属しており、そのキャリアは20年に及ぶ。普段は、タバコ商人の名目で各国を周り、タバコ貿易に従事する一方で、各国の顧客や「商品入荷先」──勧誘・誘拐の実行犯と折衝することを仕事としている。しかし、今回のように、彼自らが女性達の誘拐に関わり、しかも誘拐計画を立案・管理するようなことは初めてであった。彼の精神的な苦痛・疲労は、「未経験」の犯罪を犯し続けることによる精神的疲労に起因している。誘拐・勧誘される女性達に対する罪悪感は30年以上も前に捨て去っていた。カッセル姉妹に対する暴虐を命令した時も、彼は何の躊躇いも見せなかった。加虐趣味の性癖があるわけではなく、ただ単純に、麻痺してしまった良心を捨て去っただけのことであった。それは、「試用会」に出席していたタンカード神殿の聖職者達にも少しは当てはまることであった。
ダルザムール盗賊ギルドとバイロイト修道会の関係は、バイロイト修道会がダルザムール帝国に上陸した4993年1月から始まっていた。皇帝アルフリード・フォーレ・ダルザムールの治世下にあるダルザムールでは、竜神タンカードのような地球創造神話に登場しない宗派の布教は認められていなかった。そのため、バイロイト修道会は宮廷内外でのロビー活動の窓口の1つとして、ダルザムール盗賊ギルドを頼ったのである。ダルザムール盗賊ギルドはロビー活動に協力したが、その代わりに人身売買への協力をバイロイト修道会に求め、ソレイル・ギスティムはこの要請を受け入れたのである。両者の関係はこの後もずっと続き、いつしか、バイロイト修道会関係者の多くが、ダルザムール盗賊ギルドが作り上げた人身売買シンジケートの一員になってしまっていたのである。バルディオスが会食を重ねていた相手であり、シンジケートのシルクスにおける総元締めとなっていたグルメ通の「髭無しの男」も、バイロイト修道会──そしてシンジケートと縁の深い人間であった。
聖職者が人身売買に手を出すという話を聞いた時、バルディオスは大いに驚愕した。だが、その後の取引を通じ、彼は聖職者もただの人間に過ぎないことを学んでいた。いくら神に仕えていようとも、完全無欠な人間は絶対に存在しないし、どこかで必ず罪を犯してしまう。もっとも、彼らの犯していた罪が神に許されるとは、バルディオスもソレイル・ギスティムも、更にはグルメ通の男性も全く考えていなかった。
──しかし、まだ1人残ってる……。そいつを見つけんことにはここから出られん……。
バルディオスは起き上がると、ブランデーの入った瓶の脇に置かれている繊維紙に目を落とした。セントラーザ・フローズンの個人情報が書かれている紙であり、バルディオスが認めた「20体目の商品」である。本人が警視庁の巡査、父親が大蔵省の高官であり、誘拐したら様々な意味で大変なことになることは彼も承知していたが、「不良品」として「廃棄」したカッセル姉妹の代わりとしては、姉妹に並ぶほどの器量持ちが必要だと考え、部下2人をフローズン邸前へと派遣したのである。だが、部下達が女性を連れて帰ることは無く、時間だけが徒に過ぎていった。ダルザムール盗賊ギルドへの「入荷」期限に間に合わせる為には、4月10日にはシルクスを離れねばならず、バルディオスの焦りと心労は一層深まっていた。
──足りなかった時には子飼いの部下が「商品」になる……。いい気はせんな……。やはり、ここはあの娘が……。
バルディオスはテーブルに置かれていた瓶を手に取ると、中に少しだけ残されていたブランデーを一気に喉へ流し込んだ。
4999年4月7日 04:23
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫裏
北列2番倉庫への侵入ルートは2つ用意されていた。このうち、トイレ側からの侵入部隊10人を指揮していたのは、大蔵省官房長ウィリアム・フローズンだった。本来は警視庁の人間がチームリーダーとなるべきところであったが、作戦立案者ということと、冒険者時代の経験が考慮され、ウィリアムに指揮官の役目が回されたのである。
「全ての音を消し去れ」
ウィリアム・フローズンの懐から橙色の光が漏れ出す。次の瞬間、捜査官達のいる空間が完全な静寂に包まれた。
巡査の1人が何か言おうと口を開いたが、彼らの周囲の空気は既に音を伝えなくなっており、巡査の口が無意味に開閉するだけであった。巡査の様子を見て呪文が正常に作動したことを確認したウィリアムは、軽く手を振って行動開始を指示した。捜査官達は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに頷き、予め定められていた作戦計画通りに動き始めた。
皇帝直属軍の男性兵士2人が手と膝を地面につき土台を作る。その上に別の男性兵士が同じような台を作る。こうして2段の即席の踏み台が作られると、盗賊ギルドから派遣された女性要員がその上に乗り、最上段で窓の解錠作業に取り掛かった。倉庫に使われている窓は全て建物内から外へ向かって開け放たれる構造になっており、蝶番は扉の上側に2ヵ所取り付けられていた。現在、扉が少しだけ開いたままの状態を維持する為、扉と窓枠の間には木製のつっかえ棒が挟まっており、僅か5cmの隙間から風が通るようになっていた。棒は建物の内側と外側の2方向から釘で打ち付けられており、動かすことは不可能であった。
盗賊ギルドの要員は腰に下げていたハンドアクスを手に構えると、勢いをつけて木製の窓に振り下ろした。厚さ1cmの木製の扉は音も無く破壊され、建物の中に木の破片を撒き散らした。ウィリアムが事前に掛けていた消音の呪文の効果が発揮されていた。
盗賊は一足先に建物の中に入り、暗闇に慣れた目で周囲を見回した。そして、足音を立てずにトイレの出入り口へ向かい、壁の端から顔を廊下のほうへ出してみた。廊下に誰もいないことを確認した彼女は窓の側へ戻り、踏み台の上で待機していた男性兵士に中へ入るよう合図を送った。兵士は頷いて後ろへ無言で合図を送り、そのまま建物内部へその身を躍らせた。
その様子を見ていたデニムは、ポケットの中の魔法発動体を再確認した。
──これで大丈夫だ。多分、これを使わなければいいけど、どうなるか分からないしな……。
彼がふと隣を見ると、セントラーザが官給品のブロードソードをチェックしている姿が目に入った。
──大丈夫か?
デニムが目でセントラーザに訊ねた。
──うん。そういうデニムもしっかりなさいよ。
デニムは頷くと、セントラーザよりも先に北列2番倉庫へ足を踏み入れた。
4999年4月7日 04:28
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫正面
ティヴェンス警視総監が率いる総勢18人の部隊は、既に北列2番倉庫の正面口を確保していた。倉庫の出入り口を監視していた《偏西風ライダー》号船員思われる男性3人は既に縛り上げられ、猿轡を噛まされた上に呪文で眠らされた状態で地面に転がっている。魔術師ギルドから派遣された男性魔術師が、離れた場所から呪文を使って男達を眠らせたのである。
部下の巡査部長が警視総監の耳元で報告した。「準備は整っています」
警視総監は無言で頷くと、手を振って警察官と兵士に合図を送った。人々が音も無く動き、倉庫に1ヶ所だけ取り付けられている扉の脇に待機した。ティヴェンスの隣では、魔術の専門家でもある男性巡査が懐から黒系統呪文の魔法発動体を取り出し、【アンロック】──解錠の呪文の詠唱の準備に入った。見張り役3人を眠らせた魔術師は白系統呪文の魔法発動体を右手に持ち、左手で魔晶石に触れ、別の呪文の詠唱の準備を既に終えていた。
4999年4月7日 04:29
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫内部
ティヴェンスらよりも先に倉庫内へ潜入したデニム達7人──踏み台役となった3人の兵士は見張りとして倉庫の外に残している──は、物音を立てないように細心の注意を払いながら、無人の廊下に待機していた。彼らに与えられていた役割は人質の保護。必要とあらば、人質と犯人達の間に割り込んで盾となる役目も負っていた。正面から突入する部隊よりも負うリスクは高かったが、ここに集められた7人は誰もがその覚悟を持っていた。大蔵省の官僚であるはずのウィリアムも、今から20年以上も昔の冒険者時代のことを思い出し、いつに無い緊張感が体にみなぎってた。しかし、彼にとっては、人質達と同様、作戦に参加していたセントラーザとデニムのことが気掛かりであった。
──あいつにはここまで危険な職場は任せたくなかったが……。
セントラーザが女性だったからのではなく、彼女がウィリアムとリディアの唯一の子供であったため、彼女を危険に晒したくないという気持ちは一層強くなっていた。だが、ウィリアムは頭を強く振って干渉を頭の中から追い払った。
──そんなことは仕事が終わってから考えればいい。それに、ここに捕まってるのはセントラーザと同じような女の子ばかり……。親の気持ちを考えると、今ここで私達が頑張らねば……。
ウィリアムは物陰から倉庫の中心部分をそっと覗き込んだ。人質と思われる女性達が手前側で眠り、奥──警視総監達のパーティーにとっては手前──には見張り役と思われる男性が椅子に腰を下ろしている。その側では、別の男性が女性達と正面玄関を交互に見つめていた。床には、何人かの男達が寝転がって吐息を立てている。どちらにせよ、ウィリアム達のパーティーは全く注目されていなかった。消音呪文の力を借りて、ウィリアム達が物音を全く立てずに移動することができたからである。
──今からが本番だ。
4999年4月7日 04:30
シルクス帝国首都シルクス、2番街、警視庁屋上
「4時30分になりました」
運命神ゾルトスの男性司祭の言葉に巡査部長は頷いた。そして、大声で命令した。「合図だ!」
屋上に設置されている鐘楼の側に待機してた男性職員はその言葉に反応し、鐘楼の中に吊るされていた青銅製の鐘を激しく連打した。
暗闇に閉ざされたシルクスの街に鐘の音が響き渡った。
4999年4月7日 04:30
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫中央部
ナターシャ・ノブゴロドは、聞き慣れない鐘の音に反応して目を覚ました。その他の人質達の一部や見張りについていた男達の数名も目を覚ました。そして、未明のシルクスに鳴り響く鐘の音が異常であることに気付くと、近くに寝転がっていた仲間達の肩を揺すり、彼らを目覚めさせようとしていた。
ナターシャは自分の隣に目を向けた。セリス・キーシングは何事も無かったかのように静かな寝息を立てたままである。
4999年4月7日 04:30
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫正面
警視庁屋上で鳴らされた鐘の音は数秒遅れでティヴェンス達の元へ届いた。
鐘の音を聞いた男性巡査はティヴェンスのほうを向く。警視総監はゆっくりと首を縦に振った。それを確認した巡査は直ちに呪文の詠唱を開始した。
「闇の王よ、我が道を閉ざす扉を拒否せよ」
彼の手から暗闇よりも黒い波動──一部の人は「漆黒の光」と呼んでいた──が溢れ出す。次の瞬間、北列2番倉庫正面の扉の鍵が金属音を立てて外れた。
この金属音を合図にして、他の人々が一斉に行動を起こした。まず、扉のすぐ脇に待機していた皇帝直属軍の兵士が扉を勢い良く開けた。同時に、倉庫の外に待機していた人々は一斉に目を閉じた。そして、扉が開き、倉庫内にいた人々が「何事か」と目を覚まし、倉庫の出入り口に目を向け始めた時、ティヴェンスが大声で叫んだ。「人質は目を閉じろ!」
警視総監の言葉を聞き、倉庫内の人々はどうすべきか一瞬迷った。だが、ナターシャをはじめとする人質達の一部は彼の声に従い、目を強く瞑った。そして、叫び声から2秒だけ遅れて、魔術師の呪文が完成した。
「光の神よ、激しき雷鳴と閃光をこの地にもたらせ!」
魔術師の左手にある魔晶石が音も無く崩れ去り、右手の白系統呪文の魔法発動体が白い光を発する。それと同時に、落雷を思わせる轟音と純白の閃光が倉庫内を覆い尽くした。一般には【フラッシュ】と呼ばれているこの呪文は、基本的には目眩まし用の呪文として用いられていた。だが、大量の精神力を消費して威力を増強させることによって、単なる目眩まし以上の効果を期待できる攻撃呪文として使うことも可能になっていた。呪文によって発生させられた閃光を直視した者はほぼ例外無く激痛に襲われ、症状がひどい者になると運動神経にもダメージが与えられ全身が麻痺してしまう。
このような強力な呪文を今回の事件のような状況下で使う場合、人質となった人間も閃光の犠牲者となってしまう。魔術師ギルドから派遣された要員の中には、この点を指摘して【フラッシュ】の使用に難色を示した者もいた。だが、ウィリアムとティヴェンスはこの強力な攻撃呪文の使用を攻撃計画案に織り込んだ。ティヴェンスが呪文の使用直前に警告を発することによって、人質達への被害を少しでも減らせるのではないかと考えたからである。勘の良い人質はこの声に従ってくれるであろうし、まともな神経を持つ犯人ならばその声には従わないであろうと踏んだのである。年少者に対する被害は決して小さくないと予想されたが、犯人を確実に無力化して人質の命を守ることを優先させたのだ。
そして、2人の予測はほぼ100%的中した。倉庫内で見張りについていた船員10人と、ティヴェンスの声に耳を傾けなかった不注意な人質8人は一瞬にして無力化された。その隙を突いて、警視庁の捜査官達が倉庫の中へ雪崩れ込み、それと呼応して、倉庫内に潜んでいたウィリアム達も一斉に動き始める。警視庁の捜査官達がまず最初にしたことは、倉庫の出入り口を封鎖し、それと同時に人質達が監禁されている場所と犯人達の居住空間の間に割り込み、「人間の壁」を作って人質達を守ることであった。視神経を麻痺させて呻き声を上げている犯人達に抗う術は何1つ残されておらず、警視庁の捜査官達は容易に当初の目的を達成することができた。戦闘開始から30秒後、別室で熟睡中だった犯人達は、寝ぼけ眼の状態で寝室の扉を開け、手に握られていた剣──小型の刀が最も多かった──で警視庁の捜査官達に戦いを挑み始めた。だが、起床直後で判断力が鈍っていた犯人達は、入念な準備を整えて攻撃を開始した捜査官達の敵ではなかった。
4999年4月7日 04:31
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫、バルディオス・グレディアの寝室
異常な鐘の音、雷鳴に似た轟音、そして仲間達の悲鳴と侵入者達の足音は、バルディオスの耳にも届いていた。
──敵襲か!
彼はベッドから跳ね起きると、床に転がっていた矢筒付きベルトを大急ぎで装着し、壁に立てかけられていたクロスボウを手に取った。ダルザムール帝国に住むドワーフ達が開発した特殊なクロスボウで、最高で同時に3本までのボルト(クロスボウ専用の矢)を装填し、3.5秒間隔でボルトを発射することが可能になっていた。非常事態の発生を考慮し、既に鉄製のボルトが3本セットされていた。
──誰でもいいから殺ってやる!
バルディオスは寝室のドアの真正面に立ち、クロスボウを構えた。そして、ドアを勢い良く蹴り開けた。バルディオスの目に飛び込んだのは、ドアに警戒の目を向けていた魔術師風の若い男性である。その隣には、つい先程見たイラストに非常に良く似た顔を持つ女性が立っていた。
──あの女め! こんなところにいたか!
「覚悟!」
バルディオスは大声で叫ぶと同時に、右手人差し指に一杯の力を入れた。
4999年4月7日 04:31
シルクス帝国首都シルクス、6番街、北列2番倉庫内部
デニムとセントラーザは、倉庫内部にある扉の1つに注意を向けていた。だが、扉が唐突に蹴り開けられ、中にいた髭面の男性が「覚悟」と叫んでクロスボウを発射したことに反応することはできなかった。
バルディオス・グレディアの発射したボルトはデニム・イングラスの左胸に命中した。鈍い金属音が響き渡り、デニムの体が衝撃で床に倒れる。彼は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。ただ、左胸が痛みを訴えていた。
「大丈夫!?」セントラーザが中腰になってデニムを抱きかかえようとする。
「僕の……ことは……いいから……」デニムは痛みに喘ぎながら応える。
その様子を見たバルディオスは素早く2本目のボルトを発射した。だが、2本目のボルトはセントラーザが素早く掲げた鉄製のバックラーに阻まれ、彼らの命を奪うには至らなかった。しかし、ボルトはバックラーを貫通しており、バックラーの裏面に矢尻が突き出していた。セントラーザが怪我を負わずに済んだのは偶然の賜物である。
軽く舌打したバルディオスは続けて3本目のボルトを発射しようとした。だが、突然、倉庫の中に火薬の破裂音が響き渡り、その直後にバルディオスはクロスボウを地面に落としていた。髭面の男の右手首から激しく血が噴出し、壁と床を赤く染めていった。バルディオスは人間のものとは思えない悲鳴を上げ、デニム達と同様、床に座り込んだ。彼が《偏西風ライダー》号乗員の中で最後まで抵抗していた人物であり、彼が戦闘不能になったことにより、北列2番倉庫の戦いは終わりを迎えた。
しかし、今のセントラーザにとっては、眼前に倒れているデニムの容態が何よりも心配であった。彼女はボルトが刺さったままのバックラーを外して床に投げ捨てると、デニムを抱きかかえて叫んだ。「デニム! しっかりして!」
「……何が……あったんだ…………?」
デニムの質問の答えは意外なところから返ってきた。「イングラス事務官、フローズン巡査、大丈夫か?」
声の主は警視総監だった。その手には金属製の筒状の物体が握られており、一方の口からは煙が立ち昇っていた。世間一般には「銃」という名前で呼ばれている武器であったが、デニムとセントラーザがこの武器を見たのは初めてであった。しかし、そんなことは今の2人にはどうでも良いことであった。
「胸が……痛い…………」デニムは口を歪めながら答えた。
「全員逮捕しろ!」ティヴェンスは兵士達に命令してから、デニムの側に屈んだ。「大丈夫か!?」
「ねえ、しっかりして! お願いだから!」
「ああ……多分……大丈夫」デニムはセントラーザの助けを借りてゆっくりと上体を起こした。「痛みは少しずつ引いているし……これなら大丈夫だと思う……」
「ふう……死なずに済んだとはいえ、後一歩で大事になるところだったぞ」
「申し訳ありません」デニムは素直に謝った。
「でも良かった…………デニムが助かって……」セントラーザは涙を目に浮かべながら言った。
「ありがとう。しかし……どうして助かったんだろう……死んだと思ったのに……」
「とりあえず、この目障りな矢を抜こう」
警視総監はボルトに手を掛けると、力を入れて鉄製の矢を抜こうとした。だが、矢はティヴェンスが想像していたよりも簡単に抜けてしまった。そして、何よりも警視総監が驚いたのは、矢に付着していた血はごく僅かであり、別の色の液体がその代わりに付着していたことである。
「黒色の血? そんな馬鹿な……」警視総監は呟いた。
その言葉にセントラーザはすぐ反応した。「ねえ……あれのお陰じゃ……?」
「『あれのお陰』……って、何が?」
「……矢に付いてる黒色の液体、ペン用のインクのはずよ」
セントラーザの言葉の真意を理解したデニムは、隠密行動用として警視庁から支給されていた黒色の上着のポケットから金属製の物体を取り出した。その物体はボルトの直撃を受け、中央部にはギザギザの穴が残されていた。だが、この金属製の物体によってボルトの威力は大きく減らされ、デニムの肺や心臓を貫くことにはならず、持ち主の命を救うことになったのである。無論、この金属製の物体は護身を目的として作られたのではない。
「リデルさんが……」
デニムは金属製の物体の裏面を見た。そこには小さく「ペンケース/ボールドウィン装飾品店」と彫られていた。
4999年4月7日 04:39
シルクス帝国首都シルクス、7番街、ソレイル・ギスティム邸、応接間
バイロイト修道会元会長の逮捕作戦は呆気無いほど順調に進んでいた。逮捕する側の準備が良かったのか、それとも逮捕される側に心構えができていたのか、どちらの要因が大きかったのかは分からない。いずれにせよ、ニベル・カルナス達は一切の抵抗を受けずにギスティム邸に足を踏み入れ、主の待つ応接間まで通されたのである。
「ソレイル・ギスティム大司教ですな?」
カルナス警部補の声を聞いたギスティムは椅子からゆっくりと立ち上がった。そして、同じようにゆっくりとした動作で後ろを振り向いてから訊ねた。「何事かね?」
カルナス警部補は怒りを殺した声で宣言した。「あなたを訴権乱用の容疑で逮捕します。また、あなたに対しては、本日午前0時付けで免責特権の剥奪と破門が宣告されています」
「…………それだけかね?」ソレイル・ギスティムは不敵な笑みを浮かべた。
「ええ。残念ながら。しかし、それだけの罪でも、あなたを死刑台に送ることはできます」
「そなたのような若輩や、立場をわきまえぬ内務官僚にそれができるというのかね?」
「できる……いや、絶対にさせてみせます」カルナスは大司教に顔を近付けて言った。「あなたとその仲間の行為で、どれだけの人間が不幸になったのか、私は知っています。どれだけの人間が命を失ったのかも当然知っています。私の大切な部下の1人が、あなたの可愛がっていた馬鹿な飼い犬に殺されたのです」
「……不可抗力で発生した偶発的な事故に何を言うのかね? 私はその件については何ら法的責任を負わぬはずだ」
「そうかもしれませんがね、その他にも、フォーリー夫妻やカッセル姉妹なども命を落とさずに済んだはずです。彼らが命を落としたのは全部あなたの責任じゃないんですか? 全てはあんたがその穢れた口で命令されたことでしょう? そうじゃないんですか!?」
「……我が組織を守り我が神の教え──」
忍耐の限界を超えたカルナスは拳を固め、眼前のソレイル・ギスティムを殴り倒していた。
「あんたは聖職者として失格だと思ってたが……人間としても失格だ!」
4999年4月7日 05:07
シルクス帝国首都シルクス、5番街、内務省4階、内務大臣執務室
宰相兼内務大臣イシュタル・ナフカスは眠れない夜を過していた。警視庁などによる連続女性誘拐事件関係者の一斉検挙と、人質救出作戦の成否を知りたくてずっと待ち続けていた。今の彼女には心の中から応援を送ることしかできないことは承知していた。しかし、シルクス帝国の治安維持の責任者である彼女には、「今回の事件の幕引きに立会い、全てが解決するのを見届けるべきだ」という責任感があった。事件が解決するところをこの目で実際に確認しないと、書類上では事件が解決されたとしても、自分の心の中で決着を付けることは到底できなかった。
──もうすぐ40分……まだ出ないのかしら……。
彼女は濃い目の紅茶が入ったティーカップに口を付けた。午前1時に仮眠から覚めてから、何杯飲んだのか本人が覚えていない。
彼女がティーカップをソーサーの上に戻した時、執務室のドアをノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ」
挨拶して室内に現れたのは内務省の男性事務官であった。「報告致します。一連の作戦が全て完了致しました」
「首尾は?」
「負傷者7名を出しましたが、人質救出と犯人逮捕という目的は完全に達せられました。また、ランベス枢機卿の自宅の包囲も既に開始されています。追加で何か指示を出されますか?」
「とりあえず、作戦に携わった全ての人に『ありがとう』と伝えて下さい。今はそれだけです」
「承知致しました」
男性事務官が執務室から退出しドアが閉められる。宰相兼内務大臣は後ろを振り返り、もうすぐ夜明けを迎えるシルクスの街並みと帝城に目を向けた。そして、深々と溜息を吐く。人質達が全員無事に救出されたことは喜ぶべきであったが、作戦時にタンカード神殿から出された要求を飲まざるを得なかったことには不満を今でも隠せなかった。彼らが要求していたことは、犯罪事実の一部隠匿──タンカード神殿と連続女性誘拐事件の関係を闇に葬ることであった。シンジケートへの関与を認めていた警視庁職員やザール・シュレーダーらは「個人的に」シンジケートに関与したと扱われ、彼らとバイロイト修道解の関連は一切触れられないことになった。
バイロイト修道会に属していたソレイル・ギスティムとその取り巻き達が訴権乱用で裁かれた場合、彼らはほぼ間違い無く死刑台に送られることになるため、結果だけを見れば、罪に見合った罰が執行されることになる。しかし、イシュタルはこの処置に不満を抱いていた。彼女はタンカード神殿の犯した罪の全てを白日の元に晒すことが最善の策だと考えており、妹も彼女の意見に同調していた。正義の実現という意味でも望ましい結末であり、シルクス帝国の警察機構を混乱させたタンカード神殿に対する当然のペナルティーである──ナフカス姉妹はそう考えていた。しかし、犯人達の摘発にはタンカード神殿の助力が不可欠という現実の前に、姉妹の主張は却下されてしまうのであった。
──今回の事件……絶対に忘れないわ。どこかで借りは返してもらうわよ……。
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