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-本編(40) / -本編(42)

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4999年4月7日 12:07
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド2階、異端審問所書記室長専用仮眠室

 ラプラスはベッドの上に通信用クリスタルを置いてから古代語で命令した。
「起動」
 次の瞬間、クリスタルの中に別の部屋が映し出された。ラプラスにとっては見慣れた光景である。そして、10秒も経たないうちに、クリスタルの中に見慣れた男性が姿を現した。彼の名前ばジェノア・サーゲイト。デフルノール王国が生んだ若き天才言語学者で、40歳にもならない若さで、サロニアの六賢者の1人として名前を連ね、デフルノール王国の教育政策の最高責任者の地位にあった。美麗さからは程遠い顔立ちであったが、その表情や仕草には、地位と能力と責任に相応しいだけの風格と威厳が備わっているように感じられた。
「こちらはデフルノール王国文部尚書」
「ラプラスです。お久し振りでございます」
「おや、教授でしたか」クリスタルに写る男性の顔が綻ぶ。「最近、お仕事のほうはどうですか?」
「宗教学者として食っていくつもりでしたが、ひょんなことから異端審問所書記室長を拝命致しました」
「異端審問所……だとすると、エブラーナですか。あそこは魚が美味しい街ですから、酒好きの教授には天国のような場所でしょう?」
「確かに」ラプラスは微笑んだ。「引退したらこの街で暮らすことにしましょう。ただ、今は仕事のほうが忙しく、老後のことや晩酌の肴などを考える暇も無いですね。それに、仕事のことでちょっとした悩み事を抱えてしまったのです」
「もし、私でよろしければ、話して頂けませんか? 丁度、昼休み中ですし」
「ありがとうございます。この問題は閣下でなければ解決して頂けそうになかったものですから、非常に助かります」
「……して、御相談とは一体?」
 ラプラスは大きく息を吸ってから答えた。「1人の女性を貴国に受け入れてもらいたいのです」
 ジェノアの顔から笑みが消えた。「政治亡命ですか?」
「その答えは『はい』でもあり『いいえ』ですね。デフルノール外務省の書類では、政治亡命になるやも知れませんが」
「何か……ややこしそうな事情ですね」
「はい。単純に申し上げれば、我が国で、彼女はさる事情により宗教的迫害を受け、その生命が危機に晒されています」
「異端審問所の職員が『宗教的迫害』という言葉を使うのは、ちょっと奇妙ですね」
「まさにその『奇妙』という言葉が最も的確な状況なんです」
「なるほど……それでしたら、詳しいことを話して頂けませんか? そうでないと、私のほうも法務尚書に要請を出すことができません」
 ラプラスは返答に窮した。ここで事情を全て話せば、フォルティアの政治亡命はほぼ確実なものになるであろうと期待していたが、逆にタンカード神殿から「国家機密の漏洩だ」と訴えられるリスクを負うことになる。しかし、中途半端な説明で言葉を濁した場合、今度はフォルティアの政治亡命実現は遠のき、結果として彼女の命を危険に晒してしまうことになる。
 ──ひょっとして、陛下などは一連の事件の後始末の最後に、私の首を切ることもお考えでは……?
 ラプラスは頭の中に浮かんだ反逆的な意見を捨て去ろうと、微かに頭を左右に振った。
 ──そこまで非情ではあるまい。しかし、その疑いも考えねばならないのか……。
 こんな考えを抱くことになろうとは、彼は今まで夢想だにしなかった。「国家に対する忠誠心」という要素を抜きにしても、ラプラスはゲイリー・フォルト・テンペスタに対しては「才能に恵まれた政治家」として純粋な尊敬の眼差しを向けていたのである。しかし、今回の《7番街の楽園》の冤罪事件での皇帝やその周辺の対応を見て、帝都シルクスに対してどれだけの信頼を寄せたら良いのか、ラプラスには全く分からなくなっていた。一連のトラブルは全て、帝都シルクスの聖職者と政治家が引き起こしたものであり、ラプラスとマンフレート、キャサリン、エブラーナ盗賊ギルド、そしてシルクス警視庁の職員達が行ったことは、全て尻拭いに過ぎなかったとも言えるのである。無論、尻拭いに追われた側がいい気持ちを抱くことは滅多に無く、ラプラスは決して成人君子ではない。
 ──だとすると、情報を漏らすことになる亡命という選択肢は有用ではない。それでは、我が国の「恥」を相手に晒すだけではなく、国家機密に指定される連続女性誘拐事件の真相を漏らしてしまうことになる。これでは、彼女をデフルノール王国に極秘裏に渡航させる意味が全く無いし、私の命も危険に晒されてしまう。……くそっ、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんだ……。
 約30秒間悩んだ末に、ラプラスは結論を出した。「……失礼致しました。『亡命』という表現が不適切でしたね。正確には、我が国から渡ってくる女性の入国申請を許可して頂きたいということだけです」
 「亡命」という表現を捨てたことに、ジェノア・サーゲイトは訝しげな表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻った。「なるほど……」
「どうなのですか?」
「それならば、大丈夫です。シルクス帝国が作成された旅券が合法的であると証明されれば大丈夫です。我がデフルノール王国の国籍取得も、書類さえ合法的であれば、我が国は基本的に認める方針でいます」ジェノアは笑みを浮かべた。「この至極当然のことを確認される為に、教授はわざわざ通信用クリスタルで連絡を取ったわけですか?」
「結果的にはそうなりますか」ジェノアの皮肉を聞き、ラプラスは苦笑いを浮かべた。
「シルクス帝国で何が起きているのか、正確なところは私も存じ上げません。しかし、先程教授のお話にありました女性を、安全に我が国まで『避難』させたいとしても、サロニアに着くまでの道中の安全を、我々が保障することはできません。我々が責任を持てるのは、受け入れた後の身の安全──それも、他のデフルノール国民と同じ程度の安全の保障だけです。よろしいですね?」
「それはデフルノール王国の公式回答でしょうか?」ラプラスはジェノアに訊ねた。
「これは我が国の外国人受け入れ政策の基本事項であり、我が国の基本法にも明記されています。私はそれを『復唱』しているに過ぎません。……これでよろしいでしょうか?」
 ラプラスはこの言葉を「肯定」と解釈した。非常に遠回しな表現であるが、前後の文脈と合わせて考えれば、「適法な処理が行われれば大丈夫」と読み取れた。
「……分かりました。ありがとうございました」

4999年4月7日 12:30
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド、地下2階、フォルティア・クロザックの牢獄

 午後1時に予定されている昼食の前に、ささやかな昼寝の時間を取っていたフォルティアは、牢の外からの声で目を覚ました。
「フォルティア・クロザックさん?」
 彼女は状態を起こしシーツを脇に退けてから応えた。「……ええ。そうよ」
 声の主──女性は持っていた鍵で牢の扉を開け、中へ足を踏み入れた。室内に置かれていたマジックアイテムの小型ランタンが2人の顔を黄色く照らし出す。「はじめまして。異端審問所で裁判官をしておりますキャサリン・グリーノック……運命神ゾルトスの司教です」
 声を聞いたフォルティアは上体を起こした。「キャサリンさん……ああ、裁判官の中では1人だけ女性だったという……」
「はい。今はちょっとした混乱が続いておりまして、私が異端審問所の代表を務めております」キャサリンはそう言って、牢内に置かれていた木製の椅子に腰を下ろした。
「混乱……あの喧嘩ね。確か、あなたはあの場所にいなかったはずじゃ?」
「あの場所……特別尋問のことですか……」
「ええ」フォルティアは頷いた。
「私は実施に反対したのですが、結局は認められませんでした……」キャサリンは深々と頭を下げた。「ごめんなさい。あなたには本当に色々と迷惑をかけてしまった……。異端審問所のトップとして正式に謝罪します」
 フォルティアはゾルトス司教の姿を無言で見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。「お気持ちは分かるけど……でも……」
「でも……?」キャサリンは顔を上げた。
「あなたが謝っても解決にはならないと思う。……いや、あなたが悪いことをしたんじゃないというのは、弁護人の方達から聞いているの。『あの人達』に謝ってもらわないと意味が無いのよ」
「確かにその通りです。でも……、それは期待できないらしいわ」
 フォルティアは顔を曇らせた。「どういう意味? 何があるの?」
「実は、今後のあなたの『身の振り方』に関して、重大な相談事があります」
「重大? 私を処刑するの?」
 キャサリンは首を横に振った。「いいえ。あなたの無実は既に証明されています。シルクスでのあなたの行為も正当防衛だということになりそうです。ですから、法的にはあなたは自由の身になるはずなのです。しかし、実際には必ずしもそうならない……。ちょっと説明が長くなるけど、我慢してね。あと、口調も堅苦しいのは止めにするわ。(コホン)……実は、あなたがシルクスでした行為について、別の頃から重大な問題が提起されているの。あなたがシルクスで殺害した男性2人が連続女性失踪事件──誘拐事件の犯人だということは既に知ってると思うけど、その後の調査の結果、彼らはタンカード神殿の一派であるバイロイト修道会のメンバーであることが証明されたの」
「やはり……聖職者だったのね」
「ええ、そうよ。しかし、帝国政府の公式発表では、彼らと連続女性失踪事件との関連は伏せられることになりそう……」
「え? ちょっと待って。それじゃあ──」フォルティアは目を丸くした。
「個人として誘拐事件に関わっており、連続女性誘拐事件とバイロイト修道会の直接の関連は否定されることになる。ただ、バイロイト修道会には、皆さん6人を『誤って』逮捕したことの責任を取ってもらうわ」キャサリンは一旦口を閉じた後、小声で付け加えた。「結果は同じことになるけど」
「……誘拐事件の罪を認めないの?」
「公式発表では伏せる、というのが正確なところよ。内部文書はそのまま残ることになりそうだわ。そして、もう1つ厄介なことがあるの。帝国政府の一部にあなたの口が封じられる──それも永遠に封じられることを願っている人々が存在する可能性があって、その兆候を示す動きがいくつか観測されています」
「……またタンカード神殿?」
「多分ね」グリーノック司教は頷いた。「それで、異端審問所としては、表向きは帝国政府や有力宗派の意見に従わなければならない……。でも、事実関係から見るに、あなたを殺すだけの意味が無いし正当な理由も無い。だから、ややこしいことになっているの。それで、私達はとりあえずの『解決策』というものを用意したのだけど……聞いて下さる?」
「ええ。いいわ。聞くだけただだし」
「ありがとう。……単純に言えば、あなたに外国に移住してもらうの」
「移住?」
「政治亡命になるかただの移住になるかはまだ分からない。でも、1つだけはっきりしてるのは、あなたをシルクス帝国から脱出させ、他の国に移すこと。今のところはデフルノール王国への移住になりそうよ。ただし、シルクス帝国にあるあなたの戸籍は『死亡』ということで抹消され、あなたは全く新しい人生をデフルノール王国で始めることになるわ」
「私が『死ぬ』……?」予想外の提案を聞き、フォルティアはただ相槌を打つしかできなかった。
「戸籍上はね。こうすれば、あなたの首を欲しがっているタンカード神殿も納得しなければいけない。そして、あなたが移住するデフルノール王国には、タンカード神殿の人間は殆ど入っていないし、エブラーナ盗賊ギルドの人々やデフルノール王国の人々に守ってもらえるかもしれない。とにかく、あなたがデフルノール王国へ移るのだったら、私達は全力であなたをバックアップするわ。あなたを国外に逃がすことには、陛下もきっと納得して下さるはずだわ」ゲイリーがフォルティアの亡命を認めたという話に対して、キャサリンは未だに半信半疑であったが、ここは皇帝の意見──現実にはジスランとラプラスによる解釈──が真実であると信じるしかなかった。
「でも……どうして……」
「繰り返しになるけど、もう1回言うわ。シルクス帝国にこのまま残っていたとしても、あなたは身の危険と隣り合わせになるの。あなたは連続女性誘拐事件の真相を最もよく知る唯一の民間人であり、タンカード神殿があなたに対して恨みを抱くだけの理由は十分にあるのよ。本当なら、私達が頑張ってタンカード神殿に謝罪させるのが筋だということは、十分に理解しているつもりよ。でも、私は異端審問所のトップとして、国家の方針に従わなければならないの……悲しいことに」
「悪い命令にも従わないと駄目なの? 間違っていることを指摘して何が悪いの? それはあまりにおかしいわ」
 キャサリンはフォルティアの言葉に対し、沈痛な面持ちで応えた。「確かにそうだわ……。しかし、あなたを生かしたまま逃がそうとしているのは、私達なりのせめてもの『抵抗』なのよ」
「……でも、それって保身じゃないの? 露骨に逆らうのが恐いの?」
 フォルティアの言葉にキャサリンは激しい衝撃を受けた。眼前の女性を救出する為の行為が、結局は自分達の身を守る為の行為でしかないことを指摘され、返す言葉が見つからなかった。他の人物がこの言葉を聞いたら、フォルティア・クロザックの意見を「世間知らず」と一蹴することもできたが、キャサリンにはそれができなかった。
 ──確かに、保身かもしれない。でも、今の私達にこれ以上のことができるというの……? どうすれば……?
「…………」キャサリンは顔を伏せ、口を固く閉ざした。
「ご、ごめんなさい。なんか酷いことを言ってしまったみたい……」
「……別にいいわ」キャサリンの声は暗く沈んでいた。「実際、そうかもしれない。彼らとことを構え、自分の命を危険に晒すのが恐いだけなのかもしれない……。自分が他人の命と人生を狂わせていることを恐れているだけかもしれないわね……。それが仕事と割り切ることは私にはできなかった……。あなたを特別尋問から救い出そうとした時も、冷静な法律の解釈じゃなくて私情を優先させてしまった……。……やはり、私は裁判所の椅子に座るには相応しくない人間だったのかしら」最後には、彼女の言葉は自嘲になっていた。
「……私には分からない」フォルティアは間を空けてから応えた。「『保身』だなんてとても酷いことを言ってしまったようだけど、あなたは自分のできる範囲で精一杯の事をしてると思うわ。それなら、自分のしてることが正しいと思って、そうするしかないと思うけど……これじゃ全然フォローになってないわね……」
「……その言葉で十分よ。ありがとう」キャサリンは僅かに微笑んだが、すぐに真顔に戻った。「……とにかく、私達はあなたを安全に国外へ逃がす為には全力を尽くすわ。だから、私達の誘いに乗るかどうか、明日までに返答して頂戴。すぐに返答するのが大変だということは私も理解しているわ。でも、時間が無いの。旅券の偽造やタンカード神殿を騙す為の『作り話』を作る時間が欲しいから」
「……最後に、《7番街の楽園》の人達ともう1回会えるかしら?」
「ここにいる人達? それは大丈夫。必ず実現させるわ」
「……ええ、分かったわ。……また、明日来て……。その時に返答するから」
「ありがとう。じゃ、明日の昼にまた来るわ」
 キャサリンはそう言って立ち上がり、ベッドのフォルティアに背を向けた。そして、囚人には聞こえないほどの小声で呟いた。
「ラプラス教授……あなたはどうなの?」

4999年4月7日 18:50
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第2会議室

 連続女性誘拐事件の犯人達が逮捕されてから半日が経過していた。事件の首謀者とされる人々は全て黙秘を守っていたが、彼らの下で働いている者達の中には、司法取引を目当てにして、事件に関する情報を進んで自供する者が現れていた。彼らの自供によって、連続女性誘拐事件の顛末と、ダルザムール盗賊ギルドが運営し、バイロイト修道会がその運営を手助けしていた人身売買シンジケートの存在も、断片的でありながらもその姿を現しつつあった。事件の全容が解明されるのがいつのことになるかは誰にも分からなかったが、捜査が最終段階を迎えつつあることだけは誰もが実感することができた。
 そんな中、《ブルー・エルフ》女性従業員が「アーサー・フォン・ランベス大蔵大臣が連続女性誘拐事件の犯人と頻繁に密会を重ねていた」と証言したことは、シルクス警視庁と内務省、そして政府首脳部を大混乱に陥れた。ティヴェンス警視総監からの報告を受けたイシュタル・ナフカスは、午後2時に大蔵大臣を除く全閣僚を帝城に集め、ソレイル・ギスティムの後援者ということで自宅に軟禁されていたランベス卿の処遇を検討した。午後2時30分からはジョン及びゲイリー親子も出席する御前会議に移行する。その後、間食を取りながら続けられた激しい論議の末、会議は午後5時39分に終了し、その結果は直ちに警視総監にも報告された。そして、御前会議の結果は警視庁の命令指揮系統を伝わり、約80分遅れで最下層で働く捜査官達にも伝えられた。
「御前会議の結果が出た」連続女性失踪事件の捜査官達を集め、キロス・ラマンが報告を始めた。「4月8日付でアーサー・フォン・ランベス大蔵大臣はその任を解かれ、後任にはフェロヴィッチ・カリーニン副大臣が昇格することになる」
「あの……これだけですか?」デニムが訊ねる。
「一応はこれだけらしい」
 ラマンが口を閉じると、集まっていた捜査官達はざわめき立った。刑事訴追が行われるものと期待していた人間が多い中、ランベス枢機卿が取るのは政治的な責任だけである点が気に入らなかったのである。デニムの隣に立っていたサーレントは舌打ちして不満を露にした。
 ラマンは捜査官達の声がある程度収まるのを待ってから言った。「一応、付け加えておくが、ウィリアム・フローズン官房長は副大臣に昇格することになっている。フローズン巡査、家に帰ったら父上に『おめでとうございます』と伝えてくれ」
「ありがとうございます」セントラーザは軽く頭を下げた。「でも、私の父はあまり喜ばないでしょう。ついこの間も、他人の不幸によって昇格したばかりですし、その時にはとても沈痛な表情を浮かべていました。今回は枢機卿の自業自得ですけど、それでも喜ばないでしょうね」
「そうだな……。いや、『おめでとう』は不謹慎だったな。忘れてくれ」
「はい」
「しかし、刑事訴追になると思っていたのに……」巡査の1人が漏らした。
 ラマンは首を横に振った。「明白な証拠が見つかったわけではないからな。確かに、ランベス『前大臣』とバルディオス・グレディアが密会を重ねていたというのは事実のようだが、『それが法的に犯罪になるか』というと答えは否だ。密会していたという事実だけでは犯罪にならん。密会の最中に事件の相談をしてたのなら話は別だが、今はそれを証明するだけの手段が無い。それに、もう1つの犯罪である冤罪事件のほうも、『ソレイル・ギスティムの言葉に惑わされた』と抗弁することができる。逃げ道はしっかりと残されているのだ。……どちらにせよ、政治的・道義的な責任は負うことになるから、その責めを負ってもらおう……ということだ」
「だとしたら、枢機卿を逮捕する為には何が必要なんでしょう?」デニムが訊ねた。
「簡単だ」サーレントが答える。「奴が事件に関わっていたという証言だ」

4999年4月7日 19:17
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁地下1階、第3尋問室

 サーレントの言葉にあった「証言」は、誰もが考えていた以上に簡単に得ることができた。
「で、話してくれるんだな?」
 ニベル・カルナスの言葉に、シルクスで雇われた男性は頷いた。「ああ。俺が話したら、多少は罪も軽くなるんだろ?」
「まあ、話の内容次第だが、多少は考慮されるだろう。で、何があったんだ?」
「俺は倉庫と《偏西風ライダー》の見張りしかしてないんだ」
「それでは減刑は期待できんな」カルナス警部補は男性に顔を近付けた。「命を助けてやるか、それとも絞首刑に処すべきところを斬首刑に軽減してやるかしてやれたんだが……これでは無理だな。まあ、せいぜい、絞首台の上で命乞いをす──」
「本当だ! 信じてくれ! ……それで、何も大したことはしちゃいねえよ。ただ、俺は見ただけさ。ちょっとしたものをな」
「何を見たんだ?」男性の背後に立っていた巡査部長が訊ねる。
「いつだったか……確か3月21日だったと思うが、あの時、《偏西風ライダー》号に客が来て、ちょっとしたパーティーが開かれてたな。ボスは『試用会』とか訳の分からんことを言ってたが……。んで、そのパーティーに呼ばれてたのが、あんたらが問題にしてる男に似てたんだ」
 カルナス警部補は机の上に置かれていた羊皮紙のスクロール5巻を開いた。スクロールには男性の似顔絵のみが描かれており、その中の1枚がアーサー・フォン・ランベス、もう1枚がソレイル・ギスティムの似顔絵である。捜査の公平性を期す為、イラストには注釈が一切付けられていない。「ここに男性が5人いるんだが、どれが問題の客だったか思い出せるか?」
 男性は5枚のイラストを一瞥した後、迷うこと無くランベス枢機卿のイラストを指差した。「こいつだ。それと」次に彼はソレイル・ギスティムのイラストを指差した。「こいつも一緒だったぞ」
「相当な自信だな」巡査部長が言った。
「覚えてるから当然さ。何しろ、この客が結構無礼な奴で、船員や警備兵に横柄な態度を見せたり、ボスを困らすような無理難題を押し付けてたりしたんだ。船員が漏らした話じゃ、他人様には言えないような汚い言葉を吐いたりしていたからな。評判が良くなかったんで、ボスも『次からは船には呼ばん』とかんかんになって怒ってたし」
「しかし、それがどうしたと言うんだ?」カルナス警部補は思い付いた疑問をそのまま口にした。
「さあ、俺には──」
「ちょっと待って下さい」男性の証言を聞いていた巡査部長が口を開いた。「警部補、もうお忘れになったのですか?」
「忘れた? 何をだ?」
「カッセル姉妹のことですよ」巡査部長は冷静な声で答えた。「倉庫で殺されたのではないとすると、彼女達は《偏西風ライダー》号で、そのパーティーが行われていたとかいう時間帯に殺されたことになります」
 この言葉を聞き、カルナス警部補の顔は怒りの為に紅潮した。そして、握り固めた拳で容疑者の眼前の机を思いきり殴った。
「ランベスの野郎があの2人を殺したのか!」

4999年4月7日 21:00
シルクス帝国首都シルクス、帝城、皇帝ゲイリー1世の居間

 アーサー・フォン・ランベスがカッセル姉妹の殺害に関与していたという情報は、約1時間30分後に、シルクス皇帝ゲイリー・フォルト・テンペスタの元へ届けられた。
 メイドから繊維紙の報告書を受け取ったゲイリーは、中身を見て小さく頷いた。「やはりな」
「やはり……?」隣に腰を下ろしていたリュミアが訊ねる。
「御前会議で届いた報告を聞いて『もしや』と思っていたから、今更驚くことでもあるまい。驚きと怒りの為のエネルギーは御前会議で使ってしまったからな。それに、ランベス卿とソレイル・ギスティムの密接な関係は知られた話だ。バイロイト修道会が何をしていたのか、全く知らなかったわけではあるまい」
「そうですね……。だとすると、どうされます?」
「枢機卿の処遇か……。事実だとすると、絞首刑か火刑になるな。嘘だとしても、そのようなスキャンダルを招いた責任を取って、政権から追い出されることになる。ただ、これは事件の全てを明かした時のことだ」
「ええ」皇后は皇帝の言葉に頷いた。「今のところは、秘密になさるんでしょう? 何故、全てを明かさないのです?」
「確かにそうだ。解決策としては単純明瞭であり、正義の実現という点では、この方が望ましいことは言うまでも無い。しかし、今の我が国で、事実を明かすことによる利益と、事実を明かさないことによる利益とを比べたら、余はどうしても後者に軍配を上げざるを得ない」
「どうしてですの?」
「建国後間も無い我が国には、国家を束ねる為の『装置』だけではなく『象徴』も必要だ。余が国家と国民の守護者たる態度を示し、国民の臣従と支持を得るべきであることは言うまでも無いが、今の我が国では、それだけでは不十分だ。まだ、数多くの国民が余とシルクス帝国だけではなく、これまでシルクスを支配してきたテンペスタ家とルディス家、そしてタンカード神殿とバソリー神殿を心の拠所としている。……もしも、そのタンカード神殿が、人間の法に照らしても神の法に照らしても決して許されぬような大罪を犯したと知ったら、果たして何とする? 神殿に対する信頼と支持は失われ、皇室の権威も傷付けられることにはなるまいか? それに、余はタンカード様に仕える枢機卿であるし、我が父は帝国最大の封建領主。その意向に正面から抗い、建国直後の国内に余計な波風を立たせたくないのだ」
「確かにそうかもしれません。しかし、過ちを素直に認め、その罪を悔いるという真摯な姿勢を示すことで、情報公開に伴う国民感情の悪化は十分に防げるのではないかと存じます。たとえ、どのように偉い者であったとしても、罪による罰は免れないという法治の原則を示すことによって、新国家たるシルクス帝国の方針を──」
「新方針を示し、旧リマリック帝国の旧弊を一新する、か?」ゲイリーはリュミアの言葉を継いで言った。
「はい。その通りです」
「それが理想だということは承知している。しかし、理想を実践するには、まだ我が国には不安定要因が多過ぎる。エブラーナ盗賊ギルド長の祖国であるダウ王国では、去年の秋にエブラーナ盗賊ギルド長の兄上が新国王に即位されたそうだが、不安定な国内をまとめ、過去のダウ王国で行われてきた悪弊を取り除こうとして、かなり強引な政治改革が推し進められている。その結果がどのようなものであるか、リュミアも知らぬわけではあるまい? エブラーナ盗賊ギルドからの報告は聞いているはずだ」
「…………」
 ルテナエア事件以前まで、ダウ王国では、貴族達を「政治貴族」と「軍事貴族」の2つに分け、内政部門と軍事部門が明確に分離している体制が維持されていた。これは分業化によるプロフェッショナル集団の育成という点では効果があったものの、セクショナリズムの横行や2集団間の主導権争いという弊害を引き起こしていた。また、内政部門を統括していた政治貴族達と商人達との間には、構造的な癒着が発生しており、贈収賄は日常のルーチンワークの一部と化していたのである。この異常な事態を憂えた現在のダウ国王は、即位から1年も経たないうちに、腐敗した政治貴族に対する大規模な弾圧を展開し、軍事貴族を内政にも積極的に参加させるという大改革を強行していた。農民や下級市民、軍事貴族達からは圧倒的な支持を持って迎え入れられていたダウ王国の大改革であるが、既得権益を失うことになる都市の商人や富裕層、そして罪も無いのに差別的待遇を受けることになった「真面目な」政治貴族からの評判はすこぶる悪い。ダウに派遣されているエブラーナ盗賊ギルドの要員は、「深刻な社会対立が進行中。内乱が発生する可能性あり」と繰り返し警告を発していた。
 今のシルクス帝国でも、ダウ王国と同様、守旧派と改革派──タンカード神殿や昔からの封建領主達とリマリック帝国大学出身者──との対立が発生している。ゲイリーが中立を堅持していたのも、急激な政治改革が社会不安を煽ることになったダウ王国の「反省」があってのことであった。両派の微妙なバランスを維持し、シルクス帝国を無用の混乱から守る為には、正論であったとしても却下すべきことがある──ゲイリーはそのような信念で政治に望んでいた。
「ただし、罪に対する罰は与える。それは絶対の方針として堅持する。与え方において、通常と異なる規則を適用するだけのことだ」
「そうですか……御意のままに」
 改革派に属するリュミアにとっては、社会正義を実現させ法秩序を維持する為だけではなく、守旧派とタンカード神殿に対してダメージを与える為にも、事件の情報を全て開示するのが望ましいと考えていた。そのため、ゲイリーの返答には失望を感じざるを得なかったが、犯人達に対して罰は必ず与えられるということで満足するしかなかった。
「……では、前大蔵大臣はどうされますか?」
「ランベス卿は我が国に害を為したが益も為してきた。せめて、縄目の恥辱を免れるだけの名誉は与えてやらねば。それに、事実を隠匿したままとなれば……あの『方法』で退場してもらうしかあるまい」

4999年4月8日 11:45
シルクス帝国領エブラーナ、エブラーナ盗賊ギルド、地下2階、フォルティア・クロザックの牢獄

「……それで、どうするの?」
 キャサリンの質問に、フォルティアは小声で答えた。「……受けることにしたわ」
「ええ……分かったわ。それなら、早速準備が必要ね」
「……理由は聞かないの?」フォルティアは怪訝そうに訊ねた。
「そうね……ちょっと、食事会の準備とか、無罪の判決文作りとかが忙しかったから、そこまで頭が回らなかったわ」
「理由と言える程のものは無いのかもしれない……。でも、シルクスとエブラーナに身寄りが殆どいないのは確かだし、こんな牢屋の中で死んだり、暗殺者の影に怯えて生きたりするのには耐えられそうにないし……。単に、ここで死ぬのが嫌なだけなのかな」
「立派な理由じゃないの」キャサリンは微笑んだ。「じゃあ、今から準備があるから、今はこれで失礼するわ」
「この後、どうなるの?」
「午後3時に判決を出すことになってるの。その後、6人の方には食堂に集まってもらって食事会を行うことになってるわ。で、食事会が終わってから、深夜にエブラーナを離れる船に乗ってもらうわ。後片付けは全て私達の責任で行うから心配しないで。あなたはちゃんとサロニアまで届けるわよ」
「ええ」
「じゃあ、また後で──」
 キャサリンがフォルティアに背を向けようとした時、牢の出入り口に盗賊ギルドの男性職員が姿を見せた。「グリーノック司教」
「ええ。何か?」
「シルクスからの連絡です」彼はキャサリンの耳元に口を寄せ、小声で用件を伝えた。
 キャサリンは軽く溜息を吐いた後、フォルティアに背を向けたまま言った。「もう1つあるわ」
「何?」
「連続女性誘拐事件の首謀者が『処刑』されたわ」

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