-

-本編(42) / -後書き

-

エピローグ

-

4999年4月11日 17:30
シルクス帝国首都シルクス、1番街、大蔵省4階、大蔵副大臣執務室

 4月8日にアーサー・フォン・ランベスが自殺したことにより、大蔵省上層部では再度人事異動が行われた。大蔵副大臣だったフェロヴィッチ・カリーニンは大蔵大臣に就任し、官房長だったウィリアム・フローズンは副大臣に就任した。大蔵省では、守旧派と改革派による派閥対立が危惧されていたが、改革派からも人望を集めていた守旧派のカリーニンと、中立派グループの頭目であったウィリアムがトップ2を占めることにより、両派の派閥対立は沈静化に向かいつつあった。
 新しい地位に就いた2人が最初にしなければならなかったのは、各省庁からお祝いに駆け付ける官僚達との応接であった。その中には、連続女性誘拐事件の解決で協力し合ったシルヴァイル・ブロスティンの姿もあった。
「官房長の椅子に座っていたのは僅か10日間、ということですか」
「ええ。こんなにも早く出世してしまうとは夢想だにしませんでしたな」
 2人は副大臣執務室に置かれた応接用のソファに腰を下ろし、紅茶を飲みながら談笑していた。ブロスティン課長が最後の客であり、ウィリアムは既に仕事が終わったような気分なっていた。
「しかし……出世がいずれも訃報によってもたらされたというのは、良い気分ではないでしょう?」
「そうですね」ブロスティンの言葉にウィリアムは頷いた。「シュレーダー卿は息子と一族の将来を悲観して自殺、ランベス卿はソレイル・ギスティムの不祥事に連座する形で自殺を命じられた……っと、皇帝陛下から自殺の命令があったことは内緒ですぞ」
「承知しております。他にも、私達には秘密にすべきことがありますし」
「その通り」
「ふう……それにしても、あの事件は後味が悪いですね。女性達は助けられたけど、2人は監禁されている間に殺されてしまったし、残る女性達についても、自宅に戻される前、内務省の高官から事件についての『奨励問答集』を教えられていました。それから、これは救出作戦の時にスレイディー警部補から伺った話ですが、連続女性誘拐事件の現場を目撃した女性が、異端者だという濡れ衣を着せられて逮捕された騒ぎがあったそうですね。……そちらはどうなったんです?」
「昨日の御前会議で内務大臣から説明がありました。エブラーナで自殺したそうです」ウィリアムは真実を知らされていなかった。
「そうですか……それはお気の毒なことです」ブロスティンは紅茶を一口飲んでから会話を再開させた。「明るい話題といえば……閣下の御息女の事ぐらいですか。結婚式はいつ挙げられるんです?」
「ちょっとお待ち下さい。まだ決まったわけではないのですぞ。まだ、イングラス事務官の両親に話をしていない以上、そこまで仰るのは──」
「なるほど。閣下は御息女の結婚をお認めになるのですね」
 ウィリアムは顔を真っ赤にさせた。「いや……まあ、彼なら娘を任せられそうですし…………と、それよりも、近いうちにもっと大事なことがあるでしょう?」
「逃げましたね」ブロスティンはにやりと笑った。「それは良いとして……近いうちというと……双竜旗報労章の授与式ですか。シルクス帝国では2番目に位の高い勲章とされていますが、それを私のような人間に下さるとは、思いもよりませんでした」
「陛下は事件の解決に直接貢献された者全てに授与されるおつもりです。私だけではなく娘も頂くことになりました。ありがたいことです」
 双竜旗報労章をもらうことになったのは、デニム、セントラーザ、ウィリアム、シルヴァイル・ブロスティン、ナターシャ・ノブゴロド、セリス・キーシングの合計6人だった。受賞者リストの中には、サーレント、カルナス警部補、ラマン秘書官、ティヴェンス警視総監、デスリム・フォン・ラプラス、マンフレート・セルシュ・ブレーメン、キャサリン・グリーノックの名前も含まれていたが、彼らはそれぞれ理由を申し立てて受賞を辞退していた。特に、異端審問所の3人が異口同音に「タンカード神殿に対する道義的責任が明確にされていない」と辞退理由を述べ、帝都シルクスでは小さな波紋が広がっていた。
「授与式は明後日でしたね」ブロスティンが言った。
「ええ。礼服をタンスの奥から出さねばなりますまい」
「もう戻していたのですか。それは何と気の早い……」
「さすがに、これ以上の人事異動は無いと思いましたのでね」

4999年4月12日 17:17
シルクス帝国首都シルクス、2番街、シルクス警視庁1階

「デニム、今日は何か用事でも入ってるの?」
「いや、特に何も無いよ」デニムはセントラーザの質問に応えた。
「それなら丁度良かった。一緒に買い物付き合ってくれない?」
「買い物?」
「そう」セントラーザは頷いた。「明日の双竜旗報労章の授与式に着ていく服はあるけど、それに似合うようなアクセサリが無かったの。だから、帰り掛けに買って帰ろうと思ってたけど……いいかしら?」
「ああ。別に構わないよ」
 2人は腕を組んだまま警視庁を出て、東大通りへ向かった。
「授与式か……サーレントさん達は辞退したそうだね」デニムは前を向いたまま言った。
「ええ。私が聞いた話じゃ、サーレントさんとカルナスさん、事件が終わった後、本気で警視庁を辞めようとしていたらしいの。ラマン秘書官から慰留され思い止まったけど、今度はそのラマンさんと警視総監が辞意を漏らしてたらしいわ。事件を素早く解決できず、カッセル姉妹とリデルを死なせてしまった責任を取るつもりだったわ。こっちも慰留されたらしいけど」
「責任か……それを言い出したら僕達も──」
「それを言い出したらきりが無いわ」セントラーザはデニムの言葉を遮った。「確かに責任はあるかもしれない。でも、今の私達にできる──しなきゃならないのは、この事件の教訓を生かして、次の事件の解決をより早く、確実にすることだけ。いくら責任を取ったって、それが次の事件に生かされなかったら、全く意味が無いのよ。お偉方もそれは理解してるようだし」
 今回の連続女性誘拐事件の教訓を生かす為、4月15日にシルクス警視庁と内務省の合同研究班が発足することになっていた。キロス・ラマン秘書官が座長を務め、現場捜査官を代表する形でニベル・カルナス警部補も列席することになっていたこの研究班では、連続女性誘拐事件の捜査中に浮上した様々な問題──職員の綱紀粛正、作戦行動時の連携、他機関との協力関係など──を研究し、4999年中に警視庁の捜査能力を向上させる為の施策をまとめることになっていた。
 一方、これとは別に、内務省とシルクス魔術師ギルドによる調査チームが4月10日に設置され、橙系統呪文によって得られた情報を証拠として認めるべきかどうかの論議が行われていた。警視庁や魔術師ギルドは橙系統呪文の導入に積極的であったが、イシュタル・ナフカスをはじめとする法学者達の多数は橙系統呪文の捜査導入に今でも反対しており、結論がどうなるかは全く不透明であった。
「次の事件か……」デニムは夕暮れの空を見上げて呟いた。「そういえば、次からは僕とサーレントさんも捜査官になるんだったな。サーレントさんは『正式に現場復帰だ』と言って喜んでたけど」
「ということは、次からも3人で一緒に活躍できるわけね」
「多分ね。僕が内務省に戻るまで──来年の秋まではずっと一緒のはずさ」
「良かった」セントラーザはデニムの腕に抱き付いた。「でも……来年の秋までとは言わず、これからずっと一緒に居続けられるといいなあ……。もし、デニムのほうさえ良かったら、私はもうその気なんだけど……」
「『これからずっと』……」デニムにセントラーザの言葉を繰り返した。
「そう。……デニムはどうなの?」
 デニムは小さく深呼吸してから答えた。「僕もそのつもりだよ」

4999年4月13日 15:01
テンバーン王国首都テングラー、国防省5階、参謀総長執務室

「つまり、どういうことかね?」[老師]が[黄色の魔術師]に訊ねた。
「シルクス帝国におけるナディール教団の活動が困難な時期を迎えている、ということです。今まで非効率的だった異端審問所の組織ですが、ゲイリー1世がその組織改革に着手する模様です。今まで聖と俗の関係が曖昧だったのを、一連の事件が解決したのを機に、異端審問所の権限を全て俗の側に委ねるつもりなのでしょう」
「制裁じゃな」[老師]は机を指で叩きながら応えた。
「はい。また、エブラーナにおける我が教団の組織が壊滅したため、エブラーナでの情報収集活動が困難になっております。我が教団が受けた打撃も大きく、重要幹部の1人であったザナッグ・ドーストン殿のお命までもが奪われる結果となりました。これには、我が教団の──」
 [老師]は首を横に振って[黄色の魔術師]の愚痴を止めさせた。「ナディール教団の内部事情には興味が無い。わしが興味を抱いているのは、我がテンバーン王国国防省が持つスパイ網に対する被害のほうじゃ。それはどうなのかね?」
「……大丈夫だと思われます」[黄色の魔術師]はナディール教団の受けた被害に目を奪われていたため、国防省のスパイ網についての情報は詳しく覚えていなかった。「ただし、国内にある我が国の大使館や領事館、それに我が国に国籍を持つ企業に対して監視が付けられるようになりました。今までよりも、活動がしにくくなるでしょう」
「ならば、早急に対応策を立て給え。それが国防省情報室長たる貴官の役目じゃ」
「はっ。では、失礼致します」
 [黄色の魔術師]が退出した後、[老師]──テンバーン王国軍参謀総長は背もたれに体を預け、目を閉じた。
 ──リマリック帝国と比べれば、人材の質は上がっておるようじゃな……。
 今から約500年に建国されたテンバーン王国は、様々な意味で南のリマリック帝国──今のシルクス帝国と好対照であった。南は魔法文明の先進国であるのに対し、テンバーン王国は科学技術の振興に力を入れていた。リマリック帝国では封建制度がしっかりと根付いているのに対し、テンバーンでは国王を頂点とした官僚機構による中央集権体制が敷かれている。また、シルクス帝国などで展開されている異端審問制度もテンバーンには存在せず、宗教面における寛容さが保障されていた。一方、テンバーン王国では4722年に議会が設置され、かつて都市国家ウルクで失敗に終わった民主制が部分的に運用されていた。
 正反対に近い統治理念と性格を持つ2つの国家は、事ある毎に国境紛争を繰り返していた。昨年のルテナエア事件を含め、両国の戦争は合計で17回を数えていた。テンバーン王国軍の制服組のトップである[老師]も、第16回目の戦争(4966年10月24日〜4972年9月14日)に従軍し、華々しい戦果を残している。彼にとって、南から北を虎視眈々と狙うリマリック帝国は脅威以外の何物でもなく、4998年9月21日に建国されたシルクス帝国も、リマリック帝国の同類と見ることしかできなかった。リマリック帝国──そしてシルクス帝国との「闘い」は、彼の人生の半分以上を占めていた。
 ──所詮はナディール教徒……。専門技術を身に付けた軍の諜報機関とは違い、すぐに見つかってしもうたな。まあ、これは予想通りの結末じゃろう。連中は手頃な「尻尾」であったことだしな……。
 摘発されたナディール教団という存在は、[老師]にとっては使い勝手の良いスパイ組織に過ぎなかった。彼にとっては、ナディール・ラント・インダールの生死も、彼女が掲げていた平等思想も全く意味が無かった。テンバーン王国や同君王国の制御下にあって、シルクス帝国でスパイ組織として活動し続けることだけが、[老師]にとっては意味のある重要な事柄であった。しかし、一方では、素人集団に毛が生えた程度の実力しか持たない教団に対して、[老師]はさほど大きな期待を寄せていなかった。デスリム・フォン・ラプラスという宗教学者によって、シルクス帝国におけるナディール教団の組織には打撃が加えられたが、[老師]には大したダメージとなっていなかった。国防省の抱える別のスパイ組織は今もなお健在であり、彼らが生き残っている限り、[老師]はシルクス帝国の内部情報を比較的自由に集めることができたのである。
「連中もこれで終わりだとは思っておるまい」[老師]はしわがれた声で呟いた。「引退までの楽しみができたようじゃな……」

4999年5月5日 22:44
シルクス帝国領エブラーナ、内務省エブラーナ局長官舎、ダイニングルーム

「それで、どうなったの?」キャサリン・グリーノックが訊ねる。
「6割方、私の言う通りになった」ラプラスはそう言って、テーブルの上に盛られた生鯛と大根のサラダにフォークを伸ばした。そして、自分の皿に盛り付けながら言葉を続けた。「キャシーが下したナディール教徒に対する死刑判決が、神官による判決の最後になった。異端審問所の運営は全て内務省の管理下に置かれることになり、各神殿による不当な介入は完全に排除されることになる。異端審問所の仕事は初審裁判所と捜査機関への協力に限定され、必要に応じて控訴も認められるようになった。書類の上では他の裁判所と全く変わらなくなったわけだ。これで、警察官が全く別種類の起訴状を作る為に悪戦苦闘する必要も無くなった。提出先だけを変えればそれで済むからな」
「中々の戦果じゃないの」キャサリンは白ワインを口に含んだ。
「上手くいけば、異端審問所から裁判機能を全て取り上げることができるかもしれん。そうなったら、我々も異端者に対する研究と調査・分析に専念できるからな。……あと、そうだ。キャシーが異端審問所を正式に退く5月16日からは、内務省エブラーナ局長が異端審問所の所長となり、所長が異端者達に対する取調べと裁判を指揮することになる。ただ、今のエブラーナ局長は異端審問が嫌いらしく、私に対して異端審問所の運営に関する全権委任状を作ってしまっている。私も現物を見た」
「じゃあ、今からは教授が異端審問所のリーダーになるわけ?」
「そういうことになるらしい」ラプラスは頷いた。「帝都シルクスに問い合わせてみたんだが、内務大臣も全権委任状の行使をそのまま認めてしまうつもりらしい。どうも、あの人は『褒賞人事』ということで、私に異端審問所を全て任せてしまうつもりらしい。陛下もお認めになっているようだ」
「しかし、ちょっと上手く行き過ぎじゃないのかしら?」
「ジョン様と大喧嘩した後、すぐに皇帝陛下に話を持ち込んだのが効を奏したらしい。内務省をはじめとする帝都シルクスの官僚達の多くが賛成してくれたこともありがたかったな。何しろ、いつもは守旧派の肩ばかりを持っている外務省でさえ、私の提案には諸手を挙げて賛成してくれたんだ。タンカード神殿とバソリー神殿は文句を言ってたが、彼らが今回の大混乱の原因を作り出した『張本人』だし、文句を言ってもらっても陛下は耳をお貸しにならなかったな」ラプラスはそう言って生鯛のサラダを口に運んだ。
「フォルティア・クロザックの一件で、タンカード神殿は借りを作ったと御判断なさったのでしょう」マンフレートが言った。
「一連の事件で逮捕された人々の裁判も始まったし、帝都シルクスでの混乱はこれで収まりつつある。しかし、今度はダルザムール帝国と我が国の間で別の問題が浮上している」
「何なの?」
「人身売買と奴隷貿易に関する問題だ。エルドール大陸の各国とエルドール海諸国の間では、奴隷貿易は御法度という暗黙の了解ができているのだが、ダルザムール大陸では奴隷貿易が行われている。ダルザムール帝国は奴隷貿易を禁止しているが、それも表面的なものであり、黙認されているのが現状なんだ。だから、バイロイト修道会によって連れ去られたシルクスの人々のうち100人近くが、労役もしくは観賞用の奴隷──」
「『鑑賞用』?」キャサリンが訊ねた。
「『性的目的』の隠語だ」ラプラスは小声で応えた。キャサリンは顔をしかめたが、ラプラスはそのまま説明を再開した。「で、ダルザムール帝国では、バイロイト修道会の手引きで渡航した我が国の人間のうち100人近くが、奴隷にされたらしく行方不明になっている。しかし、ダルザムール帝国は彼らを捜索しようとはしていないんだ。奴隷売買が立派なビジネスとして成立している地域だから、『外国政府が余計な口出しをしている』と感じて、嫌悪感を露にしているんだ」
「ひどい話ね」
「その通りですよ」マンフレートは頷いた。「ナディール教団の問題では我が国と対立関係にあるテンバーン王国も、ダルザムール大陸の人身売買については、我が国と共同歩調をとって交渉をサポートしてくれています。ですが、ダルザムール帝国の役人達は、自分達の同盟国であるテンバーン王国からの忠告にも耳を貸そうとしていないんです」
「これが解決しないと、事件の全てが解決したことにはならないわね」
「そうだろうな……多分。バソリー神殿のスーザ様も似たようなことを仰っていたらしいな」
「……事件はとりあえず解決したけど、明るい話は聞けないわね」キャサリンが溜息混じりに言った。「無駄というかトラブルばかりの2ヶ月だったわ。色々と勉強はさせてもらえたけど、良い思い出になるかと言うと……答えは多分『否』になるのよね……」
「結局、キャシーには散々迷惑を掛けてしまったな……」
「それは別に構わないわ。でも、後味が良くないことには変わらないわ」
「……そうだ。後味が少しは良くなるかもしれない知らせがあります」マンフレートが言った。
「どうしたの?」
「デフルノール王国から連絡なんですが、『セレイラ・フォーチューン』さんの入国と国籍取得が認められました。これで、フォルティア・クロザックさんの当面の『安全』は確保されたことになります」
 キャサリン・グリーノックは寂しげな微笑を浮かべた。「これで安心して辞められるわね」

4999年5月6日 09:03
シルクス帝国首都シルクス、8番街、ジョセフ・キーシング邸

 ナターシャ・ノブゴロドはドアをノックした。「おはようございます」
 約10秒の間を空けてからドアが開く。ドアの隙間からはアルティア・キーシング──セリス・キーシングの母親が少しだけ顔を覗かせていたが、相手がナターシャであることを確認すると、ドアを大きく開け髪を浮かべながらナターシャを迎え入れた。娘がいなくなっていた間は憔悴していた彼女であったが、娘が無事に返ってきた今では、今まで通りの明るさと元気を取り戻していた。「ナターシャさん、お久し振りですわ」
「朝から押し掛けてしまって申し訳ありません。事件から時間が経ちますけど、セリスちゃんがあの後どうなったのか、一緒にいた者として、どうしても気になったものでして」
「そんなことありませんわ。娘の命の恩人ですもの。あなただったら大歓迎ですわ」
「ありがとうございます」
「最近は何をしておられるんですか?」
「今は《火山灰カクテル》に戻って、今まで通り元気に働いてます。退屈な毎日かもしれませんけど、それがやっぱりいいですね。あんな事件はもう御免です」ナターシャは微笑んだ。「セリスちゃんのほうはどうですか?」
「元気ですわ。何か、誘拐される前よりも元気になって戻って来たみたいですわ。娘から聞いた話では、あなたが娘のことを色々と世話してくれたそうですわね。本当に何と言って良いやら……」
「そんな大した事してませんよ」ナターシャは謙遜して言った。「退屈そうにしていたセリスちゃんの話し相手になっていただけです」
「それでもあの娘はとっても嬉しかったようですわ。病気がちで喘息持ちだったから、お友達があまり多くありませんでしたの。話し相手になってくださっただけでもとてもありがたいことですわ」
「そうですか……」
「あまり大きな声じゃ聞けませんけど……」アルティアは声を落とした。「私の娘が双竜旗報労章を頂いたのは、何かの間違いじゃないのでしょうか? 娘は『陛下に会えた』と言ってとても喜んでいましたが、私共には、娘が勲章をもらうほどの大きな事をしてのけたとは思えないのですが……」
「そんなことありません」ナターシャは手を振って母親の言葉を否定した。「セリスちゃんが喘息の演技をしてくれたおかげで、警視庁の人々に監禁されていた場所を教えることができたんです。セリスちゃんがしたこと自体は決して危険なものじゃなかったんですけど、そのお陰で事件が無事に解決したんです。セリスちゃんは勲章をもらうに値するだけの事はしっかりとされたんですよ」
 ──演技指導は私がしたの。だから、私も勲章をもらえたんだけどね。
 ナターシャは心の中で付け加えた。
「そうでしたか……あ、そうだわ」アルティアはいつもの声に戻った。「せっかく来て下さったんだし、今から一緒に行きませんか?」
「一緒に……って、どこへですか?」
「ピクニックですの。娘が無事に戻って来たので、そのお祝いということでそろそろ行こうとしていたのですが、どうされます?」
「ええ。是非御一緒に──」
 ナターシャが答えている途中、建物の中から聞き慣れた声が聞こえてきた。「ねえ、お母様! 早く行こうよ!」
 アルティアは建物の中を振り返って答えた。「今、ナターシャさんが来てるの」
「え? 本当?」
 建物の奥から足音が聞こえてくる。そして、アルティア・キーシングのすぐ脇に、ナターシャには見慣れた顔の少女が現れた。「あ、ナターシャお姉様!」
「セリスちゃん! 元気にしてた?」
「うん!」セリスは母親の脇を抜けて、ナターシャに抱き付いた。
「元気になったわね」喘息が完治したわけではないが、セリスの口調や表情に明るさが戻っていたことだけでも、ナターシャには十分過ぎるほど嬉しいことであった。「それよりも、今からピクニックなの。一緒に行かない?」
 セリス・キーシングは満面の笑みを湛えて答えた。「うん!」


End

-

『異端審問所の記録』目次 / 登場人物一覧
-本編(42) / -後書き


-

-玄関(トップページ)   -開架書庫・入口(小説一覧)