エヴェリーナ・ミュンスター
Evelina Munster
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開戦まで: カルスケート在住の貿易商の長女。 貿易商は兄が相続することが分かっていたため、自由奔放な生活を送っていた。 カルスゲートの国立大学で政治学と法律を学んだ後、地元選出の評議会委員の秘書として就職する。 ところが、1249年早春にその評議会議員が心臓病の発作で急死してしまい、 政策秘書だった彼女が代役として補欠選挙に急遽出馬、相手候補のスキャンダルにも助けられ当選してしまう。 評議会では病死した前委員と同じバックス議長の会派に属していたが、 初登院直後にバックス議長失脚というアクシデントに見舞われ、無所属となる。 以後、彼女は評議会内で国防や諜報活動を担当する各委員会で活動、そこで政治家としての才能を開花させた。 1252年に、ラヴェリアらの推薦を受けて評議会内の情報活動委員会副委員長に就任、 名誉職と化している委員長に代わり、ガルデス共和国の諜報活動を指揮する日々を送るようになる。 その特殊な仕事故、ゴゥドなど警察機関に顔の利く委員との親交もある。 趣味はマジック。 大学時代は学内のマジックサークルに入り、多彩なマジックを身に付けた。 本人が最も得意としているのはテーブルマジックだったが、女性部員が少なかったサークルの部長(当時)の依頼で、 危険なエスケープマジックに挑戦したことも決して少なくない。 (そのため、いつの間にやら縄抜けの技術が身に付いたようだ) 当時の衣装をそのまま羽織って公務をこなすことも珍しくないそうな。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
開戦後: 1253年から発生したラグライナ帝国との戦いでは、主に大陸各国の情報収集と共和国の後方支援活動に関与。 だが、フェルグリアの戦いで帝国軍の捕虜となった彼女は、 その手腕と実力に対して警戒感を抱いていたエル・ローレライナの手によって帝都ラグライナに移送され、 1年以上もの間、帝国での軟禁生活を余儀無くされる。 1257年に帰国後、前任者の処刑によって空席となっていた情報活動委員会委員長に就任。 また、同年にカオス・コントンと結婚を果たしている。 1258年、ラグライナ帝国の内部分裂を発端に発生した大乱の最中、 彼女は共和国のスパイマスターとして辣腕を振うものの、同年第9周期に発生したゴゥド・ゲーテの反乱の際、 反乱に同調することを拒否したことが原因でレディスと共に幽閉されてしまう。 同年中に救出されたエヴェリーナではあったが、幽閉中に受けた拷問が原因で体調を崩し、 委員長職をオズワルド・ベステロスに譲ると本人は評議会議員職を辞し政界から身を退く。 政界から身を退いていた1260年第3周期、エヴェリーナは双子アリアとカールを出産。 また、この時期から彼女は歴史研究に本格的に乗り出し、1262年第7周期に論文『コーリア王国滅亡に関する諸分析』を公表した。 1268年からは連邦政府の招聘を受けてグラディエスト学園(後のグラディエスト大学)の教授に就任、 学園で政治学・歴史学を教える傍ら、1200年代のアレシア大陸に関する史書を編纂するプロジェクトを指揮した。 1281年からは大学に改組されたグラディエスト大学(旧学園)の初代総長に就任、 連邦議会の公聴会に出席するなど政治活動も再開している。 1294年第5周期、史書編纂が終了し、エヴェリーナを代表執筆者とする歴史書『アレシア戦国記』が上梓される。 この『アレシア戦国記』は、分析の精緻さや資料の膨大さ、事実と分析結果のみを淡々と述べる記述形式など複数の理由から、 同時代や以降に記された歴史書の中では異彩を放っており、 後世では「読み物としての史書」ではなく「巨大なデータベースとしての史書」として扱われるようになった。 エヴェリーナ自身は『アレシア戦国記』の上梓を見届けてから大学を退官、1人の歴史家として平和な老後を送った。 連邦政府に残された記録によると、その没年は1305年(享年78)、死因は悪性流感に起因する肺炎となっている。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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